著者
小川 眞里子
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.147-162, 2012-03-30

欧州連合(EU)の女性研究者政策は、2000年に出版された『ETANレポート』と『Helsinkiレポート』から本格化し、10年余が経過した。この間の組織上の大きな変化は、2004年から加盟国が15から25カ国になったことである。旧共産圏で比較的男女の格差が少ない新参加国と従来の15カ国とでは、女性研究者を取り巻く環境に大きな違いがあって一律の評価は難しい。最初の2つのレポートは欧州の政策の2方向を象徴するもので、一方で雇用や研究助成金の平等性と人事や査読過程の透明性が求められてきたし、他方で徹底した性別統計の集積による現状分析が追求されてきた。『ETANレポート』の継承発展はMappingthemazeやThegenderchallengeinresearchfundingで行われ、『Helsinkiレポート』の後継報告書は、Benchmarkingpolicymeasuresforgenderequalityinscienceであり、数値に特化したデータ集SheFiguresもユニークだ。産業界で活躍する女性研究者(WIR)の現状を把握し、民間部門での女性の活躍拡大に向けた政策展開も注目される。さらなる注目は、25カ国体制移行にともないETANに呼応して旧共産圏の国々でENWISEが結成されたことである。10年の政策を振り返って、Stocktaking10yearsof・WomeninScience・policybytheEC1999-2009(2010)が出版され、めざすべきはEU全体でジェンダーの構造的変化を起こすことであるとしている。
著者
平石 典子
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.18, pp.33-50, 2001

明治後期の日本において,「女学生」は「女子学生」という字義上の意味以上のものを人々に訴えかける存在であった。本論では,高等女学校の成立過程,女学生を主人公にした文学作品の分析などを通して,「女学生神話」がどのようにして成立していったのかを追っている。明治初期の女学生は,ネガティブにとらえられることが多かったが,明治三十年代に入ると,良妻賢母主義に女子教育の照準が定まったことも手伝って,高等女学校は乱立の時代を迎える。その結果,彼女たちは都市における西洋風の美の代名詞のように扱われることとなる。しかし,その一方で,「西洋風」の「恋愛」への憧れと無用心な下宿環境は,彼女たちが「性的に奔放」だというレッテルを貼る。この仮説は,新聞小説やスキャンダル記事によって強化され,「西洋的な美しさを持ち,積極的で性的にも奔放」な存在としての「女学生神話」が確立するのである。
著者
稲葉 瑛志 Inaba Eiji
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.1-13, 2022-03-31

本論は、20世紀ドイツの作家・思想家エルンスト・ユンガーの初期思想を、ヴァイマル共和国の「危機」に対する応答として明らかにする試みである。歴史学者デートレフ・ポイカートは「古典的近代」の病理論のなかで、過度な近代化のもたらした光と闇を鮮やかに描き出した。しかしその議論においては、経済危機という実体があまりにも重視されることによって、この時代の経験的次元における「危機」の複雑性が単純化されてしまったのである。本論は、「危機」概念の3つの意味内容を検討し、そこに従来見落とされてきた「危機」の「ユートピアの精神」を分析の中心に据え、ユンガーの初期作品を読み直すことを試みた。とりわけユンガーの歴史観、思考法、構想について考察し、黙示録的歴史観、「好機としての失敗」の思考法、「技術の完成」の秩序構想を抽出した。
著者
永谷 健 Nagatani Ken
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.29-39, 2022-03-31

