著者
須永 大智
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.93-114, 2019-11-30 (Released:2021-07-10)
参考文献数
24

本稿の目的は,個人の意思決定過程に焦点を当て,なぜ非大卒層内部に子どもに対する教育アスピレーションの高い親と低い親がいるのかを明らかにすることにある。近年の国内の先行研究では,教育機会の不平等が生じる過程において,親の教育アスピレーションが,進路選択に対する出身階層の効果(2次効果)をほとんど媒介していること,親の教育アスピレーションに対する出身階層の効果のうち,学歴の効果は直接的かつ相対的に大きな効果であることが指摘されてきた。しかし,多くの場合,学歴間の差異に焦点が当たり,非大卒層内部に親の教育アスピレーションの加熱/冷却がみられることは検討されてこなかった。そこで,非大卒親内部では自分の低い学歴に対して不満をもっているほど,子どもに大学進学を望むという仮説を立て,高校生以下の子どもをもつ日本の親を対象に検証を行った。 分析の結果,(1)大卒親内部では自分の学歴に不満をもつかどうかにかかわらず,高い確率で子どもに大学進学を望むこと,(2)非大卒親内部では自分の学歴に不満をもつほど,子どもに大学進学を望むことが明らかとなった。さらに(3)自分の学歴に不満をもつ非大卒親は,大卒親と同程度の確率で子どもに進学を望んでいることが示された。以上の結果から,非大卒親内部に教育アスピレーションを大卒親と同程度まで加熱させる,「学歴不満による限定的加熱」メカニズムが作動していることが示された。
著者
布川 由利
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.49-70, 2019-11-30 (Released:2021-07-10)
参考文献数
22

本稿の目的は,選抜・配分システムにおける「冷却」研究の新たな方針を提示することにある。特に本稿では,「冷却」の社会学的研究の端緒となったErving Goffmanの議論に立ち返ることで,人々が選抜・配分されるということがその当人たちによっていかに経験されるのかを,彼ら自身の理解を通して明らかにする研究の方向性を示す。 Goffmanは,社会生活において人々が経験するある種の「失敗」を,個人が他者とのかかわりのなかで特定の役割や地位を持っていることを提示するのに失敗している状態として捉え,そしてその「失敗」を受け入れる過程を「冷却」としている。Goffman の観点に立てば,ある個人が獲得することを望んでいた/当然視していた役割や地位が,いかなる事実によってもはやその人のものではないことがわかるのか,そしてそれをどのように受け入れるかは,相互行為に参与する当人たちにとっての問題なのであり,よって「冷却」は本質的にその過程に参与する人々の理解からは切り離しえないものなのである。 しかし「冷却」を主題とする教育社会学研究は,「冷却」を選抜・配分システムの秩序維持を説明するための道具として使用してしまうことで,多様な現象を取り逃している。本稿ではGoffmanによる議論の意義をあらためて確認し,また高校で行われた履修相談の会話データの分析を通して,選抜・配分の過程を経験する人々の理解のありように基づく「冷却」研究が可能であることを示す。
著者
小川 和孝
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.225-244, 2017

<p> 本論文では,日本の教育政策に対する人々の選好に関して,公的支出の水準と支出の配分を,それぞれ区別して分析する。これによって,日本の公教育におけるマクロな特徴を支えている,ミクロな意識構造を明らかにする。<br> 2011年に東京都内で行われた質問紙調査をデータとして,(1)税金を増やしてでも教育への公的支出を拡大すべきか,(2)異なる教育段階間ではどこに資源を配分すべきか,(3)同一教育段階内では,エリート的・非エリート的学校のどちらに資源を配分すべきか,という3つの次元を従属変数とする。独立変数としては,人々の持つ利害と,平等性規範が影響するという仮説を立てる。具体的には,性別,年齢,学歴,世帯年収,政党支持,高校生以下の子どもの有無,就業の有無を用いる。<br> 第一に,公的支出の水準に関しては,学歴や世帯収入による選好の違いは見られず,政党支持と高校以下の子どもの有無が影響している。第二に,異なる教育段階間における支出では,高学歴者は低次の教育段階への配分を望み,また左派的な人々は高次の教育段階への配分を望む傾向にある。第三に,同一教育段階内における支出では,高学歴者や富裕な人々はエリート的な教育機関への配分を,また左派的な人々は非エリート的な教育機関への配分を,それぞれ支持している。これらの理論的な示唆として,高等教育への公的支出に伴う逆進性と,意識の次元に見られる社会的な閉鎖性について考察する。</p>
著者
越川 葉子
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.5-25, 2017-11-30 (Released:2019-06-14)
参考文献数
13
被引用文献数
1

