著者
四柳 嘉章
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.29-47, 2018-03-30

本稿では中世的漆器生産へ転換する過程を,主に食漆器(椀皿類)製作技術を中心に,社会文化史的背景をふまえながらとりあげる。平安時代後期以降,塗師や木地師などの工人も自立の道を求めて,各地で新たな漆器生産を開始する。新潟県寺前遺跡(12世紀後半~13世紀)のように,製鉄溶解炉壁や食漆器の荒型,製品,漆刷毛,漆パレットなどが出土し,荘官級在地有力者の屋敷内における,鋳物師と木地・塗師の存在が裏付けられる遺跡もある。いっぽう次第に塗師や木地師などによる分業的生産に転換していく。そうしたなかで11~12世紀にかけて材料や工程を大幅に省略し,下地に柿渋と炭粉を混ぜ,漆塗りも1層程度の簡素な「渋下地漆器」が出現する。これに加えて,蒔絵意匠を簡略化した漆絵(うるしえ)が施されるようになり,需要は急速に拡大していった。やがて15世紀には食漆器の樹種も安価な渋下地に対応して,ブナやトチノキなど多様な樹種が選択されるようになっていく。渋下地漆器の普及は土器埦の激減まねき,漆椀をベースに陶磁器や瓦器埦などの相互補完による新しい食膳様式が形成された。漆桶や漆パレットや漆採取法からも変化の様子を取り上げた。禅宗の影響による汁物・雑炊調理法の普及は,摺鉢の量産と食漆器の普及に拍車をかけた。朱(赤色)漆器は古代では身分を表示したものであったが,中世では元や明の堆朱をはじめとする唐物漆器への強い憧れに変わる。16世紀代はそれが都市の商工業者のみならず農村にまで広く普及して行く。都市の台頭や農村の自立を示す大きな画期であり,近世への躍動を感じさせる「色彩感覚の大転換」が漆器の上塗色と絵巻物からも読み解くことができる。古代後期から中世への転換期,及び中世内の画期において,食漆器製作にも大きな変化が見られ,それは社会的変化に連動することを紹介した。
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.208, pp.143-164, 2018-03-09

縄文時代の関東地方の後期初頭には,多数の遺体を再埋葬する多数合葬・複葬例という特殊な墓制が存在する。このような事例は,再埋葬が行われた時期が集落の開設期にあたる,集落や墓域において特別な場所に設けられている,幼い子供は含まれない,男性が多いといったいくつかの特徴が指摘でき,現在までに6遺跡7例が確認されている。このような墓制は祖霊祭祀を行う際に「モニュメント」として機能したと思われるが,同様の意味を持ったと思われる事例は,福島県三貫地貝塚や広島県帝釈寄倉岩陰遺跡などでも確認されており,時期や地域を越えて確認できる墓制だと思われる。従来,同様の事例とされてきた千葉県下太田貝塚から検出された3例を今回検討したところ,下太田貝塚の事例はいずれも,「モニュメント」としての意義をもつ多数合葬・複葬例の特徴に該当しないことがわかった。このことから,筆者は下太田貝塚の事例は,「モニュメント」としての意義は持たず,単に遺体を集積し「片付けた」ものと判断した。また,縄文時代の後半期には墓を含む大型の配石遺構などが「モニュメント」化し,祖霊祭祀の拠り所となるものが多くなるが,このような多数合葬・複葬例もその文脈の中で理解できると思われる。すなわち,縄文時代の後半期においては,集団関係の新規作成や集団統合・紐帯強化のための一つの手段として,人骨および墓の利用が行われるようになり,「記念墓」がその新しい集団の「シンボル」・「モニュメント」となるような状況が創出された。その精神的・技術的背景には,系譜関係の意図的切断・統合といった,系譜的な死生観の応用が存在する。大規模な配石遺構も含めて,シンボル化した「モニュメント」において祖霊を祀ることによって,さらなる集団関係が再生産されていくとともに,何故に自分たちがそこに存在し,各種資源を優先的に使用するのかという正統性を表示・再確認することになる。そこには新たな「伝統」の確立が意図されており,祖霊観の存在および祖霊祭祀の意義を読み取ることが可能である。
著者
瀬口 眞司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.208, pp.191-213, 2018-03-09

