著者
村上 直樹 MURAKAMI Naoki
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.33, pp.99-120, 2016

ある制度論の論者は、「社会を記述するとは制度を記述することである。社会を説明することは、制度を説明することである」(志田・永田1991:69)と主張する。我々はこの主張に同意する。人々が社会と考えるものの中核にあるのは制度である。デュルケムも言うように、社会の学としての社会学は基本的に「諸制度およびその発生と機能にかんする科学」(Durkheim1895=1978:43)なのである。(ただし、デュルケムが考える制度と我々が対象としている制度は、必ずしも完全に重なり合うわけではない。)社会学は、制度を最重要の研究対象としなければならない。ただし、制度を説明することがそのまま社会を説明することになると言っても、制度イコール社会なのではない。例えば、財務省という一つの制度体、法廷での審理という一つの制度的相互行為、あるいは商法という一つのルール群が、そのまま一つの社会なのではない。社会は、制度よりも大きなまとまりである。では、この社会というまとまりは実質的にどのようなまとまりなのだろうか。本稿の主な目的は、多元的制度論の立場からこの問いに答えることと、社会の研究はどのような課題に答えなければならないのかを明らかにすることである。また、本稿は、グローバリゼーションと呼ばれている過程が世界社会や国際社会といった「大きな社会」を形成しているわけではないこと、並びにヨーロッパ統合が「社会の交差」という事態をもたらしていることも併せて指摘することになるだろう。
著者
塚本 明
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-19, 2000
被引用文献数
1

近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍の死もその対象となった。基本的には宮中及び京都周辺の社寺に限定して出され、朝廷行事や神事等がその間中断された。さて伊勢神宮に京都の「触穢令」が伝えられるのは宝永六年を初発とするが、これは触穢伝染を予防するためのもので、天保年間に至るまでは伊勢神宮・朝廷側ともに、京都の触穢が伊勢にも及ぶという認識はなかった。だが伊勢神宮を朝廷勢力に取り込む志向が強まるなかで、弘化三年時には朝廷は伊勢神宮の抵抗を押し切り、触穢中の遷宮作時を中断させるに至る。両者の対立の背景には、触穢間の相違に加え、神宮神官らが全国からの参宮客を重視したことがあった。
著者
湯浅 陽子 YUASA Yoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.31, pp.15-29, 2014

北宋中期の欧陽脩ちの世代から蘇賦らの世代にかけての地方官の遊楽をめぐる志向の変化の様相について、おもに記を題材として検討する。慶暦の新政の破綻から至和年間くらいまでの間、「朋黛」として批判を受け地方に左遷されていた人々が制作した官舎庭園や遊楽を記念する記においては、公人の楽のあり方、特に人民との共有というテーマが繰り返し取り上げられ、さらにこのテーマが『孟子』や『讚記』といった経書を踏まえた正当なものであることが強調されており、そこには彼等の士大夫としての自負の強さを見ることができる。また、知定州期の韓埼は、特定の時節に人民に公開するための庭園として「康柴園」を整備しつつ、同時に自分の休息あるいは修養のための場所をも区別して整備している。仁宗嘉祐年間には、欧陽脩らよりもひと世代下の人々の間の「衆楽」をめぐる思考に新たな展開が発生し、孫覺「衆業亭記」。曾撃「清心亭記」は、長官という立場にいるひとりの人物の内面の安定を希求し、君子の修養を国家を治めるための手段として位置づけているが、人民との「築」の共有については言及していない。このような発想は、蘇載が嘉祐八年の「凌虚蔓記」以降、熙寧から元豊年間にかけて多くの記のなかで繰り返し強調する、地方長官の閑居における、外物に煩わされることのない精神的修養の重視に近いものであり、その先駆けとなるものと考えることができる。哲宗熙寧四年に洛陽で引退者となった司馬光は、当地に獨榮園を整備し、自ら「獨楽園記」を制作したが、その記述は、この「獨楽」もまた『孟子』梁恵王下を典拠とし、かつこれ以前に書かれてきた「衆楽」に関する多くの湯浅陽子文章を意識したものであることを示している。すでに退職者となった司馬光には、任地の官舎に附属する庭園ではない自己の退体の地の庭園であるからこそ、「衆楽」と対比される「獨来」をその名とすることが可能だったのだろう。しかし「獨業」は、「衆楽」と対比され、より劣るものとして控えめに提示されており、ここでも知識人のあるべき楽としての「衆業」の持つ規範性は依然として強く意識されている。また、蘇拭がこれに寄せた「司馬君賓獨榮園」詩でヽ司馬光の「獨楽」を、才能と徳とを内に秘めて轄晦するものだと説明し、司馬光が引退者として個人的な閑居に引きこもろうとする態度を批判するのも、「衆柴」を意識することによるものだろう。慶暦の新政の失敗による関係者の左遷のなかで強調された地方官の理想の遊楽としての「衆楽」は、当初は為政者としての自負や理想と強く結びついたものであったが、その後彼等の流れを汲む保守派の官僚たちによって継承されていくなかで次第に変容し、より自由度を高め、個人的な、精神的なものの希求へと変化していったと考えられる。
著者
菅 利恵 SUGA Rie
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.31, pp.61-72, 2014

