著者
齊藤 芳浩 サイトウ ヨシヒロ SAITO YOSHIHIRO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学法学論集 (ISSN:02863286)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.37-98, 2016-03

「人権」(les droits de l'homme ; human rights)という言葉は、「人間」(homme ; human)と「権利」(droit ; right)という二つの概念の組み合わせである。この「人間」という概念と「権利」という概念は、日常的な世界でも一般的な概念であるが、法学の世界においても基本的かつ基礎的な概念であることは言うまでもないであろう。ところで、もし基礎的な概念の把握が曖昧であるとするならば、その上に立つ法解釈や法理論も結局のところ、軟弱な地盤の上に建物を建てるのと同じく、脆弱なものになるであろう。それでは、この「人権」概念に関してはどうか。わが国の代表的概説書では、一般的に、人権とは、人間が人間であることから当然にもっている権利と捉えられている。しかし、人間が人間であるという理由でなぜ必然的に権利をもつのか、またその権利の性質・内容とはいかなるものなのか、という問いに対して、実に様々な見解があり、これといった共通見解があるわけではない。つまり、表面的なレベルでは比較的一致があっても、一段掘り下げると見解は各人各様な状態にあるということである。もちろん、人権という哲学的であり、価値判断を含む概念について、大多数が一致するような見解が成立することは、もともと無理であるし、かえって不健全であるという見方もできよう。ただ、そうだからといって、教科書的な人権概念把握で済ませ、そこから先を検討しようとしないという惰性的な在り方が良いとは思えない。もし、その各人の研究者の「人権」概念把握が何らかの確固とした理論に裏付けられたものであるというのなら、他の理論との優劣は別としてもその研究者の法理論自体は堅固なものであると評価できるだろう。しかし、もしそうでないのならば、その「人権」概念把握は実のところ曖昧なものであり、その基礎概念の上に構築している各人の法学の体系も脆弱性をもつものであるかもしれないということになる。ところで、それではどうしたら、確固とした人権概念の把握が可能になるのだろうか。そのためには、少なくとも、「人権」概念の構成要素である「人間」と「権利」という概念について、ある程度掘り下げた検討をする必要があるのではないだろうか。そうすると、この人権とは如何なるものであるのか、という問題の解を見つけるためには、法学においても、極端な法実証主義のような立場をとらないならば、まず、「人間」であるということはいったいどういうことであるのか、という問いに答える努力をする必要がある。つまり、人間の本質・本性を考究し、それを踏まえて議論を展開していく必要がある。そのときに、現代の多様な思想に加えて、この問題に関して多くの蓄積があり、古代からの長い歴史をもつ自然法論を少なくとも参照する必要はあるだろう。さらに、「人権」に含まれている「権利」という概念をどのように理解するべきか、という問いがある。そもそも「権利」という概念はいつ誰が考え出したものなのだろうか。この「権利」という概念は、現代の法学に馴染んだ者にとっては、存在して当たり前の概念のように思われ、そもそもそのような問いすら無意味なようにも思われるだろう。ところが、中世ヨーロッパの清貧論争を契機に、ウィリアム・オッカム(William of Ockham 一二八五頃‐一三四七または一三四九年)がこの「権利」概念を新たに創出したのであり、彼が従来「権利」という意味を含んでいなかったラテン語のjus(正・法)という語に「権利」の意味を付け加えるという「革新」をしたのではないか、という指摘がある。もしそうだとするならば、それは大変興味深いものである。なぜなら、現代人が当たり前で普遍的な存在であると考えていた「権利」が、実はある時代以前には存在していなかったのだとするなら、「権利」概念は普遍的なものでも必然的に必要なものでもないということになり、「権利」概念を相対化して考えることができるようになるからである。そして、そのような相対化によって、「権利」の性質・射程・限界等が明確化され、それが人権論を改めて考える際に役立つのではないかと思われる。 本稿の目的は、「人権」の要素の中の「権利」概念について、オッカムの議論を通じ、考察するということである。そこで、本稿では、まず、中世の清貧論争とはどのようなものであり、その論争の中でどのようなことが議論されたのかを確認し(第一章)、次に、オッカムが清貧論争を通じて、どのような所有権論、権利論を論じたかを見てゆく(第二章)。そして、以上を踏まえて、オッカムの所有権論、権利論の意義について簡潔に考察することとする(第三章)。それでは、清貧論争の経緯から論じて行こう。
著者
斉藤 了文 サイトウ ノリフミ Saito Norifumi
出版者
名古屋工業大学技術倫理研究会
雑誌
技術倫理研究 (ISSN:13494805)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.129-135, 2012

