著者
藤田 博文
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.478-494, 2008-12-31 (Released:2010-04-01)
参考文献数
30
被引用文献数
1

本稿の課題は,M. フーコーが最晩年に取り組んだ古典古代思想研究におけるキー概念,「自己への配慮」が,〈倫理‐政治的〉な自律主体の形成という観点から構成されていることを明らかにすることにある.彼のこの取り組みについての従来の議論では,「自己の自己との関係」という形式をとる「自己への配慮」の「主体」が,閉じられた自己関係の枠内にとどまる「倫理的」主体として捉えられ,この主体との関わりで,彼の権力論において常に問われ続けてきた「抵抗」拠点の可能性について指摘されてきた.そこで本稿では,この議論を一歩進めて,「自己への配慮」と「抵抗」拠点との関係を単に指摘するだけにとどめず,両者の論理関係を捉えたうえで,この「自己への配慮」が常に「他者」との開かれた関係の中で機能する,〈倫理‐政治的〉な観点から貫かれた概念であることを検討する.この課題を遂行するために,まずはじめに,「自己への配慮」と「抵抗」拠点との論理関係を考察し,前者が「主体の変形」(「スピリチュアリテ」)の実践として定義されていることを明らかにする.次に,この「自己への配慮」が,2つの位相を持つ「他者」と常に関係を持ちつつ実践されることを明らかにする.そして最後に,この「自己への配慮」によってはじめて,下位の者が上位の者に対して生命を賭けて実践する「パレーシア」(「真理を語ること」)が可能になることを指摘する.
著者
橋口 昌治
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.164-178, 2014 (Released:2015-09-30)
参考文献数
23

企業社会が揺らぐなか, 若年層はさまざまな困難を抱えつつも, それを社会的・構造的な問題として捉え, 集合的に異議申し立てを行うことが難しくなっている. なぜなら, 個人化が進んだ社会において人々が「集まる」ことすら難しいからである. また先行研究では, 共同性が政治的目的性を「あきらめ」させるという主張がある. その一方で, 「若者の労働運動」に参加している若者もいる. 本稿では, 「若者の労働運動」における抵抗のあり様を明らかにした. その際, エージェンシー性の高いと思われる組合員にインタビューを行った. エージェンシー性の高い人物ほど, 現在の地位が構造的要因に規定されたものなのか, 個人の選択や努力の結果なのかが判別しがたいという, 揺らぐ労働社会における矛盾が現れやすいと考えられるからである.その結果, まず, ユニオンが労働相談にのることで, インタビュー対象者が個人的な問題として捉えていたものを社会的・集団的に解決すべき問題へと転換させていたことがわかった. 次に, 「あきらめ」, つまり上昇アスピレーションの冷却や「私」を受け入れていくことを通じて, 「政治的目的性」は加熱されていたことがわかった. 先行研究においては, 政治的目的性や自分探し, 上昇アスピレーションが加熱か冷却かの二項対立で捉えられていたが, 2人の事例からは, 「あきらめ」の相互関係は二項対立では捉えきれず, また抵抗につながりうることが明らかになった.
著者
片瀬 一男
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.4, pp.476-491, 2008-03-31 (Released:2010-04-01)
参考文献数
60

戦後,日本社会の民主化をめざして導入された統計教育が,昨今の「ゆとり教育」のもとでのカリキュラム削減によって危機に瀕している.統計的リテラシーは,世論調査をはじめとする調査データを的確に読みとることによって適切な政治参加を促進するという点で,情報化社会における市民的教養教育にとって不可欠のものである.また,社会学教育においても,社会調査教育は,質的調査・量的調査を問わず,因果図式や仮説の構成を通じて,社会理論と社会的現実を架橋する社会学的想像力を涵養するという意味で枢要な位置を占める.ところが,実際の社会調査教育の現場では,たとえば社会調査士育成をめぐっても,大学間の格差が存在するだけでなく,量的調査では検定や多変量解析,質的調査ではフィールドノーツやドキュメントの分析技法の教授までは十分になされていないという問題点がある.今後はデータ収集の方法だけでなく,こうした分析技法の教育にさらに力をそそぐことが,社会調査教育の課題となる.これによって,メディアの流す多様な情報から,適切なものを読みとるリサーチ・リテラシーを育成することで,情報化社会における民主的な市民参加を促進することこそ,市民的教養教育としての社会調査教育に求められる使命である.
著者
小山 裕
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.37-51, 2010-06-30 (Released:2012-03-01)
参考文献数
46
被引用文献数
1

