著者
清水 瑞久
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.250-264, 2003-12-31

本論文は, 明治の社会学者・外山正一をとりあげ, 彼にとっての社会学が何であったのかを考察する.そのために, これまでの社会学説史の中で外山がどのようにイメージされてきたのかを, 主なる2つの潮流をあげて検討する.1つは, 民権運動に対抗して書かれた外山の「民権弁惑」に依拠し, もう1つは, 古代社会を研究して女性の自由を主張する「日本知識道徳史」に依拠する.本論文では, 一見するところ相容れることのない, これら2つの潮流を架橋しようと試みる.その試みのもとに, まず, 外山がその同時代社会における社会学の使命をいかに考えたのかを検討する.次いで, 古代社会に対する外山の眼差しがいかなるものであったのかを省察していく.そこから結論されるのは, 外山は国民を陶冶しようとして, 進化論的な歴史社会学を構想し, そのために同時代社会の中に神話的な物語を導入し, また, 神話世界に同時代社会を読み解いたということである.
著者
毛塚 和宏
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.194-212, 2017 (Released:2018-09-30)
参考文献数
23

本稿の目的は「個人主義の浸透により恋愛結婚が普及した」という個人主義仮説を, フォーマル・アプローチによって検討することで, 新たな理論的説明を提示することである.個人主義仮説は, 「家」や「分」を重視するような集団主義的な人々は見合い結婚を選択し, 自分の意思を尊重する個人主義的な個人は恋愛結婚を選択する, と仮定する. これに対して, 個人主義への志向と恋愛結婚の選択は必ずしも直結しない, という意識と行為の関連について批判がなされている.そこで, 本稿では「選好の進化」によるアプローチを用いることで, 意識と行為をそれぞれ独立に扱い, その単純ならざる関係を分析する. 個人主義の浸透プロセスを考慮した恋愛結婚の普及モデルを構築し, 意識と行為の時系列変化を捉える.その結果, 先行研究では想定されていなかった「慎重な個人主義」という行為パターン (選好) が析出した. 慎重な個人主義はある程度の階層維持を考慮に入れ, 見合い結婚・恋愛結婚を選択する. 恋愛結婚の普及に際して, この慎重な個人主義が, 見合い結婚中心的な社会の中で恋愛結婚を志向する選好を社会に涵養する, という重要な役割を果たすことが示唆された.
著者
西澤 晃彦
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.248-260, 1990
被引用文献数
1 1

日本の大都市においては、旦雇い労働者が集まり仕事口を得る場、「寄せ場」が形成されている。そしてまた彼ら-「寄せ場労働者」は、都市社会において排除の対象とされている。この論文では、東京の寄せ場・山谷に集う寄せ場労働者の寄せ場における社会生活の記述が目指される。その際、彼らの社会あるいは「集まり」の状態を、寄せ場労働者の社会関係を規制する規範から生じた一つの「社会秩序」として把握を試みる。さらには、そのような社会秩序の下での寄せ場労働者相互の関係、そして寄せ場を取り巻く外部社会との関係の中で彼らが見いだすアイデンティティについて述べられる。即ち、居住集団としての寄せ場・山谷における道徳秩序とそこでの寄せ場労働者のアイテンティティの内容が、具体的な社会関係の諸相の解釈を通じて導き出されるのである。
著者
福武 直
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.1, no.3, pp.94-96, 1950-11-30 (Released:2009-10-20)
著者
山田 唐波里
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.128-145, 2019 (Released:2020-11-13)
参考文献数
45

本稿の課題は,現代の日本社会において人口政策を規定している規範を取り上げ,その編成過程を政治権力との関連のなかで検討することである.特に,ミシェル・フーコーの「統治性研究」を参考に,これまでの研究では扱われてこなかった近代的人口論に基づく人口政策規範に注目した.現代の人口政策論では,人口と諸要素間の均衡が破られた際に人口問題が生じるとされており,均衡の維持/回復を目指すことが人口政策を導く規範となっている.本稿ではこの規範を〈均衡化〉と呼ぶことにした.〈均衡化〉は,1918 年の米騒動を契機として隆盛した過剰人口をめぐる議論のなかで編成された.人口と食糧の不均衡によって米騒動が生じたと考えられたからである.しかし,そうした人口と食糧の関係を主題化したマルサス的な人口論に対抗する形で,人口に関連する他の諸要素を主題化した人口論が登場してくる.このいわゆる「大正昭和初期の人口論争」を通じて,最終的にそれぞれの人口論を総合する形で「人口方程式」が定式化された.さらに,この人口方程式の均衡という枠組みは,論壇における抽象的な議論で終わることはなく,政策論の理論的基盤に据えられることになる.米騒動に代表される秩序問題への対応として,政策論の領域に,暴力による抑圧や監視による規律化とは異なる,人口の水準に作用することで人びとのふるまいを導く統治性に基づいた戦略が導入されたことを意味している.
著者
出口 剛司
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.4, pp.422-439, 2011

