著者
南部 広孝
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.87-107, 2021-07-07 (Released:2023-04-08)
参考文献数
37

本稿は,日本における比較教育学研究の動向を手がかりとしつつ,アジアの教育に関する研究を展開する意義や可能性について考えようとするものである。アジア諸国は,それぞれ独自の歴史や伝統を有するとともに,国民国家を形成する過程で欧米由来の制度を外部から取り入れ,それを自らの社会にあうように調整してきたり,新たな制度を作りだしたりしてきた。そうしたアジアの国や社会における教育制度や教育現象を当該社会の文脈にそって全体的に把握するとともに,他の国や社会との比較やグローバルな視点からの検討を行うことを通じて,教育のあり方を考えるうえでより多くの,多様な手がかりが得られるようになる。その際,欧米社会を基礎にして組み立てられた理論を比較の作業に組み込んだり,一つの国や社会,地域の教育制度や教育現象を対象とした,当該国を含む複数国の研究者からなる国際共同研究を組織したりして,比較のための複数の視点を確保することで,教育事象をより総合的に理解することができるようになる。他方で,比較の前提として,対象とする国や社会と自らとの関係をどのように措定するのか,また国としての一体性やアジアとしての共通性(類似性)をどのように認識するのかについてはより自覚的であることが求められる。
著者
伊藤 未帆
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.67-86, 2021-07-07 (Released:2023-04-08)
参考文献数
34

本稿は,筆者の専門分野である地域研究の立場から,日本の教育社会学が直面する「専門」と「対象」のあいだの相克(異質性のディレンマ)への解決に向けて,これまでの視点をいったんずらしてみることの必要性を説いた。地域研究とは,西洋近代社会が作り出した伝統的な「専門」の枠組みでは対応できないような「異質」な事象に遭遇したとき,その「専門」の舞台設定や理論をどのように修正すればその事例を取り込むことができるかを提案しうる学問分野,すなわち「想定外」を「想定内」へと位置づけるための方法を模索するためのアリーナである。こうした視点から,教育社会学という「専門」に対し,ベトナムの事例から見えてくる具体的な「想定外」の例として,今日のベトナム大卒労働者の学校から職業への移行の過程で,①すでに廃止された「制度的連結」が雇用慣行の中で実践され続けていること,②同時に,家族・親族ネットワークに代表される社会(個人)ネットワークが労働者の能力を示すシグナルとして活用されている可能性があること,という二点を指摘した。
著者
黄 順姫
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.39-65, 2021-07-07 (Released:2023-04-08)
参考文献数
14

本論文は,個人が取得した学歴を投資の視点からとらえ,日本と韓国において学歴を社会の構造と個人の実践の文脈で相対的に比較分析を行った。本研究の結果は,社会構造的,文化的,心理学的な時限において学歴の機能が両方の社会で重要な類似性と相違を表している。研究の結果,以下の知見が得られた。第一に,学歴インフレ,デジタル社会で,学歴は両方の社会で,取得者の社会経済的な地位が降下する可能性を最小化し防いでくれることである。学歴のこのような作用を,社会的「地位降下防衛機能」と称することにする。 第二に,日本と韓国の教育制度・システムはそれぞれ固有の特徴がある。その社会的背景には,日本と韓国の社会で社会階層,不平等,教育機会の関係について固有の文化が存在しているのである。日本の高校教育では,偏差値の格差による学校別トラックシステムが存在し,同じ学校には学力の類似した生徒たちがいる。そのため,日本の高校は学校別トラックがあり,また,庇護移動,敗者復活の困難,集団主義の特性がある。韓国の高校教育では,日本のような偏差値によるトラックシステムがなく,同じ学校には学力の分布で明確な差異を見せる多様な生徒がいる。そのため,韓国の高校は,生徒の偏差値の多様性,トーナメントの競争移動,敗者復活,個人主義の特性がある。 第三に,日本と韓国の社会的,文化的特性が女子生徒の大学進学率,及び4年制か2年制の高等教育機関への進学パターンに影響を及ぼしている。 第四に,日本と韓国の高校では,将来について不安を抱いている生徒が約7割で多いのが共通している。日本では,生徒は格差トラックの同じ学校のなかで学歴の分布が類似しているので大学入試への激しい競争は低く,学業への不安を感じることは低い。むしろ,学内での人間関係における不安のほうが相対的に大きい。韓国では,学校別トラックがなく,ほとんどの生徒が大学進学を目指すため,大学入試による激しい競争による不安が相対的に高い。 日本と韓国の教育社会学者は,投資としての学歴の視点から多様で持続的な研究と政策提言が必要であろう。
著者
有田 伸
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.19-38, 2021-07-07 (Released:2023-04-08)
参考文献数
14

