著者
劉 勁聰
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.103-112, 2014-06

神道は日本民族の民族宗教であり、日本民族の中で発生し、その全生活の根底としてきた固有の民族宗教である。また日本民族の生活の基礎とした精神的ないとなみも広く神道と称される。中国の学術界では、日本神道についての研究は80年代に始まってから既に三十年余りになる。筆者は中国で最大の学術情報データベース(CNKI)と読秀中国語学術データベースに収録された学術図書、雑誌、学術論文、博士論文、重要学術会議論文などを検索することにより、150件の日本神道についての研究成果を収集した。本稿では、これらの研究成果に基づいて中国における神道研究を紹介し、分析するのに加えて、自身の個人的な見解を提出し、今後の研究に啓発をもたらすことができるのではないかと期待している。
著者
木村 昌紀 塩谷 尚正 北小屋 裕 Masanori KIMURA Takamasa SHIOTANI Yutaka KITAGOYA
出版者
神戸女学院大学研究所
雑誌
神戸女学院大学論集 = Kobe College studies (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.29-44, 2021-12

119番通報の件数が膨大な数に上る中、市民が適切に通報できないことが救急現場の負担や救急隊や消防隊の到着遅延の原因となっている。本研究は、円滑な通報の実現を目指して、119番通報における市民の心理的要因を探索的に検討する。20代から60代までの各世代の男女約100名ずつからなる、全国1063名を対象にインターネット調査を実施した。119番通報の際、市民の感情的動揺が激しいほど通信指令員とのコミュニケーションは阻害される一方で、通報に対する正確な知識が多いほど円滑なコミュニケーションは促進されていた。特に、初めての通報で知識の効果は顕著だった。市民が119番通報の正確な知識を身につけることは、たとえ感情的に動揺していても、通信指令員との円滑なコミュニケーションにつながる。様々な機会や方法を通じて、市民に119番通報に関する情報を周知していくことが求められる。
著者
津上 智実
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.139-153, 2014-06

讃美歌412番「わがやまとの」は、1947年6月12日、昭和天皇の神戸女学院来院時に生徒たちが自然発生的に唱和したと伝えられるが、現行の讃美歌集に掲載されず、今の教会では歌われない。この歌は一体いつから、いつまで讃美歌集に掲載され、どれほど広く歌われていたのか。讃美歌集の横断調査によって、この疑問に答えるのが本論の目的である。調査の対象は、柳澤健太郎編「国立国会図書館所蔵讃美歌目録(和書編)」『参考書誌研究』第71号(2009年11月)掲載303点の内、1947年以前に出版された106点と、手代木俊一監修『明治期讃美歌・聖歌集成』(大空社、1996~1997)全42巻で、それに神戸女学院大学図書館所蔵分を加えた。調査の結果、これらに収録された「わがやまとの」とその関連讃美歌46点を得て、「(表1)讃美歌『わがやまとの』とその関連讃美歌一覧」として整理した。この讃美歌の原詩は 'Our native Land' (John S. Dwight 1844)、先行の邦訳に永井えいこ訳「ひのもとなる」(1884)がある。松山高吉訳の歌詞「わがやまとの」の初出は『新撰讃美歌』(1888)、ジョージ・オルチン George Allchin 編曲(原曲はG.M.ギャレットと伝えられる)の旋律「Hinomoto」の初出は『新撰讃美歌』譜附改訂版(1890)で、約2年半のずれがあり、当初「わがやまとの」の歌詞は「ひのもとなる」の旋律(America)で歌われていたとの植村正久の証言がある。その後、歌詞「わがやまとの(原)」は1902年に松山自身によって改変されて「わがやまとの(改)」となり、オルチンの旋律と共に1910年以降の讃美歌集で宗派を超えて広く用いられた。この詞と曲は戦後の讃美歌集でも引き継がれ、1997年の『讃美歌21』で収録曲から外された。以上から、讃美歌412番「わがやまとの」の歌詞「わがやまとの(改)」は1902年から用いられ、同じく旋律(Hinomoto)は1890年の初出後、1910年以降は旧旋律(America)に取って代わる形で広く用いられて、キリスト教関係者に定着していたことが明らかになった。This paper aims to trace the history of church hymn no.412 'Waga Yamato no', which was sung by Kobe College students for the Imperial visit to the College on June 12th 1947. For this purpose, a survey of the church hymnals published in Japan from the Meiji Era up to 1947 has been made.I have examined 1) the hundred and six hymnals from this period out of those hymnals listed in YANAGISAWA Kentaro's 'Catalogue of Church Hymnals of the National Diet Library' (2009), 2) forty-two bolumes contained in the Collection of Meiji Era's Church Hymnals edited by TESHIROGI Syunnichi (1996-7), and 3) those in the possession of the Kobe College Library.This has resulted in a table containing forty-six occurences of the church hymn 'Waga Yamato no' and those related to it, accompanied by variants in the text and the music.The standard Japanese text of this hymn, provided by MATSUYAMA Takayoshi (1846-1935) from 'Our native Land' (John S. Dwight, 1844), first appeared in Shinsen Sambika of 1888, while there is an earlier Japanese version by NAGAI Eiko as 'Hinomotonaru' (1884). George Allchin (1851-1935) arranged a tune by G.M.Garret to the text 'Waga Yamato no' with the title 'Hinomoto', and first published it in Shinsen Sambika of 1890. In between the text was sung with the melody of 'Hinomotonaru', i.e. 'America', according to witness UEMURA Masahisa (1858-1925).In 1902, Matsuyama revised the text and this rrevised version was widely used with the melody 'Hinomoto' in church hymnals of diverse denominations and purposes especially after 1910. This hymn was ingerited also after the Second World War but removed in 1997 from Sambika21.Of the church hymn no.412 'Waga Yamato no', it was made clear that the text, that is the revised one, was sung from 1902 and the melody, 'Hinomoto', was first published in 1890 and sung widely after 1910, replacing the previous one, 'America'.
著者
須藤 春佳
出版者
神戸女学院大学
雑誌
神戸女学院大学論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.113-126, 2014-06