過去30年間にわたる「いじめ問題」の社会問題化過程において,学校非難の語りは強まる一方である。こうした社会状況において,「いじめ問題」の当事者性を担う教師は,公的な場で自らの実践の論理を主張することができない状況へと追い詰められている。 本稿の目的は,公的な言説で語られる「いじめ問題」のリアリティに対し,教師の語りが描く学校現場のリアリティを対置することで,生徒間トラブルについて異なるリアリティが構築されうることを実証することにある。教師の語りから明らかとなった学校現場のローカル・リアリティは,今日の「いじめ問題」に次の示唆を与える。 第一に,学校は「いじめ」事件の社会問題化以前も以降も,「いじめ問題」として生徒間のトラブルには対応していないということである。学校にとって大事なことは,「いじめ」という言葉でトラブル状況を定義するかどうかでなく,今,何を最優先に生徒らに働きかけていかなければならないのかを判断し,対応することなのである。 第二に,学校は社会問題化以降も,生徒らの将来的な地域での生活を見据え,被害生徒はもとより,加害生徒らにも学習支援を行なっていることである。また,親同士の謝罪の場も設け,学校は,当事者間の調整役としての役割を果たしていた。こうした学校の対応は,「いじめ問題」を教師の語りから捉えなおすことではじめて理解が可能になるものである。
著者
伊藤 茂樹
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.21-37, 1996-10-15 (Released:2011-03-18)
参考文献数
18
被引用文献数
5 2
著者
太田 拓紀
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.169-190, 2012-06-15 (Released:2013-06-17)
参考文献数
42
被引用文献数
2

教師の職業的社会化は養成段階にて始まるわけではない。例えば,ローティは長期間に及ぶ生徒としての学校生活や教師との対面的接触を「観察による徒弟制」と称し,教職の社会化過程として捉えた。この理論的枠組に依拠し,本稿では教員志望者における過去の学校経験の特性を明らかにするとともに,その過程にいかなる教師の予期的社会化作用が潜んでいるのかを検証・考察することを目指した。 まず,大学生対象の質問紙調査のデータから分析を行い,家族関係,学業成績の影響を統制した上でも,生徒時代におけるリーダーの経験が教職志望の判別要因として効果の強いことが明らかになった。それはいずれの学校段階の教員を志望するにしても同様の結果であった。 続いて,教員志望学生対象のインタビュー調査の結果から,リーダーに教師役割が委任され,指導的なふるまいが期待されていたことに着目した。そしてその過程に,教職への志向性を高める契機が含まれていると考えられた。ただし,指導的な行為に伴う彼らの葛藤は,この段階での社会化の限界を示唆するものであった。また,彼らに教師役割の委任を可能にするのは,学校文化に同化した性向が関係していると考察した。 最後に,「観察による徒弟制」の観点から,学校経験の過程で形成される教育観には養成段階の教育効果を損なう問題があると論じ,教師教育は過去の学校経験と養成教育との接続にも目を向けるべきであると提起した。
著者
白松 賢
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.74, pp.189-207, 2004-05-20 (Released:2011-03-18)
参考文献数
22
被引用文献数
5