関西地方の縄文社会の地域的特色,それを醸し出した要因や背景を問うた。議論のポイントは,〈資源の収穫期間の長さ〉と〈資源利用の方向性と強化の程度〉である。そこで,出土堅果類,打製石斧数,磨製石斧数,堅果類貯蔵量の数量的分析などを行った。結果,東日本に比べ,遺跡出土の堅果類はより多様で,収穫期間もより長く,集約的な労働編成の必要性が低かった可能性を改めて見いだした。また,土地・森林の開発強化には消極的で,資源利用の強化の程度も低く抑えられていたことも見いだせた。関西縄文社会の集団規模は極小さく,求心的な社会構造も生まれていないが,それは資源環境が貧しいからではなく,集団の求心性よりも世帯の自律性が優先され続け,社会の階層化や財・権力の集中にブレーキをかける仕組みが保持されていたからであり,収穫期間がより長い森林資源環境が,その地域的特色の維持を支えていたと考えられる。
著者
岡 惠介
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.319-355, 2003-03-31

本稿は,北上山地の山村における藩政時代以来の森林利用を,商品生産や生活のための利用などに分類しながらその実態を洗い出したものである。商品生産のための利用としては,藩政時代にその起源が求められる養蚕,狩猟,たたら製鉄,牛飼養,大正から昭和初期以降の枕木生産,製炭,昭和30年以降のパルプ・用材生産がある。年間伐採量を推定すると,森林に与えるダメージが大きかったといわれているたたら製鉄用の製炭による森林伐採は,昭和期の製炭やパルプ・用材生産のための森林伐採に比べればその規模は小さい。また,たたら製鉄は三陸沿岸に比較的多く,製塩の燃料用木材の伐採も同様で,北上山地の中央部では大規模な伐採はなかった。製炭による大規模な森林伐採は,昭和10年ごろからの自動車道路の開削によってスタートし,途中からパルプ・用材生産に移行しながら,林道の延長・整備によって昭和60年代まで継続し,安家の主たる生業の位置にあった。この50年以上にわたる森林伐採に耐えうる大径木の豊富な森林は,安家川中下流域では,たたら製鉄衰退後の明治から大正期に蓄積され,また上流域では藩政時代以来の蓄積によるものであったと考えられる。生活の中では様々な森林の植物が利用され,資源の枯渇を招くような採取はみられず,また道具類の素材になる性質・形状をもった野生植物が,巧みに利用されてきた実態が浮かび上がってきた。また信仰儀礼のための森林資源の利用が多く,山村の人々の心の部分においても,森林の資源が欠かせなかったことが確認できた。現在の森林利用の重要なものに燃料としての利用があり,未来にむけた循環型社会のモデルとして,山村の薪の伝統的な利用形態を支えていく地域のシステム作りが必要であると考えられる。
著者
和田 晴吾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.247-272, 2009-03-31

古墳での人の行為を復元し,遺構や遺物を検討することで,前・中期の古墳を,遺体を密封する墓としての性格と,「他界の擬えもの」としての性格の,二つの面から捉えようと試みた。この段階では,人は死ぬと魂は船に乗って他界へと赴くとされたが,遺体は棺・槨内に密封され,そのなかで生前のような生活を送るとは考えられなかった。奈良県巣山古墳で発見された船は,実際の葬送の折に,魂が他界へと旅立つ様子を現実の世界で再現するためのものだった。他界の内容は,船に乗って他界へと至った死者の魂は,くびれ部の出入口で船を降り(船形埴輪),禊をし(囲形埴輪),斜面を登った岩山の頂上の防御堅固で威儀を正した居館に棲むが,そこは飲食物に満ち,日々新たな食物が供えられるといったものだった。葺石や埴輪や食物形土製品は他界を演出するための舞台装置や道具立てで,中期中・後葉には,これに人物・動物埴輪が加わった。しかし,横穴式石室が採用されると地域差が顕在化する。後期に石室が普及した畿内では,石室は「閉ざされた棺」を納める「閉ざされた石室」で,遺体は,前代同様,棺内に密封され,玄室内は死者の空間とはならなかった。墳丘に人が登らなくなり,舞台装置や道具立ては形骸化しだしたが,古墳は「他界の擬えもの」として存続し,石室は「槨」的な性格を受けついだ。一方,中期に石室が採用されだす九州北・中部では,石室は「開かれた棺」を備える「開かれた石室」で,そこは死者が生前と同じような生活を続ける空間となった。その場合,家形埴輪とは別に死者の棲む家が用意されるが,玄室の天井が天空を表しそのなかに家形の施設を配する場合と,玄室空間そのものを死者の宿る家とする場合とがあった。『古事記』の黄泉国訪問譚の舞台は前者にあたる。ここでは,墳丘上の他界と,石室内部の他界の,二つの性格の異なる他界が入れ子状態で共存した。このような棺や石室の系譜は,中国の北朝や高句麗の一部に求めることができる。
著者
横山 泰子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.43-55, 2012-03-30

