著者
浅川 雅美 岡野 雅雄
出版者
文教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

464名の大学生を対象に食品CMを用いた視聴実験を行い、(1)「伝達内容」と「Aad」の間に及ぼす「情報的価値」の媒介機能、(2)「視聴印象」と「情報的価値」が「Aad」に及ぼす影響、について検討した。結果は以下の通りである。(1)「情報的価値」が高いケースは低いケースと比べて「Aad」の評定が高い、(2)「伝達内容」と「Aad」の間には、「伝達内容→情報的価値→視聴印象→Aad」と「伝達内容→情報的価値→Aad」の二つの反応プロセスがある、ことが推察された。
著者
遠藤 織枝
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.1-23, 2006-10-01

戦時中の雑誌の用語研究の一環として、天皇関連の敬語使用の実態を報告する。戦時中の皇室に関する敬語には特殊なものが多くあり、また、その使用については厳しい強制があった。戦後まもなくの敬語の見直しで、それらの特殊性が浮き彫りにされた。しかし、その使用された当時の実態に関する報告は少ない。今回の戦時中15年間の雑誌のグラビアの文章を通して明らかになったのは、尊敬にも謙譲にも二重三重の敬語が使われ、過剰・誇張と思われるほどの敬語使用が日常であったという事実である。
著者
岡田 斉
出版者
文教大学
雑誌
人間科学研究 (ISSN:03882152)
巻号頁・発行日
no.28, pp.25-34, 2006-12-20

This study aims to develop an abridged version of the Auditory Hallucination and Mishearing Questionnaire (SORAMIMI Questionnaire). The abridged version is designed to be used as a quick tool for the assessment of auditory hallucination, mishearing, and subjective hearing loss. Data from 469 university students were used to analyze the item statistics and psychometric properties. Twenty-four items with an optimal combination of high item-total correlations and reliability in assessing changes were selected for the SORAMIMI Questionnaire.
著者
相良 守次
出版者
文教大学
雑誌
人間科学研究 (ISSN:03882152)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.19-27, 1983-03

資料はじめに――――われわれ人間科学部心理学研究室のスタッフは、研究室の相良守次教授を囲んで、先生と心理学をめぐるさまざまなお話を伺う会をもっている。この回は不定期ではあるが現在も継続中である。相良教授は日本心理学会の会長を務められたこともある心理学界の重鎮であり、先生のお話の中には、日本の心理学会の動向についての貴重な資料になりうる部分が多く含まれているように思われる。話していただくテーマはさまざまであるが、われわれはすでに約10時間に及ぶお話のテープを保管している。本稿は、1972年8月に東京で開催された第20回国際心理学会議(XXth International Congress of Psychology)について伺ったお話の一部をまとめたものである。当時相良教授は日本心理学会会長であり、その国際会議のための組織委員長を務められていた。本資料を得るための会合は1982年7月18日神奈川県葉山相洋閣で行われ、出席者は相良教授のほか人間科学部心理学研究室のスタッフ全員(高柳信子、 岡堂哲雄、 秋山胖、 上杉喬、 丹治哲雄、 大熊保彦)と総合研究室の森井利夫教授の計8名であった。なお本資料の収集と整理にあたり1982年度学部共同研究費の援助を受けたことを付記しておく (人間科学部心理学研究室一同)
著者
小林 孝雄
出版者
文教大学
雑誌
人間科学研究 (ISSN:03882152)
巻号頁・発行日
no.26, pp.67-75, 2004-12-20

The purpose of this article is to examine the definitions of empathic understanding made by Rogers(Rogers, 1957. 1959. 1975). He defined empathic understanding (or being empathic) as a "state" at first, and later as a "process". Some qualities of descriptions as follows were pointed out. The definition as a process includes descriptions about `to do', but some descriptions express the actions that can not be directly realized. The definition as a state describes the quality of subjective experiences that can be directly realized in nature, but have problem how to realize `as if' quality. The definition as a state is useful yet to consider realizing the therapists' conditions. And the definition as a process is useful rather in clinical practices.
著者
林 薫
出版者
文教大学
雑誌
文教大学国際学部紀要 (ISSN:09173072)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.49-64, 2007-07