1730年代に演劇改革をとなえたゴットシェ,卜は、演劇に徹底したテクスト中心主義を導入しようとした。本稿では、このテクスト中心主義が18世紀後半においてどのように受け継がれ、また演劇的なフィクションの形成にどのような変化をもたらしたかを明らかにする。18世紀後半を通して、演劇的なフィクション世界のあり方は大きく変化し、その期待される役割やフィクション世界との向き合い方が変わった。本稿はこれを示した上で、その変化と当時の演技法との関わりを考察し、アドリプを否定された役者が、フィクション世界の構築にどのように関与することになったのかを追う。とりわけ、役者とテクストとの関係性が時代とともにどう変わったのかという点に注目し、18世紀後半においては、テクストの意味作用を純粋なものに保つために役者のフィクション世界形成への関与が極力狭められていたことを示す。つまり役者には、フィクション世界の外面的な記号に自らを還元させることがもっばら要求されたのである。本稿では、そのような「記号としての身体」という役者像を乗り越える方向性を示した人物として、当時の代表的な役者であり、ベルリン王立劇場の監督であり、また人気劇作家でもあったA.W.イフラントに注目する。「役者とフィクション世界との関係性」という観点から見たとき、彼の演技論は重要な意義を有している。すなわち彼は、フィクション世界にもっぱら「記号」として関わる同時代の役者像に対して、これに「読者」として関わる役者像を提示している。彼の演技論においては、単なる「記号」ではなくテクストを読み解く主体としての役者像が示されており、それは、役者がテクスト重視の流れを受け継ぎつつもより能動的にフィクション世界の構築に関与するための道を示すものとなっている。
著者
廣岡 義隆
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.A39-A51, 2003-03-25

額田王の最初期の作として知られる『萬葉集』に収められた「宇治の都の借廬」詠(巻1・七番歌)の背景について考察し、ついで、この作の表現意図に迫ろうとするものである。従来、『古事記』『日本書紀』に記された歴史観に基づいて、ウヂノワキ郎子とオホサザキノ尊との皇位を譲り合う美談が展開され(空位三載)、ウヂノワキ郎子の逝去で以ってオホサザキノ尊の即位が実現し、ここに聖帝仁徳が成立するとされてきた。しかしながら、『山背国風土記』(逸文)等に見られる記述を分析すると、史実は別として、少なくとも説話としての宇治天皇の存在が明らかとなってくる。即ち、宇治の地にウヂノワキ郎子は宮室「桐原日桁宮」を持ち、そこが都と称されていた。こうした宇治大王説話を背景として、額田王の「宇治の都の借廬」詠は作られていると考えられる。このように見て初めて、額田王の歌詠における「宇治の都」という表現の意図するところが明らかとなってくる。これまで、「宇治の都」とは、単なる行旅における宇治での行宮の称であると理解されてきたが、ここに「宇治の都」とは文字通り宇治大王の皇居の存した故地の称となってくる。と共に、「宇治の都の借廬」と表現されたその表現意図も明確となる。即ち、雅としての「都」の表現と、その対極に位置する「草葺きの借廬」という表現の落差が奏でる響きをも含ませた歌であることが浮き彫りとなってくるのである。
著者
川口 敦子
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.29, pp.67-74, 2012