江戸時代に日本で作られた手品の解説本の中には、手品のみならずまじないの情報が掲載されている。こうした記事は手品史の観点からはあまり注目されないが、奇術と呪術が渾然一体となっていた当時の人々の感覚を知るうえで面白い研究対象といえる。本論では、中国の『神仙戯術』の翻訳からはじまる近世日本の手品本を概観し、その中に記されたまじないを取り上げた。初期の『神仙戯術』や『続神仙戯術』は、手品をはじめ、呪術や生活術などを集めている。もともと中国でも、種や仕掛けを用いて不思議な現象を見せる娯楽としての手品と、まじない等の情報が混在していた。日本の手品観は、中国の手品観の影響を受けていると思われる。また、中国の呪術と似たものが日本の本にも見られるので、文献を通じて中国のまじないが日本人の日常生活の中に浸透していったと考えられる。ただし、まじないの方法には日中で異動がある。外国の呪術は、日本の生活環境にあうよう、改変されて伝えられたのだろう。本来まじないは口頭で秘密裏に伝えられるものだったと考えられるが、江戸時代においては生活上の実用的な知識として本に記されて流布した。奇しくも、まじない本や手品本、占い本等のいわゆる「秘術」を公開する文献は、十七世紀後期に刊行されはじめる。この時期を日本における秘術公開時代の幕開けと考えてみたい。手品本のまじないは、先行の呪術系の書物に類似するものが見られる。専門書の中のまじないの情報が、手品本の中に流入していったものと思う。手品本に記されたまじないには、呪歌を伴うものや、書記行為を伴うものがある。近世日本では、十七世紀から民衆の識字率が向上したが、そうした社会的背景が、手品本の存在や字を書くまじないのあり方と関係している。行為者の能力や資質にあわせて、様々なまじないができるようになっているところに、江戸時代のまじない文化の大衆性を感じる。
著者
平川 南
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.118, pp.253-281, 2004-02-27

中世の幕府は、なぜ鎌倉の地に設置されたのか。おそらくは、鎌倉の地を経由する海上ルートは、中世以前に長い時間をかけて確立されてきたものと想定されるであろう。小稿の目的は、この歴史的ルートを検証することにある。最近発見された、三浦半島の付け根に位置する長柄・桜山古墳は、三浦半島から房総半島に至る四〜五世紀の前期古墳の分布ルートを鮮やかに証明したといえる。また、八〜九世紀には、道教的色彩の強い墨書人面土器が、伊豆半島の付け根の箱根田遺跡そして相模湾を経て房総半島の〝香取の海〟一帯の遺跡群で最も広範に分布し、さらに北上して陸奥国磐城地方から陸奥国府・多賀城の地に至っている。また古代末期の史料によれば、国司交替に際しても、相模―上総に至る海上ルートが公的に認められていたことがわかる。このルートは『日本書紀』『古事記』にみえるヤマトタケルの〝東征〟伝承コースと符合する。これは古東海道ルートといわれるものである。上記の事例の検討によって、ヤマトから東国への政治・軍事・経済そして文化などの伝来は、古墳時代以来伊豆半島・三浦半島・房総半島の付け根と海上を通る最短距離ルートを活用していたことが明らかになったといえる。この西から東への交流・物流の海上ルートの中継拠点が鎌倉の地である。中世の鎌倉幕府は、そうした海上ルートの中継拠点に設置され、西へ東へ存分に活動したと考えられる。
著者
義江 明子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.49-77, 2009-03-31