本稿は,計量的な社会学研究を事例として,日本と他のアジア社会との比較研究はいったい何をなし得るのか,またそのさらなる可能性を追求するためには,どのような点に留意しながら研究を進めていけばよいのかを,いわば研究の舞台裏に当たる部分にも積極的に触れながら検討していく。本稿ではまず,コーン(Kohn)の分類に基づき,比較社会研究の類型を確認した後,具体的な研究事例に即して,アジア比較社会研究が何を目的としており,具体的に何を行っているのかを,知見の導出プロセスにまで踏み込みながら考察する。さらに計量的な比較社会研究には,調査票の翻訳過程にも,社会間の微細な差異を見出し,それぞれの社会の特徴に関して新しい研究を進めるための契機が存在していることを,筆者が経験した2005年SSM調査プロジェクトの韓国調査を事例に論じる。また比較社会研究の契機は,さまざまな媒体を通じた社会間接触や社会間関係に着目することによっても得られることが示される。これらを通じ,大枠では類似しながら細部は微妙に異なる日本と他のアジア社会との比較研究は,私たちが自明視してしまっている想定や価値観の相対化を通じて,新たな研究を進めていくための契機をもたらしてくれるのみならず,理論的な貢献や,日本社会研究の国際発信への寄与など,多くの大きな意義を持つものと結論付けられる。
著者
片山 悠樹 中村 高康
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.7-17, 2021-07-07 (Released:2023-04-08)
参考文献数
21

アジアへの研究関心が高まりつつあるなか,日本の教育社会学はアジアの教育に対してどのように向き合えばよいのだろうか。欧米との比較を通して発展してきた日本の教育社会学は,アジアとの関係のなかで自らの課題や立ち位置を問い直す時期に差しかかっているのはないか。本稿の目的は,各論稿の要約を行ない,アジアから教育を見る可能性を提示することである。 論文の要約を通じて,次の2つの視点が浮かび上がった。 ひとつ目は,対象との距離感である。欧米との比較で浮上する異質性は,歴史的文脈や社会的価値・規範の違いから,目につきやすいかたちとなりやすいが,アジアという類似性の高い社会との比較では,異質性は目につきにくい可能性がある。そうした微妙な異質性に対してセンシティブになるためには,それぞれの研究者が「類似性」をいかに設定するのかという対象との距離感は重要となると思われる。 ふたつ目は,理論との距離感である。理論の多くは欧米の現実から生れたものであり,欧米の理論を無自覚に内面化することには注意しなければならない。アジア社会の現実を欧米とは異なる視座で適切に理解する作業は欠かせず,そのためにも欧米産の理論に対していっそう自覚的になる必要があろう。
著者
数実 浩佑
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.49-68, 2017-11-30 (Released:2019-06-14)
参考文献数
32
被引用文献数
2 1

