著者
中山 康雄
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.39, no.2, pp.71-81, 2012-03-25 (Released:2017-08-01)
参考文献数
26

In this paper, I introduce three criteria for the historical assessment of research activities and apply them to mathematical activities, especially research activities in the set-theory. These criteria are accuracy, expressibility, and coherence. According to my proposal, a research tradition is progressive, when it is more accurate, more expressive and more coherent than its predecessors. A research tradition in a crisis is regressive with respect to at least one of these criteria. This approach is based on a nominalistic non-realism that is connected with a metaphysical position, namely the ontological theory of multiple languages.

1 0 0 0 OA 視覚の因果説

著者
前田 高弘
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.103-109, 2002-03-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
25

知覚の因果説は知覚に関心を持つ哲学者や心理学者によって広く受け容れられているように見えるが, 反対する者もいる。哲学的テーゼに反対者は付き物であるから, そのことは不思議ではないとも言えようが, 私にはやや奇妙に思えるところがある。知覚の因果説は基本的に知覚の概念に関するものであるが, 事実として知覚が生起するための因果的機構が科学的にある程度説明され, かつ反因果論者たちもその種の因果的機構の存在を否定するわけではなく, さらに一般常識も知覚の因果説的な捉え方を抵抗なく受け容れることができる (あるいは現に受け容れている) ように見えるのに, なぜ反因果論者たちは, 知覚の概念そのものは因果説的ではない (あるいは因果説的に捉えるべきではない) と敢えて主張する必要があるのか。実際, 私にはその理由が見当たらない。むしろ, 知覚の概念は因果説的であると考える方が理に適っているように思われる。そのことを論ずるのが本稿の目的であるが, 以下の議論は専ら視覚を問題にしている。反因果論者たちはすべての感覚様相について因果説を批判しているわけではなく (cf. [9] p.295), 批判の対象になるのは基本的に視覚か聴覚であり, 私が視覚の因果説を擁護するために持ち出す論点が視覚以外にも当てはまるわけではないからである。いずれにせよ, 私がここで論じたいことは, 敢えて控えめに言えぼ, 少なくとも視覚に関して因果説を拒否すべき理由は見当たらないということである.
著者
福井 謙一
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.27-33, 2001-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
5

信念や知識といった命題態度を表現する文の意味論は, 言語哲学の中心的問題のひとつである.この問題をめぐっては, 命題態度の対象を, 何らかの抽象的対象 (とりわけ命題) と見なす立場と, それを文や発話といった何らかの言語的対象であると考える立場が存在するが, 『意味と必然性』におけるカルナップの信念文の分析は, 後者の系統に属する先駆的な業績である.本稿は, この分析に内在する, ある論理的・意味論的な問題点を明らかにし, それを解決することを試みる.カルナップの分析は, 信念文に限定され, 他の命題態度は扱われていないため, 本稿でも信念文に議論を限定するが, 以下で指摘される問題点は, カルナップの信念文の分析と同様の観点からの, 他の命題態度の分析にもあてはまる.
著者
松王 政浩
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.25-30, 1999-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
16

時間に関する哲学的議論の一つの大きな焦点は, 果たして時間に関する「事実」がテンスを含んでいるのか, 含んでいないのかという問題にある。(これはマクタガートが時間の非実在性を証明する上で用いたA系列の時間とB系列の時間の区分注1において, いずれが時間にとってより本質的であるか, と問うことに相当する。) この問題についてA.N.プライアはかつて, 以下に述べるような, テンス論を擁護するある有名な主張を述べた。その後, この主張をめぐってテンス論者, 非テンス論者の間で賛否の議論が展開されたが, これまでの議論を見る限りでは, テンス論者の提示した擁護論にはどれも非テンス論者の議論を退けるほど強力なものはなく, 非テンス論者の議論によってほぼプライアの示した問題には決着がつけられたような感がある。この非テンス論の核になる議論は, D.H.メラーが後にM.マクベスの批判を受けて修正を加えた議論である。本稿では, いかにも決定的解答を与えたかのように見えるこのメラーの議論の中で見落とされていると思われる点を明らかにし, この議論によっては非テンス論者は, いまだプライアの問題への十分な解答を与えることができないことを示し出したいと思う。
著者
原 塑
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.31-37, 1999-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
2