思春期から青年期にかけての友人関係を考える際、一対一の友人関係だけではなく、友人グループの存在が関わってくる。本稿では、この年代の友人関係における、友人グループの果たす役割や発達的な意義について、サリヴァン(Sulivan,1953)の前青春期論における「ギャング・グループ」(若年不正規集団)の発達や、保坂、岡村(1986)らの友人関係の発達論(①gang-group、②chum-group、③peer-groupへと変化)を手ががりに検討した。一方、友人グループをめぐる中学高校時の難しさについて、須藤(2012)の調査結果等を紹介した。さらには近年の友人グループの傾向について、岩宮(2012)の「ボッチ恐怖」と「イツメン希求」や、土井(2004)の「優しい関係」に展開される見解、また、最近注目されている「教室内(スクール)カースト」(鈴木,2012)をとりあげた。スクールカーストとは、学級内で、子どもたちがグループ化され、教室内の生徒の「人気」の高低によって、同時に序列化されている状態を指す。須藤(2013)の大学生女子を対象とした調査においても、スクールカーストを経験したものは少なからずおり、それについての意見は肯定的なもの、否定的なもののあれば、一長一短であるとして仕方ないと捉えているものもあった。これらの知見を受け、最後に、従来サリヴァンによって示された思春期の友人グループのあり方と現代のそれは異なってきているのではないかという点について検討した。Sulivanに示されるグループ関係では「協力」関係が中心であったのが、現代は「同調」関係が中心であるとみることもでき、現代の子どもたちが、グループに居場所を求め、狭い範囲の人間関係に気を遣い、自らを所属グループに固定化させるのは、自身の核が乏しく、不安定な自身の自己確保を行っているためではないかと考えられた。また、chum-groupの肥大化、peer-groupの蔓延化(保坂,2000)に指摘されるように、仲間関係の発達が蔓延化しているとすれば、同時に思春期から青年期の自己形成はより後に延長されていると考えられた。Thinking about adolescent friendship, not only personal friendship between two people but also informal groups of more than three members play an important role. In this thesis, the role of informal groups of adolescents is discussed, referring to the theory of some researchers. Furst, the theory of preadolescence by Sullivan (1953) and the theory of developing phases of friendship by Hosaka et al. (1986) are introduced. Sullivan says that "gang-group" develops during preadolescence, in which the group members are engaged with collaboration. Hosaka et al. suggests a theory of the developing phases of friendship from chilhood to adolescence; ① gang-group, ② chum-group ③ peer-group. On the other hand, the results of Sudo (2012) suggests the difficulty of the relationship of informal groups, especially during junior high school and high school. Furthermore, some researchers say that the tendency of recent adolescent friendship has been changing. Those are shown in "a terror of 'Being Isolated' (Bocchi)" and "a Desire for 'Belonging to a Regular Group' (Itsumen)" by Iwamiya (2012), "gentle relationship" by Doi (2004), and "school caste" by Suzuki (2012). School caste means the state of the class; pupils in the classroom are divided into some groups, and at the same time,ranked according to popularity. According to Sudo (2013), many university students answered that they had experienced school caste in their adolescence. Their thoughts about school caste varied, some were positive, some were negative, and the others were both positive and negarive.Finally, it was discussed that the style of informal groups today has changed from that of Sullivan's era. The relationship of Sullivan's informal group consisted of "collaboration", but the relationship of informal groups of recent adolescents consists of "sympathizing." Recently adolescents want to belong to one informal group, stick to the group, and care a lot about the relationship with their small group members. Why do they do so? It is discussed that their core self is vulnerable, so they ask for the acceptonce of others (thier group members). Also, as Hosaka (2000) suggests, the periods of "chum-group" and "peer group" tend to be extended and adolescents' self-making processes may also be extended and delayed longer than ever.
著者
高橋 雅人
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.127-137, 2014-06