The Japan's experiences in regional development as represented by "Michinoeki (roadside stations)" and One Village One Product Movement (OVOP)" have been widely recognized as Japanese models of indigenous development and incorporated into aid programs to developing countries by the Government of Japan, Japan International Cooperation Agency and Japan Bank for International Cooperation. The international organizations such as the World Bank which introduced the "Guidelines for the Roadside Stations" in 2004, are showing strong interest to the Japanese models. This article argues that the essence of Japan's experience in this field is not the particular patters or frameworks but the process of agglomeration and innovation. The process is observed in many traditional agro and manufacturing industries some from several hundreds years ago. The key message for the developing countries are; (1) The maximization of the utilization of local resources is quite important but should not exclude the possibility of building interregional production linkage, (2) The benefit from agglomeration should be fully captured, and(3) The globalization of the market will be the source of innovation and strengthening of competitiveness, therefore openness of the regional development is prerequisite.
著者
谷口 清
出版者
文教大学
雑誌
人間科学研究 (ISSN:03882152)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.55-63, 2012-03-01

G.Gottliebの発達理論、発達的心理生物学的システム論を概説した。 1)生体は遺伝子から環境まで多層の水準が双方向で作用するシステムである(双方向性)。 2)細胞は等能で、遺伝子は環境との相互作用によって発現し蛋白質を合成する(非決定性)。 3)発達は遺伝子から環境まで二つ以上の要因の相互作用(協働)である経験を通して遺伝子が発現し、機能・構造が形成される(確率論的後生説)。 発達科学構築にあたっての上記の主張の意義を考察し、今後の課題として人の発達環境の分析とそれを踏まえた世代の継承を担保する社会システム、養育システムのあり方を検証する必要性を指摘した。
著者
寺沢 セシリア 恵子
出版者
文教大学
雑誌
文教大学国際学部紀要 (ISSN:09173072)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.59-72, 2010-07

四年制大学における第二外国語学習の目的は、言語スキルの学習を通し、コミュ二ケーション能力を向上させることにより教養を高めるという点にある。通常、第二外国語の授業は週に1 ~ 3 回(インテンシブクラスを含む)、一時間半のクラスで文法と会話が教えられる。しかし、2 年間の学習を終えた学生の多くは、このような目的を十分に達成したとはいえず、満結果を得ていないのが現状である。 その原因の一つは、授業時間の多くを文法中心(暗記中心)に割かなければならず、会話演習が十分に行えないという点にある。たしかに、今まで触れたことのない言語を習得するためには文法の活用をはじめ、重要表現などの暗記は必須であり、これらを省略することは困難である。しかし、限られた時間の中で外国語を効果的に学習するためには文法の暗記という形式的なアプローチのみでは足りないというのもまた真であろう。 では、四年制大学における第二外国語を学習する時間、すなわち2 年間・週1 ~ 3 回という時間制限の中で、どのように授業を展開するのがもっとも効果的であるのか。それは、授業で文法・会話を教えていく中にその国の言語文化を取り入れていく、というのが一つの解決策であると考えられる。文化は社会の中で変化していくものであり、言語もまた文化・社会の影響を受けて常に変化している。そこで、第二外国語習得と文化を結びつけるものとして、社会言語学的アプローチが有効なのではないかと考える。 本論文では、社会言語学の重要性に言及するとともに、先に述べた目的を達成し、学生が満足出来る効果的な学習方法はどのようなものか、その解決策について論ずる。また、日本語、英語及びスペイン語の呼びかけ表現の比較を通し、言語が人間の社会行動とどのように関わり合っているのか、言語を効果的に学習するために社会言語学がどのような役割を果たすのかについて考察する。
著者
松嶋 淑恵
出版者
文教大学
雑誌
人間科学研究 (ISSN:03882152)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.185-208, 2013-03 (Released:2013-04-02)

