著者
隋 藝
出版者
一般社団法人中国研究所
雑誌
中国研究月報 (ISSN:09104348)
巻号頁・発行日
vol.69, no.11, pp.1-21, 2015-11-25

1948年11月から1950年10月にかけて,遼寧省における反共産党勢力の取り締まりなどの大衆工作は,従来の階級闘争の形では展開せず,中国共産党の公安部門がリードし,反対勢力を排除したのちに民衆に対する宣伝を行う構造となった。こうした従来の共産革命と離れた大衆工作は,闘争による社会の混乱を避けたが,革命原理に基づいた大衆運動からのエネルギーの獲得や,古い社会関係の打破と新たな階級関係の再編も容易にはできなくなり,民衆に対する中共のイデオロギー操作も一層難しくなった。本稿では,遼寧省の瀋陽市を中心に大衆工作を検討して,中共による平時建設のための都市社会の再編と革命原理の矛盾を浮き彫りにする。
著者
浜口 允子
出版者
一般社団法人中国研究所
雑誌
中国研究月報 (ISSN:09104348)
巻号頁・発行日
vol.69, no.9, pp.1-18, 2015-09-25

本稿は,日中戦争期に,華北政権がいかなる地方統治を行ったか,それは基層社会にどのような影響をもたらしたかを主たる課題として問うなかで,とくに物流と交易の仕組みに着目し,河北省で1941年から始められた交易場制度について考察したものである。そしてそれが,旧来の包税制度を廃止し,取引税を直接徴収するための措置と関わるものであったことを明らかにした。それは,政権による財政基盤の強化策が物流の場に及んだものであり,その過程では統治の末端を担う新たな人材をも生みだしたのであった。この変化はその後の社会にも影響を与えたと考えられる。
著者
小林 善文
出版者
神戸女子大学史学会
雑誌
神女大史学 (ISSN:09127658)
巻号頁・発行日
no.32, pp.22-41, 2015-11
著者
小林 善文
出版者
神戸女子大学史学会
雑誌
神女大史学 (ISSN:09127658)
巻号頁・発行日
no.32, pp.22-41, 2015-11
著者
朱 鵬
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.41-70, 2015-02

光緒二十年(1894)は,中国にとって特別に意味のある年であった。それは,中国にとって,日清戦争の勃発によってもたらされた外部からの刺激ばかりではなく,わずか数年の間に,中国の社会文化の深層に大きな変化がおこったからである。その影響は深遠であり,例えば,光緒三十一年(1905)科挙制度の廃止によって,清朝の統治をささえる政治理念の土台が動揺し,結局,社会体制の崩壊につながっていたことは,その一つの重要な出来事である。 本稿でとりあげる「提督学政」とは,清朝の地方学務に携わる高等官僚である。科挙制度の社会基礎を維持するのに重要な役割を果たしており,学校試の統括,本試験郷試への人材推薦,及び地方学問風紀の保護など,彼らの動向は,科挙制度のバロメーターとして,そのときの社会状況を反映している。本稿の目的は,現存する提督学政の自筆史料を解読し,地域学務の実態を整理しながら,科挙試験廃止直前までの科挙制度を確認することである。この自筆史料というのは,光緒二十年貴州学政に就任した嚴修の『蟫香館使黔日記』である。そこには貴州学政を勤めた嚴修の毎日が記録され,学政の業務日記として極めて貴重である。 しかし,学政に関する研究の少ないなか,嚴修のこの日記も民国期に刊行されて以来,貴重であることを認識されながらも,ほとんど図書館の書架に収蔵されたままになってきた。すでに過去のものとなった科挙に対する関心の薄さと,史料の整理と解読に時間がかかることがその原因であろう。本稿は,『欽定大清會典則例』や『欽定学政全書』といった清朝の法令集をも対照しながら,学政の待遇や院・歳試など幾つかの点を通じて,嚴修の貴州学政業務を確認し,制度廃止直前であっても地方では,その制度が従来とかわりなく厳格に実施されていた実態を明らかにしたい。科挙の廃止と西洋的な教育の導入は,中国教育制度史上において,まさに晴天の霹靂であった。
著者
朱 鵬
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.41-70, 2015-02

光緒二十年(1894)は,中国にとって特別に意味のある年であった。それは,中国にとって,日清戦争の勃発によってもたらされた外部からの刺激ばかりではなく,わずか数年の間に,中国の社会文化の深層に大きな変化がおこったからである。その影響は深遠であり,例えば,光緒三十一年(1905)科挙制度の廃止によって,清朝の統治をささえる政治理念の土台が動揺し,結局,社会体制の崩壊につながっていたことは,その一つの重要な出来事である。 本稿でとりあげる「提督学政」とは,清朝の地方学務に携わる高等官僚である。科挙制度の社会基礎を維持するのに重要な役割を果たしており,学校試の統括,本試験郷試への人材推薦,及び地方学問風紀の保護など,彼らの動向は,科挙制度のバロメーターとして,そのときの社会状況を反映している。本稿の目的は,現存する提督学政の自筆史料を解読し,地域学務の実態を整理しながら,科挙試験廃止直前までの科挙制度を確認することである。この自筆史料というのは,光緒二十年貴州学政に就任した嚴修の『蟫香館使黔日記』である。そこには貴州学政を勤めた嚴修の毎日が記録され,学政の業務日記として極めて貴重である。 しかし,学政に関する研究の少ないなか,嚴修のこの日記も民国期に刊行されて以来,貴重であることを認識されながらも,ほとんど図書館の書架に収蔵されたままになってきた。すでに過去のものとなった科挙に対する関心の薄さと,史料の整理と解読に時間がかかることがその原因であろう。本稿は,『欽定大清會典則例』や『欽定学政全書』といった清朝の法令集をも対照しながら,学政の待遇や院・歳試など幾つかの点を通じて,嚴修の貴州学政業務を確認し,制度廃止直前であっても地方では,その制度が従来とかわりなく厳格に実施されていた実態を明らかにしたい。科挙の廃止と西洋的な教育の導入は,中国教育制度史上において,まさに晴天の霹靂であった。