著者
平沢 弥一郎 臼井 永男 Yaichiro Hirasawa Nagao Usui
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.91-113, 1988-03-30

詩篇は王冠をちりばめた宝石のように,その一つ一つが小さくて純,そして自由な光を放っている.旧約中最も愛読される.これは旧約と新約との橋渡しをし,ルーテルはこれを抱いて逃げさり,カルビンはその死床において第6篇を口ずさんだという. 詩篇が多くの入に親しまれるのは,詩であるがためである.理屈でなく,心の底から感じたまま流れ出たものである.だからまた人の心の奥深いところに入り込んでくる.詩経,古今集にもその例を見る.詩はまた飛躍する.たとえば旧約時代に人は復活を信じていなかったと言われるが,16:1Oには確かに復活を思わせる表現がなされている.また73:25,26は,自分の地上生活はだんだんみじめになるばかりで,神を信じた功徳はないが,それでも「神はわが厳なり!」と歌っている. 詩篇には,〓〓〓〓(tehillim)という表題がついている.この語は「ハッレルー・ヤーハ」(ヤハをほめたたえよ)では動詞の形で出てくる〓〓〓という語源から作られた名詞で,「讃美の歌」を意味する.詩篇全体にこの名称がつけられたのは,詩篇150篇がユダヤ教団の讃美歌集として認められた頃であっただろう.より古い時代には「祈り」〓〓〓〓(tephillah)という名称がよく見られるが,この名称はことに詩篇の中に多い歎きを訴える歌を指す場合に用いられる. 「讃美の歌」と「歎きの歌」,この二つが詩篇の中心であると言えよう. 著者らは,この二つの歌の中に「人の体」に関する用語がどのように歌われているかに着目し,その用語を日本聖書協会訳から全部拾い上げ,それらが旧約聖書の中で,どのような箇所で,またどのような意味で用いられているかを調べ,かつその一つ一つのヘブライ原語,New English Bible, Luther それに関根正雄訳に当たって比較することを試みた. さて拾い上げた用語は40種類におよび,その延べ回数は650回という膨大な数に上ることがわかった.次に示す用語は回数の多い順で( )内はその使用回数である. 手(131),目(77),口(71),足(48),顔(42),耳(37),舌(34),頭(27),唇(26),血(19),身(16),骨(16),肉(15),角(13),腕(12),歯(7),胸(6),ふところ(6),胎(6),のど(4),腰(4),毛(3),まぶた(3),鼻(3),あご(3),ひざ(3),からだ(3),首(2),指(2),ほお,ひとみ,ひげ,肩,腹,内臓,背,くびす,脂肪,髄,きば(夫々1回). 聖書は「手」の動作をもって種々の表象としている.手を上げることは神に対する祈り,また民への祝福であった.また「目」については,ヘブライ原語〓〓〓(eēnayim)は854回も使われており,この語の頻出度が高いことは人間生活において目がいかに重要な役割をもっていたかを示す.人類の堕落が「目」をとおしてはじまったものであり,そしてその目を神にむけなければならないという聖詩人の叫びは,詩篇において絶頂に達している. また,聖書が言語の器官である「口」を,「言語」の意味において用いていることは,抽象概念を具体的なものを用いて表現するヘブル人の特徴を示す好例として興味がある.沈黙は口に手を当てること(ヨブ40:4),大胆に語る自由は「口を開く」(エペ6:19)と表現された. 詩篇の中に「手」「目」「口」の頻度が高いのは,聖詩人たちは,両手を高くさしのべ,目を上に見はり,そしでのどが張り裂けんばかりに,神を讃美し,また歎きを赤裸々に訴えたのであろう.そしてその生き生きとしたかれらの祈る姿がありありと浮かんで来るようである.
著者
奥宮 清人 稲村 哲也 木村 友美 Kiyohito Okumiya Tetsuya Inamura Yumi Kimura
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of The Open University of Japan (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.69-79, 2015-03-20

