著者
平川 南
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.153, pp.129-168, 2009-12

百済の都の東北部・扶餘双北里遺跡から出土した木簡は、「那尓波連公」と人名のみを記した物品付札である。本木簡の出土した一九九八年の調査地は、百済の外椋部とよばれる財政を司る役所の南に展開する官衙と考えられる一帯であり、白馬江の水上交通を利用した物資の集積地の一角であったとされている。「那尓波」は〝難波〟を指し、当時難波は対外交流の玄関口であり、外交にたずさわる人々は、ウジ名または名に難波を好んで用いた。一般的には、「連公」は文字通り「連+公」、「公」は尊称と解されている。しかし、奈良県石神遺跡木簡は「大家臣加□」などの人名とともに、「石上大連公」と連記され、『先代旧事本紀』・『新撰姓氏録』では連にのみ公が付されていることから、「連公」のみが連に対する尊称という解釈を下すことはできない。おそらくは「連公」はのちの天武八姓(六八四年)の「連」の前段階のカバネ表記であったと考えるべきであろう。木簡の年代も、七世紀半ば頃とされる石神遺跡木簡や法隆寺命過幡「山ア名嶋弖古連公(~~)過命時幡」と同様の時期と考えられ、一九九八年の双北里遺跡の発掘調査の所見(七世紀半ば頃)と合致するものであろう。また八~九世紀に作成された史書・説話集・文書および時期は異なるが系譜書などの場合は、例外なく「連公」表記は氏姓・系譜の〝祖〟に限定されている。これらは、各氏族に伝わる旧記のようなものをもとに作成されたと考えられる。本木簡は、七世紀半ば頃の倭国と百済との密接な関係からいえば、百済の都泗沘に滞在した倭系官人が作成した木簡という可能性もありえよう。しかし、本木簡は大きくは次のような三つの特徴を有している。①古代日本に数多く類例のある名のみ記した小型の付札である。②「那尓波」の表記は『日本書紀』に収載された古代歌謡にほぼ同じ「那你婆」とある。③「連公」は、古代日本における七世紀半ば以前のカバネの特徴的表記である。以上から、倭国で作製され、調度物などに付せられた荷札が物品とともに百済の都にもたらされ、札がはずされた可能性の方がより高いであろう。いずれにしても、倭人(日本人)名を記載した木簡がはじめて古代朝鮮の地で発見されたことの意義はきわめて大きい。The wooden tablet excavated from the Hyeonnae-ri site in Paekche's northeastern capital Buyeo is a baggage tag inscribed with just the name of the person "Naniwa no Muraji-no-Kimi". The archaeological site where this wooden tablet was excavated in 1998 was a government office in an area south of the office which administered Paekche's finances, itself situated in a commercial hub which benefited from the use of the Penmagan waterways for the transport of goods."Naniwa( 那尓波)" refers to "Naniwa( 難波)". In those days Naniwa was the gateway to the outside world, and people involved with foreign diplomacy liked to use Naniwa as their first or family name.Generally speaking, the meaning of " 連公" (Muraji-no-kimi) is as the characters suggest: " 連 + 公"— "Muraji" was a name used by the Yamato royal family and "kimi" is an honorific title. However, wooden tablets from the Ishigami site in Nara Prefecture feature inscriptions of names such as "Ohoyake-no-Omi KaXX" ( 大家臣加□ ) alongside "Isonokami Oo-Muraji-no-Kimi", while for "Sendai Kuji Hongi" and "Shinsen Shojiroku", "Kimi" is only ever attributed to "Muraji", making it impossible to interpret "Muraji-no-Kimi" solely as an honorific name relating to "Muraji". It is perhaps best to consider that "Muraji-no-Kimi" was an insignia from a previous historical stage to the "Muraji" of 684. The era of the wooden tablet can also be argued to be the same period as the wooden tablet of the Ishigami site and "Meika-ban" (ancient Buddhist banner) of Horyuji Temple, which are considered to be from the middle of the 7th century, which tallies with the observation of the archaeological excavation from the 1998 Hyeonnae-ri site (that it is mid-7th century). In the case of history books, literary collections and documents produced during the 8-9th centuries, as well as genealogical documents from different eras, the "Muraji-no-Kimi" insignia relates without exception solely to the family's nominal or genealogical "ancestor", so it can be argued that it was created as a kind of record to be handed down to each clan.If one considers the close relationship between Japan and Paekche of the mid-7th century, the possibility would seem to exit that this wooden tablet was made by a Japanese official resident in the Paekche town of Sabi. However, the wooden tablet clearly exhibits the following three characteristics: 1. It is a small baggage tag with just a name inscribed on it, of which numerous other examples exist from ancient Japan. 2. The inscription "Naniwa" ( 那尓波) is more or less the same as the "Naniwa" ( 那你婆) which appears in ancient ballads collected in the "Nihon-Shoki". 3. "Muraji-no-Kimi" is a characteristic insignia of a name from before the middle of the 7th century in ancient Japan.Taking the above into account, I would argue that there is a greater probability that the tablet was made in Japan, was attached to some commercial goods as a baggage tag and brought to Paekche, and that the tag became detached after arrival.Whatever the case, there is enormous significance to the fact that for the first time a wooden tablet with a Japanese name inscribed on it was discovered at an ancient Korean site.
著者
高橋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.149-164, 2003-10