The concept of Gender Identity Disorder has taken hold in Japan, allowing medical care and legal change of sex for people with Gender Dysphoria. However, there is a negative understanding that assumes having a gender identity that differs from one’s sex is a disorder. Individuals whose gender identity does not fit into a set category are also ignored. A solution based on medical model has little impact on gender dualism and gender norms and compels people who have a unique gender identity to adopt it. We investigated the impact of financial status, human relationships, and psychological problems based on quantitative approach that included various subjects with a unique gender identity. Results indicated that there were economic disparities similar to the male-female disparity for Mt and Ft and the male–male disparity for Mt and Mt. Subjects with a gender identity that was not generally recognized tended to be isolated in comparison to individuals with a typical GID. Anxiety about one’s transition led to inability to play the social role one wished more so than discontent with one’s physical transformation. Sustained efforts to tackle the problem posed by gender dualism, gender norms, and gender discrimination for the transgendered as well as the cisgendered must be made to create a society that includes people with Gender Dysphoria.性同一性障害概念ができたことにより性別違和をもつ人々に対する性別変更のための医療や制度が成されたが、性同一性障害は身体と異なる性自認をもつ事を疾患としてとらえる消極的な理解であるとともに、典型的な当事者にあてはまらない多様な当事者を不可視化している問題がある。また医学モデルに基づいた解決は、当事者を苦しめる男女二元論やジェンダー規範を揺るがさないまま当事者側だけが変化すべき対象であることを強いている。そこで、多様な当事者を対象に含め、量的調査法による実態調査を行い、特に経済状態の影響、他者との関係性、精神的問題について調査した。その結果、MtとFt間で男女間および男性間の経済格差が見られ、治療の機会不均等に影響していた。典型的性同一性障害像に比して認知度の低い性自認をもつ人は孤独に陥りやすかった。また、性別移行に関する不安は、身体変容が満たされないことよりも社会関係上で望む役割が果たせないことから生じることが明らかになった。性別違和をもつ人々が社会から排除されずに生きるためには、男女二元論やジェンダー規範、性差別といった非当事者にもかかわる問題に取り組み、社会が変化していくことが必要であると言える。
著者
宮島 三香子
出版者
文教大学
雑誌
人間科学研究 (ISSN:03882152)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.48-57, 1984
著者
三木 一彦
出版者
文教大学
雑誌
文教大学教育学部紀要 (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.63-77, 2005-12-20

江戸時代には寺社参詣を目的とする代参講が各地で盛んに結成された.本稿では,そうした代参講による参詣地の一つであった三峰山(武蔵国秩父郡)への信仰について,その関東平野への展開を,とくに武蔵国東部に焦点をあてながら検討した.武蔵国東部では,江戸時代に新田開発の進展がみられ,村落部の三峰信仰は農業に関わる願意をもっていた.しかし,時期が下るにつれて,むしろ火防・盗賊除けといった都市的な願意が表面に出てくるようになった.この理由として,街道沿いの宿場町などが三峰信仰の拠点となり,そこから都市的な信仰が村落部へも浸透していったことがあげられる.また,三峰講の組織形態を他講と比較すると,当該の村や町の地縁との関わりの密接度において中間的な性格を示していた.このように,三峰信仰は都市・村落両面の性格をあわせもちながら,武蔵国東部など関東平野へ展開していった.
著者
寺澤 浩樹
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.146-131, 2012-09 (Released:2012-10-18)

武者小路実篤の中期(大3~6)作品群において、素材を同じくする戯曲「罪なき罪」(大3・3)と小説「不幸な男」(大6・5)の二作品は、他の諸作品を挟む時期に位置する。その中には、小説「彼が三十の時」(大3・10~11)、戯曲「その妹」(大4・3)、戯曲「ある青年の夢」(大5・3~11)など、戦争への作者の関心が反映された著名な作品が多く、この中期が「ヒューマニズムの時代」と呼ばれるゆえんである。しかし、小説「不幸な男」の特質として、戯曲「罪なき罪」から小説「不幸な男」への変容の根底には、〈死のリアルな表現〉の意図であること、その素材のデフォルメの意図には、モデルの〈苦境と苦悩の明確化〉があること、その主題は、〈神ならざる凡人には重すぎた運命〉であり、その情調は、〈厳粛な暗澹たる悲哀〉であることなどから、小説「不幸な男」という視座からは、この中期には、〈死の認識〉のモチーフが明瞭に見える。それが、「非戦」的と言われる諸作品を芸術として成立させる礎であり、武者小路独自の運命の観照なのである。
著者
笠井 勝子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.17, no.2, pp.49-63, 2004-01