インドのラダーク地方において、チャンタン高原(標高4200-4900m)の遊牧民、都市レー(標高3600m)の住民、及び農牧地域のドムカル谷(標高3000-3800m)の農民・農牧民を対象に医学調査を行なった。その結果、①生活習慣病(糖尿病、高血圧など)が都市でより多く発症していること、②標高が高いほど高血糖の率が高いこと、③高カロリー食・高ヘモグロビンの群に高血糖の率が高いだけでなく、低カロリー食・低ヘモグロビンの群においても高血糖が多い、などが明らかになった。①についてはエピジェネティックスや節約遺伝子の考え方によってある程度説明できる。しかし、②や③については説明がつかない。そこには、高所における低酸素への適応が作用しているからである。 Beallによれば、高所への遺伝的適応の方式として、チベットの住民は、肺活量を大きくし、低酸素に対する呼吸応答を調節し、血管を拡張して多くの血液を体に流す「血流増加方式」をとっており、アンデスの住民は、「ヘモグロビン増加方式」をとってきた。 私たちの健診の結果、Beall仮説を指示する結果がでた一方、高齢者の場合、都市レーや生活スタイルが変化しはじめたドムカルで、多血症(高ヘモグロビン)が多くみられるという、Beall仮説に矛盾する結果がでた。また、多血症と糖尿病の相関が認められた。 そこで、その原因を究明した。その結果、高所における酸化ストレスの実態、低酸素と酸化ストレスの関係、酸化ストレスと糖尿病の強い関連がわかってきた。チベット系住民は、NO増加による血管拡張と血流増加によって、低酸素に対する有利な適応をしてきた。ところが、高齢とともに、生活スタイルの急激な変化によって適応バランスが崩れると、多血症や高脂血症を発症して体内低酸素を生じ、その結果、NOの過剰な増加等により酸化ストレスが高まり、かえって糖尿病や老化を促進する。糖尿病と酸化ストレスは相互に影響しあい、症状は重篤化するのである。
著者
笠原 潔
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.93-105, 2008

1839(天保十年)年6月、長者丸という名の難破船が太平洋でアメリカの捕鯨船に救助された。救助された7人はハワイに送られたが、そこで船頭の平四郎が死亡した。生き残った6人の乗組員はハワイで1840年まで生活した後、1843年に日本に帰還した。ハワイでの彼らの生活は、日本側(『蕃談』『時規物語』、その他)・アメリカ側(メアリー・シャルロッテ・アレクサンダ-の『ラハイナのボールドウィン博士』第10章に所収)に記されている。驚いたことに、これらの資料は遭難前の乗組員たちの日本での生活や遭難後のハワイでの生活の記述において、非常によく一致している。いくつかの記述は、双方の欠を補うものである。そこで、アレクサンダ-の書の第10章を日本語に訳して、これに日本側の資料に基づき、注を付けることにした。
著者
井口 篤
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.63-68, 2011

本稿の目的は水村美苗の小説『私小説 from Left to Right』を言語とアイデンティティの観点から論じることである。『私小説 from Left to Right』は日本語と英語の二言語で書かれており、二言語のどちらにも共感できない水村の深い疎外感が作品には色濃く現れている。水村は多くの日本人読者を失う代償を払って小説に英語を織り交ぜるのだが、それは日本語と英語の二言語を受け入れつつも距離を取らざるを得ない水村の作家としての苦境を表現しようとしたものである。
著者
島内 裕子 Yuko Shimauchi
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of The Open University of Japan (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.31, pp.130-119, 2013

本稿では、近世に出版された数ある徒然草の注釈書の中から、『徒然草句解』(1661年刊)に焦点を当てて、この注釈書の特徴を明らかにするとともに、徒然草自体に内在する問題意識を掘り起こすことを目指す。 近世前期に刊行された各種の徒然草注釈書と『徒然草句解』を比較することによって、『徒然草句解』の注釈態度が、従来言われてきたような、儒学の立場からの注釈というよりは、むしろ『源氏物語』や『枕草子』や和歌などを通して、徒然草の本質に迫ろうとする傾向が顕著である事実を明らかにする。 また、『徒然草句解』は、数多くの箇所で、徒然草の連続する章段間の照応に着眼する注釈を付けており、この点に『徒然草句解』の新しさと達成があると評価できる。 さらに、徒然草注釈書を、研究的な詳細なものと、読みやすさに力点を置いた一般向けの簡略なものに大別するならば、『徒然草句解』がその中間に位置すること、および、そのスタンスこそが、徒然草という作品を広範な読者たちに開くと同時に、徒然草の奥深い世界に分け入る道標となっていることを明らかにする。
著者
森 津太子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.31-39, 2012