生命の危機にさらされたとき人々はどのようにこれに立ち向かうのか。日本歴史上人々は天変地異の大災害や即死病といわれる伝染病の大流行に直面した。文明の進歩、医学の革新等、人々の生命に関する恐怖感は遠のいたと一見思われがちの現代であるが、二〇〇三年のSARSの大騒動は未だ伝染病の脅威が身近に存在することを思い知らしめてくれた。本稿は安政五年(一八五八)突如大流行したコレラによって引き起こされた危機的状況、パニック状態を刻明に実証しようとしたものである。人々は即死病といって恐れられたコレラが襲って来る危機的状況のなかでどのようにこれに対拠したのか、本稿は駿河国富士郎大宮町(現富士宮市)を具体例として取り上げる。偶々大宮町の一町人が克明に記録した袖日記を解読することから始める。長崎寄港の米艦乗組員から上陸したコレラ菌は東へ東へ移動し次々と不可思議な病いを伝染させ、未曾有の多量死を現実のものとした。コレラに対するさまざまな医療行為が試みられるが、一方で多種多様、多彩な情報を生み出し、妄想をまき散らしていく。まさに、現実の秩序がくつがえる如く、人々を安心立命させていた精神(心)の枠組が崩壊し、人々はありあらゆる禦ぎ鎮魂の呪術を動員し救いを求めていく。コレラ伝染の時間的経過と空間的ひろがりに対応して人々の動きは活発化し、非日常の異常に自らを置く方策を腐心していく。コレラの根源を旧来の迷信の狐の仕業、くだ狐と見なして狐を払うため山犬、狼を設定し、三峯山の御犬を借りようとする動きやこの地域に特に根強い影響力を有する日蓮宗の七面山信仰がコレラを抑える霊力をもつとして登場する。極限状況の人々の動向にこそ時代と社会の精神構造があらわにされるのである。
著者
福間 裕爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.114, pp.155-226, 2004-02-27

山笠とは豪華な人形飾りを乗せた「作り物」のこと。北部九州を中心に分布する。なかでも「博多祇園山笠」は、七百六十二年といわれる伝統に裏打ちされた求心力から、各地の祭礼に多大な影響を与えてきた。その関係性を表すものとしてハカタウツシという民俗語彙がある。北海道の「芦別健夏山笠」は、そのうち最も遠隔地の事例である。今から十八年前に始まった現代の祭りである。この両者の縁を取り持ったのが、一本のテレビ番組だった。筆者は電子メディアによって民俗が伝えられることを「電承」とよんでいるが、芦別はこれに該当する事例である。当初、芦別山笠は博多山笠の刺激を受け、模倣することで自らの祭りを変容させたにすぎなかったものが、時を重ねるにつれて芦別の博多山笠受容は本格化し、最終的には「作り物」の枠を越えて、博多の民俗文化そのものを求めるようになっていく。その過程には、テレビ、実体験、物資、人物交流による受容段階があり、複合的に博多の民俗文化が芦別に伝播・受容されてきた経過を概観することができる。これに伴い博多山笠との系譜関係が意識化され、そこに様々な権威化の言説が生まれる。結果的に芦別にハカタが構築されることになるが、これは「博多」のイメージを再生産したものとなる。本稿は、以上のようなこの両者の関係のなかに、民俗伝播・受容の基本的ありかたとは何かを発見する意図のもとにまとめている。これまでの民俗学ではあまり問題とならなかった、電子メディア、「かっこよさ」、共同意識、集団の特性による受容差を要点とし、調査者のかかわりの視点を含めて実際の民俗文化受容の現場で、それがどのような影響をもってきたかを、当該地域の人々の語りと新聞の言説でもって記述・分析を試みた。筆者はこの事例を叙述するなかで、これまで民俗学でいわれてきた、いわゆる「古風」の残存という問題が、実は新しく構築された結果によるものではないかという指摘を行なった。
著者
平山 昇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.151-172, 2010-03-15

本稿は、明治期から昭和初期までの西宮神社十日戎の変容過程を、鉄道の開業による参詣行事の変化、および神社と鉄道会社との関係に着目しながら検討した。もともと西宮神社十日戎はエビス神を信仰する農漁村民や都市商人たちを中心とする参詣行事であったが、「汽車」の開通によって徐々に都市部から行楽がてらに参詣する「普通の参詣人」が訪れるようになった。神社側もこの層を呼び込むべく自ら新聞を通じて都市部に向けて広報をするようになった。だが、もっとも重大な影響をもたらしたのは阪神電車の登場であった。この電鉄は、長らく寂れていた新暦十日戎を新たに「開拓」するなど種々の戦略によって参詣客の劇的な増加をもたらすという、沿線ディヴェロッパーとしての性格が強い鉄道会社であった。一方、阪神電車の大々的な乗客誘引によって都市部からの参詣客が大幅に増加していく状況を目の当たりにして、神社側も電鉄会社の強力な集客力を利用して都市部からの参詣客の増加を図るようになる。西宮神社の参詣行事は、もはや電鉄会社との協調関係抜きには考えられないものとなっていったのである。しかし、両者の関係は常に協調ばかりというわけにはいかなかった。電鉄にとっては運賃収入が増えればそれでよいが、神社にとっては伝統を厳守することも決してゆるがせにできなかった。そのため、時として両者の間で齟齬が生じることもあった。このように神社と電鉄会社の間に協調と駆け引きがせめぎあう中で、十日戎は今日の姿へと落ち着いていった。以上の検討から、日本近代の大都市における社寺参詣の変容過程を理解するためには、①鉄道の登場による変化、特に明治末期以降のディヴェロッパー志向の鉄道会社による変化、②もっぱら都市部からの参詣客の増加を志向する鉄道会社と伝統の維持も重視する神社との間に生じた協調と駆け引きがせめぎあう関係、という二点に注目することが有用であると結論づけた。
著者
野島 永
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.183-212, 2014-02-28