ドミニコ会士ディエゴ・コリャードによる『羅西日辞書』(1632年ローマ刊)について、2011年のローマおよびヴァチカンでの調査を中心に、諸本の異同を検討する。『羅西日辞書』の日本語訳は未だ公刊されていないが、翻訳のためにも、文献研究の基礎とも言うべき諸本の比較と最善本の選定は重要である。『羅西日辞書』はイエズス会のキリシタン版に比べると現存する数が多く、一部の諸本の異同については既に大塚光信氏による研究があるが、本稿はこれに加えて、アレッサンドリナ図書館、ウルバノ大学図書館、ヴァチカン図書館、ヴァリチェリアナ図書館、ライデン大学図書館、東京大学総合図書館が所蔵する本の異同について検討し、諸本の成立過程について考察した。正誤表に基づいて異同箇所を検討したところ、版の先後関係はやや複雑で、単純に一方向を示してはいなかった。中には、改版前の古い折丁が改版後の製本段階で紛れ込んだかと推測される例もある。また、『羅西日辞書』は正篇(補遺を含む)と続篇で構成されているが、異同の状態から、正篇と続篇は別々に印刷されたものであることが推定できる。現存する諸本は「正篇のみ」「正篇と続篇の合冊」「正篇と続篇の分冊」のいずれかの形で製本されているが、これは別々に印刷した正篇と続篇を組み合わせて製本した結果と言える。こうした複雑な異同の状態を踏まえて、『羅西日辞書』を日本語資料として活用するためにも、ヨーロッパ各地に多く現存する諸本の調査と研究が今後の課題である。
著者
松尾 早苗
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.153-167, 2004-03-25

In diesem Beitrag werden die folgenden Punkte behandelt, um die Freundschaft zwischen Ludwig Meidner und den expressionistischen Dichtern und deren Einflusse auf seine Zeichnung, vor allem seine Portratzeichnung klarzumachen: I. Der Neuanfang des Maler Meidner in der Groβstadt Berlin, II. Meidners Kontakt mit dem "Neuen Club" und "Neopathetischen Cabaret" in Berlin, III. Die Versuche zurn Verwirklichen seines "Neuen Pathos" bei Meidner-a) die Bildung der Malergruppe "Die Pathetiker", b) die Herausgabe der Zeitschrift "Das Neue Pathos", IV. Die Kreise im "Cafe des Westens" und die Gesprache mit den Dichtern in Jour fixe "Mittwoch=Abende", V. Die Freundschaft mit dem Dichter Ernst Wilhelm Lotz und die Portratzeichnung der Dichter.論説 / Article
著者
太田 伸広 OTA Nobuhiro
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.33-59, 2011-03-30

魔女はお年寄りで、ほとんどが森の中の小さな家に住んでいる。魔女の身分や職業、暮らしぶりはほとんどわからない。魔女が真珠や宝石、金銀などの宝を持っている場合は5例で少ない。魔女の魔女たるゆえんはやはり魔法を使うということである。しかし、その目的、使用の相手はほとんどが不明である。魔法の解き方も様々で一定しない。ところが、魔法という武器を持ちながら、魔女が相手に打ち勝つために魔法を用いることはない。それどころか、意外な脆さを見せ、没落する。魔女は殺人など数々の悪事を働く。そのせいか、悲惨な末路を迎える魔女が多い。魔女は山姥や鬼婆と違い、人を食わない。またグリム童話の魔女は、魔女裁判に出てくる「舞踏」、「集会」、「淫行」、箒での飛行、穀物や家畜への危害とも無縁である。さらにグリム童話の魔女は、神学の魔女規定とは違い、悪魔と結託することもない。
著者
立川 陽仁 Tachikawa Akihito
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.27, pp.191-204, 2010

