著者
平野 寛弥
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.239-255, 2012-09-30 (Released:2013-11-22)
参考文献数
33

本稿は, 社会政策における互酬性の変遷をその構造に着目して比較分析することにより, それぞれの互酬性の異同を明らかにするとともに, 新しい互酬性として提案されたTony Fitzpatrickの「多様な互酬性」がもつ社会構想としての可能性を検討するものである.第2次世界大戦後に成立した福祉国家体制が変容していくなかで, 社会政策における互酬性もまた変遷を遂げてきた. とりわけ現在支配的な言説となっている「福祉契約主義」においては, 権利に伴う義務の重要性が強調され, 権利を制約しようとする傾向が強まっている. これに対して「福祉契約主義」の対抗言説として提唱された新たな互酬性の1つである「多様な互酬性」は, 無条件な義務を前提としつつも, 権利に伴う義務の要求を逆手に取り, 義務の履行条件として無条件な権利の要求の正当性を主張する戦略であることが明らかとなった.この「多様な互酬性」からは, 無条件での基礎的生活保障の提供や「ヴァルネラブルな人々」に対する公正な保護, 多様な義務の選択可能性など, 現在直面している社会問題に対する新たな対応策への示唆を引き出すことができる. これらの内容は, 「多様な互酬性」が社会政策における配分原理という位置づけをはるかに超えて, ラディカルな社会変革の可能性を秘めた1つの社会構想ともいえる射程を有していることを示している.
著者
菱山 宏輔
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.89-105, 2016 (Released:2017-06-30)
参考文献数
50

本稿は, 安全安心まちづくりの全国展開から10年を経た現在, 全国初の民間交番を開設した仙台市宮町地区防犯協会を事例に, 「地域セキュリティの論理」を分析枠組みとして地域防犯体制の構造転換を明らかにする. その際, 都市計画道路として開発が進められてきた北四番丁岩切線に着目し, 中心・周辺・郊外のマクロな都市構造の変化と, 区制の導入および警察管区の再編というメゾ次元の地域構造の変化によって, 地区防犯協会と地域社会がどのように影響をうけてきたのかという観点から論じる. 仙台市の拡大に伴い北四番丁岩切線は拡張を繰り返し, 市の区制移行を契機として中江交番は幸町へと移転した. 中江・小田原地区から分離・新設された幸町防犯協会は, 地区の再開発のなかで新たな活動をはじめた. 他方で, 中江がインナーエリアとしての様相を強めるなか, 中江・小田原地区防犯協会は宮町地区防犯協会に編入され, 宮町民間交番が開設された. 当初, 民間交番は地域の「居場所」として応用的な活動をみせた. しかし, 町内会連合会は民間交番の運営の不備を巡り紛糾した. アノミー状況をのりこえるために, 民間交番は合理的組織構成を正統性に据えた組織に刷新された. これにより脱領域的な広域の活動が可能となる一方で, 安全安心まちづくりにより地域セキュリティの論理の疎外が生じた. これを対象化しつつ地域に根ざす活動の可能性を見いだすことが今後の課題となる.
著者
森 真一
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.404-421, 2011-03-31 (Released:2013-03-01)
参考文献数
21

本稿の目的は,心理主義化社会とニヒリズムの関係を明らかにすることである.この目的を果たすため,本稿はA. ギデンズの『モダニティと自己アイデンティティ(MSI)』(以下MSIと略す)を心理主義化論として読み,彼が提起する問題を出発点とする.MSIは,「心理学」がニヒリズム克服に寄与する可能性を示唆しながらも,もっぱらニヒリズムの再生産に寄与するものと捉える.ニヒリズムゆえに心理主義を一貫して批判してきた精神科医V. フランクルは,患者が「人生の意味」を発見できるように治療を行い,ニヒリズムの克服をめざす.フランクルの実存分析からは,「心理学」がニヒリズムの克服へと人々を向かわせていることが読みとれる.じつはギデンズも,抑圧された実存的問いが生のポリティクスとして回帰していることを示すことで,人々のニヒリズム克服行動を捉えようとしている.ギデンズやフランクルの著作からは,心理主義化社会において,「心理学」がニヒリズムを背景に隆盛し,ニヒリズムを再生産しているものの,他方でニヒリズム克服にも直接的・間接的に貢献しているように見受けられる.だが,ハイデガーの存在論からすれば,実存分析や生のポリティクスのようなニヒリズム克服の努力こそ,ニヒリズムの本質を表している.心理主義化社会は,二重の意味でニヒリズムであることを明らかにしたい.
著者
佐藤 哲彦
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.87-101, 2017