1930年代には言論統制が強まるなかでも,民族論を超克し,金石併用時代に鉄製農具(鉄刃農耕具)が階級発生の原動力となる余剰を作り出す農業生産に決定的な役割を演じたとされ始めた。戦後,弥生時代は共同体を代表する首長が余剰労働を利用して分業と交易を推進し,共同体への支配力を強めていく過程として認識されるようになった。後期には石庖丁など磨製石器類が消滅することが確実視され,これを鉄製農具が普及した実態を示すものとして解釈されていった。しかし,高度経済成長期の発掘調査を通して,鉄製農具が普及したのは弥生時代後期後葉の九州北半域に限定されていたことがわかってきた。稲作農耕の開始とともに鍛造鉄器が使用されたとする定説にも疑義が唱えられ,階級社会の発生を説明するために,農業生産を増大させる鉄製農具の生産と使用を想定する演繹論的立論は次第に衰退した。2000年前後には日本海沿岸域における大規模な発掘調査が相次ぎ,玉作りや高級木器生産に利用された鉄製工具の様相が明らかとなった。余剰労働を精巧な特殊工芸品の加工生産に投入し,それを元手にして長距離交易を主導する首長の姿がみえてきたといえる。また,考古学の国際化の進展とともに新たな歴史認識の枠組みとして新進化主義人類学など西欧人類学を援用した(初期)国家形成論が新たな展開をみせることとなった。鉄製農具使用による農業生産の増大よりも必需物資としての鉄・鉄器の流通管理の重要性が説かれた。しかし,帰納論的立場からの批判もあり,威信財の贈与連鎖によって首長間の不均衡な依存関係が作り出され,物資流通が活発化する経済基盤の成立に鉄・鉄器の流通が密接に関わっていたと考えられるようにもなってきた。上記の研究史は演繹論的立論,つまり階級社会や初期国家の形成論における鉄器文化の役割を,帰納論的立論に基づく鉄器文化論が検証する過程とみることもできるのである。
著者
坂 靖
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.239-270, 2018-03-30

本稿の目的は,奈良盆地を中心とした近畿地方中央部の古墳や集落・生産・祭祀遺跡の動態や各遺跡の遺跡間関係から,その地域構造を解明する(=遺跡構造の解明)ことによって,ヤマト王権の生産基盤・支配拠点と,その勢力の伸張過程を明らかにすることにある。弥生時代の奈良盆地において最も高い生産力をもっていたのは「おおやまと」地域である。その上流域で,庄内式期の纒向遺跡が成立する。その後,布留式期に纒向遺跡の規模が拡大し,箸墓古墳と「おおやまと」古墳群の大型前方後円墳の造営がつづく。ヤマト王権の成立である。「おおやまと」地域において布留式期に台頭したのが,「おおやまと」地域を生産基盤とした有力地域集団(=「おおやまと」古墳集団)であり,地域一帯に分布する山辺・磯城古墳群をその墓域とした。ヤマト王権は,「おおやまと」古墳集団を出発点とし,その勢力が伸張していくことにより,徐々にその地歩を固め影響力を増大していく。布留式期には,近畿地方各地に跋扈した在地集団に加え,奈良盆地北部を中心とした佐紀古墳集団,「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団を仲介する役割を担った在地集団などが存在したことが遺跡構造から明らかであり,そのなかで「おおやまと」古墳集団と佐紀古墳集団が主導的立場にあったと考えられる。5世紀には,「おおやまと」古墳集団は河内の在地集団を取り込み,さらにその勢力を伸張し,倭国の外交を展開する。そして,大和川の上・下流域一帯の広い範囲が生産基盤となり,倭国の支配拠点がおかれた。一方,近畿地方各地には,有力地域集団が跋扈しており,ヤマト王権の支配構造は,危ない均衡のうえに成り立っていたと考えられる。そうした状況が一変するのが,太田茶臼山古墳の後裔たる継体政権である。淀川北岸部の有力地域集団は,近畿地方や北陸・東海地方の在地集団や有力地域集団と協調することにより,ヤマト王権の生産基盤は,畿内地方一帯の広範な地域に及んだ。そして,6世紀後半には「おおやまと」古墳集団と一体化することにより,専制的な王権が確立し,奈良盆地の氏族層に強い影響力を及ぼしながら,倭国を統治することになるのである。
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.119-131, 2006-01

太平洋戦争中、補給を断たれて多くの餓死・病死者を出したメレヨン島から生還した将校・兵士たちをして体験記の筆をとらしめたのは、死んだ戦友、その遺族に対する「申し訳なさ」の感情であり、そこから死の様子が描かれ、後世に伝えられることになった。あるいは自己の苛酷な体験を「追憶」へ変えたいというひそかな願いもあった。自己の体験をなんとか意義付けたい、しかし戦友の死の悲惨さは被い隠せない、と揺れる心情もみてとれた。このように生還者たちの記した「体験」の性格は多面的であり、容易に単純化・一本化できるような性質のものではない。戦後行われてきた戦死者「慰霊」の背後には、そうした複雑な思いがあった。いくつかのメレヨン体験記を通じて浮かびあがってきたのは、「昭和」が終わり、戦後五〇年以上たってなおやまない、〈戦争責任〉への執拗な問いであった。その矛先は、時に天皇にまで及んだ。たとえそこで外国への、あるいは己れの戦争責任が問われることがなかったとしても、「責任を問うこと」へのこだわりや「死んでいく者の念頭に靖国はなかったろう」という当事者たちの文章は、戦後日本における「先の戦争」観の実相を問ううえでも、さらには戦争体験の風化・美化を進める今後の世代が前の世代の「戦中の特攻精神や飢えの苦しみは戦後教育と飽食に育った世代の理解は不可」という声に抗して「戦争体験」を引き継ぐさい、今一度想起されてよいのではないか。Former officers and soldiers who survived their time on Mereyon Island during the Pacific War, when the disruption of supplies ended in the death through starvation and disease of many in the Japanese army, have put pen to paper to record their experiences. These reminiscences contain sentiments of "apology" to their fallen comrades in arms and their families, and describe the circumstances of their deaths, which can be passed on to future generations. They also represent a hidden desire to transform their own harsh experiences into "reminiscences". They also tremble with emotion as they seek to give some meaning to their own experiences and are not able to hide the tragedy of the deaths of their fellow soldiers. In this way, the characteristics of the recorded "experiences" of these survivors are varied, and cannot be easily simplified or unified. Such complex emotions are to be found behind post-war "memorials" to the war dead.One theme that reveals itself from several records of their experiences on Mereyon Island is the persistent question of responsibility for the war, which is still asked today, 17 years after the end the Showa period and more than half a century after the war. At times, the brunt of this question is directed as high up as to the emperor. Even if foreign countries or the soldiers themselves have not been brought to task over responsibility for the war in their writings, the obsession with "asking who was responsible" and the words of the people of that time that say "Those about to die would not have thought about Yasukuni (Shrine)" question the reality of the view in post-war Japan of "the next war". Their writings should be remembered once again when inheriting "war experiences", as future generations subjected to the toning down and romanticizing of war experiences are faced with voices from the preceding generation claiming that "It is impossible for those generations educated after the war who have only known full stomachs to understand the suicidal spirit and suffering of starvation that were present during the war".
著者
原田 和彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.195-217, 2002-03-29

