- 著者
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原 塑
- 出版者
- 科学基礎論学会
- 雑誌
- 科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
- 巻号頁・発行日
- vol.27, no.1, pp.31-37, 1999-12-25 (Released:2009-07-23)
- 参考文献数
- 2
日常生活で出会う個々の人々に対して本当は心を持つ者ではないのではないかと疑うことは困難である。人は, 他者から話しかけられれば, たとえそれが未知の人であっても, その人が心を持っていることを疑うことなく返答するだろう。しかし, 他者が日常生活で示す姿は決して一様ではない。親しく思っていた友人が, 理解を越えた言動を唐突にし始めることもある。この場合, 他者の心についての知は脅かされる。自分の心についてはよく知っているが, 他者の心について知っていることは少なく, 不確実であると感じられるのである。自分の心の知と他者の心の知の間に認められる非対称性は, 次のように考えればうまく説明できるかもしれない。人は自分の心と外界の事物は直接見て取ることができる。しかし, 他者の心は, 間接的に, つまりその人の表情や振る舞いを媒介としてのみ知りうる (これを物と心の認識論的構図と呼ぼう)。しかし, この見方では, 他者の心が存在することの疑い難さを適切に捉えることは困難である。物と心の認識論的構図は, むしろ, 現われている他者身体の背後に心が隠れ潜んでいるのは本当だろうかという疑問, つまり他者の心についての懐疑と親和的である。したがって, 物と心の認識論的構図を前提とする場合, 他者の心についての懐疑論を導かないように, 人が他者の心を知る仕組みを説明することが重要である。類推説やリップスの自己投入論はこのことを試みた。しかし, 周知のように, 両者とも理論的困難と直面したのであり, 受け入れ可能ではない。フッサールとハイデガーは, これらの先行研究を批判することで, 物と心の認識論的構図を導く伝統的意識概念を清算しようとした。物と心の認識論的構図はフッサールにおいて心の理論を作る場面に限定して採用されるが, ハイデガーによって最終的に廃棄される。この歴史的経緯を踏まえ, 本稿は, フッサールの他我構成論とハイデガーの共同現存在論を検討する。両者の試みから, 心とは何か, また他者とは何かという問いに答えを得ることが目標となる。