学力格差のメカニズムを考察する際の有力な理論として,文化的再生産論があげられる。しかしこの理論に基づく実証研究においては,ある1時点において親から子へ文化資本が伝達されるメカニズムに注力してきた一方で,通時的な観点から子どもの文化資本(知識,ハビトゥス)がどのように変化するかを分析した事例はほとんどない。そのため,ある1時点において生じる学力格差を説明することはできても,なぜそれが維持・拡大するかを説明することができていない。 そこで本稿では,「なぜ学力の階層差は維持・拡大するのか」という問いを設定し,パネルデータを用いた計量分析を通して検討していく。その際,学力と学習態度における因果の方向に着目し,両者に双方向の因果関係が見られるかについて明らかにしたうえで,学力格差のメカニズムについて考察する。 主な知見は次の3点である。(1)学年が上がるにつれて,学力に対する家庭の文化資本の影響が弱まっていく。(2)学年が上がるにつれて,学力の時点間の相関の強さが強まっていく。(3)学力と学習態度の間に双方向の因果関係が見られる。 分析結果をふまえ,スキルの自己生産性とポジティブ・フィードバックという概念を用いて,低学力の子どもにさらなる不利が累積するという仮説を提示し,家庭の文化資本に起因する初期学力の差が,その後の学力格差の拡大に不可避的に転じていくメカニズムの重要性を強調した。
著者
岩木 秀夫
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.80-92,en198, 1977-09-30 (Released:2011-03-18)

Joint selection or “sogosenbatsu” has now become one of the most important issues about senior high school education. The most controversial point about it is whether it degenerates academic standard of senior high school education or not. This paper deals with this problem.The hypothesis has been held by advocates of joint selection system that equal distribution of high school entrants' academic ability (which ought to resolve school differential) among several schools (which constitute one school set) through joint selection would, far from lowering academic standards of high school education, raise it on the contrary. In the context of “school production function” study in America, the opinion that asserts the existence of peer cultural influence on cognitive output was exposed to severe criticism, but in Japan it might have every reason to be believed in, in view of her different racial and social class situation. According to this opinion, dissemination of “academic culture”, in stead of confining it into limited elitist schools, would elevate the level of academic output from school system as a whole. Hence the hypothesis cited above.Comparison before and after implementation of joint selection system of academic output, which is measured by a percentage of applicants who were admitted, from fourteen school sets in five prefectures shows maintenance or upgrading of its standards in all cases. In some cases, considerable uprising which suggests the effect of joint selection was observed. Cross-sectional analysis of nation-wide data in 1975, however, made it clear that the standard of academic output correlated with university entrance ratio (r=.76), but not with school differential (r=.01). Correlation between upgrading of academic standards and resolution of school differential found out by trend analysis of fourteen cases, therefore, came out to be false correlation. Thus, initial hypothesis was not supported. The effect of hitherto overlooked factor, i. e. university entrance ratio, was brought to light by this study.
著者
石川 准
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.105-124, 2001-05-25 (Released:2011-03-18)
参考文献数
22

An increasing number of people have come to believe that the currentschool system has failed to adapt to the rapid social changes taking placetoday, and has somehow become fundamentally dysfunctional.Educational reformers for the most part assert the necessity oftransforming the system from a discipline-oriented to a self-actualizationoriented one, namely substituting the school as a producer of useful andsubmissive workers by the school as a supporter of self-actualization.Historically, the modern education system was designed to instillbasic habits and ways of thinking which could last consistently throughoutan individual's life. The concealed but clear function of education inmodern industrial society was to cast children into a mold of industrialworkers.However, the contemporary social system demands workers who havethe strong ambition to develop their ability as workers and have strongwork motivation and the desire to continuously educate themselves to learnnew technology and knowledge.Therefore, educational reformers seek useful management technologyin order to motivate people toward self-actualization. Professional interestgroups of counselors have responded to this demand for new customersby gradually ridding themselves of the medical paradigm an adopting aneducational one.Critics who see devices for modern discipline and training to beunnecessary or even harmful, and who view counseling as a useful toolfor such devices, are against school counseling.On the other hand, there are people who believe schools shouldcontinue to play an important role for discipline and training, but whoconsider that traditional methods are no longer effective. Those who seethings in this way and consider counseling as a useful new tool fordiscipline and training obviously welcome school counseling.This author is personally in favor of a school system which promotesself-actualization, but is critical of traditional counseling with its inclinationto eliminate problems without solving by emotion management. The authoris also opposed to the social construction of counseling as an authentichuman relation.Many problems involving schools arise from their excessive roles andfunctions. Nobody can exit from the school as a total institution, becauseeverything resides inside them. This author's belief is that shelters and otheroptions should be provided outside.
著者
高旗 正人
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.75-88, 2002-05-15 (Released:2011-03-18)
参考文献数
19

