著者
周 大成
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.8, no.4, pp.38-41, 1981-09-20

In 1975, a group of archaeological workers of our country found a male corpse besides more than 500 precius cultural relics when they were unearthing the Tomb No. 168 of the Western Han Dynasty on Phoenix at Jiangling County. According to the attrition of the teeth, it revealed that the dead was over, 60, stalwart and well-developed, 167.8 cm tall and 52.5 kg in weight. From the unearthed bamboo documents' records, it proved that the government post during his life time was "Wu Tai Fu", which is equal to a county magistrate noadays. He was buried on 13 th May, 167 B.C., thus 2142 years before the date of unearthing. When it was unearthed, the corpse had a peaceful expression, looking like an old man in sound sleep. His blood group was of the AB group.; the anthropological characteristics were similar to those of the contemporary Han nationality. All parts of the body was well preserved. The skin remained moist and elastic, and soon returned its original state after finger oppression. As it was soaked in alkaline liquid (pH, 8.4), thecorps' hair was lost. The large and small joints were still movable. 32 Teeth, bluish black in colour, still existed in the oral cavity. All the teeth, except the right upper third molar, which tooth mobility was three grade, still retained tightly in the alveolar bone. The roots of the anterior teeth were exposed apical one-third to one-half approximately, due to the recession of the periodontium. The dead had been affected by parodontosis, but no caries was to be found. There was severe attrition all over tae occlusal surface of the dentition, loss of enamel, exposure of dentine and the crown shortened. Enamel dentine, cementum, root canal and pericementum showed a very distinct appearance under radiographic examination. Electron microscophic examination and chemical elemental analysis revealed that the enamel structure, shape, size and anatomical feature of the teeth were most alike those of modern times. The bones and joints were intact and identical with those of contemporary age. The brain was well conserved, dura intact and blood vesse-s distinct. The total weight of brain and dura was 970 g. The twelve pairs of cranial nerves were intact and clear. Acute diffuse peritonitis due to perforation of gastric ulcer which was the complication of chronic gastric ulcer, followed by extensive bleeding could be the cause of death. Other systemic diseases were also described in this article.
著者
中原 泉
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.62-70, 1993-02-25

解体新書の扉絵は,いずれの西洋解剖書の図柄を模写したのか?それは長年,解体新書の残されたナゾとされてきた.その元絵はかねて,16世紀のスペインの解剖学者Valverdeの解剖書の扉絵に酷似していると指摘されていた.そこで筆者は,Valverde解剖書と解体新書の両扉絵を比較検討し,向かいあって立つアダムとイヴ像が,絵師の小田野直武によって敷写(透写)されたものであることを立証した.これによって,杉田玄白らがValverde解剖書を利用していたにも拘らず,解体新書の凡例に参考書として掲げなかった理由を明らかにした.
著者
谷津 三雄 弓削 朝子 坂本 嘉久 金子 守男
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.15, no.3, pp.250-255, 1989-03-20
被引用文献数
1

連合軍から昭和21年4月15日に歯科教育審議会の設置を指示された.それにもとづき決定された「昭和22年歯科教育審議会に於いて決定せる教授要綱」を資料とし,戦後の日本歯科教育を運命づけた「標準学科課程」の別表を中心に述べた.
著者
湯浅 高之 藤野 [ヨシ]男 手塚 裕文 斎藤 憲一 西村 好一 小林 一日出 飯淵 義久 植木 清二 荒井 照夫 百瀬 深志 西巻 明彦 屋代 正幸
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.18, no.4, pp.287-295, 1992-09-20

神農を医薬祖として奉祀している神社や祠は,日本各地に存在すると思われるが詳細は定かでない.また,これらの神社で神農を奉讃する神農祭を執行しているか否かも判然としない.しかしその中で,東京都文京区湯島聖堂の「神農祭」と大阪市東区道修町(どしようまち)の少彦名(すくなひこな)神社の「神農さんのお祭り」は,古い伝統をひき継ぎながら現在でも綿綿として統けられている.この両地の神農祭は,医薬祖である神農を祭神としていることでは同一であるが,その祭りの様式と内容が異なっている.湯島聖堂の「神農祭」は,日本漢方の医学者が主体の「医学祭」的色彩が濃く,少彦名神社の「神農さんのお祭り」は,町の庶民が主体の「商業祭」的様相を呈する.神農という同一神を祭神としながら,祭りの発展過程で,祭りを司る人々と地域性の相違から,内容が変化し,東京と大阪では異なる形として現われていったものと思われる.
著者
杉本 是孝 中山 孝子
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.23, no.3, pp.166-172, 2000-04-25