本稿は、1867年にドジスンがロシアへ旅行をした時の日記研究の第2部である。第1部は『英米学研究』(文教大学女子短期大学部)第31号に発表した。ドジスンの日記のMS(手書き本)はノートの形態で9冊が残っており、英国の大英図書館が所蔵している。ロシア旅行の日記は同じノートの形態ではあるが独立ノートに書かれて米国のプリンストン大学図書館が所蔵している。本稿はマクロフィルムでMSを使用した。本稿では次の3点を検討する。(1)ロシア旅行記はドジスンが自分の日記の記録として書いたというよりも人に読ませることを考えていたと思われる。(2)人に読ませるという意図から、平生の日記には見られない『不思議の国』の作者らしいユーモアが見て取れる。(3)マイクロフィルムの日記と1999年に英国ルイス・キャロル協会が出版した印刷本の日記について、テクストの比較を行う。
著者
笠井 勝子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.19-62, 2006-03

『不思議の国 ルイス・キャロルのロシア旅行記』ルイス・キャロル著 ; 笠井勝子訳, 開文社出版, 2007.5(ISBN:978-4-87571-991-5)として刊行ルイス・キャロルは『不思議の国のアリス』を出版して1 年半後の1867 年にロシアへ旅行をした。その時の旅行日記を翻訳し、また現在と当時の生活や習慣の違いなどによって説明が必要と思われる事項にはできるだけ注を付し注釈付き翻訳とした。翻訳に先立つ序のなかでは、旅行をすることになった経緯と、一緒に旅をしたヘンリー・パリー・リドゥンとキャロルとの関係、またリドゥンの宗教上の立場などについて解説した。この旅行日記ではその頃の英国の大学人が初めて外国を訪れて出会った驚きがユーモアを交えて語られていて、キャロルが普段つけていた日記とはちがい読み手を想定していることが窺える。事実キャロルの死後に他の日記は親族の手を経て大英図書館に入ったが、旅行日記はそれとは別に米国へ渡り、単独であるいは他の作品と一緒に全集の中に印刷されてきた。ロシア語を知らなかったキャロルはロシア語の僅かな単語だけで話を通じさせようとしている。キャロルがメモしたロシア語の一部には彼の勘違いもあると指摘を受けたので注に記しておいた。
著者
藤原 正光
出版者
文教大学
雑誌
文教大学教育学部紀要 (ISSN:03882144)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.131-138, 1996-12

'96年9月1日から16日にわたり,アメリカ・メリーランド州チャールス郡の教育研修旅行に学生引率の責任者として随行した.本稿は,そこで得られたさまざまな情報の中から,教育制度の改善の一つの試みとして取り組まれているMSPAP(Maryland School Performance Assessment Program)について紹介することを主な目的とした.チャールズ郡の教育委員会は,教育の改善を目指し過去10年近くにわたり越谷市を含む日本への教育使節団の派遣を行い,また,一年間の現職教員の研修生の派遣など,日本の教育の優れた点を取り入れようと積極的な努力を続けてきた.MSPAPによる教育改革の試みは,その一つの成果として位置づけることもできる.メリーランド州のチャールズ郡は,ワシントンD.C.の近郊に位置し,長い間農場経営者と多くの知的労働者のベッドタウンとしての役割を亨受してきた.しかし,近年低所得者層の流入の渦に巻き込まれている.それにともない,生活環境と教育環境の変化も進みつつある.MSPAPは,このように変化しつつある教育環境を州や学校の側から立て直そうとする教育改善の試みであり,学校運営への州からの査定や介入といった日本では考えられない強い側面も持っている.中央集権的すぎる,一人一人の教師の自由に教育をする権利を奪っている,画一的なその場限りの教育に陥る可能性があるといった批判もある.本稿では,MSPAPの真の意味を理解するために,メリーランドの公立小学校・中学校の保護者向けに配布されている小冊子をそのまま翻訳し,今後のアメリカ教育研究の出発点としたい.
著者
岡野 雅雄
出版者
文教大学
雑誌
湘南フォーラム:文教大学湘南総合研究所紀要 (ISSN:18834752)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.57-63, 2011-02