Recently, many people have come to categorize “drugs” as deviance or a socialproblem. “Drugs” have been categorized in the public “drug” discourse by therhetoric of endangerment, unreason, and with “atrocity tales.” On the otherhand, how is the “drug” discourse concerned with the interpretive activities ofdrug users, which are carried out locally?This paper discusses the relationship between the public “drug” discourseand the interpretive activities carried out in locally-managed interactive practicesby the members. Specifically, using category-analyzed ethnography, thispaper describes the process through which magic mushrooms have been categorizedas a non- “drug” in the members' interactive practice: “what are magicmushrooms?” Therefore this paper argues about the type of interpretiveresources that the public discourse has used in the process.The following conclusions are reached:(1) Through the interaction betweenthe people who consider the ingestion of magic mushrooms to be a “criminal act” or “drug” use, and those who dislike the former, users have categorized magicmushrooms as non- “drug” by using categories such as “legal” and “natural.”(2) In everyday discourse, by placing more importance on their experiences than onthe public discourse, the users use the public discourse and “atrocity tales” asinterpretive resources in order to categorize.(3) Although the categories of “natural” versus “chemical” entails the risk of being disproved, this possibility, which might have shaken the beliefs and local knowledge, has been moved asideby resolve and self-preservation work, using explanations such as these werecases when magic mushrooms were used improperly.Finally, the author cites the methodological possibility of category-analyzedethnography. For example, there is a lengthy discussion of the experiences of agroup of magic mushroom users showing how the “drug” discourse combineswith members' folklore into “local cultures.” Further arguments are needed byconducting various fieldwork focusing on the everyday discourse of users.
著者
滝 充
出版者
日本教育社会学会
雑誌
日本教育社会学会大会発表要旨集録
巻号頁・発行日
no.49, pp.117-118, 1997-10-10

彼らを見た大人の多くは、決して彼らを「好ましい」若者とは見ないであろう。黒っぽい服装、茶髪ならぬ金髪や赤髪、時には緑や青、そして、派手に隈取りをしたメイク、強引に立たせた髪。道路に座り込んでたむろし、時に奇声をあげ、あたりを走り回ることもある。未成年とおぼしき者の喫煙や飲酒。通行人は怪訝そうな顔をして遠回りし、外国人観光客はおもしろがってシャッターを切る。私が彼らと「つきあい」始めたのは、95年の11月のことである。以後、時間の許す限り、日曜の午後は原宿の「神宮橋」(彼らの用語で言う「橋」)に通い、彼らの行動を観察し、彼らの話題に耳を傾け、時には一緒に話の輪に加わり、まれには買い物につきあってみたり、といった具合に、彼らと過ごしてきた。そうした合間に、「なにげに」学校のことや家庭のこと、「橋」に来る理由等を尋ねてきた。今や、私の「橋」歴も2年近い。おかげで常連の一人になりつつあり、向うから声をかけてくれる「知り合い」も、毎日、数名はいる。とは言っても、新しく通うようになった若者とのコンタクトを図っていないこと、入れ替わりも激しいこと、等から、9割以上の若者の名前を知らない。
著者
中澤 渉
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.151-174, 2013-07-25 (Released:2014-07-28)
参考文献数
29
被引用文献数
7 2

本稿の目的は,中学時代の通塾が,その後の高校進学に及ぼす多様な効果を推定しようとすることにある。通塾は日本人の間でありふれたものになっているが,その教育的効果に関する知見は様々である。一般的に,通塾するかしないかはランダムに振り分けられるのではなく,教育に価値を置く高い階層の出身者ほど通塾する傾向があると思われる。したがって,確かに通塾と進学校進学の間に単純な相関はあるだろうが,それが真の塾の効果なのか,階層を反映した疑似相関なのかの区別がはっきりしない。仮に回帰分析で,階層変数による共変量統制を行っても,通塾と,回帰分析で考慮されていない個人の異質性の間に相関があれば,推定値は誤っていることになる。さらに,塾の効果は誰にとっても同じではないと予想されるが,これまでの分析は効果の異質性を考慮していない。こうした問題点を乗り越えるために,反実仮想的発想に基づく傾向スコア・マッチングを用いた因果効果分析を適用した。その結果,通塾する傾向があるのは,親学歴が高く,関東地方のような都市部出身者で,きょうだい数が少なかった。また通塾の効果は一様ではなく,男女で対照的であった。男性は,通塾する傾向がある人ほど通塾が進学校進学の可能性を高め,女性は逆に通塾しない傾向がある人の進学校進学の可能性を高めていた。最後にこの結果の解釈を提示し,傾向スコア・マッチングの限界と意義について検討した。
著者
胡中 孟徳
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.245-264, 2017-07-28 (Released:2019-03-08)
参考文献数
25