プラトンの『ポリティコス』と『国家』とはどのような関係にあるのだろうか。本論文はこの問いに答えるために、『ポリティコス』における理想的な政治家が『国家』における哲人王にではなくて、理想国の創設者に対応することを明らかにする。『ポリティコス』と『国家』の関係がいかなるものであるかについては、そもそも関係を論じないもの(加藤)、異質であることを強調するもの(スコフィールド、チェリー)、同質であることを主張するもの(カーン)、といった解釈がなされてきた。1で筆者はこういった解釈を簡単に紹介し、2でそれらに対する批判を述べる。筆者の見るところ、加藤の解釈はアリストテレスの最善のポリスの在り方についての考え方を楽観的にとらえすぎているように思える。スコフィールドの解釈は理想国の創設者がどのように誕生するかをプラトンがなぜ論じていないことを見落としている。チェリーの解釈はエレアからの客人とソクラテスとの違いを強調しすぎる。確かにエレアからの客人は、哲人王を主張するソクラテスとは違って、哲学者と政治家とを区別する。しかしたとえ哲学者と政治家が区別されるのだとしても、同一人物が哲学的知と政治的知の両方を持つことを妨げるものではない。かくして筆者は最後の解釈を取るカーンの議論に賛成する。しかし、カーンの解釈にも批判すべき点はある。3で筆者はそれを述べ、自己の見解を明らかにする。カーンは理想的な政治家と哲人王を同一視するが、筆者はその解釈をとらない。なぜならば、理想的な政治家が法を超えた存在であるのに対して、哲人王は確かに法をつくる働きは持つが、しかし国家の根幹をなす重要な法はこれを決して変えないことが期待されているからである。『ポリティコス』における理想の政治家はむしろ理想国の「創設者」と同一視されるべきなのである。
著者
河西 秀哉
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.75-91, 2013-06

本稿が明らかにするのは、初期のうたごえ運動の活動実態である。うたごえ運動は、1948年に関鑑子(せきあきこ)によって、中央合唱団が結成されたことにより始まった。1953年に「第1回日本のうたごえ祭典」が開催され、その後、全国に急速に広まっていく。中央合唱団は共産党系の青年組織である日本共産青年同盟の音楽部門として結成されたことからもわかるように、共産党の影響を大きく受けていた。しかしうたごえ運動は共産党の影響下にあったわけではなく、社会の動向に大きく影響を受け、歌を通して平和を追求する運動を行っていた。これまで、うたごえ運動の研究はほとんど行われてこなかったが、近年になって急速になされるようになってきた。しかし、一次史料がほとんど検討されていないこと、初期の動向がほとんどわからないことなどの問題が残っている。そこで本稿は、中央合唱団の機関誌『うたごえ』の分析を通じて、1940年代後半から1950年代初頭にかけてのうたごえ運動の実態の解明を行った。その結果、①みんなで歌うという行為に活動の重点を置いていたこと、②平和を追求するような思想を持ち、そのような歌を歌っていたこと、③ロシア音楽や日本民謡を特にレパートリーとしていたこと、などが明らかになった。
著者
杉瀬 祐
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.30, no.2, pp.11-34, 1983-12
著者
松田 央
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.47, no.1, pp.65-89, 2000-07
著者
平井 雅子
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, pp.1-64, 2004-12-20

