著者
杉山 登志郎 猪子 香代 小堀 健次
出版者
静岡大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

黄柳野高校に入学した生徒に対する6年間にわたる調査の集計を行った。その結果、調査が可能であった796名の生徒のうち不登校の既往者は73%、いじめの既往者は48%にのぼった。不登校と相関が認められた要因は、生育歴上の家庭の混乱、いじめ、家庭内暴力、教師との葛藤、などの項目であり、非行行為の既往をもつ62%もまた不登校を伴っていた。早期に集団教育でトラブルが生じたものの方が、不登校の開始年齢が若く、また学力の問題を抱えるものの方が、不登校の開始年齢が優位に早いことが示された。軽度発達障害をもつ生徒は、全体の15%程度であるが、このグループでは多動傾向の既往と非行と、言葉の遅れと学力の問題が高い相関をもつことが示された。また症例検討からは、対人的過敏性や強迫性、低学力を抱える生徒において不登校からの回復が不良となる可能性が高いことが示された。また生徒の20%は精神科的な治療を要する問題を抱えており、不登校への対応に対する医療との連携の必要性が示された。
著者
小口 一郎
出版者
静岡大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1999

研究計画の二年目にあたる本年は、一年目の研究で明らかとなった「宇宙有機体説」または「万象生命体論」の思想が、イギリス・ロマン主義の想像力論の形成に果たした役割を、三つの段階に区分して解明し、合わせて研究成果の総括を行なった。1)まず、フランス革命に代表される急進主義思想と有機体論哲学、そしてロマン主義との関連を初期のロマン主義思想と当時の科学者や政治思想家の中に探った。その結果、政治的急進主義思想を媒介として、キリスト教の千年王国主義と有機体論が結びつき、全宇宙が生命体として進歩するという、生物進化論を産み出したこと、およびこの思想がエラズマス・ダーウィンなどを経由してロマン主義に重要な思想的枠組みを与えたことが明かとなった。2)次にロマン派の第一世代を代表するワーズワスを取り上げ、彼の世界像が有機体的な世界観に書き換えられ、「生命霊気」の概念に基づく新しい文学理論と想像力説を生み出す過程を検証した。この新しい文学観は、精神内面の神格化と、生成発展する自律的自我という、ロマン主義に特有の二つの概念を両立させる思想的装置であることが判明した。これは後にコールリッジにおいて、ドイツロマン派の哲学を取り入れた想像力論として結実した。3)最後に、有機体論の観点から、第二世代のロマン主義者が抱いた想像力論を検証した。その結果、1810年代以降も科学思想は政治的急進主義に影響を受け、パーシー・シェリーの神なき宇宙の動因としての生命霊気、ジョン・キーツの進化論的宇宙論を産み出したことが明かとなり、最終的にメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』において生命霊気が人工的操作の対象として神性を失ったことが判明した。この第二世代のロマン派こそが、現代科学が急速に成立する直前の時代にあって、生命体論や有機体論を文学的思想として昇華し得た最後の世代であった。
著者
小口 一郎
出版者
静岡大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1997

本年度は、自然科学の思想性の観点から、イギリス・ロマン主義文学を読解する作業を行った。研究の主たる対象はウィリアム・ワーズワスとS.T.コールリッジに絞り、他の思想家や文学者は彼等との関連において取り上げた。まず、ワーズワスが1790年代の政治的急進主義思想に強く影響を受けていたことを前提に、彼の文学における自然科学思想の役割を検証した。その結果、彼の文学作品に現れた進歩的共和主義思想と、「『叙情民謡集』序文」などの革新的な文学論が、十八世紀の連想主義心理学と、それに付随した黙示録思想および政治的革命思想と深く結び付いたものであることが判明した。またここでハートリー、プリーストリー、ゴドウィン、E ダーウィンを経由してロマン主義へと至る、進歩主義と黙示録思想を包摂した生理・心理学思想の系譜が明らかにされた。次にロマン主義の想像力論と自然科学思想との関連を、ニュートンのエーテルの概念に着目して研究した。特にコールリッジは十八世紀には理神論的に解釈されていたエーテルを、本来の新プラトン主義的な解釈に戻し、物理現象における神の直接的介在を主張した。これによって機械論的な宇宙像を否定しワーズワスと共に汎神論的な宇宙観を打ち立てた。また、コールリッジは生物学と化学の立場から、神の創造行為と人間の想像力、そして自然界の生命現象を相照応し合う生命体的創造過程と考え、生命体論に基づく新たな想像力論と宇宙観を創出した。後期ロマン主義の宇宙観も、基本的にこの思想を無神論の立場から解釈し直したものであり、その終端には『フランケンシュタイン』が位置する。このように科学が未だに持ち続けていた形而上学的性格に基づいてロマン主義は発展し、1820年代を過ぎると急速に終焉を向かえる。それは同時に自然科学が新しい物質観の下で、実証主義の立場へと本格的に変貌したことも意味していた。
著者
楊 海英 児玉 香菜子
出版者
静岡大学
雑誌
人文論集 (ISSN:02872013)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.A59-A184, 2003-07-31
被引用文献数
1