本研究の目的は,中学生の生活時間類型を取り出して個人の時間の使い方を捉えるとともに,各類型の規定要因を探ることである。1980年代までの学歴社会に関心を寄せる研究は,受験競争が子どもの生活時間に与える影響に注目してきた。他方,2000年代以降は,学習時間の階層差には着目するものの,生活時間全体への目配りを欠いた研究が増えている。しかし,1日が24時間であるという基本的な条件を踏まえれば,学習時間が増えるほどその他の時間が減ることには注意せねばならない。本稿では,生活時間のトレードオフに留意して「放課後の生活時間調査2008」の分析を行う。分析においては,系列データの分析手法として知られる最適マッチング法を使用して,行為の長さや順序を含む24時間の使い方全体の情報を用いて類型化を行い,得られた8類型をもとに類型の規定要因を探った。分析の結果,学習時間を長くする余地が残っていると考えられる生活時間の中学生は全体から見て少数であること,親の学歴が高いと学習時間が長くなりやすいという先行研究の知見を支持する結果とともに,母親の地位は子どもの生活時間を「規則正しい」ものにするような影響も与えていることも明らかになった。以上の結果から,階層的地位の影響の仕方が父親と母親で異なること,可処分時間に限界がある以上,学習時間を「努力」の指標とみる見方に限界があることが示唆された。
著者
吉原 惠子
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.43-67, 1998-05-10 (Released:2011-03-18)
参考文献数
23
被引用文献数
2 2

Since the 1970's both male students and female students have been involved in the, so called, “examination hell.” However, it is not clear whether female students have experienced the samd “Juken-taisei (examination ordeal)” as male students have. Especially it is very doubtful if female students have competed with male students for the same goal in the same tournament.In fact, female students and male students might have different experiences in the choice of universities or colleges, and in the use of the ways for admission. For example, women's colleges and junior colleges cannot be included in the male students' choice, and to be “Ronin (high school graduate who is waiting for another chance to enter a college)” should be critical especially for female students: it means that the tournament cannot be consistent with the pyramid which is ordered by “Hensachi (the deviation value of trial examinations).”In this paper, we focus on entrance examination for college as a system which itself brings about competitive and differential phases among female students and male students, and how it affects the selection of universities and colleges. Based on the above discussion, the following points are analyzed:(1) Firstly, we take up female students' high schools and male students' high schools and examine how they use “the admission by school recommendation” as one of the means to enter a university. Moreover, we analyze the difference in the use of “the admission by school recommendation” between female students of female students' high schools and female students of coed high schools.(2) Secondly, the “Ronin” norm among female students is analyzed in choosing universities, to suggest that the “Ronin” norm has functioned to lead female students to lower-ranking colleges (as “real ability” estimated by Hensachi rank) or to a women's college or a junior college. More importantly, the “Ronin” norm itself has survived by taking advantage of the feminine track which is made by the entrance examination system.
著者
多賀 太 天童 睦子
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.119-150, 2013-11-30 (Released:2015-03-25)
参考文献数
147
被引用文献数
2 2
著者
成澤 雅寛
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.5-24, 2018-11-30 (Released:2020-06-26)
参考文献数
31