カナダの太平洋沿岸部において、20世紀を通じて地域を支える一大産業にまで成長したサケ漁業は、現地の先住民社会の経済的な自立も支えてきた。しかし1990年代からのサケ漁業の衰退により、先住民社会は経済的自立を支える新たな方途を模索せねばならなくなっている。そこで一部の先住民に注目されたのが、養殖業であった。養殖業に注目した先住民の一部は、みずからのコミュニティを再び活性化させることに成功しているが、彼らはそれだけに飽き足らず、みずからの成功を他の先住民社会にまで拡大しようと目論んでいる。そのような先住民有志によって設立されたのが、先住民養殖業協会である。本稿は、この先住民養殖業協会の設立背景と現時点における活動を整理し、かつその将来像についても若干の分析をおこなうものである。
著者
小川 眞里子 OGAWA Mariko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.31, pp.47-59, 2014

今やノーベル賞量産国とまで言われる日本で、なにゆえこれほどまでに科学や工学の女性研究者が少ないのか。まずは学部学生の現状について概観し、次に理工系研究者の重要な人材プールである博士課程修了者について見る。これによれば次世代を担う人材はけっして十分に育ちつつある状況ではない。研究者については、まずわが国には性別の十分な統計資料が整備されておらず、これが大きな問題である。そもそもの問題の所在、原因を考える上で、あるいは他国と比較する上で統計の不備は大きな障害である。そして女性研究者支援のプログラムを実施することもきることながら、女性の活躍を保証する法的整備が重要であろう。Over the past several years, Japan has become the most productive country for Nobel Prizes after the US. However, all Japanese Laureates are male. We may rightly say that Japan is successful in producing male laureates. Why have there been no female laureates in Japan? It is now known world-wide that the percentage of female researchers in Japan is very small, almost the smallest among its peers, even though Japan is a democratic country with a national commitment to science and technology. To increase the number of female researchers, the number of female PhD graduates provides the human resources available for female researchers. But She Figures 2012 data showed that compared to all EU countries Japan is ranked lowest but one. The lowest is Malta and lowest but two is Cyprus. According to the details for these lowest three countries, the number of female PhD graduates is 3 in Malta, 4508 in Japan, and 11 in Cyprus. The low female percentage in Japan is shockingly behind the times. In addition to the low proportion of female PhD graduates, a quarter of these are foreign students. In fact, not a few post-doctoral students eventually return to their own countries. Increasing the number of native female PhD graduates is an urgent necessity for Japan. The next problem for human resources is Japanese researchers' social consciousness. The rate of dual-income to single-income households is now about 1.2. However, it is totally different in the academic sphere. Data on the jobs of researchers' spouses show that more than half of male researchers have full-time housewives. MEXT's efforts are not effective in such a conservative environment. If MEXT is to increase the number of female researchers, not only is a support system relying on male colleagues' cooperation required, but also legal action, such as a quota system, should be taken. In the US and EU, there are a lot of dual-career academic couples and they are a driving force for solving female researchers' problems. In Japan a few PhD female students plus the traditional tendency of male researchers with full-time housewives hampers the increase of dual-career academic couples. It is a shortcut to build a gender equal society to raise talented female researchers with the potential to win the Nobel Prize.
著者
坂本 つや子
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.71-87, 2002-03-25