近年、自由意思に関する関心が心理学者、とりわけ社会心理学者において高まっている。しかし研究者間の見解の相違は大きく、何が争点であるのかも明確ではないのが現状である。そこで本稿では、2009年に開催されたSocietyfor Personality and Social Psychologyの年次大会の中で行われた二人の著名な社会心理学者(John A. BarghとRoy F.Baumeister)による自由意思の存在をめぐる討論と、それに関連する論考に着目し、社会心理学における自由意思の問題について考察を行った。自由意思の存在を肯定するBaumeisterと、その存在を懐疑的に見ているBarghは、興味深いことに、いずれも進化心理学的な観点からこの問題を捉えようとしていた。しかし、Baumeisterは自由意思を進化的適応の産物と見なし、自由意思こそが人間が文化を営む上で必須のものだと考えているのに対し、Barghは自由意思の存在を否定し、そのような"何ものによっても引き起こされない行為の原因"を仮定することは非科学的だと主張している。彼は、無意識的過程こそが進化的適応の産物であり、意思すらも自動化されたものだと主張する。彼によれば、意思とは「遺伝的に継承されたものと、幼少期に吸収した文化的規範や価値観と、個人の人生経験の合流点」なのである。二人はまた、自由意思を信じることの心理学的意味においても意見を違えており、Baumeisterが自由意思を信じることには心理学的な効用があると考えているのに対し、Barghはそのような効用は限定的で、時には有害にすらなると反論する。このように、彼らの見解は平行線を辿り、最後まで一致を見ることはなかったが、彼らの討論の内容を吟味することにより、社会心理学における自由意思をめぐる問題の重要なポイントが何なのかが明確になった。
著者
青山 昌文
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.85-90, 2007

ディドロの『絵画論断章』は、美学の領域におけるディドロの最後期の著作の一つである。本研究において、我々は、この『絵画論断章』のテクストのうちの第46断章から第50断章までを日本において初めて日本語に翻訳し、それらについて美学的、文献学的、歴史的な注釈を加えることにしたい。注釈にあたっては、今日までに刊行されている全ての『絵画論断章』の現代的校訂本を照合するだけではなく、フランス国立図書館に保管されている『絵画論断章』の手書き筆写原稿をも照合し、更に、ハーゲドルンやその他の著作家の著作並びに18世紀の代表的フランス語辞書である『トレヴー辞典』などをも参照する。我々の研究において論じられるのは、以下の主題である。断章46:美、快、怪物断章47:美と恐怖断章48:オウィディウスとホメーロス断章49:詩と絵画断章50:オウィディウスの『転身物語』の主題ディドロ美学は、通常一般に思われているのとは反対に、極めて一貫した、肯定的・建設的な美学である。
著者
黒須 正明
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.71-83, 2010
被引用文献数
1

機器やシステムの設計における人間中心設計(HCD) の枠組みは、教育におけるインストラクショナルデザイン(ID)の枠組みときわめて類似している。近年、HCDの分野においては、ユーザエクスペリエンス(UX:UserExperience)という概念が注目されており、著者も、購入前の期待感、購入時のインタラクションによる印象形成、購入後の実利用による評価という3 フェーズに分けたモデルを提唱している。特に3 番目のフェーズにおいては満足感が重要な指標とされ、それをどのように測定するかが課題となっている。本稿では、この考え方を学生の学習経験(LX:Learning Experience)と学生満足度(Student Satisfaction)にも援用しようと試みた。ただし、IDにおいては教育場面特有の事情を考慮しなければならない。本稿では学生満足度に関する概念構造とその測定法を、このようなHCD分野との比較において論じた。
著者
渡邉 融
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.236(1)-211(26), 1996
著者
広瀬 洋子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.89-102, 2011