従来の教育社会学的研究は,子どもの貧困に関して不利伝達のメカニズムやその実態を明らかにしてきた一方で,貧困対策としての支援が盛り上がる中で社会学的に考察することが重要となってきているにもかかわらず,そのような支援を行っている団体について検討してこなかった。貧困の連鎖を防止するための施策として打ち出されている学習支援事業を対象にし,貧困の対策という側面を検討することが,貧困の再生産メカニズムを検討するうえでも重要である。 そこで本稿は,貧困対策として教育活動を行う非営利の学習支援団体を対象として,その意義と支援の限界を明らかにすることを目的とした。本稿ではこれまで支援上の困難が指摘されてきた学習支援と居場所づくりの相互関連に着目しながら,教育支援研究において指摘されてきた各支援団体特有の排除という視点から分析を試みた。 その結果,貧困対策としての学習支援は,多様な貧困層の進学を可能とする点で意義があり,さらに「居場所づくり」を行うことによってより多様な層の包摂を可能としていたが,「居場所づくり」を行うほど「学習支援」という目的を果たせなくなり,その一方で「学習支援」に特化すると学習不適応層を排除せざるを得なくなっていた。 最後にこのような貧困対策としての学習支援の限界について考察,本稿の結果から得られる示唆と残された課題について検討した。
著者
都島 梨紗
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.92, pp.175-195, 2013-07-25 (Released:2014-07-28)
参考文献数
22
被引用文献数
2

本稿の目的は,少年院収容を経験した元非行少年の視点から,少年院教育について描き出し,社会から少年院へと移行する際の適応方法を明らかにすることである。そのうえで,少年院と非行仲間集団との連続性を示していく。 少年院研究は,少年院を「管理・運営」する立場から,少年たちの自己が変容していたという前提のもとに行われてきていた。そのために,非行少年が少年院をどのように経験していたのかという知見や,少年院の教育を経ても変容しなかった場合どのような帰結に至るのか,という知見が不在であった。そこで本稿では,非行少年の少年院生活に対する態度と非行仲間集団への意味づけに着目し,少年が少年院において実行した2つの調整の事例を取り上げた。そして少年院における調整は,少年院教育を維持しながら,非行仲間との関係性を維持する方法であることを明らかにした。 本稿を通して得られた最大の知見は,少年が実行する調整によって,少年院と非行仲間という,相反する性質を持つ両者との関係性が見事に維持されているということである。その結果少年は,少年院収容によって一旦は地元社会から切り離されるものの,地元社会から施設への移行のみならず,施設から地元社会への移行をも可能にしているのである。したがって,非行少年と仲間との関係性は少年院退院後も継続しうるものとして捉えた上で,処遇プログラムを考案していく必要があるだろう。
著者
大辻 秀樹
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.72, pp.171-190, 2003-05-25 (Released:2011-03-18)
参考文献数
15
被引用文献数
1

This article describes some practical strategies in interactions to cope with problems arising in schoolgirl friendships, from the perspective of conversation analysis. When a problem occurs in interactions among friends, how do school children tackle the problem by themselves? The purpose of this study is, by showing concrete and detailed ways of dealing with problems in interactions, to point to the possibilities for clinical studies on education.The specific problem in friendships is that the members of the schoolgirl's group leave a member out of the group in conversation. From the perspective of conversation analysis, this problem in interactions can be regarded as “absence of an answer”. This is a definite phenomenon. And the way to solve this problem is simple and clear. In short, unless the speaker requests an answer, the absence of an answer cannot be generated in conversations. Based on this fact, the schoolgirl can talk in cooperation with the other members of the group, using other utterances that do not request an answer. As an example, one can use the utterance device of “collaboration of a single sentence”. With this device, the schoolgirl opens a space in hers own utterance in the way so that the other members may enter into the space voluntarily to continue the rest of that single sentence.Of course, practical strategies to cope with various problems in friendships are actually observed in fieldwork. When children are confronted with a problem, they manage to deal with it. The fact that practical ways that are not entirely explored are realized through objective descriptions is a significance of clinical study.
著者
竹内,洋
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究
巻号頁・発行日
vol.45, 1989-10-01