明治という時代の誕生と子規、漱石という個人の誕生、その人生は重なる。そして、日本は西洋文明を必死に吸収し列強に屈せぬ力をつけようと、日清日露戦争への道を歩んでいく。その間、松山の元下級武士の子で上京した子規と、江戸の町衆の家に生まれ英語をよくし後に英国留学することになる漱石とは、東大予備門で出会い互いの人柄才能に引かれてから十数年間、書簡を交わし互いの詩文を批評し、影響を与え続ける。二人は生い立ち、性格も異なり、ともに漢文、漢詩をよくし伝統的詩文に才能を発揮しながらも、ことに西洋文化、思想の受容の仕方において、自らの文学の求め方において違いをみせるようである。広く西洋の思想を学ぶ必要を説き、東西文学を公正に批評して文学を求めようとする漱石と、文学の実践創作を重んじ新聞紙上で俳句を中心に和歌の批評と文学運動を展開し、一般の日本人にありのままの生活を写す写生文を広めようとした子規は、しばしば論争を展開する。その子規は日清戦争に従軍しながら帰国語に喀血し、入院後、英語教師として松山にいた漱石の元へ転がり込むが、傍若無人な子規を受けいれながら、このとき漱石が俳句を作り始めた意義は大きい。すなわち、二人の差異と衝突、対話、それを支えた友情の証ともいえる往復書簡の中で、次第にそれぞれの文章の創造的変化、新しい文学が形作られていった。本論文は、二人の文章の中にその軌跡を見出し、その過程を明らかにする。ロンドンからの手紙は、百年前の世界一の大都会で、英語を自由に話せないストレス、恥辱、偏見、貧窮、疎外感に苦しんだ人間、漱石の姿を伝え、同時に、労働者階級の人々の人間性に触れた漱石の熱い想いやユーモアが脈々として、すでに一巻の文学である。一方、東京・根岸の子規庵で脊髄カリエスの苦しみに耐えていた子規は、ロンドンの漱石の手紙を無上の喜びとし、もう一通こんなのをよこしてくれまいかとねだるが、狭い病床から死の直前まで草花、人間、あらゆる生と青空を見つめ、写生文の中に最後まで命の輝きを求めていた。漱石の主張した「思想」と子規かたどりついた「写生」。すでに英文学者、漱石の皮は破れ、人間小説家、漱石がはじけ出ようとしていた。そこに行くまでの、二人の十数年間の往復書簡が織り成す友愛、尊敬、批評、人間性、その思想と実践がたどった文学創造の過程は、東西を超え百年を超えた意味をもつ。
著者
孟 真理
出版者
神戸女学院大学
雑誌
論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.51, no.3, pp.9-25, 2005-03-20

Die 1995 veroffentlichten autobiographischen Erinnerungen von B. Wilkomirski haben als authentischer Bericht einer Kindheit im KZ und als Text mit hoher literarischer Qualitat Anerkennung gefunden. 3 Jahre spater ist jedoch dieses Buch als Fiktion entlarvt worden, so dass es zu einem medialen und literarischen Skandal gekommen ist: es hat sich namlich herausgestellt, dass der Autor seine eigenen traumatischen Kindheitserlebnisse, die eigentlich mit dem Holocaust nichts zu tun batten, mit Hilfe der Psychotheapie auf die bekannteste Leidensgeschichte der Zeitgeschichte projiziert hatte. Wie kam der Schweizer dazu, sich als jiidischer KZ-Uberlebender auszugeben? Warum hat das Publikum trotz aller Ungereimtheiten seine Erinnerungen geglaubt? Woran lag die emotionale und empfindliche Rezeption bzw. Reaktion der Medien und der Leserschaft bei der Veoffentlichung sowie nach der Entlarvung? Aus welchem Grund wurde das Buch nach der Entlarvung nicht nur moralisch verurteilt, sondern auch ihm die bisherige literarische Wertung aberkannt? In diesem Aufsatz wurde versucht, nden Fall Wilkomirski"-bei der Entstehung, Publikation und Rezeption des Textes sowie bei der spateren Enthiillung als Erfindung-zu interpretieren, und zwar in Hinblick auf Wechselbeziehungen zwischen individuellem Erinnern und kollektivem Gedachtnis an den Holocaust in der europaischen Gedenkkultur der 90er Jahre. Dabei kommt es darauf an, den Text Wilkomirskis im Vergleich zum allgemeinen Erwartungshorizont des Publikums an die Holocaust-Literatur zu analysieren, womit man hoffen kann, klarzumachen, welche Eigenschaften des Textes und welche Rezeptionsmechanismen des Publikums dazu beigetragen haben, dass das am Anfang als Meisterwerk der Erinnerungsliteratur geschatzte Buch letztlich zum Kitsch entwertet worden ist.
著者
奥村 キャサリン
出版者
神戸女学院大学
雑誌
神戸女学院大学論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.93-102, 2014-06