<p>本論文は逸脱研究における社会構築主義的分析の意義について2つの問いを経由して論じ, とくにディスコース分析を用いることで, 逸脱とそれを一部とするより大きな社会過程の記述が可能であるということを示したものである.</p><p>問いの1つは, 逸脱の社会学の退潮という現状から, こんにちどのような形で社会学的な逸脱研究が可能かということである. この点についてはとくに1980年代以降の犯罪コントロールや刑罰と社会との関係の変化を踏まえ, 新刑罰学などで中心的に議論されている論点を参考にしつつ, 新たな社会状況とそれに巻き込まれる人びとの姿を記述する方法の必要性を論じた. もう1つの問いは, そのための記述方法として社会構築主義的方法がどのような意義をもつかということである. この点について本論文は, ‹語られたこと/語られなかったこと›の分割をどのように処理するかという最近の構築主義批判に応える形で, とくに語りの遂行性に着目した社会構築主義的な分析方法としてのディスコース分析の意義を, 覚醒剤使用者の告白を題材に論じた. そしてその告白が覚醒剤をめぐる社会状況と結びつけて理解可能であることを示した. 併せてディスコース分析の代表的な技法であるレパトワール分析の意義として, 個別性を超えた記述に接続可能であることを論じ, それを具体的に示すために企業逸脱とされる薬害問題を対象にディスコース分析を行うことで, その意義を明らかにした.</p>
著者
清原 悠
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.2, pp.205-223, 2013

本稿の目的は, 1966年から81年にかけて展開した横浜新貨物線反対運動を事例に, 住民運動がいかなる地域環境において立ち上がってくるかを, 人口動態, 保守/革新の両者の地縁組織のあり方, 居住環境の整備のされ方から検討することである. そのなかで明らかにしたことは, 住民運動という概念は運動の当事者によって自らの運動を名指すべく使われた語彙であり, 他の社会運動概念と異なり分析概念ではなく当事者概念であったという点である. 住民運動という概念の最も早い使用は60年代の横浜であり, 当時の横浜は人口流入が激しく, 住民たちは政治的志向において保守から革新まで含んでおり, このなかで運動を構成していくためには, 保守/革新からは距離をおいた運動表象が必要であったのである. また, 住民運動概念は革新側が新住民を自らの政治的資源として動員するべく使用し始めたのであるが, 革新自治体であった横浜市と対立した横浜新貨物線反対運動がそれを内在的に批判し, 換骨奪胎して革新勢力から自立した運動を展開するものとして転用したものであった. そして, 革新側から自立した運動を展開できたか否かは地域環境の整備のあり方に関係があり, 大規模団地造営がなされた地区においては, そこに目を付けた革新勢力によって事前に革新勢力の地域ネットワークが構成されており, このような地区が後に反対運動から離脱することになった点を明らかにした.
著者
石井 由香理
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.106-123, 2012-06-30 (Released:2013-11-22)
参考文献数
29
被引用文献数
3 3

本稿では, 性別に違和感を覚えた経験をもつ3人のインタビュー対象者の語りから, かれらの自己像について, 共通する特徴を考察した. 現在, カテゴリーとの差異のなかに自己像を見出している3人の語りに共通するのは, マスメディアなどを通じて性的越境者についての情報を得, かつ, 一度はそれらに積極的に同一化しようとしている点である. しかしその後, 当事者団体や, それらの人々と接触していくうちに, かれらはカテゴリーに同一化するのではなく, 個人のなかに独自のものとしてイメージされる, アクチュアル・アイデンティティを自己像として肯定的に認めてゆく. カテゴリーに伴うイメージやストーリーを学習し, それを意識しつつも, 今度は, それに対する差異によって自らを表象するようになるのである. また, こうした対象者たちのありようは, かれらの身体をも巻き込んだものである. どのような治療や施術をどこまで受けるのかということは, より選択的なこととしてとらえられるようになる. くわえて, セクシュアル・マイノリティ相互の出会いは集合的なアイデンティティの共有を促すばかりでなく, 自己像を個人ごとに独自なもの, 唯一のものとして認知させるような作用を個々人にもたらしていると考えられる. また, かれらの自己像は, 不変的なものではなく, 新たな欲望が生じる可能性, 状況が変化する可能性に開かれている.
著者
赤江 達也
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.396-412, 2002-12-31

