著者
江藤 祥平
出版者
上智大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

本年度の主な実績は、著書『近代立憲主義と他者』(岩波書店、2018)を刊行したところにある。これは過去2年の研究成果の集大成をなすものである。従来の憲法学は、国家権力を「他者」とみなし、「個人」を確立することにもっとも注力してきた。それが人権論の業績であり、この点についてこれまでの憲法学の方向性は間違っていなかったものといえる。他方、国家権力をわがものとして引き受けて論じる傾向は少なかったようにみえる。「抵抗の憲法学」と揶揄されることもあるが、それも全く理由のないことではない。本著書の意義は、ひとえに国家権力そのものを国民が引き受けることの意味を突き詰めて考えたところにある。つまり、国家権力を他者と遠ざけるのではなく、自らそれを引き受けることが、憲法の想定する国民主権に合致するという見方である。その際に用いられたのが、現象学という方法である。物事の本質を見極めようとする現象学の方法は、従来、憲法学で論じられることはほとんどなかった。むしろ政治哲学を重視して、既存の概念の正当化を試みてきたからである。しかし、政治哲学による正当化は、物事の本質、人間の実存の在り方を前提とするだけで、直に捉えることはできない。そこで現象学によって、国家の、人間の本質に迫る必要が生じたわけである。そこから見えてきたのが、人間は自己という観念の内にすでに内なる他者を抱え込んでいるという現象である。これは人間は一人では生きられないという類の議論ではない。およそ人間の本来的な生き方を際立たせようとするなら、不可避的に自己の内なる他者と向き合いざるをえないということである。そこから見えてきた憲法の姿は、これまでのものとはずいぶん異なるものである。一言でいえば、それは無関心でいられない形で、よりよき統治形態を求めて議論する市民の姿である。さらなる詳細は、本著に譲るほかない。
著者
高橋 駿仁
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.92, no.1, pp.105-129, 2018

<p>本稿の目的は、フランスの思想家ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネルの神話論を検討し、その特異な理論が可能となった文脈を明らかにすることである。彼が自らの思想を大きく展開した十七世紀末においては、神話はただの誤謬とみられることが多く、学問の対象となることはあまりなかった。そのような時代において、彼は神話を哲学の産物だとし、積極的解釈をした。フォントネルは常に進歩し続ける「人間精神」とそれが拠り所とする「人間本性」とを想定し、既知のものから未知のものを想像するという本性を人間に想定し、神話もその原理に従って作られたと考えた。フォントネルがこのように神話を研究対象としたのは、それが人間についての理解を深めてくれると考えたからであった。フォントネルの思想からは神が追い出されており、神がすでに創造した世界における人間精神の活動を、彼は生涯一貫して追求していた。フォントネルの思想は人間のための思想であり、それは十七世紀のリベルタン的な思想と十八世紀の啓蒙思想をつなぐ重要な役割を果たしていた。</p>
著者
牧野 広義
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.67-81, 1976-04-01
著者
川村 丈志
出版者
一般社団法人 情報システム学会
雑誌
情報システム学会 全国大会論文集 第13回全国大会・研究発表大会論文集 (ISSN:24339318)
巻号頁・発行日
pp.d14, 2017 (Released:2019-07-17)

基礎情報学[1]に於けるHACS/心的システムは, 心理学・精神医学・AI開発領野に適応することで, 哲学に於いて は永遠に破棄されたかにみえても今なお我々/社会とアプリオリに住まい続ける<思考機械/客観世界:二元論> モデルを蕩揺し, さらに<身体行為/環世界:意識の自然[2]>モデルへと, その礎の学際的・実践的転回が可能で あろう.と同時に各学域から共有可能な理論的・事例的接続の磁場も不可欠である. 本研究者は大黒岳彦の「世界身体」[3], 及びフリードリヒ・キットラーの「書き込みのシステム」[4]を, 前者は <身体行為/環世界:基盤>, 後者は<観察者/記述者:機序>, 各概念の触媒としてそこに措定する. さらに意識の萌芽と変遷を学際的に遡り, 別の仕方で, 再プロッティングすることで, 弁証法的に作業仮説が検 証され鍵概念が解像度を高めてレンダリングされる.これらを「新実在論」の磁場[5]で覚醒させることで, 諸概念 は自ずと共鳴し, 訴求力ある<こころ2.0>パラダイムは創発されるであろう.本発表はその概要の素描である.
著者
服部 裕幸
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1977, no.27, pp.172-184, 1977-05-01 (Released:2009-07-23)