会議通訳やコミュニティ通訳など他の通訳のカテゴリーと違い、ビジネス通訳に関する研究は多くない。これまでの通訳研究は、会議通訳に携わる通訳者の認知プロセスやスキルを研究対象としているため、どの通訳カテゴリーにおいても同じような仕事になるという誤解を生む可能性がある。実際には、これらの通訳カテゴリーによって、業務の性質や求めれるスキルは大きく異なる。この事実は、通訳者の間ではよく理解されているものの、ビジネス通訳の性質や必要な能力を明確にする研究がほとんどないため、実務経験のない通訳学習者にとって、ビジネス通訳という職業は未だに謎である場合が多い。本研究では、言語学者のデル・ハイム氏による「SPEAKING モデル」というコミュニケーション能力に関するモデルを用いて、ビジネス通訳の分析を試みる。その上で、日本でのビジネス通訳に必要とされる通訳技術以外のスキルと、通訳者が直面する課題について述べる。本研究により、今後各種の通訳養成コースにビジネス通訳の社会的要素やコミュニケーション要素が取り入れられるようになることを期待したい。
著者
Capasso Carolina
出版者
神戸女学院大学
雑誌
神戸女学院大学論集 (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.49, no.2, pp.109-143, 2002-12

Il prete siciliano Giovanni Battista Sidotti, approdato in Giappone il 29 agosto del 1708,sottoposto l'anno seguente all'interrogatorio mediato dal filosofo confuciano Arai Hakuseki, e morto nel 1714 nella prigione cristiana di Edo, e l'ultimo missionario del periodo Tokugawa. Il suo nome, conosciuto attraverso alcuneopere famose di Hakuseki, "Seiyou kibun" e "Sairan lgen", e diventato persino argomento di letteratura contemporanea. Tuttavia la sua immagine non riesce a superare quella generica di un missionario europeo qualsiasi. Probabilmente perche la maggior parte degli studi su di lui ha il limite di essere un'appendice agli studi su Hakuseki. In questa tesi mi propongo di riflettere sul personaggio Sidotti, come missionario di un'epoca caratterizzata da opinioni contrastanti, vale a dire il periodo dopo la controriforma cattolica. Tramite un'analisi dell'epoca e dell'ordine religioso cui apparteneva il nostro, sara possibile arrivare a tracciare una sua immagine il piu possibile attendibile. Come prova del fatto che gli studi per una vera identificazione di Sidotti siano ancora agli inizi, sara sufficiente la confusione che regna a proposito dell'ordine religioso di appartenenza. In particolare, dopo la riforma religiosa degli inizi del XVI secolo, e la conseguente moltiplicazione delle interpretazioni teologiche, per cui non si riesce piu a distinguere nettamente tra eretico e ortodosso, l'identita di ciascun ordine religioso diventa di fondamentale importanza. La maggior parte dei documenti giapponesi vogliono Sidotti ora gesuita, ora francescano; ma si tratta di supposizioni prive di fondamento, che lasciano ampio spazio ad altre ipotesi. Preziosi si sono rivelati i dialoghi con Hakuseki. L'identita di Sidotti si intravede, in particolare, quando si affrontano problemi di teologia : la sua posizione rispetto ad alcune controversie intracattoliche appare quella di Propaganda Fide, cioe di un misurato equilibrio e di una cauta tolleranza. L'obiettivo di questa tesi, cioe dare un volto ad un missionario che fino ad oggi era stato considerato quale semplice postilla di una presenza piu imponente, quella di Hakuseki, si inserisce nel tentativo di ridipingere il quadro dell'incontro tra Hakuseki e Sidotti e, quindi, dello scambio culturale, sotto una diversa e, forse, oggettiva angolazione.