Oscar Wildeの三つの作品,The Importance of Being Earnest, Salome, The Selfish Giantについて,「庭」という観点から論じる。The Importance of Being Earnestでは,第一幕はロンドンのフラット,第二幕はウールトンのマナーハウスの庭,第三幕はマナーハウスの邸内が背景に設定されている。作者はShakespeareのA Midsummer-Night's Dreamを下敷きにして,宮廷の秩序に対する森の混沌,あるいはArtに対するNatureという,古典的対立概念を作品の構成に利用し,全体の秩序を統べる者として,Duchess of Bolton (舞台には登場しない)及びLady Bracknellを設定している。Salomeは聖書のエピソードと,Flaubertの短編Herodiasをもとに書かれた戯曲である。この作品には歴史と文明の集積地としての肉体が「囲われた庭」としてイメージされている。Salomeを恋する若者は彼女の肉体を「没薬(ミルラ)の園」と呼ぶ。Iokanaanは自らの身体を「主なる神の御堂」と呼ぶが,思想的純粋さに対する彼の自負は,Salomeの直観によって否定される。サロメは彼の神聖な白い身体とそそけた黒髪を「鳩や銀の百合に満ち満ちた庭園」,「茨の冠」に喩える一方,「癩病に冒された皮膚の白」,「黒葡萄を飾ったディオニュソスの髪」に喩える。このようにsalomeにおいては,聖とともに汚れや異教世界をも内包する,矛盾に満ちた複合体としての「囲われた庭」が渇仰の対象となる。The Selfish Giantは巨人の城に付属する広大な「庭」を背景に描かれている。童話の形式を取ったこの短編は,幼子の姿をしたキリストの「囲われた庭」への訪問,巨人のキリスト迫害と回心,キリストの顕現と聖痕の提示,巨人の「楽園」への昇天を描く奇跡劇(ミステリー・プレイ)である。
著者
武笠 俊一 MUKASA Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.28, pp.11-26, 2011

古事記崇神条にある大物主大神と生玉依姫の神婚譚は「三輪山型神話」の一つとして知られている。これは「針と糸」によって若者の正体を探った神話であるが、古事記はこの神話によってオオタタネコが神の子の子孫であることを説明したことになる。その証明は「説話的論理」によってなされていた。すなわち、「針が刺された」という記述は、神の衣に糸目の呪紋が付けられたことを意味し、この記述は二人が正式な結婚をしていたことを示唆していた。そして「麻糸が三輪だけ残った」ことは、ヒメの住む村が三輪山からはるか遠くにあったことを示していた。つまり、神は遠路を厭わず河内の国のイクタマヨリヒメの元に通われたことになる。この神婚神話は、三輪山の神が奈良盆地のあまたの女性たちではなく、河内の国の娘をもっとも深く愛したことを示し、それによってオオタタネコの一族が三輪山の神の祭祀権を持つ正統性を「説話的論理」によって証明しようとしたものである。ところが古事記の神婚諄には始祖説話と地名起源説話の相矛盾する二つの要素が混在している。「麻糸が三輪残った」という伝承は後者固有のものだから、この混乱は古事記編纂者による神話改作の事実を示唆している。さらに「三輪の糸」のエピソードからは、ヒメの住む村が高度な製糸織布技術を持つ地域であったことが推測される。もしそうなら、この神婚諄の舞台は、本来は土器生産の先進地であった河内南部ではなく奈良盆地南部の三輪山の麓の村であったことになる。つまり、三輪山の祭祀権だけでなく、この神話もまた河内の人々によって纂奪されていたのである。
著者
湯浅 陽子
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.21, pp.71-85, 2004

宋代の詩風形成に大きな影響を与えた人物の一人と目される梅尭臣は、絵画鑑賞に関わる詩を多数残している。そのうち景祐二年から皇祐二年に制作された作品には、絵画における形と意・形と心の関係への言及がいくつも現れるが、描かれた人物の形と心を対比させる表現が六朝期以来のものであるのに比して、形と意を対比させる発想には唐代以降の絵画論との関わりが窺われる。またこの「意」の重視は歐陽脩によって梅堯臣の詩風と関わるものとして捉え直され、彼らの文学の特色として周囲人物による文学批評にも影響を与えている。その後皇祐三年に同進士出身の身分を得て太常博士となった後の梅尭臣は、都で洗練された美的感覚を持った友人たちと交遊し、公私蔵書画の閲覧に際して数多く長編の古詩を制作している。これらの詩の多くは前半部で主要な所蔵品の描画内容や保存状態や材質を詳しく説明し、後半部ではその他の所蔵品を具体的に列挙するという形式を採っており、一種の絵画鑑賞記録としての性格を持つと思われる。また梅尭臣らは公私蔵書画の参観に出かけるだけでなく、しばしば仲間うちの小宴で絵画を楽しんでおり、そのような場で梅尭臣が絵画鑑定家的な立場で制作したと思われる作品が皇祐年間から嘉祐年間にかけて盛んに制作されている。蔵画家たちは自己の所蔵品の価値を高めるべく、優れた絵画鑑賞眼を持つ高名な詩人による洗練された鑑定と題画詩とを求めたのではないだろうか。しかし梅尭臣が絵画鑑賞仲間との問で形と意等の問題意識を共有することは少なく、その結果、梅堯臣は初期に展開していた思考を継続して深めていくことができなかったようだ。従来文人の修養と結びつくイメージを持つ竹を描くことにおいても、梅堯臣は竹の持つ精神性に言及しておらず、墨竹に精神性を求める傾向は彼より後の世代に強くなっていくと考えられる。論説 / Article
著者
吉田 悦子
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.193-202, 2003-03-25