近代日本における宗教と政治の関係が問題とされるとき, 戦時期の「日本ファシズム」に対する抵抗の事例としてほとんどつねに言及されるのが, 無教会主義と呼ばれるキリスト教の一派である.キリスト教界のほとんどがファシズムへと積極的に参与していったとされるのとは全く対照的に, 無教会主義は, 抵抗の思想として評価されてきた.とりわけ, 戦前の代表的な植民政策学者としても知られる矢内原忠雄は, 「超国家主義に対する数少ない対決の記念碑」として高く評価されてきた.<BR>だが, なぜ, 戦後日本において, 無教会主義はファシズムに対する抵抗の思想としてだけ理解されてきたのだろうか.そうした観点から, この論文では, まず, 戦後の日本思想史におけるキリスト教の位置づけを検討していくことで, 思想の政治性をめぐる議論からキリスト教がほとんど体系的に除外されていく様を記述する.その上で, 矢内原の言説を具体的に検討することで, 彼の主張が, たしかに「信仰の純粋性」にもとづく「ファシズム」の批判なのだが, 同時により徹底化された「ファシズム」の構想でもあったことを明らかにする.さらに, その無教会主義 (の言説) の問題点を開示する作業を通して, それを「ファシズム・対・民主主義」という枠組みへと回収することで, うまく扱うことができなかった「日本ファシズム」論の限界点を指し示す.
著者
流王 貴義
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.408-423, 2012-12-31 (Released:2014-02-10)
参考文献数
29

『社会分業論』にてデュルケムは有機的連帯という社会統合の概念を提示している. この連帯概念の特徴は, 集合意識に基づく機械的連帯とは異なり, 社会的分化を許容している点に存する. しかし社会統合の概念である以上, 有機的連帯は個々人の自己利益にのみ基づく経済的な関係から区別されるべきであり, その基礎となる契約関係も当事者間の合意に還元はできない性質を持っている. 「契約における非契約的要素」とは, 経済学的な契約観に対するデュルケムの批判をパーソンズが定式化したものである.しかし「契約における非契約的要素」とは具体的に何を指しているのか. 有機的連帯に固有の統合メカニズムの特定に重要となる論点であるにもかかわらず, デュルケム研究者の間でも見解が分かれている. 集合意識を指しているのか, 人格崇拝なのか, 社会の非合理的基礎なのか, それとも社会に由来する強制力を意味しているのか. 本稿は「契約における非契約要素」とは契約法である, との解釈を提示する.契約法の役割は, 契約当事者間の権利義務を定め, 有機的連帯の安定を可能にする, という法の執行のみに留まらない. 契約関係における調和の維持という積極的な役割も契約法は担っている. 合意が契約として法的保護を受けるためには, 法により定められた条件を満たす必要があるが, デュルケムはこの条件を調和的な協働が維持されるための条件として理論的に読み替えるのである.
著者
安川 一
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.57-72, 2009-06-30 (Released:2010-08-01)
参考文献数
63
被引用文献数
1

これは,視的経験を社会学するための視座設計の試作品である.わたしたちの見る営みは互いにどう違うのだろう.現代社会・文化の様々な領域で視覚の優位が言われてきた.社会学的思考も,見ることはすなわち行為であり制度である,そう述べてきた.けれども,具体的な視的経験の豊かなありかたが直視されることはあまりなかった.視的経験の実際を探ろうと思う.つまり,生理的機能としての視覚でも社会・文化・歴史的抽象としての視覚性でもない,雑多に繰り返される日々の諸経験の視覚的位相の探求である.この観点から私は,社会心理学的自己概念研究法である自叙的写真法に準じて自叙的イメージ研究を試みた.被験者に「わたしが見るわたし」をテーマにした写真撮影を求め,撮影行為と自叙的イメージとで視的経験を自己言及的に活性化して,その様子を観察しようというフィールド実験である.総じて,生成された自叙的イメージの多くは生活世界の“モノ語り”像(=モノによる自己表象)だった.ただし,イメージの自叙性のいかんは主題ではない.イメージ自体の分析が視的経験の解析に至るとも思えない.課題は分析よりむしろ,イメージ群をもって視的経験をいかに構成してみせるかにあると思う.私は,イメージ群の配列-再配列を繰り返しながら,イメージ陳列の仕方自体を視的経験の相同/相違の表象として試みつつ,この作業を通じて考察に筋道をつけていきたい,そう考えている.
著者
松本 三和夫
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.15-30, 1980-06-30

従来、科学社会学は、科学者集団を、外部社会から自律した閉鎖系ととらえることによって、人々の生活に不都合を及ぼす現実の科学活動の側面 (社会問題としての科学) に対して、必ずしも十全な解明を与えていない。本稿のねらいは、科学者集団の特性を外部社会との関連の下に把握する、初期マートン (R. K. Merton) の科学社会学に立ち帰って、社会問題としての科学の特性を解明することにある。<BR>そこで、以下ではまず、一七世紀イングランドに関するマートンの歴史的事例研究に注目して、二つの論点を析出する。 (1) 科学者集団と外部社会の関連様式を特徴づけるマートンの論証事実 (ピューリタニズムの倫理と近代科学の属性相互間の「親和性」) を確定する。 (2) しかる後、科学者集団の発生過程-適応過程の分節に着目して、マートンの解釈枠組を吟味し、科学者集団の特性を形作る基本的なモメントとして制度化を取り出す。<BR>次いで、 (1) 及び (2) から、科学者-非科学者の内的連関に則して、科学活動のあり様を整理する類型を引き出す。そして、この類型に依拠して、社会問題としての科学の特性を解明するモデルを構成してみょう。
著者
田中 大介
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.40-56, 2007-06-30