本稿では、現今のゲーム研究(game studies)を参照しつつ、インターネット広告で用いられるゲームについて、考えてゆきたい。 ゲーム研究は、まだ歴史が浅いものの、特に欧米を中心に急速に形成されつつある。その理論的な背景はさまざまであるが、記号論的な視点が重要な役割を果たしている。たとえばMyers(2010)は、「ビデオ・ゲームは、科学としての記号論の観点からは、記号とシンボルのコード化された操作を通して意味を生成し変換する記号的機構(semiotic mechanism)である」と述べている。 Saussure(1916)の流れをくむ記号論についてみると、Guiraud(1971)は、記号としてのゲームの特徴として、コード化されており規則があること、ゲームの中では我々はある役割を演ずることを挙げている。さらに、その記号の分類体系においては、ゲームを「社会的記号」の一つに位置づけ、ゲームを以下の3つに下位分類している。 1)知的で科学的:なぞなぞ・クロスワード・パズルなど 2)実際的で社会的:ままごと・チェスなど社会的状況の模倣 3)感情的で美的:サッカー・レスリングなどのスペクタクル そして、ゲームの機能として、ままごと遊びで役割・職業を学ぶ場合にみられるような「学習」、試合でいちばんふさわしい者を選ぶ場合にみられるような「選別」、欲求不満を解消させる「娯楽」を挙げている。 Guiraudの体系はゲームの基本的な特質は押さえていると考えられるが、ビデオ・ゲーム以前のものであり、多様な形で発達した現在のゲームを把握するためには補わなくてはならない点が多い。ことに、言語中心に理論が組み立てられている点が、多くの感覚様相(モダリティ)を巻き込んで行われるゲームには適合しにくい。 その欠点を補うものとして、記号論の中でも「社会記号論」からのアプローチ(Kress & van Leeuwen, 1995;Kress & van Leeuwen, 2001)が好適な理論的な基礎を提供してくれている。Kressらは、Saussureの流れをくむ言語中心の記号論を批判し、記号過程は視覚・聴覚ほかの感覚が統合された「マルチモーダル」なものであり、言語はその一部として働くものと考えている。これは、デジタル・ゲームが、ディスプレーに表示される視覚的記号、言語的メッセージ、音響効果・音楽、コントローラーを操作する筋肉の動きなど、多くの感覚様相を巻き込んだものであることを考えるときに特に妥当性が高いモデルとなっている。 また、社会記号論が相互作用性(interactivity)を重視する点も、デジタル・ゲームを考える際には好適なものとなっている。オンラインで提供される広告ゲームも、デジタル・ゲームのひとつとして、相互作用性を抜きにして考えることはできない。このような観点からみると、コード化・コード解読からなる過程であるゲームが、webのもつ動的特性を利用してさらに高度な相互作用性を手にして、新しい遊戯的な形式をとったものの一つが広告ゲームである。以下では広告ゲームについて考えたい。
著者
糸井 江美
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.171-189, 2007-09-29

受講者が満足する語学コースを作るには適切なニーズ分析が欠かせない。大学と自治体の生涯学習課が開講する二つの英会話クラスの受講者を対象にニーズ分析を実施した。両グループ共に、最も伸ばしたいスキルはスピーキングの力であった。絵本を授業で使った自治体の生涯学習課グループでは、翌年度にも絵本を使用したい希望が多かった。大学の生涯学習課グループとは質問紙調査の結果について話し合いを行った。その結果、海外旅行の他にもさまざまな理由で英語を学んでいることや、スピーキングの力が伸びることは諦めている人や、リーディングの力は充分にあるのでそれ以上勉強する必要性を感じていない人などがいることが分かった。
著者
今田 晃一 手嶋 將博 多田 孝志
出版者
文教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