所得や富の格差が拡大した局面を示している点で、昭和戦前期は現代日本のゆくえを考察するヒントを提供してくれる。格差の拡大に関わる当時の社会変化でとくに注目すべきは、経済主体が自由に営利活動を行える状況が一変し、国益至上主義を具現化する総動員体制が急速に構築されていった点である。この変化がなぜ比較的スムーズに実現したのかを説明するには、営利主義の代表的な実践者であった経済エリートを取り巻く当時の社会状況を検討する必要がある。彼らが明治以来の営利主義のポリシーを手放して、抵抗しつつも経済統制を受け容れたことは、軍閥・右翼の圧力や当時の国益至上主義による思想的感化などによってこれまで説明されてきた。ただ、これらの説明は営利主義から国益至上主義への反転を十分に説明するものではない。この劇的な変化については、次の諸点を含む説明が必要であろう。(1)当時は営利活動を行う経済エリートへの批判が著しく、それは温情主義批判や三井のドル買い批判に見られるように、反エリート主義を内容とするものであった。(2)同じ反エリート主義は血盟団員の供述からも確認できる。(3)三井財閥が行った「転向」の初期のポリシーは反エリート主義に対する「宥め」であり、それはエリートと大衆のボーダーレス化を狙うものであった。(4)諸財閥が「転向」に同調するなか、そのポリシーは国益主義へと傾斜していった。(5)こうした傾斜は、明治以来の観念的な「国家的貢献」の実質化として理解することができ、国益至上主義の拡大を促す結果となった。
著者
田中 綾乃 TANAKA Ayano
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.34, pp.49-57, 2017

「アートの公共性」とはどのようなことを意味するのであろうか。一般的にアートとは、アーティストが自由に表現した個人的な産物であり、それが公共性を持ちうるかどうかは無縁である、と考えることができる。いわゆる「芸術のための芸術(Artforart・ssake)」という考え方は、現代の私たちには根強く支持されている。しかし、現在、私たちが考える「芸術」という概念そのものは、18世紀半ばのヨーロッパの思想において確立した概念である。そして、それとともに、アーティストと呼ばれる「芸術家」も登場することになる。もっとも、近代以前から古今東西、様々な芸術作品が存在し、その作品の作者がいることは自明のことであるように思える。だが、もしかしたら、そのような見方は、近代ヨーロッパで確立された芸術観を私たちが過去に投げ入れているのかもしれない。芸術の自律性を説く「芸術のための芸術」とは、芸術が宗教のため、あるいは一部の貴族や権力のためだけにあるのではなく、まさに芸術の自己目的を主張するものである。そして、そのことによって、アートは誰にでも等しく開かれた存在となるのである。本稿では、この近代的な芸術観によってこそ、アートは公共性を持ちうることになるという点をヨーロッパの近代思想、特に18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの美学理論を概観しながら論じていく。また、「アートの公共性」について具体的に考えるために、20世紀後半に登場した「アートマネージメント」という概念に着目する。本稿では、現在、様々な芸術作品や表現方法がある中で、「アートマネージメント」の必要性を考え、さらにはこの「アートマネージメント」という概念がアートと社会とを媒介する機能を果たすことを論証しながら、「アートの公共性」について一考察を行うものである。
著者
廣岡 義隆 ヒロオカ ヨシタカ HIROWOKA Yoshitaka
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.A39-A51, 2003-03-25

額田王の最初期の作として知られる『萬葉集』に収められた「宇治の都の借廬」詠(巻1・七番歌)の背景について考察し、ついで、この作の表現意図に迫ろうとするものである。従来、『古事記』『日本書紀』に記された歴史観に基づいて、ウヂノワキ郎子とオホサザキノ尊との皇位を譲り合う美談が展開され(空位三載)、ウヂノワキ郎子の逝去で以ってオホサザキノ尊の即位が実現し、ここに聖帝仁徳が成立するとされてきた。しかしながら、『山背国風土記』(逸文)等に見られる記述を分析すると、史実は別として、少なくとも説話としての宇治天皇の存在が明らかとなってくる。即ち、宇治の地にウヂノワキ郎子は宮室「桐原日桁宮」を持ち、そこが都と称されていた。こうした宇治大王説話を背景として、額田王の「宇治の都の借廬」詠は作られていると考えられる。このように見て初めて、額田王の歌詠における「宇治の都」という表現の意図するところが明らかとなってくる。これまで、「宇治の都」とは、単なる行旅における宇治での行宮の称であると理解されてきたが、ここに「宇治の都」とは文字通り宇治大王の皇居の存した故地の称となってくる。と共に、「宇治の都の借廬」と表現されたその表現意図も明確となる。即ち、雅としての「都」の表現と、その対極に位置する「草葺きの借廬」という表現の落差が奏でる響きをも含ませた歌であることが浮き彫りとなってくるのである。
著者
吉丸 雄哉 Yoshimaru Katsuya
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.37, pp.17-26, 2020-03-31

