著者
倉 真一 Shinichi KURA 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.45-64, 2020-03-06

本稿は、保守系オピニオン誌『SAPIO』における2010 年代の外国人言説を分析したものである。分析の結果、明らかになった点は以下のとおりである。 第一に、2000 年代に現れた移民や外国人を管理する主体としてのネーションは、2010 年代に入っても「外国人参政権法案」や「ヘイトスピーチ」、「年間20 万人移民受け入れ構想」といった政治的争点が浮上するたびに、同誌上において再確認されていった。 第二に、2014 年の特集記事「移民と在日外国人」において、「移民国家ニッポン」というビジョンを実現する統治的主体として、移民や外国人を管理する主体としてのネーションは位置づけられた。外国人や移民が「日本的な価値観や美徳、文化や慣習」を受け入れる(=同化)客体として構築される一方、統治的主体としての「われわれ」=ネーションは、彼らを教導する「寛容な」主体として構築された。 第三に、移民や外国人を管理する主体としての潜在能力を発揮できない(移民や外国人を十分に客体化できない)事態に直面する時、「移民国家ニッポン」というビジョンは揺らぎ、それを実現すべき統治的主体としてのネーションの不安が惹起されることになる。2010 年代後半、特に2018 年の2 つの特集記事を通じて、さらに「移民国家ニッポン」というビジョンの揺らぎ、統治的主体の不全感や無能感へと進んでいった。その結果、特集記事での移民や外国人のイメージも、ポジティブとネガティブ両方を含むものから、外国人犯罪に象徴されるネガティブなイメージのみが前景化していった。 第四に、2010 年代の雑誌『SAPIO』における外国人言説は、同誌の創刊当初の外国人言説を特徴づけていた「混住社会ニッポン」というビジョンの揺らぎとその失効の過程と重なり合う。「移民国家ニッポン」というビジョンとその揺らぎは、『SAPIO』誌上における外国人言説の四半世紀を経た回帰としても把握できるものである。
著者
野﨑 秀正 川瀬 隆千 立元 真 後藤 大士 岩切 祥子 坂邉 夕子 岡本 憲和 Hidemasa NOSAKI Takayuki KAWASE Sin TATSUMOTO Hiroshi GOTO Shoko IWAKIRI Yuko SAKABE Norikazu OKAMOTO 宮崎公立大学人文学部 宮崎公立大学人文学部 宮崎大学 都城新生病院 いわきりこころのクリニック 細見クリニック カリタスの園 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities Miyazaki University Miyakonojo Shinsei Hospital Iwakiri Mental Care Clinic Hosomi Clinic
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.105-120, 2021-03-10

本研究では、子育て支援サービスを提供する公的相談機関に対する母親の援助要請に焦点を当て、母親の育児に対する感情(育児感情)と信念(母性愛信奉)が、援助要請態度を媒介して援助要請意図に影響を及ぼす一連のプロセスを示した仮説モデルを検証することを目的とした。宮崎市内及びその近郊にて就学前の幼児(3 歳以上)の育児に携わる母親1000名に調査協力を依頼した。質問紙が返送され、かつ回答に不備のなかった470 名の回答を分析対象とした。仮説モデルに従い共分散構造分析を行った結果、育児感情及び母性愛信奉から3 つの援助要請態度を媒介して援助要請意図に影響を及ぼすいくつかのプロセスが明らかになった。このうち、利益とコストの態度を媒介したプロセスについては、いずれも子どもにとっての利益とコストを媒介したパスが有意であり、母親自身にとっての利益とコストの態度を媒介したパスはいずれも有意ではなかった。これらの結果より、子育ての悩みに関する母親の公的相談機関に対する援助要請については、母親の精神状態の解決に動機づけられているというよりも、その原因となっている子どもの問題を解決させることに動機づけられていることが明らかになった。こうした結果は、公的相談機関に対する母親の援助要請促進を促すには、援助要請が子どもにもたらすポジティブな影響を強調することや子どもと担当職員間の良好な関係づくりなど、子どもに焦点を当てたアプローチが有効になることを示唆した。
著者
永松 敦 Atsushi NAGAMATSU 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.221-265, 2021-03-10