金石文に立脚した記紀批判・王統譜研究を前進させるためには,氏族系譜の系譜意識を視野にいれ,かつ,刻銘の素材にこめられた観念と銘文を総合的に考察する必要がある。そこで,最古の氏族系譜である稲荷山鉄剣銘に焦点をあて,鉄剣に系譜を刻む意味を,銘文構成上重要な位置にあると推定される「上祖」の観念とその歴史的変化に注目して分析し,以下の四点を明かにした。①上祖は「始祖」とは異質の祖先表記で,七世紀末以前の地位継承次第タイプの系譜冒頭に据えられた祖である。「上祖」が「始祖」表記に移行するのは書紀編纂の頃である。②銘文刀剣を「下賜」という上下の論理のみで読み解くことには疑問がある。稲荷山鉄剣銘文は,王統譜接合以前の,「上祖」を権威の淵源とする原ウヂの側の自生的な系譜伝承世界をうかがわせる貴重な資料である。③七支刀の象嵌界線に顕著なように,刀剣の形状・呪力と刻銘内容は一体不可分である。鉄剣の鎬上に系譜を刻む行為には,霊剣の切先に天の威力を看取する神話,後世の竪系図の中央人名上直線との類比からみて,重要な信仰上の意味がある。④稲荷山鉄剣系譜を神話的系譜観の観点から考察すると,「地名+尊称」の類型的族長名をつらねた部分は,ウヂ相互の同時代における現実の同盟関係(ヨコの広がり)をタテの祖名連称(ウヂの歴史)に置き換えたものと推定される。これは,祖父―父―子という時系列血統観による父系系譜とは,全く異質の系譜観である。ここから,首長層の共有する観念世界をとりこみつつ,それを超越するものとして王統譜が形成され,七世紀末~八世紀初にかけて時系列直系血統観への転換がはかられることを見通し的に述べ,あわせて,歴史認識における〈始まり〉の設定,系図を通して過去と向き合う〈姿勢〉についてもふれた。
著者
大本 敬久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.191, pp.137-179, 2015-02-27

祖霊観念は日本人の間に抱懐されているものであり,民俗学の重要な課題とされてきた。柳田国男は『先祖の話』の中で「三種の精霊」として祖霊,新仏,無縁という異なる精霊の存在を提示し,盆行事に関する研究や正月の前後に行われる魂祭を研究する一つの指標とされてきた。本稿ではまず「祖霊」の用例を検討してみたが,柳田は「祖霊」の語彙を積極的には用いておらず,三種の精霊についても柳田は「みたま」を基本語彙として説明している。この「祖霊」を以て様々な民俗事例や歴史上の文献史料を解釈していくことは危険であり,その認識に立った上で平安,鎌倉時代における暮れの魂祭に関する文献史料,『枕草子』や『徒然草』等を確認した。また,これらの文献に見られる御魂祭と東日本に広く伝承されている「みたまの飯」については多くの研究者が関連づけて記述してきたが,本稿での検討の結果,正月が「祖霊」を祀る日であったわけではなく,少なくとも,そう遠くない直近の死者の魂が帰ってきて,食物を供えて饗応する日だったと考える方が適当であることを指摘した。そして平安,鎌倉時代に行われていた魂祭と現在の東日本の「みたまの飯」が時代的に連続しているという説にも再検討が必要である事を指摘した。そして,現在の正月とその前後に行われる死者霊の供養や祭祀について,東日本の「みたまの飯」,中国地方の「仏の正月」,四国地方の「巳正月」など,正月から死者供養などの儀礼を避けてきた結果,日本列島の中で正月前後の魂祭や死者供養の民俗に地域差が生じている事を明確にした。このように本稿は列島の民俗事例を俯瞰することで明らかになる地域差を提示した上で,歴史史料も積極的に援用し,比較検討を進めるという試論であり,列島の民俗分布をもとにどのような歴史的展開や社会的要因が背景としてあったのかを考察するという新たな比較研究法の提示を試みるものである。
著者
中島 経夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.49-63, 2011-01-31