日常生活で出会う個々の人々に対して本当は心を持つ者ではないのではないかと疑うことは困難である。人は, 他者から話しかけられれば, たとえそれが未知の人であっても, その人が心を持っていることを疑うことなく返答するだろう。しかし, 他者が日常生活で示す姿は決して一様ではない。親しく思っていた友人が, 理解を越えた言動を唐突にし始めることもある。この場合, 他者の心についての知は脅かされる。自分の心についてはよく知っているが, 他者の心について知っていることは少なく, 不確実であると感じられるのである。自分の心の知と他者の心の知の間に認められる非対称性は, 次のように考えればうまく説明できるかもしれない。人は自分の心と外界の事物は直接見て取ることができる。しかし, 他者の心は, 間接的に, つまりその人の表情や振る舞いを媒介としてのみ知りうる (これを物と心の認識論的構図と呼ぼう)。しかし, この見方では, 他者の心が存在することの疑い難さを適切に捉えることは困難である。物と心の認識論的構図は, むしろ, 現われている他者身体の背後に心が隠れ潜んでいるのは本当だろうかという疑問, つまり他者の心についての懐疑と親和的である。したがって, 物と心の認識論的構図を前提とする場合, 他者の心についての懐疑論を導かないように, 人が他者の心を知る仕組みを説明することが重要である。類推説やリップスの自己投入論はこのことを試みた。しかし, 周知のように, 両者とも理論的困難と直面したのであり, 受け入れ可能ではない。フッサールとハイデガーは, これらの先行研究を批判することで, 物と心の認識論的構図を導く伝統的意識概念を清算しようとした。物と心の認識論的構図はフッサールにおいて心の理論を作る場面に限定して採用されるが, ハイデガーによって最終的に廃棄される。この歴史的経緯を踏まえ, 本稿は, フッサールの他我構成論とハイデガーの共同現存在論を検討する。両者の試みから, 心とは何か, また他者とは何かという問いに答えを得ることが目標となる。
著者
丸田 健
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.77-82, 1998-03-31 (Released:2010-05-07)
参考文献数
7

『探究』の感覚日記の議論 (§258)(1) は, 所謂私的言語論の中核をなす重要な議論である。これは, 公的に観察可能な何ものからも独立に生起する感覚の記録を付ける, という設定になっているのだが, 伝統的には, 〈このような日記の記録には意味がない〉とされてきた。なぜならば, この記録に使用される記号には, 用法の正しさの独立の基準-これは, ここでは, そのような感覚が確かに生じたのかどうかについて, 記録とは独立に, 記録の正しさを保証する基準と同じであるが-このような基準が欠けているからである。ヴィトゲンシュタインが書き残した様々な覚書を, 書かれた意図や時期や文脈を考えずに取り出してきて繋ぎ合わせると, 一見, 上の解釈が妥当であるかに見える。ヴィトゲンシュタインは, 文法規則が意味を決めるのであり(2), 基準が語に意味を与えるのであり(3), したがって感覚の生起のような内的状態にも基準が必要であり (cf.§580), また私的基準は基準たりえない (cf.§202) と述べているではないか-と, このように考えられるのだ。感覚日記で考えられている感覚は, まさに公的基準を持たないものである。したがって, そのような感覚の日記は, 無意味だとされるのである。しかし, 現実にこのような日記を付ける人に遭遇すれば, 我々は彼の記録を無意味だと見做すだろうか? ヴィトゲンシュタインが実際そう考えていたのなら, 彼は我々を規則の檻に閉じ込めてしまうような狭隘な言語観を持っていたのだとして, 私はヴィトゲンシュタインは誤っていると言いたい。しかし彼は果たして, 本当に感覚日記が無意味だと主張したのだろうか? 本稿では, 論点を次の三つに絞ることで, 伝統的解釈の再考を試みる。1) 私的言語の可能性と感覚日記の可能性は, 分けて論じられるべきである。2) 記録の正しさを記録とは独立に保証する基準の欠如, という理由によっては, 感覚日記の記録を無意味とすることは容易ではない。3) 感覚日記の議論の論点は, 正当化の欠如に対する批判ではなく, むしろ正当化を要求するような或る内的体験の語り方に向けられた批判であった。以上の三点を, それぞれ以下の三つの節で扱って行くことにする。
著者
菅沼 聡
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.89-95, 1998-03-31 (Released:2010-01-20)
参考文献数
24