公益財団法人石水博物館に現在収蔵されている一四代当主川喜田政明(号は石水)が安政の大地震について記した『はなしの種』という写本を紹介する。嘉永七年(安政元年)から一連の安政の大地震が発生するが、このうち嘉永七年六月一三日に発生した伊賀上野地震および同年一一月四日の安政東海地震と五日の安政南海地震について書き残したのが『はなしの種』である。『はなしの種』はまず記された地震の状況が地震史料として大きな価値がある。また、射和の竹川家、伊豆にいた松浦武四郎、江戸店と往還の使用人などから政明のもとに地震の情報が入っている状況を確認することで、川喜田家が構築していた情報網を知ることができる。さらに、地震にまつわる狂歌を収録することで、災害に対して人々がどのような心情を抱いたかという地震文学としての考察ができることに価値がある。本稿は資料の書誌情報、構成、翻字を紹介し、解説を加えたものである。
著者
太田 伸広
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.99-118, 2004-03-25

グリム童話では、恋愛結婚の話の数は他の結婚の話を圧倒し断然第1位である。『日本の昔ばなし』にはそれと比べうる恋愛結婚の話は一つしかない。グリム童話では、恋する女性の多くは自立しており、意欲的、積極的である。自由と愛を謳歌している。そして恋の自由としばしば衝突する家の利害も、いざ結婚となると、王家といえどもまったく姿を消す。また、不幸な恋愛結婚もない。これがグリム童話の魅力の一つと言えよう。これに対し、日本の『謎婿』の長者の娘の意思や感情は、家の支配の下で沈黙している。態度も控えめで、大人しく、内向的である。恋愛結婚の数の面からしても、内容の面からしても、『日本の昔ばなし』には、女性の自我の覚醒は見られない。ただ、元来真筆なはずの恋愛と結婚が『日本の昔ばなし』ではユーモラスに語られる。この辺りが『日本の昔ばなし』の魅力の一つかもしれない。
著者
田中 綾乃 TANAKA Ayano
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = JINBUN RONSO : BULLETIN OF THE FACULTY OF HUMANITIES, LAW AND ECONOMICS (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.49-57, 2017-03-31

「アートの公共性」とはどのようなことを意味するのであろうか。一般的にアートとは、アーティストが自由に表現した個人的な産物であり、それが公共性を持ちうるかどうかは無縁である、と考えることができる。いわゆる「芸術のための芸術(Artforart・ssake)」という考え方は、現代の私たちには根強く支持されている。しかし、現在、私たちが考える「芸術」という概念そのものは、18世紀半ばのヨーロッパの思想において確立した概念である。そして、それとともに、アーティストと呼ばれる「芸術家」も登場することになる。もっとも、近代以前から古今東西、様々な芸術作品が存在し、その作品の作者がいることは自明のことであるように思える。だが、もしかしたら、そのような見方は、近代ヨーロッパで確立された芸術観を私たちが過去に投げ入れているのかもしれない。芸術の自律性を説く「芸術のための芸術」とは、芸術が宗教のため、あるいは一部の貴族や権力のためだけにあるのではなく、まさに芸術の自己目的を主張するものである。そして、そのことによって、アートは誰にでも等しく開かれた存在となるのである。本稿では、この近代的な芸術観によってこそ、アートは公共性を持ちうることになるという点をヨーロッパの近代思想、特に18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの美学理論を概観しながら論じていく。また、「アートの公共性」について具体的に考えるために、20世紀後半に登場した「アートマネージメント」という概念に着目する。本稿では、現在、様々な芸術作品や表現方法がある中で、「アートマネージメント」の必要性を考え、さらにはこの「アートマネージメント」という概念がアートと社会とを媒介する機能を果たすことを論証しながら、「アートの公共性」について一考察を行うものである。
著者
宇京 頼三 ウキョウ ライゾウ UKYO Raizo
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.A1-A15, 2004-03-25