D・デーヴィドソンはその一連の意味論研究の過程で「行為文の論理形式」という論文を発表し、そこにおいて注目すべき見解を提出している。その見解とは、行為についての文は個物 (particular) としての事件 (event) の存在に言及するものと解釈されるべきであるというものである。これは、単に言語学的な見地からのみならず、哲学問題としての行為論に対する意義という見地からも、きわめて重要なものであると思われる。本稿では、彼の見解の批判的な検討を通じてこの点を明らかにし、そのことにより行為の問題に多少なりとも光を投げかけたい。
著者
瀧川 裕英
出版者
東京大学出版会
雑誌
UP (ISSN:09133291)
巻号頁・発行日
vol.46, no.10, pp.14-18, 2017-10
著者
松田 素二
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.205-226, 1997

文化相対主義は, 異文化と向き合うための強力な実践的行動指針を私たちに提供してきた。それは, 異文化接触の現場において, 私たちが「非人間的」であると感じる慣習に直面しても, それを無条件に容認すべきという不干渉の哲学であり, 異文化の慣習に直面した個人は, 理性的であるならば受容的に反応すべきという寛容の道徳としてあった。この寛容と不干渉の道徳律を支えてるのが, 共約不可能性のテーゼであった。自文化と異文化のあいだに, 普遍的心性とか人間本性という絶対項を設定することなく, 二つの文化を共約することは不可能なのだろうか。これに対して, 「可能である」という実践をしていたのが, 日本の初期アフリカニストたちであった。彼らは, 異なった者同士がその垣根をそのままにして, その間を跳躍して通交できるという実感をもった。彼らの「実感による通交」論は, いっけん極めて粗暴な議論にみえる。それは丸山真男が批判した, 日本文化の伝統に付随した「合理的ロゴスへの直反発と感覚的なるものへの傾斜」そのものだからだ。しかしながらこうした「実感信仰批判」にもかかわらず, 実感的異文化通交の可能性は指摘できる。一つは, 共約不可能性から出発しても両者の会話を促進することができるという認識である。しかしそれはたんに, 切断された二つの世界の住人が, 相互に語りの主体となって対話を積み重ねる過程にとどまらない。初期アフリカニストが強調したのは, 二つの世界の住人が生活の構えを共有しながら, 日常的思考の共鳴のなかで実感的に通交していくことなのである。こうした実感による異文化通交の認識を語ることは, じつは強大な近代の認識支配の様式とその実践過程に対する, 日常からの微細な抵抗の戦術に他ならないことも最後に指摘される。
著者
平田 仁胤
出版者
岡山大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

本研究では、暗黙のうちに前提とされてきた「学習=個の作業」あるいは脳内にある表象を操作するといった図式を問い直し、学習のメカニズムに状況や他者が不可欠であることを指摘した状況的学習論を批判的に検討することによって、より具体的な学習論を提示することにある。これまで、ヴィゴツキー学派の1人であるユーリア・エンゲストロームの活動理論の検討、そして、それとウィトゲンシュタイン哲学との接続を試みてきた。その結果、異なる状況・文脈においても言語が通用するという原初的信頼の感覚に基づいて、新しい物語を紡ぎだすことで再組織化がなされること、教師の権力・権威概念がその過程において重要であることを明らかにした。平成30年度は、教師の権力・権威に基づく再組織化の過程について、ウィトゲンシュタイン哲学における世界像概念に依拠することによって、さらに精緻化することを試みた。英国ウィトゲンシュタイン学会では共同発表者の1人として”How to Alter Your Worldview: A Wittgensteinian Approach to Education”を発表し、また教育思想史学会のシンポジウム「教育学としてのウィトゲンシュタイン研究――現在の到達点と今後の展開――」では、報告者の1人として「どこからでもない眺め/どこにでもある風景――ウィトゲンシュタインと教育学についての覚書――」の報告を行った。これら2つの学会発表およびシンポジウム報告は現段階では論文化されていないものの、そこで得られた知見の一部を、坂越正樹監修、丸山恭司・山名淳編著『教育的関係の解釈学』(東信堂)の第12章「教育的関係の存立条件に対するルーマン・ウィトゲンシュタイン的アプローチ」として論文化した。