寛保2年(1742)の8月,信濃の北部を流れる千曲川・犀川が大水害をおこした。この水害によって多くの被害がもたらされた。この水害のことを北信濃では「戌の満水」と呼び習わしている。長野市立博物館には,この「戌の満水」の被害状況をあらわしたといわれる絵図面が伝わる。この絵図面は,水害前の様子と水害後の各村の被害状況を克明に示している。また,山崩れや土砂災害の場所まで描かれている。災害をあらわした絵図面としては,信濃に残るものとしては非常に古い部類に属する災害絵図である。ただ,この絵図面が「戌の満水」の被害状況を示した絵図面であるとの根拠は,絵図面が入っていた袋の表書によるだけである。本稿では,まず「戌の満水」の被害状況を,当時の松代藩の被害届から抽出する。これによって,被害届からわかる「戌の満水」の被害状況を描き出す。また,いちじるしい被害をうけた松代城下についても,当時書かれた見聞記にてらして,川の水がどのように城下町に押し寄せたかなどを検証する。このように当時の記録類などから「戌の満水」の被害状況を描き出すという作業を行っている。こうした基礎作業をもとに,そこから前出の「戌の満水」の被害絵図について,その被害状況を抽出し,その上で記録類から導き出した「戌の満水」の被害の様相と照合し,絵図面の性格付けを行った。「戌の満水」の後に松代藩ではさまさまな復興策を試みる。このなかで,松代城下を水害から守る方法として千曲川の流路を改める作業がなされた。災害後の松代藩の復興策をこうした千曲川の流路変更という面から考えてみた。
著者
長沢 利明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.373-412, 2008-11

現存する農民市としては東京都内最古の存在である世田谷のボロ市は、一五七八年(天正六年)における後北条氏の市立掟書の存在によって、そのことを確かめうる重要な地位を占めているが、当初よりそれは典型的な六斎市として成立していた。北条氏の没落した近世期には年に一度の歳の市となったが、彦根藩領内にあって代官の支配・統制下に置かれることとなった。近代期には村方の運営する農民市となり、改暦によって一月・一二月の二度の市立ともなっていったが、明治期にはボロ布市・筵市として知られるようになり、大正期には植木市としての発展もみた。近代産業の勃興と交通網の整備を通じ、前近代的な商品取引はしだいに一掃され、市場商人と地元との親密で特殊な相互関係も解消されていくこととなり、第二次大戦後には暴力団系テキヤ組織の介入を許す余地を与えることとなった。それゆえ戦後の市立の民主的な改革は、それらとの対決なくして実現することができず、粘り強い努力を通じて地元民はついに一九六五年(昭和四〇年)、ついにこれを達成するに至った。この成果によって今日のボロ市の運営基盤が形作られ、市立の現代化がなされていった。今日の出店構成に関する実態調査結果からも、改革後の特色ある業種実態、出店者の広域化、地元主導型の民主的運営形態の定着といった諸傾向を、そこに明確に見い出すことができる。Setagaya Boroichi is the most famous rag fair, and the oldest peasant market in Tokyo district. It was opened at least 1528 in period of Houjou occupation. In that age, fair was held six times a month as a "Rokusai-ichi". The Houjou family had been giving the protection to a fair. After end of Houjou family's government, fair was became to ruled by Ii family which is one of feudal Daimyous in the modern ages from the 17th century. Ooba family, as a retainer of Ii clan, had been controlled during modern times. Then market day became once a year, and it was held 15th December. Most of peasants and farmers in Setagaya area went to fair, and they bought and sold the new year's decorations, various goods. Fair was held as "Toshi-no-ichi" , for preparing to new year. In 19th century in recent times, fair was called "Boroichi" that meant a rag fair. Many merchants came out to market with a large of rags and old clothes. Farmers living in and around the Setagaya produced a "waraji (straw sandals)" using it at materials. But waraji production was declined with diffusing shoes on life modernization at beginning of the 20th century. Fair turned to "mushiro (straw mat)" market or plants fair after that age. However that articles on fair lost merchantability and it was going to general merchandise market. After W. W. II, a band of thugs began to intervene to management of fair, same racketeers who ware subsidiary of gangster organization raise an act of violence. As a result of that, drove a fair into stoppage in December 1964. Afterward, inhabitants and merchants society of Setagaya united their selves firmly to corp with the gangster organization, police and administrative organ supported it. Thus , fair had been resumed in January 1965. Setagaya Boroichi recovered their composure and democratic, peaceful administration. It is growing to be a splendid market and sightseeing annual event today.
著者
門田 岳久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.255-289, 2017-03