パウル・ツェランはルーマニア生れのユダヤ人で、二十世紀後半のドイツ語表記の最大の詩人として後半生をパリで送った。マルティン・ハイデガーは二十世紀の哲学・思想を代表する哲学者の一人である。詩「トートナウベルク」はツェランが南西ドイツのシュヴァルツヴァルトにあるハイデガーの山荘を訪れたあと、ハイデガーのナチズム加担をめぐって書かれたものである。本稿では、この詩「トートナウベルク」が二人にとって如何なる意味をもっていたかを主として、新資料である、ツェランと夫人のジゼル・ツェラン=レストランジュが交わした膨大な『書簡集』(フランス語版)に基づいて考察している。
著者
安食 和宏 Ajiki Kazuhiro
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, 2010-03-28

本稿では、我が国の国有林野事業の戦後の推移について具体的に把握するとともに、特に1980年代以後の「縮小」段階の国有林野事業に見られる地域性を明らかにすることを試みた。その結果、以下のような諸点が明らかになった。全国的な特徴のみを挙げると、まず伐採事業・造林事業のいずれにおいても、1980年頃より明確な減少傾向が継続し、事業量は大きく減少した。ただし、最近(2002ないし2003年度以後)では、両者とも増加傾向に転じている。そして、伐採においては間伐が主体となっており、造林では天然更新から人工更新への回帰がみられるなど、事業の内容にも変化が生じている。もっとも、いずれの事業でも直傭部分はほぼ消滅しており、実際の作業を担っているのは民間事業体である。次に、職員数の変化についてみると、定員内職員については1970年代後半から、定員外職員(その中心となる基幹作業職員)については80年代前半から、一貫して減少が続いてきた。そして、常勤の作業員の過剰な減少の結果、現場作業においては臨時労働力への依存を強めるという、数十年前に回帰するような現象が生じている。以上のように、この20~30年間に国有林野事業に生じた変化はあまりに大きく、それはすでに、「林業経営」から実質的に撤退しているわけであり、今や国有林野事業の中心は「森林管理」であるという新たな局面に移行している。
著者
山岡 悦郎 YAMAOKA Etsuro
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.30, pp.107-122, 2013

慶応2年1月の薩長盟約における龍馬周旋説と龍馬立役者説は共に、それに対する対抗仮説が成立しうる仮説であり、真偽不明の伝説である。しかしこれらの伝説についての考察は歴史学における幾つかの問題に改めて目を開かせてくれるという側面を持つ。
著者
尾西 康充
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.A17-A31, 2005-03-31

本論文は、戦後の梅川文男の足跡を明らかにしたものである。終戦直後の労働組合・農民組合再建の頃から、三重県議、松阪市長時代、そして死去に至るまでを取り上げた。
著者
早野 香代 HAYANO Kayo
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences, Department of Humanities : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.35, pp.27-41, 2018

三重大学の教育目標である「4つの力」のうちの「コミュニケーション力」の育成のため、2017年前期「日本語コミュニケーションA」の授業で、知識構成型ジグソー法を試みた。本稿ではそのジグソー法の実践を紹介し、履修者の振り返りから協働学習の効果と問題点を考察する。このジグソー法は、「日本語コミュニケーション」という大きな課題を6つの専門のテーマから多角的に学ぶ日本人学生と留学生の協働学習である。実施後の学生の振り返りから、「おもしろい・楽しい」という感想とともに、「多様性・異文化理解」、「新しい知識の習得」、「コミュニケーション能力」、「効率性」、「深い学習」などにプラスの評価が得られ、多様な他者との協力的な活動ができた喜びやおもしろさの発見があったとのコメントが得られた。そして、この意識の変容から、自らの学びの質や効率をも見直し、今回のジグソー法の問題点の改善策を提案する学生も現れた。これは、学生主体の「協調」路線の協働学習になったと同時に、E.アロンソンの志向を継承する協力的なものへ変えてゆくジグソー法にもなったと評価できる。このジグソー法は、今後も留学生と日本人学生が共存する大学の様々な分野で生かされるべきであり、それを生かす学習法を異なる分野間で共有し、大学全体における「コミュニケーション能力」の向上、引いては「生きる力」の養成に繋げるべきであろう。留学生と日本人学生との日本語力の差というものは、多様性を受容する観点においては利点となるが、全ての学生が深い理解を得るという到達目標においては課題が残る。言語能力の差がある中での有効な協働学習の方法や方略の研究は今後の課題となる。
著者
吉丸 雄哉 Yoshimaru Katsuya
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 = Jinbun Ronso: Bulletin of the Faculty of Humanities, Law and Economics (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.38, pp.1-14, 2021-03-31