本稿の目的は,ニクラス・ルーマンが『制度としての基本権』(1965年)において最初に提示した機能分化社会という秩序表象が立つ共時的・通時的連関の解明にある.共時的な観点からは,ルーマンの機能分化社会理論が,公共性や公的秩序といった概念を手がかりとした,ドイツ的国家概念の批判という,同時代のドイツ連邦共和国の理論家の幾人かに共通して見られる試みの一ヴァージョンであったことが示される.ルーマンの機能分化概念は,かかる国家概念を支える19世紀ドイツの社会構造と見なされていた国家と社会の二元主義へのオルタナティヴであった.通時的な観点からは,機能分化社会という秩序表象がカール・シュミットの全面国家との比較から分析される.ルーマンは,シュミットのいう社会の自己組織化を,社会全体の政治化による自由なき全面国家の成立と見なし,それを批判するために機能分化を維持するためのメカニズムを探求した.政治システムの限界づけを志向するという点で,初期ルーマンの機能分化社会理論は,19世紀の市民的自由主義の自由主義的な再解釈であったと特徴づけることができる.
著者
麦山 亮太
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.248-264, 2017 (Released:2018-09-30)
参考文献数
36

キャリアの中断は, 個人の社会経済的地位を動揺させ, 格差を生成する契機である. 本稿の目的は, キャリアの中断による格差の生成過程を明らかにすることにある. 中断の効果を問うにあたり, 従来の地位達成モデルにもとづく分析は, キャリアの中断の効果が個人の異質性に由来するものか, その後の地位を低下させることに由来するものかを分離できないという点で不十分であった. そこで本稿では, 2005年SSM調査の職業経歴データから同一個人について複数時点の観察を作成しパネルデータ分析の手法を適用することで, 以上の効果を分離し, 中断がその後の正規雇用獲得確率に与える持続的影響を捉える. 加えて, 中断時年齢, 中断期間の長さ, 中断に至った理由によってキャリアの中断の効果が異なるかどうかについても検討する.分析の結果, 個人の異質性を除いてもなお, 男性は20年弱, 女性は20年以上, キャリアの中断を経験することでその後の正規雇用獲得確率は低い水準にとどまることが示された. 男性はとくに30歳以上の壮年期においてその効果が強い. 女性は, 年齢・中断期間・離職理由による差異はあるものの, キャリアの中断はどの層にとってもその後の正規雇用獲得確率を持続的に低下させる契機となっている. さらに, キャリアの中断はより地位の低い個人が経験しやすいイベントであり, それまでの格差をさらに拡大させる役割を果たしている.
著者
澤田 唯人
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.460-479, 2015 (Released:2017-03-31)
参考文献数
23

精神科臨床では近年, 「境界性パーソナリティ障害 (Borderline Personality Disorder)」と診断される人々の急増が指摘され, その高い自殺リスクや支援の難しさが問題視されている (朝日新聞「若年自殺未遂患者の半数超『境界性パーソナリティ障害』 : 都立松沢病院調査」2010年7月27日). 本稿の目的は, こうしたボーダーライン当事者が生きる現代的困難の意味を, インタビュー調査に基づく語りの分析から照らしだすことにある. 見捨てられ不安や不適切な怒りの制御困難による衝動的な自己破壊的行為を, 個人の人格の病理とみなす医療言説とは裏腹に, 当事者たちはそれらが他者との今ここの関係性を身体に隠喩化した意味行為であることを語りだしていく. この語りを社会学はどのように受けとめることができるだろうか. 本稿では, これら衝動的な暴力や自己破壊的行為が比喩的な意味の中で生きられるという事態を探るうえで, 個人に身体化された複数のハビトゥスと, 現在の文脈との出逢いにおいて生じる「実践的類推 (analogie pratique)」 (B. ライール) に手がかりを求めている. そこに浮かび上がるのは, 流動化する現代社会にあって, 自己をめぐる認知的な水準の再帰性 (A. ギデンズ) よりも一層深い, ハビトゥスの移調可能性を再帰的に問われ続けた, «腫れもの»としての身体を生きる当事者たちの姿である.
著者
鈴木 南音
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.73, no.1, pp.19-36, 2022 (Released:2023-06-30)
参考文献数
22