本論文は消費の民俗学的研究の観点から、沖縄県南部に位置する斎場御嶽の観光地化、「聖性」の商品化の動態を民族誌的に論じたものである。二〇〇〇(平成一二)年に世界遺産登録されたこの御嶽は、近年急激な訪問者の増加と域内の荒廃が指摘されており、入場制限や管理強化が進んでいるが、関係主体の増加によって御嶽への意味づけや関わり方もまた錯綜している。例えば現場管理者側は琉球王国に繋がる沖縄の信仰上の中心性をこの御嶽に象徴させようとする一方、訪問者は従来の門中や地域住民、民間宗教者に加え、国内外の観光客、修学旅行客、現場管理者の言うところの「スピリチュアルな人」など、極めて多様化しており、それぞれがそれぞれの仕方で「聖」を消費する多元的な状況になっている。メディアにおける聖地表象の影響を多分に受け、非伝統的な文脈で「聖」を体験しようとする「スピリチュアルな人」という、いわゆるポスト世俗化社会を象徴するような新たなカテゴリーの出現は、従来のように「観光か信仰か」という単純な二分法では解釈できない様々な状況を引き起こす。例えばある時期以来斎場御嶽に入るには二〇〇円を支払うことが必要となり、「拝みの人」は申請に基づいて半額にする策が採られたが、新たなカテゴリーの人々をどう識別するかは現場管理者の難題であるとともに、この二〇〇円という金額が何に対する対価なのかという問いを突きつける。古典的な枠組みにおいて消費の民俗学的研究は、伝統社会における生活必需品の交易と日常での使い方に関してもっぱら議論されてきたため、情報と産業によって欲求を喚起されるような高度消費社会的な消費実践にはほとんど未対応の分野であったと言える。しかし斎場御嶽に明らかなように、信仰・儀礼を含む既存の民俗学的対象のあらゆる領域が「商品」という形式を介して人々に経験される時代において、伝統社会から「離床」した経済現象としてこれを扱うことは、現代民俗学の重要な課題となっている。This paper presents a folklore study of consumption, focusing on Sēfā Utaki located in southern Okinawa Prefecture. This is an ethnographic analysis of the development of the sacred site as a sightseeing spot and the commercialization of holiness. Inscribed on the World Heritage List in 2000, this Utaki has attracted an increasing number of tourists. As this has caused damage to the site, protective measures are being taken, such as imposing a limit on the number of visitors and strengthening maintenance management. This increase in the number of people concerned, however, has led to the diversification of interpretations and involvements. For example, while the field administration wants to make the Utaki the central symbol of the local religion originated from the Ryūkyū Kingdom, the Utaki itself attracts diverse people, ranging from conventional visitors, such as Munchū, local community residents, and folk devotees, to overseas and domestic tourists, study tour participants, and those the field administration call "spiritual people," and each of them consume the holiness in their own ways, creating a multi-faceted situation. In particular, the emergence of a new category of people that symbolizes the so-called post-secular society ("spiritual people" who try to get a holy experience in an untraditional context affected by mass media's depiction of sacred places) has created a complicated situation where visitors cannot be simply classified as either sightseers or religious explorers. For example, when Sēfā Utaki started to charge visitors an admission fee of 200 yen, which will be reduced by half for visitors for prayer if they request it, the field administration encountered two difficult problems: (i) how to identify those classified into the new category; and (ii) what the fee of 200 yen is actually charged for.An ethnographic study of consumption in a classical framework has mainly focused on the trade of daily necessities and their use in daily lives in a traditional society, yet it has hardly covered the perspective of what consumption means in a high-level consumer society where consumers' desire is stirred up by information and other industries. As illustrated by the example of Sēfā Utaki, now that all the existing ethnographic subjects, including religions and rituals, are commercialized so that general people can experience them for themselves, contemporary folklorists are faced with a new important question of how to deal with these economic phenomena deviated from the traditional society.
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.175, pp.77-128, 2013-01-31

縄文後期末~弥生前期の三河地方には,4I系と2C系に区別して施した抜歯,一部の男性がつける腰飾り,一部の男女に施した叉状研歯,複数個体の人骨を集積した再葬墓など特色のある習俗が広がっていた。渥美半島~豊川流域の東三河を代表する吉胡貝塚と伊川津貝塚の墓地で埋葬してある人のうち,L型式の腰飾りをつけた人の抜歯は4I系,Y型式の腰飾りとV型式の腰飾りをつけた人の抜歯は2C系に多い。両貝塚で叉状研歯を施した人の抜歯はすべて4I系である。保美貝塚に多いJ型式の腰飾りと抜歯系列との関係は明らかでない。合葬は4I系同士,2C系同士はあるが,4I系と2C系との間には存在しない。吉胡,伊川津,保美貝塚では再葬は2C系の人に顕著であり,合葬した2C系の人同士で血縁関係が考えられる例もある。これらの現象を総合して,4I系はL氏族(仮称)を含むグループ,2C系はY氏族とV氏族(仮称)を含むグループ,L,Y,V,J型式の腰飾りはそれぞれの氏族の長が身につける標章であって,4I系グループと2C系グループとの間には上下の格差があり,腰飾りをつけた人が多いL氏族は,吉胡集団さらには東三河の諸氏族のなかで最上位を占めていたと推定する。すなわち,東三河は二つのグループ,四つ以上の氏族によって構成される社会であり,吉胡集団,なかでもL氏族は東三河で部族的結合の中心的な役割をはたしていたと考える。4I系グループと2C系グループの数はほぼ1対1である。しかし,それぞれのグループ内の男女の割合は,吉胡貝塚と伊川津貝塚ではほぼ1対1であるのに対して,保美貝塚では4I系では女が多く,2C系では男が多い。これを二つのグループへの帰属になんらかの規制が加わった結果とみるならば,それぞれを半族とみて東三河に双分組織の存在を想定することが可能である。
著者
崔 吉城
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.161-183, 1997-01-31

