著者
山本 卓
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.19, no.1, pp.57-101, 2005-09-01

アラゴンの晩年の傑作のひとつである『死刑執行』の中には、「人間たちの森」という奇妙な言い回しが出現する。この「人間たちの森」とは何か。一人の人間の内面には無数の他者たちの言葉が住み着いている。ロマネスクな空間=「紙=空間」の中では、こうした他者たちの言葉を媒介として、「小説が存在しなくなれば消えてしまうあの変化する我々」(BO, p.132.)が組織化されていく。批評家ル・シェルボニエの言い方を借りるならば、「可能態としての諸人格の宇宙」(BL, p.177.)とでも翻訳できそうな、この不思議な概念の意味するところは、アラゴンの創造の秘密の根底を占める考え方なのである。アラゴンの作品における登場人物たちは「複数への回路」を通って増殖を続けていく。以下では、この「複数への回路」から「人間たちの森」へと至るプロセスについて、さまざまの角度からの検討を試みたい。
著者
成田 奈緒子
出版者
文教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009

本研究では、自閉症スペクトラム障害(以下ASD)のアセスメントと支援方法を、医学と教育の連携させた観点から確立するために、まず図形を用いたタスクスイッチ負荷を行った際、ASD児者においては健常者で認められる前頭葉機能の賦活化以外の部位も使って対処している可能性を、高い正解率と相反する前頭葉脳血流量低下で示した。次にヒトの顔写真を刺激とした、同様のタスクで検討した結果、ASD者においてはタスクパフォーマンスに応じた前頭葉脳血流の変化が認められず刺激特異的・個体特異的な脳機能の差異があると考えられた。
著者
鈴木 健司
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.198-134, 2008-09-29

本稿は「宮沢賢治文学における地学的想像力」というテーマの下に企図された、連作論文の一つである。これまで、(一)「基礎編・珪化木(I)及び瑪瑙」(「文学部紀要」文教大学文学部第21-2号)、(二)「基礎編・珪化木(II)」(「言語と文化」第20号、文教大学言語文化研究所)、(三)「基礎編・<まごい淵>と<豊沢川の石>」(「注文の多い土佐料理店」第12号、高知大学宮沢賢治研究会)を発表している。本稿では、前半の四-一で、「地学的想像力」を、国内産蛋白石(オパール)との関連において追及する。特に童話「楢ノ木大学士の野宿」の成立に関し、明治末から大正初めにかけ「東京宝石株式会社」として良質のオパールを産出していたオパール鉱山(福島県宝坂)の存在に注目し、作品生成の契機となった可能性の立証を試みる。後半の四-二では、「地学的想像力」を外国産蛋白石(オパール)との関連において追究する。童話「貝の火」における<貝の火>とは何か。さらには、童話「銀河鉄道の夜」における<鳥捕り>と「貝の火」の主人公ホモイとの連関性を、ジャータカとの視点から分析し、賢治文学において、地学的想像力と仏教思想とが深く関わりあっている事実を立証する。
著者
太郎良 信
出版者
文教大学
雑誌
文教大学教育学部紀要 (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.59-70, 2000

千葉春雄主宰『綴り方倶楽部』(1933年4月創刊,東宛書房)は小学校の児童と教師を読者対象とする月刊雑誌であり,1930年代から40年代初頭にかけた時期の生活綴方運動において,児童にとっては綴方や児童詩の学習教材として,教師にとっては綴方教育実践の交流の場として重要な役割を担ったものである.だが,これまで終刊時期すら不明のままにされてきたことにみられるように,その全貌は明らかにされてはいない.本稿は『綴り方倶楽部』に関する先行研究の到達点と問題点の検討を通して全貌解明の必要性を明らかにするとともに,『綴り方倶楽部』についての現段階での調査を踏まえて同誌の発行状況を概観したものである.本稿において,『綴り方倶楽部』は1933年4月号以降,1937年7月から1938年1月までの7ヶ月の休刊期間をはさんで,1942年4月号まで少なくとも通算99号が発行されたことを明らかにした.また,改題後継誌『学芸少国民』と再改題後継誌『少国民文学』の発行状況に関しても言及した.
著者
会沢 信彦 平宮 正志
出版者
文教大学
雑誌
文教大学教育学部紀要 (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.11-18, 2008-12-20

いじめの実態を具体的かつ詳細に把握することを目的に,大学生を対象として,「小学校4 〜 6 年時に体験した,いじめではないかと最も強く感じた出来事」を尋ねる自由記述式の質問紙調査を行った.そして,記述された内容を,KJ 法を参考として分類・分析を行った.その結果,いじめ経験に関する記述のあった者が187 名(69.8%),「なし」と記述した者が81 名(30.2 %)であった.体験記述のあった187 名のうち,A.加害者が児童生徒と考えられた記述が178 名(95.2 %),B.教師・学校・保護者と考えられた記述が5 名(2.7 %),C.その他が4 名(2.1%)であった.A については「拒否的行動によるいじめ」「言葉によるいじめ」「強圧的行動によるいじめ」に,B は「教師によるいじめ」「学校への不満」「保護者への不満」にそれぞれ大分類された.最後に,小学校1 〜 3 年時に比較していじめ経験ありとした者が増加した点について考察が加えられた.
著者
高橋 雅人 バンフォード ジュリアン
出版者
文教大学
雑誌
情報研究 (ISSN:03893367)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.317-329, 2005-07