我々が経験科学の成果から学んだ (ないしは推測した) ことの一つに, 我々人類は全宇宙で共通に成り立っている自然法則の範囲内で生まれたものであり, またその人類の生まれ育った地球は, 数千億以上もの銀河の中のごくありふれた一つの中の, 数千億もの恒星のうちのこれまたごくありふれた一つの回りをまわる小さな天体にすぎない, ということがある。いわゆるコペルニクス的転回以後の科学の根底に流れるこのような自己相対化, 平等原理を推し進めれば, この広い宇宙に我々人類だけしか知的生命が存在しないと考えることはかなり不自然ではないか, という疑問が容易に浮かんでくる。実際, 宇宙人, つまり地球外の知的生命 (Extraterrestrial Intelligence, ETI) が存在するのではないか, とする発想の根底にあったのは, 基本的には常にこの疑問であった(1)。もっとも, 従来はこの発想は単なる空想の域を出ることはなかった。何しろ検証も反証もしようがなかったのであるから。だが, ここ数十年来の電波天文学をはじめとするさまざまな科学技術の発展によって, この発想は近年にわかに現実的な様相を帯びてきた。実際今日多くの科学者たちが, 地球外のどこかに知的生命が存在するか, もし存在するならどのような方法で彼らと交信したらよいかという問いをモチーフに, きわめて真面目に宇宙人探しを行いだしている。科学者たちによるこのような真面目な宇宙人探し-それがSETI (Search for Extraterrestrial Intelligence=地球外知的生命の探査) である。1960年前後に一部の天文学者たちによって始められたSETIは, その後さまざまな活動がなされることによって, 現在では科学研究としての市民権を得たと言っても言い過ぎではない(2)。1990年代に入ってからの諸動向(3)により, SETIはいよいよ多くの注目を浴びてきている。もちろん根強い懐疑論者もいるが, いまや科学界においてSETIが理論と実践の両面にわたって盛り上がっていることは間違いない。それは, 巷にあふれている「宇宙人もの」や「UFOもの」のような明らかに実証性を欠いた擬似科学とは厳密に区別されるべき, 真剣に検討されるべきテーマなのである(4)。だがその一方で, 哲学者たちのSETIに対する関心は相対的にきわめて低い状況にある。これは, SETIがさまざまな哲学的含蓄を含んでいることを考えると, 奇妙なことである。もちろん, ETIは存在しないかもしれないし, 少なくとも現在ETIの存在確認は全くなされていない。だが, 多くの科学者が考えているように将来におけるその存在確認の可能性が無視し得ない以上, 我々哲学者は前もって, 実際のETIに関する何のデータもない今だからこそむしろできるような一般的問題に関する議論の叩き台としての大枠を作っておくべきであろう。そこで本稿で我々は, それをとりわけ, 実際にETIの存在が見出だされた際に我々人類に起こり得る哲学的インパクトについてに限って試みる。そしてそれを通して, SETIがいかに重大な哲学的意義を含んでいるかを明らかにしたい。
著者
小林 道夫
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.9-15, 1997-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
7