本稿では、日英語のパラレルコーパスとして作成された地図課題対話データを利用して、対話的談話における日英語の指示表現の分布を対照するための方法論のひとつであるセンタリング理論をとりあげ、その応用可能性について考察する。センタリング理論とは、談話における局所的な照応現象をモデル化するために提案されたものであり、英語の代名詞や日本語のゼロ代名詞が話題の中心として重要な役割を担うことを談話レベルで説明する言語モデルである。センタリング理論を対話的談話に応用する際の問題点としては、発話と発話との境界設定、対話参加者と談話内の指示対象との関係、「先行発話」の定義、談話要素を含まない発話の扱いなどが指摘されている。これらに関して具体例を提示すると共に、現時点での暫定的なベースラインの提案をおこなう。
著者
宇京 頼三
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.33-47, 1984

「何たる! 何たる自然! 何たる諧謔の泉! 何たる性癖風俗の模倣! 何たる写生! 又何たる痴態の剔抉」・・・・・・慧眼な観察家ラ・ブリュイエールの的確なモリエール観である。但し、新旧論争では古典派に与したこのモラリストは、この直前にテレンシウスと並べ、苦言を呈している。「モリエールはただわけのわからぬ文句や粗野乱暴な言いまわしを避けてくれたら、即ち清醇な文を書いてくれさえしたら、よかった。」これに対して約三百年後、リセ・ヴォルテールのモリース・ブエ教授は、クラシック・ラルースの教科書版 (旧版)『モリエール滑稽選集』の序文で次の如く述べる。「ラ・フォンテーヌとともに、わが国の古典作家のなかで最も近づき易いモリエールが、何故中等教育と補充教育の初級クラスでごく自然な位置を占めているかを想起し、またモリエールを読むことが、如何に生徒たちの言葉を豊かにし、彼らの表現力を確立し、彼らの観察精神と思考力を強化し、ひいては彼らの心を形成することになるかを示す必要は殆どない。」この点に関して、ラ・ブルュイエールの判断は見事に外れたといえる。またブエ氏は笑劇の最も滑稽な場面さえも非教育的ではないとし、モリエール劇の様々な道化的場面を中心に、中等教育向けのテキストを編んでいるのである。これはモリエールという劇作家が、フランスでは如何に身近で親しまれているか、また「粗野乱暴」と批判された彼のことばが、如何にフランス語とフランス精神の形成に与っているかを示す事例のひとつであろう。ところで、これまで筆者は、拙稿『従僕論序説』で、モリエールを中心にした従僕像を検討してきたが、この大劇作家に対しては、いわば斜に構えたものでしかなかった。従僕役という覗穴、女中役という飾窓から、その舞台衣裳の一端に触れていただけのことである。本稿では、その飾窓から一歩踏込み、この Grands Ecrivains の一人に対峙してみようと思うが、もって生れた習性で、まともに大河を遡ることは他日に委ね、不取敢筆者にとって馴染んだ戸口から入ろうという次第である。今一度ラ・ブリュイエールの言を拝借しよう。「それがもう語られなくなってから数世紀の後に、果して人は、モリエールやラ・フォンテーヌを読むために、学徒となるであろうか?」モリエール死して三世紀後、それ (フランス語) がまだ語られているうちに、遅れてきた者がいたというわけである。
著者
坂本 つや子 Sakamoto Tsuyako
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.27, pp.179-189, 2010