ICT活用は世界の大学のあり方を大きく変えようとしている。放送大学においても、従来の放送授業から、インターネットによるオンデマンド型配信授業で学習する学生が増加しており、印刷教材のデジタル化も検討課題になりつつある。 日本でこうしたICTによる学習の変革を一番切実に必要とし、ここ20年、パソコンを最も先鋭的に活用し学習に役立ててきたのは視覚障がい学生である。2011年現在、放送大学に学ぶ視覚障がい者は142名。全国の高等教育機関に学ぶ視覚障がい者の20%を占めている。 放送大学では第一期卒業生の杉山和子氏がボランティア組織「菜の花の会」を立ち上げ、視覚障がい者が抱えていた印刷教材を読むことの困難さに支援がなされた。放送大学がこの地道な活動を継承し、ICTを活用した活動として発展させるために、「菜の花の会」のこれまでの活動を振り返り、記録しておきたい。
著者
大石 和欣
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.107-118, 2008

1780年代から社交界のお騒がせなセレブとして注目を浴びたロビンソンだが、感性と詩才に恵まれた詩人であり、小説家としても活躍していた。彼女が最晩年に書いた「亡霊たちの浜辺」は、そうした彼女の詩的資質をもっとも典型的に示していると同時に、女性として、また詩人として彼女が置かれた不安定な環境を多分に反映したものである。シャーロット・スミスが顕著に示した女性的な感受性言語の残響を内にとどめながら、コウルリッジの「老水夫行」から題材や主題を借用している点で非独創的だが、斬新な韻律によって女性としての不安と孤独を吐露している点で独創性を確保している。詩の不均質な言語と不統一な語りの声は、詩のテクスト内の分裂を生んでいる。さらに、そこには、実生活や経済、ジェンダーのすべてにわたって不安定に動揺し続けるロビンソンの苦悩が潜んでいるだけではなく、18世紀末の社会において女性一人の力で生きようとした女性たちが直面したジレンマと実存的な不安が映し出されている。中途半端な言語と語りは、同時代の詩人との間テクスト的交渉の上に成り立った、分裂し、動揺し続ける女性のアイデンティティの姿なのである。
著者
佐藤 康邦
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.45-53, 2010

『判断力批判』の第一部「美的(直観的)的判断力の批判」の「美の理想」について語られる場面で、カントは、美的判断に含まれる知的契機に関して、踏み込んだ考察を加えている。それが、「美の理想」を構成する二つの契機のうちの、「美的(直観的)基準理念」についての考察である。人間の形姿、またサイズには、種に固有な基準、典型というものがあるという考え方に従う概念である。カントの表現では、「美的(直観的)基準理念」というものは、「ある種族に属するすべての個々の個体の美的(直観的)判定の普遍的尺度として役立つような、その形態の構成における最大級の合目的性、すなわちあたかも自然の技巧の根底に意図的であるかのようにすえられている心像」であるとされている。身長、体重、鼻の高さ、口の大きさすべてに、それぞれ、理想の美人、美男子にふさわしいサイズというものがある。これは、私たちの心のうちで知っている観念、理念であり、それが個々の個体の美的判定の際に尺度を与えてくれるという。その際重要なことは、その理念は、構想力が与えてくれるとされていることである。『判断力批判』では、『純粋理性批判』とは異なって、悟性に対決する位置に置かれているのは、直観ではなく、構想力である。ということは構想力が直観に重ねられているということ、したがって、基準理念は感覚に近づけられているということである。さらに、この基準理念が生得的なものなのか、経験を通して獲得されるものなのかに関するカント記述は、これを「諸直観の間に揺よう曳えいする心像」としていることから明らかなように誠に微妙なものとなっている。しかし、この揺れ動きにこそ、この概念の今日的な意義があると思われる。そこに、ゲシタルト心理学や、認知心理学におけるアフォーダンス概念やトップダウン概念に関わるものの先駆形態が見出されるだけではなく、無意識に関する理論全体の捉え直しにつながるものが見出されるからである。
著者
工藤 庸子 笠間 直穂子 南 玲子 郷原 佳以
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.51-63, 2005

