- 著者
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野平 慎二
- 出版者
- 一般社団法人日本教育学会
- 雑誌
- 教育学研究 (ISSN:03873161)
- 巻号頁・発行日
- vol.67, no.3, pp.281-290, 2000-09
この論文は、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論を手がかりとして、教育の公共性の問題について論じるものである。従来、教育の公共性の問題は、学校と国家との関係の問題として論じられ、国家による公共性の独占と、国家権力による学校教育への干渉を国民の側でいかに防ぐかが大きな論点であった。しかしながら今日では、むしろ国民として一括されてきた人々の多様性が前面に現れ、そのことによって教育の公共性が揺るがされるとい事態が生じている。例えば、さまざまな共同体のアイデンティティーの承認の要求と公教育の中立性をいかに調整するのか、自由主義的な教育における選択拡大の要求と、教育の共同性をいかに調整するのか、といった事態である。ひるがえって、ハーバーマスは、市民的公共圏の理念を現代社会の条件のもとで実現させるべく、コミュニケーション的行為の理論とディスクルス原理を提示している。市民の公論による権力のコントロールという公共圏の理念が教育の分野においていかなる形で実現可能なのかを探ることは、なお問うに値する問題であろう。以下ではまず、ハーバーマスの説く政治的公共圏の可能性について、自由主義および共同体主義との対比を通して考察したい(I)。続いてその政治的公共圏を担うコミュニケーション的主体とその形成について論じる(II)。この作業を通して、教育の公共性とは、共通善や普遍的人権といった、教授可能な実体が備える性格として考えられるべきではなく、私的であると同時に公的であるという主体の両義性をつねに保持してゆくために遂行される議論と実践の過程を停滞させないための一種の仕掛けとして捉えられるべきであることを示したい。