本研究は,描かれた絵の見え方を形作るための相互行為上のプラクティスを,会話分析の方法を用いて解明したものである.その調査先として,舞台芸術の制作場面を選んだ.そこでは,これから作ろうとしている舞台美術や,舞台上に投影するアニメーションに関するアイデアを,絵に描いて見せるという活動が頻繁になされており,描かれた絵をどのように見るのか,また,どのように絵の見方を聞き手に示すのかということが,参与者たちにとって重要な課題であった.そこで本研究では,分析の焦点を,描かれた対象同士の関係性の見え方が活動の中でどのように形作られているのかという点に絞り,E. Schegloff(1980=2018)の「予備のための予備」の議論を導きの糸としながら,分析を行なった. 分析の結果として,相互行為参与者たちが,発話・身体・道具の配置等の組み合わせのなかで描くことを予示し,継続する行為を予備的行為として構造化することによって,描かれた対象同士の見え方が,予備/本題という関係性をもつものとして形作られるということが解明された.また,そのようなプラクティスが用いられることで,絵が,前景や後景といった前後関係をもつ複数の層に階層化されることを示し,さらに,絵の見え方だけではなく,舞台芸術の作り手たちがこれから実際に舞台を組み立てる順序が構造化されるということが明らかになった.
著者
飯島 祐介
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.551-565, 2008-12-31 (Released:2010-04-01)
参考文献数
19

本稿の目的は,スカーフ論争(Kopftuchstreit)の分析を通して,揺れ動く現代ドイツの規範的自己理解の一端を浮かび上がらせることにある.ドイツのスカーフ論争は,公的学校において教師が授業時にスカーフを着用することを禁止すべきか否かを焦点に,2003年9月の連邦憲法裁判所判決を契機に,広く公共において展開されることになった.論争は,禁止を求める陣営とそれに反対する陣営という単純な対立を超えた多様な立場へと分裂している.しかし同時に,ドイツは宗教的・世界観的に中立的な国家であり,自由と民主主義を基本価値に統合された社会であるとする自己理解が,その共通の地平となっている.この理解はナチズムの克服を背景とした歴史的なものであるが,論争ではその内実が問い直されている.ここに論争は,ドイツの「戦後社会」の揺らぎを映し出すことになっている.論争の帰趨はなお定かでない.しかし,その行方が少なくともドイツにとって瑣末な問題でありえないことは,現時点において確言することができる.
著者
江原 由美子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.553-571, 2013 (Released:2015-03-31)
参考文献数
18

本稿の主題は, 現代フェミニズムと家族との関連性を考察することである. まず, 第1に, 現代フェミニズムの家族に関する主要な論点を明らかにする. それは「家族の否定」ではなく, 「性別分業家族」批判であった. 「性別分業家族」においては, 女性の過重な家庭内役割のゆえに, 女性の経済的自立が困難だったからである. 次に, 現代フェミニズムの家族批判の根底にある公私分離規範に関する論点を, 「家族領域」を社会から切り離す公私分離規範批判と, 女性の「身体の自由」権を認めない公私分離規範批判の, 2点で把握し, それらがいずれも, いわゆる「近代家族」への批判につながることを示す. この観点から「近代家族」類型を位置づけると, 「近代家族」とは, 女性の人権を認めない前近代的要素を含んでいる家族類型と位置づけることができる. 最後に, 現代フェミニズムの公私分離規範批判から導かれた論点に関連する家族変動要因を, ハビトゥスの水準と, 社会制度的水準において把握し, 「ジェンダー秩序論」の視点から, 「これからの家族」を考える.
著者
加藤 秀一
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.298-313, 2004-12-31

ロングフル・ライフ (wrongful life, 以下WL) 訴訟とは, 重篤な障害を負って生まれた当人が, 自分は生まれないほうが良かったのに, 医師が親に避妊あるいは中絶の決断をするための根拠となる情報を与えなかったために生まれてしまったとして, 自分の生きるに値しない生をもたらした医師に賠償責任を要求する訴訟である.そこでは自己の生そのものが損害とみなされる.<BR>しかしWL訴訟は論理的に無意味な要求である.なぜならそれは, すでに出生し存在している者が, 現実に自分が甘受している状態と自分が存在しなかった状態とを比較した上で, 後者のほうがより望ましいということを主張する発話行為であるが, 自分が存在しない状態を自分が経験することは不可能であり, したがってそのような比較を当事者視点から行なうことは遂行的矛盾をもたらすからである.<BR>それにもかかわらずWL訴訟の事例は増えつつあり, 原告勝訴の事例も出ている.それだけでなく, WL訴訟と同型の論理, すなわち存在者があたかも非在者であるかのように語る〈非在者の語り=騙り〉は, 裁判以外のさまざまな文化現象の中に見てとることができる.そのような〈騙り〉は, 死の概念を一面化し, 死者を生者の政治に利用することで, 新たな死を召喚する行為である.
著者
五十嵐 泰正
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.521-535, 2012-03-31 (Released:2013-11-22)
参考文献数
30
被引用文献数
1 2