戦後韓国社会の高度成長は朴正煕大統領の経済開発計画とセマウル運動によるものといわれている。特に農村の精神革命とも言われているセマウル運動は朴大統領自ら信念をもって一貫的に推進して成功させたという。それは彼自身農村出身であり農村近代化を推進したことであり,農民層に政治的基盤を置き,国民総和をもって長期執権のために維新憲法を発布してしまったのでセマウル運動の評価は必ずしも肯定的なものだけではない。しかし,とにかく朴大統領の政策や戦後韓国経済の高度成長を理解するためにセマウル運動の研究は必要と思う。その運動の契機や起源はまだ不明である。北朝鮮の千里馬運動とかトルコのケマルパシャ革命などと言われているが寡聞かも知れないが分析的な研究はまだない。私は朴大統領時代を経験したものの一人としてセマウル運動は戦前の日本における農村開発運動と似ていると思った。最近セマウル運動が日本植民地時代の農村振興運動と似ているという言及があったので,私はその実証的な研究をしようと考え,資料を収集した。その過程において,朴大統領が三年間小学校の教師をした学校が農村振興運動の指定学校であったことがわかった。その学校を現地調査をしたところ,老人たちによって朴氏が農村振興運動指定学校で指導していたことを確認した。一方では朝鮮総督府の宇垣一成総督の時嘱託として農村振興運動を指導した山崎延吉を知るために安城市の『山崎文庫』を尋ねて調査をした。私は本稿で植民地に因んでいる反日的な枠を無視して脱価値論的に文献研究と現地調査を合わせて日本植民地時代の農村振興運動は朴大統領のセマウル運動のモデルになっているということを明らかにしたい。
著者
那須 浩郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.187, pp.95-110, 2014-07

縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀(アワ・キビ)の栽培形態を,随伴する雑草の種類組成から検討した。最古の水田は,中国の長江中・下流域で,約6400年前頃から見つかっているが,湖南省城頭山遺跡では,この時期に既に黄河流域で発展した雑穀のアワ栽培も取り入れており,小規模な水田や氾濫原湿地を利用した稲作と微高地上での雑穀の畑作が営まれていた。この稲作と雑穀作のセットは,韓半島を経由して日本に到達したが,その年代にはまだ議論があり,プラント・オパール分析の証拠を重視した縄文時代の中期~後期頃とする意見と,信頼できる圧痕や種子の証拠を重視して縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の突帯文土器期以降とする意見がある。縄文時代晩期終末(弥生時代早期)には,九州を中心に初期水田が見つかっているが,最近,京都大学構内の北白川追分町遺跡で,湿地を利用した初期稲作の様子が復元されている。この湿地では,明確な畦畔区画や水利施設は認められていないが,イネとアワが見つかっており,イネは湿地で,アワは微高地上で栽培されていたと考えられる。この湿地を構成する雑草や野草,木本植物の種類組成を,九州の初期水田遺構である佐賀県菜畑遺跡と比較した結果,典型的な水田雑草であるコナギやオモダカ科が見られず,山野草が多いという特徴が抽出できた。この結果から,初期の稲作は,湿地林を切り開いて明るく開けた環境を供出し,明確な区画を作らなくても自然地形を利用して営まれていた可能性を示した。This paper examined the initial form of rice and millet cultivation during the Jomon-Yayoi transition era from the archaeobotanical weed assemblages. The earliest paddy field was found from the middle and lower Yangzte region in China around 6400 cal BP. Archaeobotanical finds from Chengtoushan show the millet cultivation from northern China was already spread to the Yangtze region in this stage. Rice was probably cultivated on the small initial paddy field as well as on the wetland of flood plain around the site. Millet was probably cultivated on the dry farmland at the upland terrace area in the site. The set of rice and millet cultivation was spread to Japan via southern Korea however the timing of arrival is still under debate. Those who think that the timing was Middle to Late Jomon from the evidence of phytolith records and on the flip side, those who think the timing was after Final Jomon or Initial Yayoi (Tottaimon pottery stage) from the reliable impressions and macro-remains evidences. Although the earliest paddy field in Japan was found from Kyusyu during the Final Jomon or Initial Yayoi era, newly discovered Kitashirakawa-Oiwakecho site in Kyoto shows one of the initial form of wetland rice cultivation. Rice and millet were found from the wetland site without clear evidence of paddy ridges and water facilities for irrigation. The evidences suggest that rice was probably cultivated on the wetland and the millet was cultivated on the dry upland around the site. The composition of archaeobotanical weed and other wild plants from the site was compared with the early paddy field at Nabatake site in Kyushu. The main characteristics of the Kitashirakawa-Oiwakecho wetland site are that there were no typical paddy field weeds such as Monochoria and Alismataceae and there were still a lot of forest herbs compared with the Nabatake paddy field. This results suggest that the initial stage of rice cultivation was practiced by the clearing of swamp forest and making open wetland using natural micro-topography without making clear paddy ridges.
著者
Flache Ursula 杉原 早紀
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.587-621, 2008-12