The purpose of this paper is to analyze the process through which new types of problems of deviance have taken place in contemporary Japanese schools, referring to the perspectives of organization studies, especially those of T. Parsons and A. Etzioni.Schools, as instructional groups, must be orderly and systematic in order to achieve their given tasks. Confronted with a growing number of deviant pupils, Japanese schools have attempted to enlarge and strengthen control and punishment. However, these strategies have again driven schools into trouble in two ways. First, they have raised external criticism that schools themselves are unusual and deviant. Second internally, schools have seen the emergence of new kinds of deviant behaviors, namely bullying (ijime) and school non-attendance (futoko). To deal with such problems, the Ministry of Education has proposed to weaken control and punishment in schools, i.e. to build a “supportive climate, ” and to enhance their “group-maintenance functions.”It is said that punishment serves to tame deviant pupils and to quiet down learning groups. But this order is transient, for once the coerciveness is withdrawn the situation returns to the original state. Ijime is often a by-product of coerciveness. It is believed that oppressed pupils will attack others too weak to strike back. As forfutoko, among the causes for its increase is the current trend toward toleration in school education. Once instructional control is weakened, there can be a loss of the sense of belonging among pupils who, under coercive situations, readily identified themselves with the school. This suggests that schools should develop new school guidance practices to foster the “moral involvement” of pupils.
著者
木村 祐子
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.159-178, 2010-06-30 (Released:2017-04-21)
参考文献数
19

本論文は,少年非行がこれまでにはみられなかった診断で説明・解釈されつつあることに着目し,実践家(家庭裁判所調査官,法務技官,法務教官)が医療的・非医療的な解釈や実践を構成していく過程を明らかにした。研究方法は,実践家17名へのインタビュー調査である。 第1節は,医療化と医療の不確実性に関する先行研究を概観し,非行の解釈や実践に医療と非医療が混在していることを示した。そして,諸障害が矯正の現場で普及した背景を整理した。非行の医療化は,医療の不確実性が実践家によって運用・管理されることで進行するため,それらを分析する必要があった。 第2節は,インタビュー調査の概要を提示した。 第3節では,矯正の現場に医療的な解釈が介入する過程を概観し,そこでみられる不確実性の特徴とそれらの運用・管理のされ方を検討した。第一に,非行少年は新しい診断で解釈されていたが,実践家は以前から少年を経験に基づいて医療的に解釈・対処しており,矯正における医療化はゆるやかに進んだ。第二に,非医療的な要素は,医療が介入した後も,医療の不確実性として表出した。それは,医学上の不確実性と組織上の不確実性に類型化できた。しかし,実践家はそれらを肯定的に意味づけたり,医療と非医療的な要素を戦略的に使い分け,医療的な解釈を実践の資源として用いていた。このように,不確実性が管理・運用される過程で構成されるものとして医療化現象を捉えていく必要がある。
著者
葉柳 正
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.110-123,en208, 1968-10-05 (Released:2011-03-18)
被引用文献数
1

The purpose of this study was to examine the hypothesis based on Carl R. Rogers' Personality Theory:The understanding (empathic) child-rearing attitude of mothers contributes to the development of their children's “stable” personality, whereas the rejecting one to their “unstable” or maladjusted personality.(Procedures)A special set of questionnaire was prepared to find out the child-rearing attitudes of parents and used for setting a typology of their attitudes: understanding and rejecting ones. In addition, its validity was further examined by interviews with mothers sampled from the parents of kindergarteners around Tokushima City. We administered a personality test to the children, while employing two other techniques to their mothers and teachers to obtain their judgement of the children's personality traits.As a result, we elucidated the mother's child-rearing attitudes as well as their children's personality traits. By using these data we examined correlation between the types of parental attitudes and their children's personality traits.(Results) Findings in the Table show the relation between. the child-rearing typesand children's personality traits.
著者
米村 明夫
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.104-117,en200, 1977-09-30 (Released:2011-03-18)