多様性が価値として称揚される現代の都市においては, しばしば文化実践の当事者の疎外を伴いながらも, 周縁的な差異までも資源として動員されることが多くなった. しかし, 都市内部の多様性と都市間の多様性は二律背反の場合が多い現実の中で, 多文化都市における来街者を意識したまちづくりは, ある特定の地区に特定の文化的資源の選択的な集積を促し, 文化的次元でのゾーニングを志向しがちである. このような整理を踏まえたうえで, 本稿の後半では, そうしたゾーニングが困難な多文化的な商業地である東京都台東区上野2丁目地区における防犯パトロール活動に注目する. 執拗な客引き行為などを取り締まり, 良好な地域イメージを守ろうとするこの地区のパトロールには, 従来批判されてきたセキュリティの論理とコミュニティへの意識の接合を見出すことができる. しかし本稿では, パトロールをもっとも熱心に推進しているのが, 空間的ゾーニングに加えて時間的なゾーニング (住み分け) も難しい飲食店主層であることを明らかにしたうえで, セキュリティの論理ぐらいしかコミュニティ形成のきっかけとなりえない異質性と流動性がきわめて高い――すなわち高度に都市的な――地区では, 地域防犯への志向性こそが, 多様な人々の間にコミュニケーションのチャンネルを開く最大公約数的な契機であり, ゾーニング的な発想に基づいた排除的な多文化主義を克服しうる側面ももっていることを指摘した.
著者
清原 悠
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.2, pp.205-223, 2013 (Released:2014-09-30)
参考文献数
38

本稿の目的は, 1966年から81年にかけて展開した横浜新貨物線反対運動を事例に, 住民運動がいかなる地域環境において立ち上がってくるかを, 人口動態, 保守/革新の両者の地縁組織のあり方, 居住環境の整備のされ方から検討することである. そのなかで明らかにしたことは, 住民運動という概念は運動の当事者によって自らの運動を名指すべく使われた語彙であり, 他の社会運動概念と異なり分析概念ではなく当事者概念であったという点である. 住民運動という概念の最も早い使用は60年代の横浜であり, 当時の横浜は人口流入が激しく, 住民たちは政治的志向において保守から革新まで含んでおり, このなかで運動を構成していくためには, 保守/革新からは距離をおいた運動表象が必要であったのである. また, 住民運動概念は革新側が新住民を自らの政治的資源として動員するべく使用し始めたのであるが, 革新自治体であった横浜市と対立した横浜新貨物線反対運動がそれを内在的に批判し, 換骨奪胎して革新勢力から自立した運動を展開するものとして転用したものであった. そして, 革新側から自立した運動を展開できたか否かは地域環境の整備のあり方に関係があり, 大規模団地造営がなされた地区においては, そこに目を付けた革新勢力によって事前に革新勢力の地域ネットワークが構成されており, このような地区が後に反対運動から離脱することになった点を明らかにした.
著者
奥村 隆
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.4, pp.415-436, 2008-03-31 (Released:2010-04-01)
参考文献数
7
被引用文献数
1 1

社会学を専攻する学部学生は,大学で社会学教育を受けるなかで,社会学になにを見出しているのだろうか.彼らは社会学をどのようにおもしろいと思い,卒業後どのように役に立つと思っているのか.本稿は,2003年に日本社会学会社会学教育委員会が7つの大学を対象として行った質問紙調査の結果からこのことを検討する.前半で,大学入学以前の社会への関心や社会学についての知識,社会学の授業についての満足度などを見たあと,後半では,学生たちがいかなる語彙で社会学が「役に立つ」と語り,社会学が「おもしろい」と語るかを,自由回答を分類することで明らかにする.そこからは,進路に役に立つことや社会への知識が得られることよりも,視野を拡大する「幅広さ」,常識を転倒する「意外さ」,自分と関係する「身近さ」に社会学の魅力を感じている学生の姿が浮かび上がる.この調査結果への評価を通して,本稿は社会学教育が現在直面する「岐路」を暫定的に描き出すことを試みる.
著者
林 凌
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.69, no.1, pp.107-124, 2018 (Released:2019-06-30)
参考文献数
23