コロナ禍による大学の遠隔授業は、現在、社会問題化している。教員と学生、そして、学生同士が対面することがないまま2020 年度の前期授業は終了した。後期となり、やや対面授業の兆しが見えたものの、まだ全面的な解禁にはほど遠い状況である。こうした状況下で、オンラインによる教育・研究効果は得られないものか、を探るために、日本・中国・韓国と結びオンライン・シンポジウムを実施した。この発想はゼミ生による韓国、蔚山大学校の学生との交流から生まれたものだった。そこに、日中韓の研究者が集まり、壮大な「十五夜シンポジウム」へと発展していった。コロナ禍がなければ、到底、誕生しえないシンポジウムであり、将来の国際間の共同研究への道も開拓された。 現在、文部科学省が、対面授業が5 割未満の大学を公表する方針を打ち出していることが話題となっている。果たして、遠隔授業は、対面授業よりも効果は低いのだろうか。遠隔授業には対面授業にはない可能性を秘めているのではないのか、こうした視点から研究ノートとして実践例を書きとどめておくことにした。
著者
野﨑 秀正 川瀬 隆千 立元 真 後藤 大士 岩切 祥子 坂邉 夕子 岡本 憲和 Hidemasa NOSAKI Takayuki KAWASE Sin TATSUMOTO Hiroshi GOTO Shoko IWAKIRI Yuko SAKABE Norikazu OKAMOTO 宮崎公立大学人文学部 宮崎公立大学人文学部 宮崎大学 都城新生病院 いわきりこころのクリニック 細見クリニック カリタスの園 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities Miyazaki University Miyakonojo Shinsei Hospital Iwakiri Mental Care Clinic Hosomi Clinic
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.105-120, 2021-03-10

本研究では、子育て支援サービスを提供する公的相談機関に対する母親の援助要請に焦点を当て、母親の育児に対する感情(育児感情)と信念(母性愛信奉)が、援助要請態度を媒介して援助要請意図に影響を及ぼす一連のプロセスを示した仮説モデルを検証することを目的とした。宮崎市内及びその近郊にて就学前の幼児(3 歳以上)の育児に携わる母親1000名に調査協力を依頼した。質問紙が返送され、かつ回答に不備のなかった470 名の回答を分析対象とした。仮説モデルに従い共分散構造分析を行った結果、育児感情及び母性愛信奉から3 つの援助要請態度を媒介して援助要請意図に影響を及ぼすいくつかのプロセスが明らかになった。このうち、利益とコストの態度を媒介したプロセスについては、いずれも子どもにとっての利益とコストを媒介したパスが有意であり、母親自身にとっての利益とコストの態度を媒介したパスはいずれも有意ではなかった。これらの結果より、子育ての悩みに関する母親の公的相談機関に対する援助要請については、母親の精神状態の解決に動機づけられているというよりも、その原因となっている子どもの問題を解決させることに動機づけられていることが明らかになった。こうした結果は、公的相談機関に対する母親の援助要請促進を促すには、援助要請が子どもにもたらすポジティブな影響を強調することや子どもと担当職員間の良好な関係づくりなど、子どもに焦点を当てたアプローチが有効になることを示唆した。
著者
大賀 郁夫 Ikuo OHGA 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.1-34, 2020-03-06

長州戦争とは、元治元年から慶応二年まで、幕府が二次にわたって「朝敵」となった長州藩の征討を試み、幕府軍の敗北に終わった内戦である。日向延岡藩は譜代藩としてこの長州戦争に二度とも出陣しており、藩政および藩財政に与えた影響は極めて大きいものがある。 本稿では藩主内藤政挙が出陣した第二次征長をとりあげ、旗本後備の拝命から大坂出陣・滞坂、広島出陣について「御用部屋日記」から検討を加えた。滞坂中の下陣や巡邏出役のあり方、続出する病死人への対処、長引く滞在で風紀紊乱に陥った家臣・人夫たちをどのように統制したかなどを明らかにした。 また慶応二年六月、延岡藩は芸州口討手応援を命じられるが、広島に到着したのは大幅に遅れた七月である。その背景には病人の増加と在所から登坂する人夫不足があった。小倉城自焼の知らせを受けた藩は、幕命より自領守衛を優先し、着芸わずか一週間で大半の兵士・人夫を帰国させる。延岡藩にとって長州戦争は、莫大な財政支出と多数の病死人を招いただけであったが、延岡藩はこの後も鳥羽伏見戦争まで、譜代藩として幕府との封建的主従関係を維持することになる。
著者
森津 千尋 Chihiro MORITSU 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.233-243, 2020-03-06