The Coleman Report (1966) was published in an atmosphere in which ideas and policies were based on the belief that education and public schooling could be one of the main means by which social inequality could be reduced. But this assumption came to be discredited with the findings of the Coleman Report.Since then, several empirical and statistical studies on the ineffectiveness or insignificance of education or educational policies were carried out and challenged the liberal ideology of social reform by education. One example is the papers presented at The Seminar for Re-examination of the Coleman Report in which D. P. Moynihan, M. S. Smith, D. J. Armor, C. S. Jencks, and others participated, and another example is Jencks' INEQUALITY.Against these “school-incompetence” theories, this paper sets forth a hyposesis that education or schooling plays an important part in the reproduction of social class stratification, and that it is the close relationship between education and social class that minimizes the net effect of schooling independent from social class.From this viewpoint % this paper deals with, in turn, the relationship between scholastic achievement and social class, the relationship between educational attainment and social class, the role of educational attainment in the reproduction of social class stratification, and finally the role or substance of education or educational process in the reproduction or hereditary continuation of social class stratification.In conclusion, this paper agrees with and supports the classical and orthodox proposition in the field of the sociology of education, that social classes influence education and that education contributes to the hereditary reproduction of social class stratification.
著者
平木 耕平
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.107-127, 2008-12-15 (Released:2016-11-05)
参考文献数
22
被引用文献数
2 1

What significance did people give to “entering university from local areas” in Japan in the period following the Second World War? And how have their views changed in the time since? To answer these questions, this paper focuses on the “advanced course” of Tottori prefectural senior-high schools, using the methods of political-sociology.The “advanced course” of Tottori prefectural senior-high schools is sometimes called a “publicly funded cram school.” The teachers of the prefectural schools give instruction to students who are preparing for a new chance to enter university after failing the first time. In the period around 1960, there were still no private cram schools in Tottori Pref., but the number of students hoping for a second chance to enter university was rapidly increasing. In response, teachers at one prefectural senior-high school began to give them instruction on a volunteer basis, and a few years later, the Board of Education institutionalized it as the “advanced course.” This system was spread within the prefecture by the Board. Judging from this analysis, it may be said that the Governor, administrators and teachers recognized the disadvantageous condition of the local prefecture, and devised a policy to train talented youth as a means to overcome the backwardness of their home region.However, a debate on whether the “advanced course” of prefectural senior-high schools should be maintained or not began in Tottori Pref. about 2005. Private cram schools asked for the abolition of the “advanced course,” because the social changes since 1990s had hurt their business. As a result, this demand became a focus of public policy in the prefectural assembly. The groups on both sides of the issue disagreed fundamentally on whether the course should be maintained or abolished, but agreed in regarding the “advanced course” as a device for meeting the “needs of individuals.” With the massification of university education, the existence of the “external effect,” meaning the social profit brought about by higher education, has come into question. In addition, the “needs of society,” meaning the survival of the local prefecture, is not recognized within the policy of the modern “non-profit-sharing” model. In comparison with the “supplementary courses” established by PTAs, which perform a similar function in senior high schools of other prefectures, people do not feel a justification to spend public money on Tottori prefecture’s “advanced courses.”This leads to the hypothesis that the significance of “entrance into university from local areas” changes with the movement in perspective from social profit to personal profit. This means that the circuit between “education” and “society/economy” has been severed. Hence, the nurturing and outflow of talented youth from local prefectures is no longer seen as the main issue. However, local prefectures have been seriously affected by recent changes in both the industrial structure and decentralization. Now is the time to rebuild the tripartite affinity between “education,” “society/economy” and “local areas.”
著者
武石,典史
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究
巻号頁・発行日
vol.87, 2010-11-30