衆所周知,研究中国的学子経常嘆訴説没有高精度的資料可用.究其細情不外有二.其一是説,中国是個非常保密的国家,不願意其文献資料外流.此種現象主要与中国長期淪為殖民地半殖民地従而遭受外人略奪其文化財産的歴史有関.還有一種説法話為,中国的資料尤其是宮方発表的各種資料,経過了某種帯有特定意図的操作.亦即是説,資料与現実之間有着相当大的出人和距離.本文以公布各種統計資料為目的.此類統計資料均由執筆者収集於内蒙古自治区伊克昭盟即今之鄂爾多斯市地区民間.資料全部為当地宮方所発表的有関畜牧業,農業和工業方面的基本情況.在文中,執筆者対資料的真偽不進行評論,亦不対具体数字的性質進行弁別工作.本文作者認為,統計工作的出寵過程和統計行為同様重要.統計工作的形成過程是一種「文化現象」,和数字同様反映了該社会的不同側面.也就是説,本文所提示的資料,在「数字」和「本質」両方面,都具有同様重要的文化意義.
著者
酒井 英行
出版者
静岡大学
雑誌
人文論集 (ISSN:02872013)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.29-44, 2003-01-31

1. Trying to escape from emptiness of being a housewife, 'she' exchanges letters. But on the contrary, by doing so, 'she' restrains herself more strongly. 2. T project my self weakness on the green beast and treat cruelly. It is caused by the weakness of being unable to face up to alienation herself.
著者
上利 博規
出版者
静岡大学
雑誌
人文論集 (ISSN:02872013)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.A13-A27, 2003-01-31

It is said that Hippocrates, the ancient Greek doctor, used the word Semeiotike (=the doctrine of signs) as the diagnostics. The Ancients grasped the word sign as the symptom of a disease. But we can find the new modernized usage of this word in An Essay concerning Human Understanding. John Locke said in it, "it(=semeiotike) is aptly enough termed also logike, logic". And this idea had the influence on the semiotic(s) of the Charles Sanders Peirce. But the meaning of this word in Gilles Deleuze was entirely different. He thought in the 1960's that people begin to think by sudden encounter with signs. So signs are the key of the beginning of thinking. This includes the criticism of the traditional philosophies based on logos, because they thought that people begin to think of their free will. In Difference et Repetition (Difference and Repeat, 1968) Deleuze stated eight images of thinking which obstruct the beginning of thinking by signs. One of them is to treat propositions only in the dimension of the designation and to disregard the dimension of the expression. So in Logique du sens (Logic of sense, 1969) he tried to point out the expression-dimension specifically with the non-sense of Lewis Carroll and the logic based on events of Stoicism. There aren't many adventures of Alice, but the only one adventure to come to the surface from the depth, that is the adventure to get the incorporeal splendor of language and thinking.
著者
浜渦 辰二
出版者
静岡大学
雑誌
人文論集 (ISSN:02872013)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.A1-A15, 2001-07-31

1927年の『存在と時間』の刊行以来、ますます「現象学」という語を使わなくなっていったハイデガーは、1963年の回想「現象学へ入って行った私の道」のなかで、現象学という表題が消え去ったとしても「思索の可能性」としての現象学は保持されると述べていた。それから10年後、1973年の「ツェーリンゲン・ゼミナール」でのハイデガーは、この「可能性としての現象学」を「顕現せざるものの現象学(Phanomenologie des Unscheinbaren)」と呼んだ。もちろん、それはあくまでも後期ハイデガー流に解された限りでの現象学であり、「現象するものに現象することを可能にしながら、自らは現象しないもの」つまり「存在」の思索のことにほかならなかっただろう。いまここでは、ハイデガーの「顕現せざるものの現象学」というアイデアを汲みつつも、それを彼にしたがうのではなく、むしろメルロ=ポンティ晩年の遺稿『見えるものと見えないもの』における「見えないもの(l'invisible)」に結び付け、そしてそのアイデアをフッサール現象学からの離反ではなく、むしろ正統な継承として、それゆえ、フッサールを改めてこの「見えないものの現象学」の創始者として位置づけなおすことを試みたいと思う。現象学とは、現象についての学だから、現象しないもの・見えないものの現象学など形容矛盾と思われるかも知れないが、実はそうではなく、そこにこそ、現象学の新しい可能性があることを示すことができれば、と思うのである。
著者
上田 肇
出版者
静岡大学
雑誌
人文論集 (ISSN:02872013)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.A117-A132, 2003-01-31

Paul Auster's The Music of Chance is a very smart and stylish novel. Jim Nashe was a fireman in Boston, but after his wife left him, he asked his sister to take care of his daughter. And he began traveling around America. As long as he was driving, he carried no burdens. "Perhaps the music had something to do with that, the endless tapes of Bach and Mozart and Verdi that he listened to while sitting behind the wheel, as if the sounds were somehow emanating from him and drenching the landscape, turning the visible world into a reflection of his own thoughts." I would like to examine the story paying attention to the effects of music. I will put emphasis on the meaning of the anonymity of music. This may be closely related to the function of the simple language Paul Auster used in the novel. As Frederick R. Karl describes, Auster's deliberately flattened out American English conveys neutrality and withdrawal in the present age. His simple and easy language does not necessarily mean the story can be easily understood. On the contrary, it is a really difficult work. Auster's effort to quest for the function of language is apparent in the novel. He seems to emancipate language from the old barriers.
著者
伊東 暁人
出版者
静岡大学
巻号頁・発行日
pp.1-427, 2005-03

平成14年度~平成16年度科学研究費補助金(基盤研究(B)(1))研究成果報告書 p41-254は未掲載