1960年代日本においては, チェーンストアの急拡大という小売業界の構造変化が生じた. この時期ダイエーや西友などの小売企業は, 全国各地に相次いで店舗を立地した. その結果「安売り」を基盤とした大量販売体制が日本においても生起したのである.流通史研究はこうした小売業界の構造変化において, 商業コンサルタントとでも呼びうる職能集団が重大な役割を有していたことを指摘している. だがなぜ彼らは, それまで否定されていた様々な経営施策を肯定的な形で取り上げたのか. この点について, 既往研究は充分な説明を加えているとは言い難い.本稿では消費社会研究の知見を分析の手がかりとして, 当時「商業近代化運動」に取り組んでいた商業コンサルタントの「安売り」をめぐる言説に着目し, 以下のことを解明する. 第1に, 商業コンサルタントが「商業近代化運動」において「安売り」を肯定的に取り上げた際に, 「安売り」と「乱売」が「大量生産―大量消費」の枠組みから弁別されていたということを説明する. 第2に, こうした「安売り」という施策の重要性を訴える主張が, 当時の経営学の導入と密接に結びついていたということを説明する. そして第3に, こうした「安売り」をめぐる彼らの実践が「消費社会」の到来という予期を原動力にしており, そのため「消費者」への貢献という規範が, 「安売り」という具体的施策と結びつく形で当時強く示されていたことを明らかにする.
著者
小宮 友根
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.192-208, 2009-09-30 (Released:2012-03-01)
参考文献数
47

J. バトラーの理論は社会学にとってどのような意義をもっているだろうか.本稿では「パフォーマティヴとしてのジェンダー」という考え方の検討をとおして,この問いに1つの答を与える.はじめに,パフォーマティヴィティ概念がJ. デリダの「反覆可能性」概念に接続されていることの問題点を指摘する.1つは,「行為をとおした構築」という主張の内実が不明確なままにとどまっていること.もう1つは,それゆえ「攪乱」という戦略が採用されるべきであるという主張にも十分な根拠が与えられていないことである.だが,バトラーがなぜ「社会的に構築された性差」という意味でのジェンダー概念を批判していたかに注目するなら,パフォーマティヴィティ概念についての異なった解釈を導き出すことができる.ここでは,人間の行為を因果的に説明する議論のもつ限界の外で「性別の社会性」を論じることの重要性を考察することからその作業をおこなう.そのうえで,私たちが言語による記述のもとで行為を理解していることと,私たちが多様なアイデンティティをもつことの論理的関係へと目を向けるものとしてパフォーマティヴィティ概念を解釈するなら,その内実は経験的にあきらかにしていくことができるものになり,それゆえ社会学にとって重要な課題を示唆するものになることを論じる.
著者
倉田 めば
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.198-214, 2020 (Released:2021-09-30)
参考文献数
12

本稿の目的は,当事者である筆者の体験と活動をとおして,回復という現象の特徴を記述し,現在の薬物政策や薬物依存者処遇が,それまでに蓄積してきた当事者活動の豊穣さを簒奪し,一義的な意味に還元する事態について論じることである.すでに逸脱を社会的な視点から考える時代は過ぎ,こんにち薬物依存は自己責任の問題となった.しかし当事者はそれ以前から支援活動を行い,それは時代の変化を超えて存在し続けている.その一つであるダルクは,こんにちの社会からみたら逸脱的な支援を,すでに四半世紀にわたって続けてきた.その重要な考え方は「薬物を使う自由と使わない自由」が本人にゆだねられているということであり,そのことによって実現されるのは「回復の集約とその後の拡散」と表現できるものである.一方,近年の法改正や行政機関の薬物再乱用防止プログラムの実施は,薬物問題への取り組みとして望ましいものとされ,専門家らを巻き込みながら推進されている.しかしながら,それらによって回復という言葉は当初の輝きを失い,当事者活動本来の豊穣さが覆い隠されつつある.
著者
河口 和也
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.196-205, 2010-09-30 (Released:2012-03-01)
被引用文献数
1