教育社会学的な歴史研究は,官僚群との対立や青年将校運動といった昭和陸軍の動きを,「陸軍将校=農業層」「帝大生・官僚=新中間層」という階層的差異をもとに葛藤モデルから論じてきている。しかし,そこでは陸軍将校の有力構成員たる陸幼組は分析対象から捨象されがちだった。本稿は,陸軍将校を「陸幼組/中学組」という二つの集団に分けつつ,その選抜,学歴キャリア,昇進の諸構造を検討したうえで,昭和陸軍の動向に考察を加えるものである。陸軍将校を構成する陸幼組と中学組は社会的背景の重なりは小さかった。また,前者が陸士,陸大の成績が良かったゆえ,昇進でも(農業出身の多い)後者より優勢だった。すなわち,学歴・成績主義を原理に形成される将校集団の構造は,上層において農業色が弱化し都会色が強まるという傾向を帯びていたのである。大正後期以降の政治的変化のなかで,陸軍は自己益と国益を,統帥権という威力に拠って重ね合わせていこうとする。統帥権の顕在化,および軍事専門職としての強い自覚を促すという,新たな社会状況のなかで始動した昭和陸軍の主力は,農業出身層ではなく,二・三代目の武官たちであり,官・軍エリートの衝突もこの文脈で把握されるべきだと思われる。確かに,農業層出身の陸軍将校は少なくなかった。しかし,彼らは昇進構造において傍流に位置し,影響力をもちえなかったのである。
著者
原 喜美
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.85-103,en238, 1971-10-10 (Released:2011-03-18)
参考文献数
30

Japanese higher education is faced with a crisis. Women's higher educationcannot escape its fate. Because of the age-old discrimination and of handicapsand hurdles attached to women's education in Japan the situation might be moreserious and complicated.Never in the history of Japanese education has the female population incolleges and universities including junior colleges been so great. In 1960 therewere 16, 448 girls graduating from 4-year colleges and 21, 041 graduating fromjunior colleges, while in 1970 48, 769 girls graduating from 4-year colleges and 99, 518 girls graduating from junior colleges. In 1970 one out of ten girls, interms of agegroup, attends college or university, while in case of boys nearlythree out of ten attend. Ten years ago 4 out of 100 girls attended colleges anduniversities and one out of 6 boys attended. It is quite ironical to meet with acrisis in the midst of prosperity. In spite of such phenomenal increase thegovernment has failed to meet the needs of the students. Junior colleges areoccupied by female students: almost 83% of the student population in juniorcolleges is women. On the other hand almost 82% of the student population in4-year colleges is men. At the same time 94% of female studnts are enrolled inprivately-supported junior colleges, because the government paid no attention towomen's higher education, leaving it almost entirely to private schools.There seems to be a stereo-typed social image of women in Japan. Collegewomen are expected to work for a short period on a stop-gap job; they areexpected to quit the job at the time of marriage. In ten or fifteen years theyare expected to work as part-timers, because industry demands labor force verybadly. Since we are inclined to behave as expected, most college graduatesfollow this track. It seems that women's higher education is geared to meet theneeds of industry. It is serious for higher education to be subjugated byindustry.As indicated in the statement issued by the Ministry of Education concerning the revision of high school curriculum, there is a resurgence of age-old education.peculiar to women. “Education for good-wife-and-wise-mother” has been emphasizedagain as a guideline for woman's education. In this post industrial societyin which women's roles become more complicated and varied, this kind of educationalpolicy formulated out of ignorance and negligence by the government willin all probability jeopadize not only women's higher education but the totalsociety.
著者
志田 未来
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.5-26, 2020-11-30 (Released:2022-06-20)
参考文献数
20