これまで精神分析は,社会批判のための有力な理論装置として社会学に導入されてきた.しかし現在,社会の心理学化や心理学主義に対する批判的論調が強まる中で,心理学の1つである精神分析も,その有効性およびイデオロギー性に対する再審要求にさらされている.それに対し本稿は,批判理論における精神分析受容を再構成することによって,社会批判に対し精神分析がもつ可能性を明らかにすることをめざす.一方,現代社会学では個人化論や新しい個人主義に関する議論に注目が集まっている.しかしその場合,個人の内部で働く心理的メカニズムや,それに対する批判的分析の方法については必ずしも明らかにされていない.そうした中で,受容史という一種の歴史的アプローチをとる本稿は,精神分析に対する再審要求に応えつつ,また社会と個人の緊張関係に留意しつつ,個人の側から社会批判を展開する精神分析の可能性を具体的な歴史的過程の中で展望することを可能にする.具体的に批判理論の精神分析受容時期は,1930年代のナチズム台頭期(個人の危機),50年代,60年代以降の大衆社会状況(個人の終焉),90年代から2000年代以降のネオリベラリズムの時代(新しい個人主義)という3つに分けられるが,本稿もこの分類にしたがって精神分析の批判的潜勢力を明らかにしていく.その際,とくにA. ホネットの対象関係論による精神分析の刷新とその成果に注目する.
著者
吉野 耕作
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.44, no.4, pp.384-399, 1994

従来のエスニシティ、ナショナリズム研究では民族 (ethnic/national) のアイデンティティ、シンボルが「生産」される側面に偏っており、「消費」の視点が欠けていた。本稿では消費行動を通して民族性が創造、促進される様子を考察する。特に、グローバル化が進行する消費社会において文化の差異を商品化して成立する「文化産業」が、ナショナリズム (エスニシティ) の展開に果たす役割に焦点をあてる。社会によっては民族の独自性の表現方法が異なるために、文化産業は異なった現れ方をするが、抽象的 (全体論的) かつ「文化人類学主義」的な表現方法が顕著な日本と、これとは対照的な具象的 (制度論的) かつ文化遺産保護主義的なイギリスにおける事例を中心に論じる。具体的には、まず、日本において文化の差異に関する「理論」 (日本人論) がマニュアル化され、大衆消費されることによって文化ナショナリズムが展開する過程を考察する。次に、ツアリズムにおける消費を意識する形でナショナル・ヘリテッジ、伝統が「創造」され、その過程の中で民族意識・感情が促進される状況をイギリスの「ヘリテッジ・インダストリー」に見る。いずれの場合も、消費市場を舞台として文化を大衆商品として消費者に提示する「文化仲介者」の役割が浮び上がるが、グローバル化する現代消費社会におけるエスニシティとナショナリズムの新しい担い手として注目する。
著者
中野 卓
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.p94-99, 1980-06
著者
島崎 稔
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.101-134, 1954-01-30