デカルトは現在の (特に英米系の) 心の哲学においてはたいへん奇妙な扱いを受けている。デカルトの心の哲学の第一の特質はその二元論であるが (ただし, あとで触れるように二元論に尽きるのではない), この二元論のゆえにデカルトの哲学は, しばしば, 反科学の扱いをうけるのである。J.サールは最近の著書で, 現代の心の哲学での (科学主義的的) 唯物論の動向を難じて, その要因の筆頭に,「 (人々は) デカルトの二元論に陥るのが怖いのだ」という点を挙げている。現代の科学の時代にあって, 実在とはすべて客観的なものであり究極的には物理的存在であると思われるにかかわらず, 物理的存在以外に心的実体なるものを認めるデカルトの二元論に同調することは, 科学的知性を脅かす不条理を引き受けることだと見られるというのである(1)。しかし, 改めていうまでもなく, 自然科学の対象から心的性質や目的論的な概念を一切除外して, 近現代の数理科学を方向づけたのは他ならぬデカルトである。彼はまた, 動物や人間の身体をも機械論的に説明しようとして近代の生理学の見地をも設定したのである (デカルトの生理学的な「人間論」はのちの唯物論的な「人間機械論」の一つの有力なソースであった)。デカルトにとっては自分の哲学こそが, 人間の身体をも含む自然全体の科学的探究を推進するものであったのである。しかし, 問題はもちろん, デカルトが科学的探究の対象となる物理的生理学的対象以外に, それとは独立のものとして思惟や意志という心的存在を認めたことである。現代の言葉でいえば, デカルトは, 科学的生理学的探究を推進しながら, それとは独立に「常識心理学」の領域があるとはっきりと認めたということになる。私見によれば, 現代の心の哲学の状況に身を置いて, いわゆる「消去的唯物論」に与するのでなしに, 自然や人間の身体に対する科学的生理学的探究の見地を堅持しながら, 常識心理学が表す心的性質や心的存在に独自の身分を認める方向の哲学を立てようとした場合には, デカルトの心の哲学はなおも極めて有力で説得的な見地と評価しうる。以下で私は, 現代の心の哲学の問題, とくに「心的性質の実在性」や「心的因果性」の問題を念頭におき,「デカルトの心の哲学」からはそれらの問題に対してどのような解答が与えられるか, という点を考えてみたい。
著者
中野 伸二
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.57-62, 1995-03-31 (Released:2009-07-23)
参考文献数
8

ライプニッツの「可能性」概念には少なくとも2つの意味(1)を見出すことができる。そして, この2つの意味の差異は, とりわけ形而上学的著作と論理学的著作の間で顕在化してくるように思われる。それら2つの意味については, ライプニッツが, 混乱して使用したのだという解釈も見られるが, ライプニッツ自身は次のように述べている。「個体的なもの, もしくは偶然的真理の可能性は, それらの概念の中に, それらの原因の可能性, 即ち神の自由決定の可能性を含んでいるからである。この点で, それらのものの可能性は, 種や永久真理のような『神の意志を仮定しないで, 専ら神の悟性に依存しているもの』の可能性とは異なっている」(G. II. 51. アルノー宛書簡)。ここからも明らかなように, 彼は, その2つの可能性概念の差異について, 十分に意識していた。そして, このことは論理学的著作の中でも次のように言及されている。「現実に存在するものは, 存在するもの即ち可能なものであって, その上に何ものかである。しかし, すべてを考慮しても, 現実存在するものにおいて, 存在のある度合以外の何が考えられるか私には分からない。…しかし私は, 『あるものが現実に存在すること』が可能であるということ, 即ち, 可能的現実存在をいおうとは思わない。これは本質自体にほかならないからである。…従って私は, 現実存在するものは, 最も多くのものと両立する存在, 即ち最大に可能な存在であると考える」(C. 376. “Generales Inquisitiones de Analysi Notionum et Veritatum”.以下『一般的研究』と略す.§73).従って, これらの可能性概念は, それぞれの分野で異なった意味で用いられているばかりでなく, 後により詳細に検討するように, 非常に重要な哲学的役割を担わされていると考えられる。そこで, ここでは, こうした可能性概念の二重性の背後に彼がどのような問題意識を抱いていたのか, あるいはまた, このような二重性を認めることにどのような哲学的な意図が込められていたのかについて考えてみたいと思う。そのためにまず, 可能性という概念がそれぞれの分野でどの様な意味で用いられていたのかを見てみよう。
著者
美濃 正
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.19, no.4, pp.161-166, 1990-03-25 (Released:2010-01-20)
参考文献数
12

私は, 確信のない実在論者であり, 科学的実在論者であるので, 本稿(1)では, 科学的実在論を擁護するためには, どのような方針に基づいて, どのような問題に答えねばならないか, という点についての自分なりの見通しを述べることにしたい。言うまでもないことであろうが, 一般に, 実在論-反実在論の対立について論じる場合には, つぎの二つの問題を区別することが肝要である。(1) 存在ないし真理の本性は何か, という問題と,(2) 何が存在し, 何が真理であるのか, また, われわれはある対象の存在主張ないしある言明の真理の主張に対しどのような認識論的根拠をもつか, という問題である。私の見るところでは, 科学的実在論は, 主として第二の問題のコンテキストで論じられるべき事柄である。しかしながら最近, 第一の問題のコンテキストにおいて, 有力な反実在論の論陣が張られているので, はじめにこの立場に対して簡単にコメントし, 第一の問題, つまり存在ないし真理の本性をめぐる問題にどのような答えが与えられるかに関わらず, 第二の問題が重要な哲学的問題として残ることを確認しておきたい。最近の有力な反実在論の立場と呼んだのは, 言うまでもなく, ダメット-パットナムによって展開されている立場の事である。
著者
森岡 正博
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.97-102, 1989-03-25 (Released:2010-11-24)
参考文献数
6