研修を実践につなげるためには、同一校より複数の教員の参加が有効であることが明らかになった。また、研修が単発的で教育委員会などからのトップダウン形式によるものである場合は、相談する相手がいないこと、継続的な支援がないことなどから実践への阻害要因になっていることもわかった。そこで本研究では、誰でもが必要な資料や相談を受けられるように、自主的な継続的な教員研修組織とそのためのWebページ、ICT活用が実践へと結びついた。
著者
荒井 宏祐
出版者
文教大学
雑誌
文教大学国際学部紀要 (ISSN:09173072)
巻号頁・発行日
vol.9, no.1, pp.1-18, 1998-10

This paper elucidates Rousseau's three-dimensional perception of nature. He first viewed nature with the compound vision of his mind. In this perceptual mode, for example, he not only celebrated the beautiful charm of vegetables,but also perceived their ecological function. Second, he recognized the general characteristics and structure of flowers, but also perceived "ľordre des choses" in the world, reflecting a perceptual insight into the natural environment. Third, he often drew out social implications from observed natural phenomena, thus perceiving "signs" in the natural world that indicated essential aspects of his thought on the relations between humans and society. Thus, Rousseau viewed nature through the refractive lens of his own soul. It is said that Rousseau used. the term "nature" in many diverse ways. In this paper, I introduce an alternative thesis. Rousseau's wide and deep vision of the natural environment opens the reader to the idea of virtue as a possible solution for social dilemmas we confront in contemporary environmental problems. The will of each individual must be reconciled to the general will which may exist in the global ecosystem, as Rousseau anticipated in the context of "Discours sur ľ Économie Politique", "Émile" and "Du Contrat Social". J.-J.ルソー(Jean-Jacques Rousseau,1712~1778)はその著作の中で、ある言辞をしばしば多義的に用いることがある。カッシーラーは「社会」や「sentiment」の「二重語義によくよく注意しなければならない。」と述べ、また恒藤武二は「一般意志という語はルソーにあってはきわめて多義的に使用されている。」と指摘している。とりわけ「難解な語」とされているのが「自然」であり、平岡昇はこの語が「本来彼に独得な両義的思考法の好対象」ではないかと言っている。舟橋豊は、この語義の分析を試み、ルソーの「自然」とは、「神であり、宇宙を統べる整然たる法であり、人間界の正にして善なる自然法であり、崇高美あふれるアルプスの山河であり、さらには生まれながらにして善なる人間の本性でもある。」と述べている。平岡はまた、ルソーの「自然」は彼自身の「多様で自由な使用法を通じて人々の心につよく訴えかけてくる魔力」を持つとしている。 たしかに「自然」の語は、「ルソー的ディアレクティック」とともに、あたかも『オデュッセイアー』にあらわれる魔女セイレーンの「甘く楽しい歌声」のように、我々を「前よりもっと物識りになりお帰り」願うがごとく、さまざまな声をもって語りかけてくるようである。 ともあれルソーの「自然」の中には、上記舟橋の分析にも「アルプスの山河」とある通り、自然環境が含まれていることは明きらかである。これまで筆者は、ルソーの自然環境としての「自然」認識のうちには、生態作用を持つ「環境」としての「自然」認識が含まれていることなどを指摘するとともに、これらとルソーの文明社会批判や「自然人=エミール」の「自然現象・事物の教育」=「環境教育」との関連などに考察を加えてきた。本稿では、これらをもとに、ルソーの自然環境としての「自然」の多義性の特徴についてさらに考察と整理を試みるとともに、新たに彼の「自然」あるいは「環境」認識と、その政治思想上の基本概念の一つである、「一般意志」・「徳」や、「万物の秩序」とのかかわりを探り、これらをふまえて現在環境問題に関連して注目されつつある「社会的ジレンマ」問題との関係を、他の諸言説とともに一瞥することで、ルソー思想の現代的意義の一端に触れてみた。 これらはいまだ試論的段階ではあるが、その目的は、これまでの検討にひきつづき、ルソーの社会・教育・政治・宗教・国際平和・文学などの諸思想・言説と、「自然」あるいは「環境」認識がいかなる関連を有するのかを探索することにある。