Secondly, the hierarchical organization of the school must be mentioned. Those apprentice families in which family rank and its hierarchical status come into question are very limited in number in the school. They are direct apprentices belonged to the main master family (<I>soke</I>), and constitute a ruling stratum in the school. There are called "shokubun". Those who belonged to this category are as follows : <BR>1) Members of hereditary apprentice families of the main master which have been associated with him prior to Meiji Restoration, or kin of the main master family of the "Kanze" school.<BR>2) Those who entered the master family recently as private apprentices and, after a long period of apprenticeship, founded their own families. 3) Infrequently, those who are recognized as being of great merit by the master are raised from lower strata to this category.<BR>Most of those other than <I>shokubun</I> are "<I>shihan</I>", and as they belong to <I>shokubun</I> families, they are twice subordinate, once to the main master and once to the <I>shokubnu</I>. A few of the <I>shihan</I> are intermediate in status between <I>shokubun</I> and <I>shihan</I>, as they may become <I>shokubun</I> in the future, and they are called "<I>quasi-shokubun</I>". The main differences between these two strata are summarized as follows : <BR>1) The status of <I>shokubun</I> is formally recognized as hereditary, but <I>shihan</I>, as they are not recognized as formal apprentices of the master, have no such guarantee.<BR>2) The right to participate in the management of art performance of the Kanze school is only given to <I>shokubun</I> members. Thus, <I>shihan</I> have few opportunities to participate in performances held under the auspices of the main master family. 3) The right to communicate directly with the main master about the art is only given to <I>shokubun</I>. In case of requests for credentials and right to give performances, instruction in the arts and the utilization of <I>densho</I> (instruction codes), shihan must make these requests through the <I>shokubun</I> to which they belong. Thus, the <I>shihan</I> are extremely limited in their sphere of action and consequently are economically handicapped.<BR>The right to communicate directly with the main master is called "<I>Jikibuntsu</I>" (to communicate directly), and is a special privilege of <I>shokubun</I> in the school. For this reason <I>shokubun</I> has sometimes called "<I>Jikibuntsu</I>". In this sense, <I>shihan</I> are "out-siders" as regards access to the main master.<BR>Finally, the problem of the master-apprentice relationship among the members of the school must be treated. As the hierarchical structure suggests, the whole school is composed of the many master-apprentice groups centered around the main master family and <I>shokubun</I> families. Then, to understand the structure and group characteristics of the school, the individual masterapprentice relationships must be understood. In each master-apprentice group, two types of apprenticeship can be distinguished.<BR>1) One is that of those who entered the master's family in early childhood as "living-in" private apprentices and, after long apprenticeship, became independent. They are the so-called "<I>kogai</I>".<BR>2) The other is that of those who started their art career in adulthood as "amatures" and received their training as "kayoideshi" (living-outapprentice). They are called "<I>chunen-mono</I>".
著者
森岡 清美
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.41, no.1, pp.2-11, 1990-06-30 (Released:2009-10-13)
参考文献数
33
被引用文献数
1 1

第六二回大会にあたり、恒例により会長講演と銘うつ報告をいたしますことは、私のもっとも光栄とするところです。さて、演題にいう「死のコンボイ経験世代」の説明が、本日の講演内容の大部分を構成することになると思います。まず、「コンボイ」ですが、以下、原稿に従って「である」調で記録することをお許しください。
著者
秋本 光陽
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.69, no.3, pp.373-389, 2018 (Released:2019-12-31)
参考文献数
34

本稿は, 日本における戦後少年司法制度の黎明期, とくに1950年代前半の少年司法制度を対象に, 「科学主義」と呼ばれる理念が家庭裁判所の実務関係者によるいかなる実践を通して可能になっていたのかを明らかにするものである. 戦後日本では1949年に現行少年法と家庭裁判所が誕生した. 現行少年法は家庭裁判所調査官職および少年鑑別所技官職を設けており, 少年の非行原因の解明や, 非行ないし非行克服の可能性を予測するために人間関係諸科学の活用を要請している. しかし, 少年司法の科学主義理念はその内実が不明瞭であるとの指摘もなされてきた. 本稿では, 家庭裁判所調査官によるディスコースを素材に, 調査官が社会学的知見を用いて少年の非行ないし非行克服の可能性をどのように予測していたのかを分析する. 分析からは以下のことが示された. 第1に, 家庭裁判所調査官は法と習俗・慣行の齟齬に注目し, 非行少年を農村の「若衆」などとカテゴリー化する実践を通して, 少年の行為がもつ合理性を描き出すことを試みた. 第2に, 調査官によるカテゴリー化の実践は, 少年に社会的な適応能力を見出すことを通して非行克服の可能性の予測を可能にさせるものであると同時に, 非行可能性の予測をも導くものであった.
著者
奥村 隆
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.52, no.4, pp.486-503, 2002

「社会」というリアリティが喪失している, という.では, いかなる状況において「社会」はリアルに経験されるのだろうか.そのひとつは, いわば「社会を剥ぎ取られた地点」を経験・想像することを通してであるように思われる.この地点から「社会」を認識・構想することを, これまで多くの論者が行ってきた.われわれは, この地点をどう想像できるだろう.そこから「社会」はどのように認識されるのだろう.<BR>本稿は, ルソー, ゴフマン, アーレントという3人の論者がそれぞれに描いた「社会を剥ぎ取られた地点」と「社会」への認識を辿るノートである.そこでは, 人と人とのあいだに介在する夾雑物を剥ぎ取った「無媒介性」とも呼ぶべきコミュニケーションに対する, 異なる態度が考察の中心となる.このコミュニケーションを希求しそこから「社会」を批判する態度を出発点としながら, 「同じさ」と「違い」を持つ複数の人間たちが「社会」をどう作るかという課題への対照的な構想を, 本稿は描き出すことになるだろう.