平成17年度に開設された面接授業「初歩のフランス語」は、まったくフランス語に触れたことのない学習者が5回の授業を通して発音の原則を覚え、簡単な挨拶を交わすことができるようになることを目標としている。また同時に、異文化を内包する市民社会という点において日本にはるかに先んじているフランスおよび広域フランス語圏について馴染んでもらうことで、「社会、文化、歴史に開かれたモティヴェーション教育」を行うことを目指している。実際の授業では、一方向的な放送授業との差異化を図り、教師と学生のふれあいを大切にし、学生の反応に応じて、また時事問題などを取り入れながら、臨機応変に授業を運営する方針をとっている。こうしたヴィジョンに則って、担当講師たちがオリジナルの共通教材を制作した。「共通教材」とは、すべての教室で共有する最小限のコンテンツであり、各講師はそれをもとに自由に授業を展開することができる。今回制作したのは、カラーの図版やイラストを豊富に用いた6ページのコピー教材と、教材の例文のネイティヴ講師による発音を録音した音声教材である。教材制作は授業計画に沿って行われた。授業計画において、初回と第2回は発音やアルファベットを丁寧に解説し、第3回から第5回までは「パリ」、「フランス諸地方」、「フランス語圏」をテーマにして会話練習等を行うこととした。そこで、それぞれの地域について分担して資料を集め、カラー教材に収めた。教材の具体的な活用については、平成17年度1学期の担当講師による授業報告を参照していただきたい。初回と最終回の授業では、フランス語および授業についてのアンケートを実施した。アンケート結果の分析によって、生きた知識を取り入れながらコミュニケーションの手段としてのフランス語の基本を学ぶ「初歩のフランス語」の試みが好スタートを切ったことが窺える。
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.156(11)-138(29), 2007

東京藝術大学大学美術館蔵「徒然草画巻」は、三巻・計五十三図の徒然絵を収める画巻である。狩野派や英派の絵師たちだけでなく、谷文晁や鳥居清長など著名な絵師も含む。本稿は、この画巻の各々の場面が徒然草のどの章段を描いているかを特定し、従来知られている他の徒然絵と比較検討しながら描き方の特徴や配列、制作意図などを考察した。本画巻には俳画風の簡略な絵が多いが、これらの絵は徒然草の文学的な雰囲気をよく捉えており、徒然絵の一つの到達点として評価できる。
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.302(21)-279(44), 2003

江戸時代には、『徒然草』の著者である兼好が、晩年を伊賀国種生で過ごし、そこで没したとする説が流布していた。この説を反映して、種生という地名を題名にした『種生伝』という兼好の伝記が書かれた。また、伊賀国地誌には、兼好の墓のことが記載され、そこには種々の兼好伝の記事も載せられている。江戸時代には、伊賀国にある兼好の墳墓とされる塚が文学的な名所となっていたのである。芭蕉の弟子の服部土芳もここを訪れている。さらに近代になってからも、伊賀種生の兼好の旧跡を訪ねる人々は「種生探訪」とも言うべき、訪問記を書いているし、地元でも兼好の旧跡が顕彰された。本稿では、種生の兼好旧跡を実地に調査し、地元資料も踏まえて、近世から現代にいたるまでの、種生における兼好終焉伝説とその展開を概観し、次の四点から考察した。第一に、種生常楽寺に現存する『兼好上人略伝』の紹介と、近世兼好伝におけるこの作品の位置づけについて。第二に、『標柱伊賀名所記』に書かれた兼好関係資料について。第三に、服部土芳における兼好と『徒然草』への関心について。第四に、種生を訪れた人々の探訪記と地元での兼好顕彰について。以上の考察を通して、文学作品としての『徒然草』だけでなく、著者である兼好への関心も近世から現代にいたるまで、一貫してかなりたかかったことが明らかになるであろう