Constance Brown Kuriyama による Christopher Marlowe の伝記研究は、 John Bakeless に始まる、ヴィクトリア期以降マーロウ研究が盛んになって以来、次々に発見される資料をもとにした実証的研究の流れに沿っている。しかしクリヤマは膨大ではあっても、断片的な資料に基づいて過去の人物像を再構築する際に陥りがちな、先入観による事実歪曲の危険性についても認識している。クリヤマはカンタべリにおけるマーロウの一族とキングズ・スクールの教師、ケンブリッジ時代以降の友人や周辺の人々、ケンブリッジの頃から繋がりがあったと考えられる国務長官サー・フランシス・ウォルシンガムおよびバーリー卿父子、ロンドンの劇場関係者たち、およびパトロンであったトマス・ウォルシンガムやストレンジ卿、あるいはサー・ウォルター・ローリーおよびノーサンバランド伯爵等、マーロウの人生にかかわった人々との関係性について綿密に分析を行い、マーロウの人生の謎の部分について、極めて理性的な考証を行っている。
著者
友永 輝比古
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.103-111, 2002-03-25

マーロウからすると約300年前の,ブレヒトからすると約600年前の出来事,エドワード2世が即位してから獄死するまでの出来事を,これらの作家は舞台化した。ブレヒトの『イングランドのエドワード2世の生涯』は,マーロウの『エドワード2世』の翻案である。2つの作品の間には,約330年の隔たりがあり,劇形式,言葉の使い方,台詞回し,人物像等の点で大きな違いがある。逆に,その違いから時代の違いが感じられる。マーロウはイギリスのルネッサンス期を生き,ブレヒトはドイツの激動期を生きた。したがって,それぞれの作家の,それぞれ別の時代における世界観,人間観を作品から読み取ることが出来る。ここでは,2つの作品を比較し,主な登場人物の人物像の違いを述べることにする。
著者
野中 健一 石川 菜央 宮村 春菜
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.133-143, 2003-03-25

本稿では、人と生き物の関係を流動的かっ可変的なものとしてとらえ、人と生き物とが、どのように結ばれているのかということ、そこに関連する諸側面を明らかにすることを目的とした。対象地域としてフィリピン、カオハガン島を選定し、島民にとって身近な生き物であるニワトリ、イヌ、ホシムシを例に取り上げた。その結果、島民はそれぞれの生き物に対して、臨機応変に対応を変えつつさまざまな関係を成り立たせていた。それは関係そのものに対する融通性と、関係を結ぶ生物の選択に対する融通性としてとらえることができた。また、人と生き物の関係は、島の社会と大きく関わっており、人間どうしのつながりをもつくっていることが明らかとなった。さらに、人と生き物の関係の間に技能が関連していることは、それぞれの関係が、一定の型にはめられるものでなく、人と生き物の実際のふれあいにより築くことが出来るものであることを示している。
著者
塚本 明 TSUKAMOTO Akira
出版者
三重大学人文学部
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-19, 2000-03-25 (Released:2017-02-17)

近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍の死もその対象となった。基本的には宮中及び京都周辺の社寺に限定して出され、朝廷行事や神事等がその間中断された。さて伊勢神宮に京都の「触穢令」が伝えられるのは宝永六年を初発とするが、これは触穢伝染を予防するためのもので、天保年間に至るまでは伊勢神宮・朝廷側ともに、京都の触穢が伊勢にも及ぶという認識はなかった。だが伊勢神宮を朝廷勢力に取り込む志向が強まるなかで、弘化三年時には朝廷は伊勢神宮の抵抗を押し切り、触穢中の遷宮作時を中断させるに至る。両者の対立の背景には、触穢間の相違に加え、神宮神官らが全国からの参宮客を重視したことがあった。