本論文ではドイツ語圏の神仏分離研究の三つの側面を扱う。序論として「神仏分離」の独訳に関する問題点を述べる。第1ポイントとして,ドイツおよび欧米の日本研究におけるこれまでの神仏分離の扱いについて概略を記す。神仏分離が一般の歴史著作や参考図書で取り上げられるようになったのは最近の動きである。明治時代における神道研究では二つの傾向が見られる。一つは客観的批評する研究者(シュピナー,チェンバレン),もう一つは国家神道の視点を引き取る研究者(アストン,フロレンツ)。第二次大戦前の指導的な神道研究者(グンデルト,ボーネル,ハミッチュ)がナチスのイデオロギーに近い視点から研究結果を発表したため,戦後には神道についての研究がタブー視され,当分の間完全に中止となった。1970年代に出版されたロコバントの研究に続いて,1980・90年代にいくつかの神仏分離に関する研究文献(グラパード,ハーディカ,ケテラー,アントーニ)が発行された。最近の研究(ブリーン,サール,アンブロス,関守)ではケーススタディーや地方史が注目される傾向にある。ドイツには宗教改革時代の偶像破壊という,明治時代の日本の神仏分離と非常によく似た出来事があったために,ドイツの研究者は神仏分離に特別な関心を寄せている。そこで,第2のポイントとして,ヨーロッパにおける宗教改革と絡めて偶像破壊運動を詳しく取り上げ,ヨーロッパの宗教改革と日本の廃仏毀釈の比較を行う。共通点として両者が宗教的美術に大きな障害をもたらした改革運動であることが挙げられる。相違点としてヨーロッパにおける宗教改革が宗教的な動機をもった運動で,神仏分離が政治的な動機をもった政策であった。終わりに第3ポイントとして,簡単に筆者の個人的な意見をまとめ,神仏分離が実際どの程度「成功」したのか,そして神仏分離の今日の日本における意味を考察する。In this paper three aspects will be discussed. After an introductory remark concerning the various German translations of the term shinbutsu bunri, firstly an overview will be given on how the separation of Shintô and Buddhism has been treated in German research literature. As Anglo- American research is also widely received in Germany, selected works in English are included. It is a very recent development that the topic of shinbutsu bunri is taken up in general works on Japanese history as well as in reference works. Among the intellectuals of the Meiji period, some scholars such as Spinner or Chamberlain take a very critical position, whereas other scholars such as Aston or Florenz are closer to the official doctrine of State Shintô at the time. The point of view of State Shintô is also adopted in pre-war studies by Rosenkranz and Gundert. Because of the close relationship of Germany and Japan before and during World War II, studies on Shintô in post-war German Japanology are regarded as being related to Nazi ideology. Therefore the topic of Shintô becomes a taboo after the war. In the 1960s and 70s the topic is finally taken up again and Lokowandt publishes a detailed study of State Shintô that also deals with the separation of Shintô and Buddhism. During the 1980s and 90s several works (Grapard, Hardacre, Colcutt, Ketelaar, Antoni) on shinbutsu bunri appear. In recent studies on the separation of Shintô and Buddhism there is a tendency to focus on case studies and local histories (Breen, Thal, Ambros, Sekimori). To a German scholar of Japanology the events occurring during the separation of Shintô and Buddhism are of special interest because they have much in common with the iconoclastic movement of the Reformation in 16th-century Europe. Therefore, secondly, shinbutsu bunri will be compared to reformatory iconoclasm. Both have in common that they were reform movements that led to the destruction of countless works of religious art. However, the Reformation was fuelled by religious motives whereas shinbutsu bunri was carried out for political reasons. Thirdly, as a personal comment, the question of how successful the separation of Shintô and Buddhism ultimately was will be discussed. Although temples and shrines are separately organised even today, coexistent worship of both Shintô deities and Buddhas by the Japanese people continues.
著者
森下 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.301-320, 2015-12

萩藩領の瀬戸内沿岸部では、近世後期にかけてもさかんに新田開発(開作)が行われていた。その普請にかかわった労働力については以前検討を加えたことがあり、瀬戸内一帯を移動する請負人とそれに率いられた石船、そして現地で普請を管轄する石頭という業者との組み合わせからなっていたことをのべたことがある。本論は、石垣とセットだった土手の普請もあわせて取り上げ、開作普請における労働の特質を再考しようとするものである。開作の周囲を取り囲む堤は、石垣と土手の二重構造からなっており、それぞれを石船(石組)と砂船という、出稼ぎ集団が担当していた。また普請全体を管轄するものとして石頭がおり、その下で多数の丁場を一括する請負人がいた。ただし長さ二十間単位に分割された個々の丁場に即すると、在所を同じくする数艘の石船ないし砂船の出稼ぎ集団が造成作業にあたっていた。石垣ばかりか土手についてもそうした専門集団が担当していた理由として、数人規模で達成するという、造成現場における作業の共同性があげられる。すなわち仕様を理解し資材を揃え、作業の計画を立て現場で指揮をする、そうした統括者に率いられた集団でなければならなかった。あわせて水中で行う作業だったこともあって、統括者と一体化した機動性も不可欠なものだった。個々の作業自体をバラバラにみると、石を組み上げる、あるいは土で土手を作ってゆくという、熟練度は低位で互換可能なようにみえたとしても、集団としての組織性が必須であり、そのことが普請現場での労働編成や調達の仕方を規定していたと考えることができるわけである。In the coastal area along the Seto Inland Sea in Hagi Domain (Yamaguchi Prefecture), large areas were reclaimed for rice production in the late early modern times. A prior analysis of labor for reclamation construction revealed that it had consisted of contract workers migrating in the Seto Inland Sea region, their boats called "Ishibune" and construction management agents called "Ishigashira". This paper reviews the characteristics of labor for reclamation construction by analyzing the construction of mounds held up with stone walls. As banks to enclose rice fields, stone walls and sand mounds were constructed by migrant worker groups called "Ishibune (Ishigumi)" and "Sunabune", respectively. The entire construction process was managed by a leader called "Ishigashira", under whom there were contract workers to manage multiple sections. One section was 20 ken( 36 meters) long and constructed by several groups (Ishibune and Sunabune), each of which was composed of migrant workers from the same area. The reason why not only stone walls but also mounds were constructed by specialized groups was because it was teamwork: a task requiring a group of people to complete. In other words, banks were constructed by groups led by respective leaders who understood specifications, procured materials, planned work schedules, and supervised workers in the field. The mobility as a group integrated with the leader was also essential because they worked underwater. Although individual tasks (e.g., piling up stones and making sand mounds) seem to have been rather simple and easy for anyone to do, the entire process required teamwork, which determined how to recruit and organize workers for construction.
著者
近藤 好和
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.61-80, 2008-03