日本における博士の学位は,1887年に初めて勅令により公布され,現在すでに110数年を経過している.その間2回の学位令改定,さらに学校教育法の制定により極めて多くの受領者を輩出している.しかしながら,学位令公布の初期には,歯科医師は教育機関の関係から,永年にわたり大学院が認可されている医育機関に審査権をゆだね,医学博士の学位が授与されていた.1920年から1947年までの期間については歯科医師の立揚より検討し,極めて興味深い調査結果を得た.また,旧七帝国大学(とくに東北帝国大学)医学部において,歯科医師が初めて医学博士学位を授与された実態について,その概要を述べる.当時の学位取得への道はきわめて険しい道程であり,歯科医師の地位向上と偏見を取り除くために大きな原動力となったことが推察された.
著者
今田 見信
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.34-46, 1973-08-10
被引用文献数
1

小幡英之助が当事の専門医制度「口中科」をきらって「歯科」で試験をうけ「現代の歯科」の道を開いたことは偉大である.試験を受けたのは明治8年だから今年は98年目に当る.「口中科」をきらって「歯科」に訂正させて受けたという事実は,英之助の(1)信念の強さ, (2)押しの強烈さを示すものだが裏返すと新制度発布直後とはいえ,文部官僚の弱さを物語っておる.この時に英之助が制度通りの「口中科」で受験したとすれば,歯科の歴史も大きく変わっていると思う.わが国の歯科制度史にこのことを見逃してはならない.この稿では,旧制を押しのけ敢て破っていった硬骨小幡英之助の強い信念の"由来"を目標に,恩師達をみていきたい.特に佐野諒元については,これまでに発表しない史料がみつかったので,この機会に紹介することにした.
著者
佐藤 恭道 大熊 毅 別部 智司 戸出 一郎 雨宮 義弘
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.87-92, 1999-09-30

ボーイスカウト運動の創設者, R.S.S. Baden-Powell (以下,B-P)が著した"Scouting for Boys"の初版(1908年・改訂成本版)の「歯」に係わる項目について考察した.内容は,ユーモアを交えて書かれた,歯が悪いために採用されなかった志願兵の話,具体的な歯磨きの習慣について,詳細な図で説明された房楊枝に似た小枝を利用した歯ブラシ,ボーア戦争当時,歯が悪いために本国に送還された兵士の話,また歯ブラシに対するカウボーイやアフリカに住む白人の話などが認められた.これらの記述はB-Pのインド,アフリカにおける軍隊生活における経験のみならず,19世紀後半から20世紀にかけて,歯科医学の進歩に裏打ちされたものであると考えられた.また20世紀初頭における少年向け書籍の中で歯口清掃の啓蒙と野外で応用できる歯ブラシの作成法は特筆すべきものであり,当時の口腔衛生に関する世相を知る上で一つの資料になるものと考えられた.
著者
森山 徳長
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.26, no.3, pp.199-204, 2006-03-30
被引用文献数
1

世界各国と同様に米国においても歯科医学史の研究団体の発端は,心ある少数の熱心家達の発議に基いている.1950年メアリーランド大学歯学部元学長ベン・ロビンソンは,4人の同志と語らい合って団体の創設運動を開始した.1952年には趣旨に賛同する有志を集めて創立総会を開催し,以降年一回米国内各地で年次総会を開き,順次団体の体制・機能を整えて行った.会報も謄写版刷二頁のタイプ印書報告書から始めて季刊誌年2回から,現在ではA4版年3回の斯界第1の専門誌に発展した.会員も米国内に止まらず全世界に拡大した.本論文ではその50年間の会の歩みの概要を描写した.
著者
佐藤 恭道 大熊 毅 別部 智司 戸出 一郎 雨宮 義弘
出版者
日本歯科医史学会
雑誌
日本歯科医史学会会誌 (ISSN:02872919)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.61-64, 1998-04-20

7世紀中ごろ唐の孫思〓によって編纂された『備急千金要方』(以下「千金方」)における口臭治療について検索した.処方は33方と比較的多く記載されている.この中には口臭を消すだけでなく,芳香にする処方や,衣服の臭いや体臭を消す処方まで記載されている。構成生薬は香料や芳香性の強い健胃薬など多岐にわたっている.これらは概ね陶弘景の「集注本草」に基づいているが,後代の「新修本草」や「開宝本草」「証類本草」から記載されているものも認められた.口臭除去は古代から相変わらず香料に依存しているところが大きい.社会環境の変化とは無関係に古代から口臭が人々の大きな悩みであったにもかかわらず根本的な治療法がないまま,それぞれの時代で主に香料のマスキング効果に頼って来たように感じられた.しかし「千金方」における口臭症治療は,多くの処方を記載し,後代の「外台秘要方」「太平聖恵方」などにも影響を与えたものと考えられた.