大学を含む英語教育についての政府の計画は具体的な方向性を帯びてきている。文部科学省の「英語が使える日本人」の育成のための行動計画(平成15年3 月31日)と平成16年3 月に開かれた「英語が使える日本人」の育成のための行動計画東京フォーラムは文教大学での英語教育と学生の英語能力に関係し責任を負う教職員にとって手引き、方向性を示すものと言える。パート1 では2003「英語が使える日本人」の育成のための行動計画の中から大学に関する考察、パート2 では日本企業からの大学生の英語能力についての要望、パート3 では我々の考える文部科学省の指針と企業からの要望に成功裏に応えるための提案をする。
著者
高橋 雅人 Bamford Julian
出版者
文教大学
雑誌
情報研究 (ISSN:03893367)
巻号頁・発行日
no.33, pp.317-329, 2005

大学を含む英語教育についての政府の計画は具体的な方向性を帯びてきている。文部科学省の「英語が使える日本人」の育成のための行動計画(平成15年3 月31日)と平成16年3 月に開かれた「英語が使える日本人」の育成のための行動計画東京フォーラムは文教大学での英語教育と学生の英語能力に関係し責任を負う教職員にとって手引き、方向性を示すものと言える。パート1 では2003「英語が使える日本人」の育成のための行動計画の中から大学に関する考察、パート2 では日本企業からの大学生の英語能力についての要望、パート3 では我々の考える文部科学省の指針と企業からの要望に成功裏に応えるための提案をする。
著者
太郎良 信
出版者
文教大学
雑誌
文教大学教育学部紀要 (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.97-110, 2002-12
著者
丸山 鋼二
出版者
文教大学
雑誌
文教大学国際学部紀要 (ISSN:09173072)
巻号頁・発行日
vol.19, no.1, pp.139-156, 2008-07

After Islam was brought into the west area of the Eastern Turkistan (Xinjiang) by the Qara-Khan Dynasty in the 10th century, it took 500 years until the establishment of Islamization in the Eastern Turkistan when the Buddhism power was expelled from Hami (the east of Xinjiang) in 1513. At the beeginning of the 12th century, the Qara-Khan Dynasty was driven away from the eastern Central Asia by non-Islam Qara Khitay. From the beginning of the 13th century the eastern Central Asia was also under the rule of non-Islam power, the Mongol Empire. During the two hundred years, Islam lost its superior position in the central part of the Silk-Road. Islam confronted with the biggest crisis due to the prosperity of Buddhism and Nestorianism.The reason is that both Qara Khitay and the Mongol Empire executed a generous policy toward religions. Propagation of various religions was allowed to be held freely, resulting in the change of religioussituation in Xinjiang from separation between Islam and Buddhism into simultaneous coexistence of various religions. In the Turpan Basin of east Xinjiang, under the rule the Uyghur Kingdom(高昌回鶻王国Khocho Uyghur Kingdom), Buddhism reached its height of prosperity. The erecting of stone cave temples and the translation of the Buddhist scriptures to Uyghur language were carried out on a large-scale. In the south and west parts of Xinjiang, Islam was continuously the main religion though decline occurred to some extend. In north Xinjiang, Nestorianism was popular. The policy of treating all religions equally was maintained in the Mongol Empire. The Buddhist Uyghur people who developed an advanced culture and Muslims who demonstrated the ability in financial economy were promoted to be senior officials regardless of their religious belief, supporting the rule of the Mongol Emipre in such a way.
著者
椎野 信雄
出版者
文教大学
雑誌
文教大学国際学部紀要 (ISSN:09173072)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.23-42, 2001-02

Various research programs in the "new" sociology of scientific knowledge emerged in the latter half of 1970s. British sociologists such as Barnes, Bloor, Mulkay, Collins and so forth were challenging the Mertonian functionalist sociology of science. The aim of the new sociology of scientific knowledge has been to investigate and explain the "contents" of scientific knowledge per se. Ethnomethodological studies of scientific practices were surrounded by the emergence of these "new" programs in social studies of science. Although ethnomethodological studies of science have often been understood without being distinguished from these "new" programs, it seems that ethnomethodological studies differ from these programs in their perspective on language, science and action. In spite of their commitments to a supposedly "radical" view of scientific knowledge, the new sociologies use some conventional social science terminologies and explanatory formulae, and seem caught in a trap concerning the usage of ordinary language in social science and philosophy. Garfinke's ethnomethodology appears to advocate a complete departure from these conventional views of language and science which the new programs have taken over. We will make sense of ethonomethodological studies of science by reviewing how ethonomethodology sees the "new" programs. In this paper we would like to leave a port to the sea of argumentation by regarding ethnomethodologist M. Lynch's studies of science as leading light. Ethnomethodology's agenda is, according to Lynch, to reconsider what it means to produce observations, descriptions and explanations of something "actual." Garfinkel's program is not interested in explaining scientific facts by reference to the social context of their production. The program does not try to construct comprehensive models of activities and institutions. Its objective is to examine how scientific works are produced from the disciplinary-specific Lebenswelt of scientific projects. The aim is not to explain "discovery" as a matter of "social construction" but to try to gain a better understanding of scientific work.