本論文では, 拙論「反事実問題と実現条件」(1)で導入した「反事実問題」という概念について, さらに厳密な分析を行なう。西洋哲学の現象主義は, 反事実条件法については緻密な議論を行なっているが, 以下に議論するような「反事実問題」という概念については, 満足な分析を行なっているとは言い難い。現在直接に経験されていないものとしての「反事実問題」の厳密な概念分析は, この点で, 哲学と自然科学方法論に対して地味ではあるが着実な寄与を成し得ると考える。さて, 反事実問題とは次のものであった。(2)(1) xの存在および状態が現在直接に経験されていない。(2) xの存在および状態は原理的に経験可能である。(3) xの存在および状態が経験されるための (暫定的な) 諸条件を十分条件の形で記述できる。この3つの要件を満たすとき, またそのときに限って, x」あるいは「xの存在や状態についての命題」は「反事実問題」である。たとえば現在日本に住んでいる私にとって,「南極の氷は, (1) 現在直接に経験されていない, (2) 原理的には経験可能である, (3) それを経験するためには「明日飛行機に乗って南極へ行く」という条件が満たされればよい,という三以上つの要件を満たているので, 反事実問題である。ところで,「南極の氷」という概念は, 「南極」という概念と「氷」という概念が結合してできたものとみなすことができる。このとき, 前者の「南極」という概念は, それ自体すでにひとつの反事実問題である。では後者の「氷」は何か。これもまた目の前に現象(3)としてあらわれていないような氷, すなわち反事実問題である。ということは,「南極の氷」という概念は,「南極」という反事実問題と「氷」という反事実問題が, 結合して成立した概念であることになる。このようにいくつかの概念が複合して成立する反事実問題の構造と意味について, 以下探求してゆくことにしたい。いま, この複合を仮に「結合」と呼んだが, 本論文ではそれを「同定」関係としてとらえたい。すなわち,「南極の氷」とは,「氷」が「南極」に同定されて成立した概念であるというふうに。というのも, 「結合」ということばを使うと, どうしても二つのことばが文章構成上単に並列しているという事態を想定してしまうのだが, 以下に詳しく述べる反事実問題の構造は, それだけにとどまらないさらに独特の関係性を構成しているからである。そこで,「結合」とは一線を画した概念をこの構造の描写のために導入し, その性質を調べることが必要となってくる。私たちはそのような概念として, 〈少なくとも何かの点において同一性を措定する〉という意味をもつところの,「同定する」という概念を採用し, この構造に適用することにした。さて, 複合的な反事実問題には, (1) 反事実問題を反事実問題の場所に同定することで成立するものと, (2) 反事実問題を現象に同定することで成立するもの, の二種類がある。この二種類を順番に検討してゆく。
著者
和田 和行
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.18, no.3, pp.123-128, 1987-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
9

様相論理学, 或は哲学においては, 事態 (proposition), 個体概念 (individual concept), 可能的世界 (possible world) というような概念が問題とされる。通常の公理体系, 或はモデル理論においては, これらの概念, 特に事態や可能的世界は, 基本的 (primitive) なものとして扱われる。しかしこのような方法をとらずに, 他の概念を基本的なものと考え, それらに基づいて上記の概念に関する理論を構成すること, つまり, これらの概念を定義し, それから導かれる定理をのべることも, これらの概念の解明に役立つと思われる。そこでこの論文においては, 以下に述べる (公理的) 性質論PTCEにおいて, 性質, 必然性等の様相的概念を基本的なものとして, 事態, 完全個体概念についての理論を構成する。 (可能的世界に関しては, 別の論文に譲る。) なお, この論文における完全個体概念の定義は, 可能的世界のそれと同様, ライプニッツの考えに基づいている。従ってこれらに関する理論は, ライプニッツ哲学の再構成と見なすこともできるだろう。
著者
吉田 夏彦
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.16, no.1-2, pp.19-22, 1982-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
2
被引用文献数
1