公益財団法人石水博物館に現在収蔵されている一四代当主川喜田政明(号は石水)の文事のなかから、教訓・道徳を短歌形式で記した教訓歌をとりあげる。川喜田石水の文事は多岐にわたっているが、教訓歌はその筆頭と石水がみなしていた重要な文芸である。石水は出版ができる状態の稿本である『教訓歌選』(館蔵番号一二七ー一三)を編纂しておきながら、実際には出版の意図はなかった。これはほかの出版可能な稿本を同じで、本人は出費を避け、後代に上梓は任せたものと思われる。収録された道歌はもともとは童蒙の手引きを意図したもので、なにかの本を引き写したのではなく、石水が日頃耳慣れていた歌を書き留めたと思われる。『教訓歌選』は近世後期の伊勢商人がどのようなモラルをもっていたかをうかがうことができる重要な資料であり、実際に『教訓歌選』に示された道徳は石水の妻政子を通じて、孫の半泥子に受け継がれたことが確認できる。
著者
森 正人
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.29, pp.45-55, 2012

本稿は一九〇五年に大阪毎日新聞社が開催した「西国三十三所順礼競争」に注目し、それが日本の近代化のプロセスに埋め込まれる様態を検討する。ここではギデンズの近代性の三つの側面、すなわち、時間と空間の切り離しと再編成、象徴的通標(貨幣)や専門化システムをとおした信頼に基づく社会関係の切り離し、思考や行為を吟味する再帰性が、順礼競争においてどのように現れていたのかを考える。競争という言葉が表すように、それは札所寺院間の空間的隔たりを交通機関を用いることで乗り越え、巡礼空間を圧縮し、それにより巡礼に要する時間を短縮しようとした。また、空間的に隔たった場所の地理的情報を、電信システムを用いながらできるだけ早く読者に発信したのである。順礼競争において巡礼の事物や行為の吟味も行なわれた。すなわち、慣習として巡礼に携帯してきた物品や衣装は取捨選択され、動きやすさを重視するために洋装も取り入れられた。情報伝達のための時間と空間を圧縮する近代的な装置の新聞社は、巡礼を宗教的な文脈からいったん切り離し、娯楽、観光、学問の文脈へと位置づけ直していった。とりわけ巡礼中に記される記事は、各地の地理的データの収集にも寄与した。その中で、巡礼空間の風景もまた、前近代的な風景観や身体感覚に根ざした宗教的な風景観とは異なり、風景を風景として対象化する近代的な風景観によって描写された。
著者
藤田 伸也
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.161-170, 2003-03-25

詩と書と画に優れることを意味する詩書画三絶は中国文人の理想であった。書画と併称されるように絵画は書と密接な関係があり、書と画は根本的に一致すると考えられてきた。詩文は直接的に画題を絵画に提供する場合もあるが、両者は情景描写という点で共通することから、画を「無声詩」、詩を「有声画」と呼んできた。本論は詩書画三絶の視点から南宋画院の絵画について考察を試みた。文人画の理論をあえて宮廷絵画に当てはめることにより、南宋画院絵画の性格が明確となるのではないかと考える。まず詩書画三絶とは何かについて、主要画史での三絶の用例を追いながら述べ、次いで南宋画院のあり方に強い影響を与えた徽宗朝画院の状況を考察する。そして南宋画院の初期を代表する李唐と中期の画院最盛期の中心画家馬遠の事例分析を通して、画院画院の画と詩および書との関係について述べその芸術性を探る。