コイ科魚類の咽頭歯がもつ生物学的特性から,遺跡から出土する咽頭歯遺存体を分析することによって先史時代の人々の漁撈活動の様子を知ることができる。日本列島では,縄文時代からイネの栽培が始まり,弥生時代には灌漑水田での稲作が始まる。淡水漁撈の場と稲作の場が重なりあってきた。西日本の縄文・弥生時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体についての情報がある程度蓄積し,淡水漁撈と稲作の関係について述べることができるようになった。西日本の縄文・弥生時代における漁撈の発展は,稲作との関係から,0期:水辺エコトーンでの漁撈が未発達の段階,Ⅰ期:水辺エコトーンでの漁撈が発達する段階(Ia期:原始的稲作が行われていない段階,Ib期:漁撈の場での原始的稲作が行われる段階),II期:稲作の場(水田)での漁撈が発達する段階,に分けることができる。長江流域では,Ia期に漁撈の場(水辺エコトーン)でのイネの種子の採集が加わる。長江流域の漁撈と稲作の関係については,咽頭歯遺存体から多くを述べることができない。というのは,これまで,中国での咽頭歯遺存体についての詳しい研究は,河姆渡文化期の田螺山遺跡の例をのぞいてまったくない。今後,新石器時代の遺跡から出土する咽頭歯遺存体の研究が進むことによって,漁撈と稲作の関係や稲作の歴史について言及できるはずである。
著者
鈴木 靖民
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.315-327, 2009-03-31

7世紀,推古朝の王権イデオロギーは外来の仏教と礼の二つの思想を基に複合して成り立っていた。遣隋使は,王権がアジア世界のなかで倭国を隋に倣って仏教を興し,礼儀の国,大国として存立することを目標に置いて遣わされた。さらに,倭国は隋を頂点とする国際秩序,国際環境のなかで,仏教思想に基づく社会秩序はもちろんのこと,中国古来の儒教思想に淵源を有する礼制,礼秩序の整備もまた急務で,不可欠とされることを認識した。仏教と礼秩序の受容は倭国王権の東アジアを見据えた国際戦略であった。そのために使者をはじめ,学問僧,学生を多数派遣し,隋の学芸,思想,制度などを摂取,学修すると同時に,書籍や文物を獲得し将来することに務めた。冠位十二階,憲法十七条の制定をはじめとして実施した政治,政策,制度,それと不可分に行われた外交こそが推古朝の政治改革の内実にほかならない。
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.47-91, 1993-03-25

東日本の弥生時代前半期には、人の遺体をなんらかの方法で骨化したあと、その一部を壺に納めて埋める再葬制が普遍的に存在した。再葬関係と考えられている諸遺跡の様相は、変化に富んでいる。それは、再葬の諸過程が別々の場所に遺跡となってのこされているからである。再葬は、土葬―発掘―選骨―壺棺に納骨し墓地に埋める―のこった骨を焼く、または、土葬を省略してただちに遺骸の解体―選骨……の過程をたどることもあったようである。遺体はまず骨と肉に分離し、ついで骨を割ったり焼いたりして細かく破砕している。骨を本来の形をとどめないまでに徹底的に破壊することは、彷徨する死霊や悪霊がとりついて復活することを防ごうとする意図の表れであろう。すなわち、この時期には死霊などを異常に恐れる風潮が存在したのである。この時期にはまた、人の歯や指骨を素材にした装身具が流行した。これは、死者を解体・選骨する時に、それらを抜き取って穿孔したものであるが、一部の人に限られるようである。亡くなった人が生前に占めていた身分や位置などを継承したことを示すシンボルとして、遺族の一部が身につけるのであろう。再葬墓地の分析によれば、十基前後を一単位とする小群がいくつも集まって一つの墓地を形成している。そのあり方は縄文時代の墓地と共通する。したがって、小群の単位は、代々の世帯であると推定する。再葬墓は、縄文時代晩期の信越地方の火葬を伴う再葬を先駆として、弥生時代前半期に発達したのち、弥生中期中ごろに終り、あとは方形墳丘墓にとってかわられる。しかし、再葬例は関東地方では六世紀の古墳でも知られているので、弥生時代後半期には人骨を遺存した墓が稀であるために、その確認が遅れているだけである可能性も考えられる。
著者
薦田 治子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.166, pp.153-187, 2011-03-31