本稿では、婦人雑誌における新婚旅行記事を資料として、大正から昭和初期にかけての新中間層における新婚旅行の普及について検討を行った。新中間層が主な読者層とされる婦人雑誌においては、まず理念的な新婚旅行の提唱や検討から始まり、次第に実践を前提とした具体的なアドバイスや携帯品の紹介等の実用記事へと内容が変化していく。そして著名人や読者の新婚旅行体験記が掲載されるようになり、新婚旅行はいくつかの誤解や失敗がありつつも「よい思い出」として語られることで、肯定的に再生産されていく。このように婦人雑誌で取り上げられるようになり、明治後期にはまだ「憧れ」であった新婚旅行は、大正末期から昭和初期にかけて新中間層の間で普及し、婚礼儀式の一部として実践されていく。そしてその結果、この時期には、同じ場所へ同じスタイルの新婚旅行夫婦を運ぶ「新婚列車」が登場し、新婚旅行の大衆化・画一化がさらに進んでいく。
著者
永松 敦 足立 泰二 陳 蘭庄 篠原 久枝 宮崎公立大学民俗学演習 Atsushi NAGAMATSU Taiji ADACHI Lanzhuan CHEN Hisae SHINOHARA SEMINAR-MMU FOLKLORE 宮崎公立大学人文学部 宮崎大学 南九州大学 宮崎大学 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities Miyazaki University Minami Kyushu University Miyazaki University Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.121-200, 2020-03-06

現在、伝統野菜・在来野菜のブームが地域創生との関連で湧き上がっている。特定の地域に根差した食材としての野菜を地域づくりに活用する試みが、全国各地で展開している。ただ、伝統野菜・在来野菜の定義が曖昧なまま広範囲に利用だけが促進されると、逆に、地域文化の改変、及び、損失につながりかねない状況も起こりうる危険性も孕んでいる。本稿では、従来の見解を一度、整理しなおし、宮崎、鹿児島(種子島)の事例を中心に、理想的な伝統野菜・在来野菜利用のあるべき姿を探ってみたい。 末尾に、在来野菜に関する助成事業の報告書3種を添付する。
著者
寺町 晋哉 Shinya TERAMACHI 宮崎公立大学人文学部 Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 = Bulletin of Miyazaki Municipal University Faculty of Humanities (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.77-101, 2020-03-06

本稿では、教職に就く予定の学生がもつ友人関係の経験に着目し、それらの経験が彼(女)らの教職観をいかに規定するのかを明らかにする。そのことで、彼(女)らが教師となり教育実践を続けていきながら、彼(女)らの固有の経験が職業的社会化といかなる関係を築いていくのかを明らかにしていくための出発点として本稿を位置づける。 分析の結果、以下のことが明らかとなった。第一に、彼(女)らの友人関係の経験や学級経験は、彼(女)らの生徒指導観や学級経営観を支える重要なものとなる可能性が示唆された。職業的社会化と教師個人の側面との関係性を考える上で、こうした友人関係の経験を重要な変数として考えていく必要がある。教師として生徒指導や学級経営の実践を行なっていく中で、関係性の経験が再解釈されたり、その経験に強く規定されることで、職業的社会化と教師個人との関係を明らかにすることができるだろう。 第二に、彼(女)らの関係性への認識はジェンダー化されているという点である。しかし、協力者たちがジェンダー・ステレオタイプを有していると批判することが目的ではない。従来の「ジェンダーと教育」研究が明らかにしたように、学校教育経験はありとあらゆる場面で、ジェンダー化されたているため、彼(女)らもまた、ジェンダー化された存在であり、関係性に対するジェンダー化された認識というのは、現状の学校教育を考えると当然の帰結だと考えられる。ジェンダー化された関係性への認識と学校現場との相互作用を描いていくために、教職課程学生がジェンダー化された関係性への認識をもっていることと、それをもつに至った経験を本稿では明らかにした。