In the Japanese labor market for fresh graduates, (A) it is widely known that a majority of highly selective universities' graduates gain employment with big enterprises. Among graduates of "standard scores" 70-75, 71.4% of graduates who find jobs in the private sector work in firms of over 5000 employees. However, they share only 22.9% of the overall new employment of the big enterprises. (B) The real number of the big enterprises' employment shows that graduates of middle to upper-middle level universities comprise the majority. Thus, (A) is the result gived by an analysis of individual universities, (B) is the real state of the enterprises' employment. Even though each enterprise employs fresh graduates in the way of (B), the overall result turns out to be the way of (A). The mechanism of this perverse effect is worthy of further explanation. We have found the following two explanations. The number of graduates of high-ranking universities is small while the number of graduates t of middle-ranking universities is large. Thus, even the enterprises use a kind of quota system to pursue a balanced employment, and as a result, universities of higher standard scores are more likely to be in a favorable situation in the labor market. In addition to this, many big enterprises do not especially employ a large number of graduates of highly selective universities, but the number of big enterprises employing them is large. On the other hand, the number of universities with a middle standard score is large. Even if the enterprises do not employ the graduates of X University, they can be substituted by the graduates of Y University. Therefore, it is mostly a composition effect of all big enterprises that increases the employment rate of the universities of high standard scores in the big enterprises.
著者
春日 耕夫
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.183-193, 1971-10-15

(A)・(D)・(G)を例にとって、PTAと地域の関連について述べてきた。最後に要約すると次のように言うことができる。農村土着型の(A)地域は部落が強力に統合された集団として存在し、地域全体としては、かなりな同質性を示すとともに、以前の独立の村としてのまとまりをもち、校区区長会によって調整されている。そこにおいては、部落長である区長および、部落のPTA担当委員ともいうべき部落選出の運営委員がPTAの重要な役割を果しているように、PTAは独立して存在せず、部落からの構造的分化が不完全な状態で存在する。PTAは部落組織の一部となっているのである。都市土着型の(D)地域では、町内会連合を中核として、地域内の各種の団体が、校区連合自治会の中に組織されている。そのために、たとえば校区婦人会は、いわば連合自治会の婦人会部門という位置と性格を与えられる。同じように、PTAも連合自治会の中にフォーマルに組み入れられ、連合自治会の一部門をなさしめられている。それと同時に、PTAは地域内のインフォーマルな社会関係によってもとりまかれており、それが糊のような役割を果して、PTAと地域・連合自治会との関係を強化している。 都市流動型の(G)地域では、地域の流動的性格、更には団地と団地以外の部分の間の対立・葛藤の存在によって、町内会も団地自治会も地域全体の統合に貢献することができず、ひいては、地域全体を代表する機関が欠如するという状態が作り出されている。そのような条件の下において、PTAは自ら地域内の各部分間の均衡を自律的に維持するような構造を持たなければならないという課題を与えられている。その課題に対するひとつの解決が、(G) PTAにおける地域分会である。(G)PTAが、そのような形で地域内の各部分間の均衡を自律的に維持する構造をもってPTAの役割を遂行していく過程において、逆にPTAが地域全体に対して、統合的機能を副次的に持ってくる。つまり、土着型地域では校区区長会あるいは連合自治会というような住民組織が果していた役割を流動型地域ではPTAが果しているのである。いいかえると、都市・農村を問わず土着型地域では校区区長会・校区連合自治会という、地縁的結合による組織が強く存在し、それによって地域の統合が果されている。その場合、PTAのようなアソシェーションも独立して存在するのではなく、それらの組織の一部として位置づけられる傾向がある。それに対して、流動型の地域では、地域全体を統合する組織はできにくく、それに代ってPTAが地域統合の媒体になっているのである。なお本稿の関心にとっては中心的なものではないが、同じ「都市」といっても、土着型の地域と流動型の地域とでは、全然異った性格をもっていることが明らかである。前者は、むしろ農村土着型地域と共通する性格をもつ面が多く、その意味で、農村と都市の差異よりは、土着型としての類似性が強くあらわされているといえる。