本論文は平成21年度に国立歴史民俗博物館で行われた紀州徳川家伝来楽器コレクションの琵琶の調査の報告と,その結果に関する論考である。今回の調査の対象としたのは,同コレクション内の23面の琵琶のうち,中国琵琶を除く日本の琵琶22面である。調査の第1の目的は,これらの琵琶の楽器としての特徴を考える上での基礎的なデータを観察と計測によって,提供することである。第2の目的は,琵琶のX線撮影や,小型カメラによる槽内調査により,琵琶の構造や製作技術について明らかにすることである。第3の目的は,やはり小型カメラを用いて,槽内に記された墨書を観察することである。琵琶槽内にはしばしば楽器の製作や修理に関する情報が墨書されており,それらは入替や作成が可能な付属文書の情報よりは信憑性が高い。こうした目的のもとに調査を行った結果以下のようなことが明らかになった。まず,測定結果から,琵琶を大きさによって大中小の三つのグループに分けることが適当と考えられた。80cm以上90cm未満の中型の琵琶の数が8面に上り,この大きさの琵琶も大型のもの同様よく用いられていた可能性が指摘できた。また,従来,中型の琵琶や80cm未満の小型の琵琶について論じられることは少なかったが,小型の琵琶は数も少なく,用いられ方も特殊で,今後は中型とは別に考えるべきであろう。次に琵琶の構造については,解体している雲鶴(H‒46‒103)によって基本的な構造を観察することができ,小型カメラによる槽内観察やX線撮影によって,特殊な構造を持つ琵琶を見出すことができた。さらに,5柱の接着痕から平家琵琶として使われたことがあきらかな3面の琵琶は,文書類や撥の形から判断して,雅楽琵琶として利用するためにこのコレクションに加えられたと考えられるが,平家琵琶は基本的には雅楽の中型琵琶と違いはなく,その相違は,撥面の月装飾,柱,乗弦といった付属的な部分にあり,十分転用が可能であることが判明した。そのほか,細部の製作上の工夫や修理の仕方など,多くのことが観察から明らかになった。また平家琵琶のものとされていた撥が,薩摩盲僧琵琶の撥であることが判明し,薩摩琵琶の楽器史の一面があきらかになった。本調査の計測結果は様々な活用方法があると思う。また,槽内観察やX線撮影の有効性が確認されたことにより,今後の琵琶の楽器調査の方向も示せたと思う。
著者
原田 信男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.41-54, 1995-01-20

律令国家体制の下で出された肉食禁断令は平安時代まで繰り返し発令され,狩猟・漁撈にマイナスのイメージを与える「殺生観」が形成されるようになる。鎌倉時代に入ると,肉食に対する禁忌も定着してくる。しかし,現実には狩猟・漁撈は広範囲に行われており,肉食も一般的に行われていた。そこで,狩猟・漁撈者や肉食に対する精神的な救済が問題となってくる。仏教や神道の世界でも,民衆に基盤を求めようとすれば,殺生や肉食を許容しなければならなくなった。ところが,室町時代になると,狩猟・漁撈活動が衰退し肉食が衰退していくという現象が見られる。室町時代には,殺生や肉食に対する禁忌意識が,次第に社会に浸透していったように思われる。一方,農耕のための動物供犠は中世・近世・近代まで続けられていた。肉食のための殺生は禁じられるが,農耕のための殺生は大義名分があるということになる。日本の社会には,狩猟・漁撈には厳しく,農耕には寛容な殺生観が無意識のうちに根付いていたのである。
著者
伊庭 功
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.351-362, 1999-03-31

滋賀県大津市域の琵琶湖底に所在する粟津湖底遺跡は,縄文時代早期初頭から中期前葉を中心とする時期に営まれ,琵琶湖においては数少ない大規模な貝塚を伴う遺跡である。1990~1991年に航路浚渫工事に伴って実施された湖底の発掘調査では,中期前葉の第3貝塚が新たに発見された。ここには貝殻や魚類・哺乳類の骨片とともに,イチイガシ・トチノキ・ヒシの殻が良好な状態で保存されていて,当時の動物質食料・植物質食料の両方を同時に明らかにした。これらをもとに,種類ごとの出土量を栄養価に換算して食料として比較を試みたところ,堅果類,特にトチノキが大きな比率を占めていることがわかり,従来から行われてきた推定を具体的に証明することができた。また,同じ調査区で早期初頭の地層からクリの殻の集積層も検出され,中期前葉とは異なる種類の堅果類が利用されていたことがわかった。この相違は早期初頭と中期前葉の気候および植生の相違によるものと推定される。また,第3貝塚から,日本列島において約50万年前に絶滅したと考えられてきたコイ科魚類の咽頭歯が発見され,この魚類が絶滅したのが約4,500年前以降であったことを示し,その絶滅には人の活動が大きく関わっていたことが推測された。このように,粟津湖底遺跡の調査は人の生業について具体的な事実を明らかにしたばかりでなく,それと環境変化との関わりをうかがわせる資料も提供した。