日本の歴史のうえで重要な位置を占めている天皇の「生・老・死」つまり人生の流れを考えると、まず天皇の子息に生まれ、親王宣下されて親王となり、そのなかから選ばれて立太子して皇太子(東宮)となり、即位して天皇となる。そして、退位して上皇となり、落飾(出家)して法皇となって、崩御を迎える、というように順次進んでいく。そして、各段階で着用する装束(着衣)に大きな相違があり、装束によっていずれの段階にあるかが明瞭となる。特に顕著なのは天皇・上皇・法皇での相違であるが、それは天皇の装束が特別であるからである。本稿の目的は、こうした天皇の人生と装束との関係を確認することにある。天皇と装束の関係を考えるうえで重要な点は、装束に対応する被り物に冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)があるが、天皇は冠しか被らず、様々な種類がある公家男子装束のなかで、天皇が着用するのは冠に対応する束帯(そくたい)と冠直衣(かんむりのうし)だけである点である。このうち束帯は天皇を含むすべての男子の正装であり、身分規定の厳格な装束であるが、その上着である位袍(いほう)の色と文様には天皇限定のものがあり、それで他と峻別された。また、冠直衣は、他とは異なる天皇の特有の着用方法があり、それを御引直衣(おひきのうし)といい、御引直衣か否かで天皇と他が峻別された。本稿は、こうした天皇の束帯や御引直衣の詳細と、絵画資料で天皇と上皇が装束によって明確に描き分けられていることを確認するものである。When we consider the birth, life and death, namely, the course of the life of Japan's emperors, who hold an important position in the nation's history, we find that it conforms to the following chronology. Born as the son of the emperor he is first an imperial prince, is then chosen to be the Crown Prince, and then succeeds his father to the imperial throne. Upon retiring from his role as emperor he assumes a Buddhist role and awaits his death.Because the dress an emperor wears is quite different for each of these stages, we can identify each particular stage of his life from his dress. The most marked differences are found between the emperor, retired emperor and Buddhist stages, which are due to the unique features of the dress worn by a serving emperor. The aim of this paper is to look at this relationship between an emperor's life and dress.One important point when considering the relationship between an emperor and his dress is headwear. While there are two types of headwear, a crown (kanmuri) and a type of formal headwear (eboshi), which are worn depending on the type of dress, an emperor wears only a crown. Although there are various types of dress worn by noblemen, the only two types of dress worn with a crown by the emperor are known as "sokutai" and "kanmuri noushi"."Sokutai" refers to formal dress worn by all males, including the emperor, and the type worn is strictly defined according to rank. There are colors and patterns for the collars of the top dress that can be worn only by the emperor, thus distinguishing him from others. The emperor also wears the "kanmuri noushi" in a unique way known as "o-hiki noushi", which also clearly distinguishes him from others.This paper provides details of these "sokutai" and "o-hiki noushi" worn by the emperor, and also shows that it is possible to distinguish an emperor from a retired emperor in illustrations due to the type of dress worn.一部非公開情報あり
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.295-332, 1991-11-11

江戸を中心とした近代科学のはじまりとしての合理的思考の脈絡について,近年は前近代論としてさまざまなかたちで論じられている。加賀の絡繰師大野弁吉については,これまでその実像は充分に分かってはいない。本論文はこの弁吉にまつわる伝承的世界の全貌とその構造について,弁吉が著した『一東視窮録』を通して検証し,幕末の都市伝説の解明を試みたものである。弁吉は江戸後期に京都に生まれ長崎に遊学し,あるオランダ人について西洋の医術や理化学を学んだという。その後加賀国に移り住み,絡繰の茶運人形やピストル,ライター,望遠鏡,懐中磁石や測量器具,歩度計などを製作した。『一東視窮録』の表紙にはシーボルトらしい西洋人の肖像画とアルファベットのAに似た不思議な記号が描かれている。しかし,この西洋人は不明であり,またA形記号は,18世紀のイギリスで始まったフリーメーソンリーの象徴的記号に似ている。この書物には舎密術(化学)・科学器具・医術・薬学・伝統技術等々が記録され,特に写真術についてはダゲレオタイプと呼ばれた銀板写真法の技術を示したものであった。こうしてみると,『一東視窮録』の記載はメモランダムであり,整合性のある記述ではない。いずれにしろ弁吉の伝説のように,その実態が茫洋としていること自体が,本格的な西洋窮理学の本道をいくものではなかった。そして,幕末期の金沢には蘭学や舎密学・窮理学あるいは開国論を議論しあう藩士たちの科学者サロンがあり,弁吉もその中の一員であったと考えられる。そして弁吉の所業は,小江戸と称された城下町金沢の近世都市から機械産業を基軸とした近代都市へと,その都市的性格を変貌するなかで,まったく都市伝説と化していった。それは柳田國男が表現した「都市は輸入文化の窓口である」という都市民俗の主要なテーマに沿ったものとして理解できる。