1 0 0 0 OA 元号と武家

著者
北爪 真佐夫 Masao KITAZUME 札幌学院大学人文学部 Faculty of Humanities Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.68, pp.1-32, 2000-09-30

わが国の元号は中国より移植したもので, 最初の元号は「大化」(645)といわれているが「大宝」とみた方が確度がたかいとみることができよう。いずれにしても249程の「元号」が今日まで使用されてきているのだが, 現在の「平成」を除けばその決定権は天皇にあったものとみてよいであろう。法制史家滝川政次郎氏は元号大権とは「天皇が元を建て, 元を改められる権利であって, この権利は臣下の者の干犯を許さない天皇に専属せる権利」(同氏著「元号考讃」)であるといっておられる。古代国家の確立期に整備導入された元号制は十二世紀末あたりから確立した武家権門としての鎌倉幕府ならびにそれ以降の「武家」とはどんな関係にあったのか, こうした検討を通じて平安末期以降の「国王」及び「王権」の特質はどの点にあったのかに接近しようとの試みが本稿の課題である。なお封建時代を通じて元号制度が存続し得た理由として考えられるのは三代将軍家光の言といわれる「年号ハ天下共二用フルコトナレバ」という一言に端的に示されているし, それ以前でいえば, 「公武」ならんで用いるものとの考え方が定着しているのである。つまり, 「元号」はある天皇の時代を意味するものでなく, ましてや天皇の独占物でなくなったことが, 封建制下でも, なお維持存続した理由とみてよいであろう。
著者
照屋 信治 Teruya Shinji 人文学部准教授 近現代沖縄教育史
出版者
沖縄キリスト教学院大学
雑誌
沖縄キリスト教学院大学論集 (ISSN:13498479)
巻号頁・発行日
no.9, pp.1-12, 2012-12

本稿の目的は、沖縄県立第三中学校教諭であった豊川善曄(1888-1941)の思想と実践を分析し、1930年代初頭の沖縄における郷土教育の可能性と陥奔とを検討するものである。近代沖縄教育史は、「同化」「皇民化」という用語で説明されてきた。教師たちは日本政府の同化政策を無批判的に推し進めた存在だと理解されてきた。しかし、1930年代初頭の郷土教育が盛んな時期、豊川善曄をはじめ幾人かの教師たちは、強い「沖縄人」意識をあらわにし、その必要性を訴えていた。豊川は、郷土史教育の目的を沖縄の「民族魂」の鼓吹であるとまで高唱していた。なぜそのようなことが戦前日本の公教育の場で可能であったのか、その教育的、社会的背景を探り、その思想の輪郭を描き、陥奔を指摘する。また、それらの作業を通じ、全国的に展開された郷土教育が、沖縄においては異なった様相を呈したことを明らかにする。This paper examines the work of TOYOKAWA Zenyou (1888-1941), a little known teacher in Okinawa's third middle school who sought to develop students with a strong sense of their cultural roots. This examination is grounded in considerations that the Regional Learning Project of the early 1930s in Okinawa had both possibilities and pitfalls toward effective education. The history of Okinawa's modern education has been described in terms of uncritical, widespread "assimilation" (kōminka). That is, teachers were understood to blindly play their crucial roles in carrying out the assimilation policies promulgated by the Japanese government. In the face of these assimilation policies stood TOYOKAWA who expressed the importance of "Okinawan consciousness," insisting that local students understand their history and culture. TOYOKAWA argued that a primary aim of regional history education was to bring up students with a strong awareness and consciousness of Okinawa. What possessed TOYOKAWA to resist the assimilation policy and assert the importance of Okinawan consciousness? What were the principal features of his ideas and their shortcomings? This paper aims to answer these questions. Based on my research, it can be said that the Regional Learning Project in Okinawa was significantly different in its aims from those in the mainland.