本論文は,日露戦争前後の電車内における身体技法の歴史的生成を検討することによって,都市交通における公共性の諸様態を明らかにすることを目的としている.電車は明治後期に頻発した群集騒乱の現場になっていたが,同時期,法律から慣習のレベルまで,電車内の振る舞いに対する多様な規制や抑圧が形成された.これらの規制や抑圧は,身体の五感にいたる微細な部分におよんでいる.たとえば,聴覚,触覚,嗅覚などを刺激する所作が抑圧されるが,逆に視覚を「適切に」分散させ・誘導するような「通勤読書」や「車内広告」が普及している.つまり車内空間は「まなざしの体制」とでもよべる状況にあった.この「まなざしの体制」において設定された「適切/逸脱」の境界線を,乗客たちは微妙な視線のやりとりで密かに逸脱する異性間交流の実践を開発する.それは,電車内という身体の超近接状況で不可避に孕まれる猥雑さを抑圧し,男性/女性の関係を非対称化することで公的空間として維持しつつも,そうした抑圧や規制を逆に遊戯として楽しもうとする技法であった.
著者
芦川 晋
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.102-117, 2018-06-30

<p>本稿の目的は, 現代社会を踏まえて社会構築主義が提示する「物語的な自己論」を吟味し, より実態に即した「物語的な自己論」の展開可能性を模索することにある. そのために, まず, シカゴ学派にはじまるアメリカ社会学における自己論の洗練過程を, G. H. ミード/H. ブルーマー (象徴的相互作用論), H. ベッカー (レイベリング理論), E. ゴッフマン (対面的相互作用論) の順で検討をする.</p><p>その結果, まだこれらの議論には十分使い出があることが分かる. ミード/ブルーマーの他者の役割取得論は習慣形成論でもあった. レイベリング論になると, 役割に代わって「人格」概念が重視され, 習慣より「経歴」が問題になる. ゴッフマンの議論では, 相互行為過程における「人格」概念のもつ意義がより突き詰められ, 「経歴」や「生活誌」という概念を用いてパーソナル・アイデンティティを主題化し, すでに簡単な自己物語論を展開していた.</p><p>ところが, J. グブリアムとJ. ホルスタインは自らが物語的な自己論を展開するにあたって, わざわざ振り返った前史の意義をまともに評価できていない. そのもっとも顕著な例は「自己」と「パーソナル・アイデンティティ」を区別できない点にある.</p><p>そこで本稿では前史を踏まえたうえで, ゴッフマンのアイデアを継承するかたちで自己物語の記述を試みてきたM. H. グッディンの議論をも参照して, より精緻で現実に即した自己物語論の展開を試みる.</p>
著者
吉見 俊哉
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.557-573, 2015 (Released:2016-03-31)
参考文献数
47

デジタル革命は社会的記憶の構造を持続的に変化させる. デジタル技術は同じ情報が大量複製されていっせいに伝播・流通し, 大量消費されていくというマス・コミュニケーションの回路に介入し, <生産→流通→消費> の空間軸の組織化を, <蓄積→検索→再利用> の時間軸の組織化へと転換させる. もはや <過去> は消えなくなり, 無限に集積されていく情報資源となる. ここで必要なのは, 文化の創造的「リサイクル」である. 古い記録映像は, 音や色を与えられて新しい教育の貴重な「資料」となり, 古い脚本のデータは新しいドラマ作品を創造していく基盤となる. この転換には, まず散在するさまざまな形態のメディア資産の財産目録を作成し, 原資料を安定的な保存環境に集めていく取り組みを進める必要がある. また, アーカイブ化されたデジタルデータについて, 共通フォーマットにより標準化を進め, 公開化と横断的な統合化を進めることも重要である. さらに, デジタルアーカイブ運用のための人材育成, 教育カリキュラムにアーキビスト育成を取り込んでいくことも必要となる. デジタル時代のアーカイブでは, 保存の対象はけっして政府・行政機関の公文書に限定されない. アーカイブ化される資料や情報には, 地域の人びとによって撮影されたり語られたりした情報が大量に含まれるし, マスメディアやインターネットの情報がともに保存されていく. それらの情報全体が, 国境を越えて結びついていくのである.