著者
寺田 隆信
出版者
御茶の水書房
雑誌
社会科学の方法
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.p7-9, 1980-01
著者
寺田隆信著
出版者
京都大学学術出版会
巻号頁・発行日
2009
著者
三浦 秀一 中嶋 隆藏 熊本 崇 山田 勝芳 安田 二郎 花登 正宏 中嶋 隆蔵 寺田 隆信 村上 哲見 三浦 秀一
出版者
東北大学
雑誌
一般研究(B)
巻号頁・発行日
1993

中世から近世にいたる旧中国の知識人が営んでいた知的活動の諸相を、文献実証額的手法に基づきつつ分析することにより、中国知識人の精神構造が歴史的にどう展開したかについて、総括的な理解と具体的な知見とを獲得することができた。成果の概略は、以下のとおりである。中国中世の仏教界を俯瞰すれば、有に執らわれず、無に陥らず、空有相即を旨とする理行二入の立場が、それに相対立する旧学の側からの、教学を軽んじ戒律を無みするものだとの激しい攻撃と、無なる心をつかみさえすれば形ある修道などどうでもよいとの甘い誘惑とを受けつつも、それらいずれにも屹然とした態度を堅持しつつ困難な歩みを踏み出した、といった構図にまとめることができる。そして、この対立の構図は、その後、一般知識人の精神生活に決定的な影響を与えたと考えられ、中国近世における知識人の精神構造の基本的な枠組みは、この構図を重層的に内面化することで形成されたと判断できる。例えば、北宋の士大夫は、みずからが如何に史に記録されるかについて並々ならぬ関心を抱き、その子孫をも巻き込んで、自身の「事迹」選述をめぐる自己保全運動を執拗につづけている。また、明末清初期の或る一族は、確証が竺少なるにもかかわらず北宋以来の名族との同宗を主張し、族譜の接合・系譜の行為を敢えておこなう。このほか、「封建」と「郡県」との是非をめぐる議論や、六経と史書とを表裏一体の関係で捉える主張が、時代をこえ飽くことなく蒸し返されるように、かれら知識人は、慥かに「有」としての命名・史書・祖法に固執する精神を把持してはいる。しかしながら、同時に、如上の議論が個々の時代社会に対する疑義ないし対案の提示としてなされている事実は、かかる「有」を越えつつそれを包み込む理論的装置をも、かれらがその精神構造の内部に確保していた証左であるとなせるのではないだろうか。
著者
安田 二郎 津田 芳郎 中村 圭爾 吉川 忠夫 山田 勝芳 寺田 隆信
出版者
東北大学
雑誌
総合研究(A)
巻号頁・発行日
1992

中国の知識人(士大夫)層の「歴史」との関わり方の諸相を、春秋時代から清末までにわたって幅広く発掘し、各々の時代性と関連づけて解明した。主要な成果の一部を紹介すれば、以下の如くである。(1).漢武帝が、季陵の家族や司馬遷に下した厳罰は純然たる司法処置であって、怒りにまかせた感情的行為とするのは、三国期に出現した新解釈であり、ここには古代的漢武帝像から中世的武帝像への展開を見出し得る。(2).『晋書』の日食記事には、実際には観測不可能な夜日食、わらには非日食さえもが数多く見出される。地上における政治的混乱は必ず天文現象に反映するという、編纂者たちがいだく天人相関理論に対する確信が、かかる虚偽記事を記さしめた理由の一として指摘できる。この事実は、中国中世における歴史叙述の特殊な性格をうかがわせる。(3).梟雄桓温の野望を抑えることを現実的な動機とした習鑿歯『漢晋春秋』が、魏をしりぞけて蜀を正統とした理由は、司馬氏一族が魏代に行った悪業を免罪することにあり、かかる視点の設定が、司馬昭の魏帝弑殺の事実を直書することをはじめて可能とさせ、鑒誠の実をあげしめた。(4).『新唐書』には、唐代の知識人が開陳した見解をそのまま利用しているケースがいくつも確認される。中国近世独裁体制下における修史事業の複雑微妙さを考えさせる。(5).司馬光『資治通鑑』刊行後、近世士大夫層の歴史理解が専らそれに依存したというばかりでなく、征服諸王朝下においても各々の国語に翻訳され、非漢民族支配層の好箇の教本として愛読され活用された。(6).金石資史料は、既存文献とは異なる情報を数多く与えてくれるが、特に墓誌銘の場合には、極度な虚飾を加えた記述も少くはなく、利用には慎重を要する。