大石敏広『技術者倫理の現在』と比屋根均『技術の知と倫理』の二つの著書の批評を通じて,技術者倫理について考えていく. 3 つの方向で論じて行く. まず第一に,この 2 著の感想,もしくは概観を通じて,技術者倫理の研究の方向性について,そして各著作の論点の幾つかについて取り上げる. 第二に,新たな現代的事例に対して,新しい技術者倫理の著者たちは,どう応えるのだろうか.ここでは,東電の福島原発の吉田所長の事例を提示してみる. 第三に,補足的ではあるが,私自身このごろまた考えている技術論,技術の知識に関して,比屋根さんの論点から触発された論点や議論を提示してみたい.
著者
斉藤 悦子 川谷 旺未 サイトウ エツコ カワタニ アキミ Etsuko SAITO Akimi KAWATANI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.54-72, 2017-03-31

1860年、南北戦争開戦前夜のアメリカに幕末の日本から遣米使節団が訪れ、そのワシントン到着の様子はニューヨークの主要メディアでも大々的にとりあげられた。その中でもふんだんなイラスト付きで報じたハーパーズ・ウィークリー紙には、一般的な記事のほかにも、風刺漫画や漫談風の記事なども掲載された。本稿は1830年代からアメリカジャーナリズムの中でひとつのジャンルとして人気のあった、架空の「田舎者」的人物がなぜか歴史的瞬間に立ち会って親戚に見聞録の手紙を送る、というスタイルのコラムを訳出、注釈したものである。判読の難しいvernacularで書かれた時事放談を、まず判読して標準英語に直し、注をつけて日本語に訳出した。遣米使節団がニューヨークの庶民に向かってどのように伝えられたか、という資料として紹介したい。 On the Japanese Embassy's arrival in Washington in 1860, various media in New York responded with cover stories and feature articles. In the May 26th issue of Harper's Weekly, a vernacular parody, based on the "Major Jack Downing" letters created by Seba Smith in the 1830s, appeared as a nearly identical letter home written by Major Downing's nephew Benjamin. It is a Forrest Gump-ish account of a young lad suddenly chosen as the master of ceremony to receive the Foreign Embassy. This vernacular letter displays much of how the general public felt on their first contact with the Japanese. Since the vernacular style is difficult to encode and the text is full of political connotations specific to the eve of Civil War, it may be worthwhile to annotate and translate it into Japanese as a source for research on the Japanese Embassy of the Manei era in the late Edo period.
著者
齋藤 智子 佐藤 由美 Saitou Tomoko Satou Yumi サイトウ トモコ サトウ ユウミ
出版者
千葉看護学会
雑誌
千葉看護学会会誌 (ISSN:13448846)
巻号頁・発行日
vol.12, no.2, pp.8-14, 2006-12-30
被引用文献数
4

本研究は,介護支援専門員(以下CMとする)がケアマネジメントを行う上で感じる対応困難の実態を明らかにし,CMへの支援の方向性を検討することを目的とした。調査方法は,N県内の居宅介護支援事業所に勤務するCM693名を対象に,無記名の自記式アンケート調査を実施し,345名(回収率49.8%)からの回答を得た。対応困難の実態として,独自に作成した対応困難内容41項目について(1)対応困難と思う程度(2)実際に対応困難を感じた経験頻度について尋ねた。その結果,困難と思う内容として特に高かったのは虐待への対応,独居認知症者へのケアプラン立案であった。困難を感じた経験では,家族内の意見が不一致の際の意見調整が高かった。対応困難内容41項目を困難感の程度と困難経験の頻度との関係でみると,困難感・経験頻度とも高い項目,経験頻度は低く困難感は高い項目,困難感は低く経験頻度は高い項目,困難感・経験頻度とも低い項目に分類された。また,困難感の程度には,経験年数,基礎資格,以前の在宅療養支援経験の有無が関連している項目もあった。CMへの支援として,困難感・経験ともに高い項目は,CM全般に対する研修内容として優先的に取り上げていく,経験頻度は低く困難感は高い項目は,個別支援に重点を置いていくなど,対応困難の実態やCMの特性に合わせた支援内容・方法を検討していくことが必要であることが示唆された。The purposes of this study were to identify difficulties experienced by care managers in care management and to find ways to adequately support them. The anonymous self reporting questionnaire survey was conducted to 693 care managers in N prefecture. Forty one items of difficulties were extracted from the preceding research. The questionnaire asked the subjects to rate the degree of difficulty and frequency of their experience. The highest degree of difficulties they perceived were response to abuse cases and care plan designing for the demented living alone. In terms of frequency, many reported coordination of families with different and contrasting opinions. Forty one items were further grouped by degree and frequency into four; "high in both degree and frequency", "high in degree but low in frequency", "low in degree but high in frequency" and "low in both degree and frequency". We have to prioritize and plan our support of care managers based on the data we collected. It is important to train all care managers on the items of high degree of difficulty and frequency. Concerning items of high degree but low frequency, individual support of managers is recommended. It was also found to be critical to design adequate training, taking the care managers' professional experience into consideration since sense of difficulty was correlated with their years of experience, type of background qualification and previous experience in home care.