本論の目的は,これまで逸脱集団として扱われてきた生徒の相互作用を詳細に描くことにより,逸脱研究に対して新たな視角を提示することにある。既存の逸脱研究は,生徒の相互作用を下位集団に限定してきた,生徒を下位文化に染まる受動的な存在だと仮定してきた,という2つの課題が残されていた。そこで本研究ではFurlong(1976)のインタラクション・セット概念を用いて彼らの学校経験について分析を行った。分析より以下が明らかになった。①ある生徒の行動によって,それまで逸脱することはなかった生徒たちの「適切なふるまい」が作り変えられたことが逸脱の契機となっていた。②彼らはインタラクション・セットへの参加者に応じて逸脱の強度を変え,その意味も変化していた。関係性のない教師には「消極的逸脱」を,関係性のある教師には「積極的逸脱」を行っており,後者は「コミュニケーション系逸脱」とも呼べる,教員との関係性構築のための代替手段の機能を有していた。③受験制度はインタラクション・セットに大きな影響を与える外圧であった。3年生になると,最小限の努力で入試を成功させるということが「状況の定義」を行う際の新たな判断基準に採用されていた。 以上より,彼らの相互作用の場は集団ではなく常に構築されるインタラクション・セットとして捉える必要があること,そして逸脱に対して彼らが持つ価値規範をも累積される相互作用の過程で常に創造し直されていることが明らかになった。
著者
金子 元久
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.41-56, 2000-05-10 (Released:2011-03-18)
参考文献数
14
被引用文献数
1

When the movements of studets and ideas beyond the nation state have been talked about as “internationalization” of education, it was implicitly linked to the hope of uniting different nations. With “globalization” of education, not only has its scope been extended to social and economic aspects, but also to the negative side of the unavoidable trend. In fact, many people consider globalization of education as a grave challenge, or even intrigues that creates new inequity among and within nation states. Such a radical shift of perspective is most pronounced in higher education. In this paper I first tried to clarify the context in which “globalization” of higher education is talked about from the perspective of social and economic relation between the University and the mondern nation state (Section I). Then, more concrete issues are analyzed with respect to education (Section 2) and research (Section 3) functions of the Univesity. It is argued that globalization, together with the development of Information Technology, is creating huge markets of both learning opportunities and scientific knowledge beyond the boundary of state. Even though all the nations are involved in this trend, the impacts are significantly different by nation. For Japanese higher education the difficulty appears to lie less in being involved in the trend than eploiting the opportunities offered by the trend. in this particular sense, Japan's position is increasingly entrenched in a hinterland. Departure from such position will require a considerable restructuring in organization and the value in the academics.
著者
新井 郁男
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.18-30, 1988-10-03 (Released:2011-03-18)
参考文献数
8
被引用文献数
1
著者
劉 麗鳳
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.155-174, 2018-05-31 (Released:2020-03-13)
参考文献数
25

本稿の目的は,中国の都市部と農村部の中学校における「できない生徒」に対して,教師がどのように処遇しているのかを考察することである。用いたデータは,都市部と農村部の中学校での参与観察とインタビューである。中国では農村部の中学生の退学率が高く,先行研究から家庭の貧困と親の勉学への無理解,学校の物理的な条件が指摘されているが,教師文化や指導文化など学校内部のミクロレベルでの教師 - 生徒間の相互作用が中学生の退学行動に及ぼす影響の考察も重要である。 本論では,以下の点を明らかにしている。都市部の中学校の教師は,他の生徒の学習の妨げにならないよう「できない生徒」に対して「ソフトな隔離」をしつつ,教室内の役割を与えることで生徒集団の一員として包摂していた。一方,農村部の中学校の教師は「できない生徒」を教室や授業からあからさまに排除し,彼らに教室外の役割を与えると同時に,彼らを監視役に利用して校内の秩序づけを行っていた。中国における「学業成績重視」の価値観のもとで教師の処遇に違いが生じる背景には,教師が用いるストラテジーに違いがあり,前者は生徒の学習意欲の喚起を重視するペダゴジカル・ストラテジーが用いられていたのに対して,後者は「できない生徒」を教室や学校から排除することで自らの評価を高めようとする教師のサバイバル・ストラテジーが用いられていた。
著者
範 俏慧
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.91-110, 2017-11-30 (Released:2019-06-14)
参考文献数
21

本稿は,大卒者の学校から職業への移行を「成人期への移行」の一局面として捉え,中国の小都市出身の大卒者の就職プロセスに焦点を当て,職業選択(就職地選択及び就職先選択)における「親の意向」による影響と,就職時における「家族・親族ネットワーク」の効果との2つの要素に注目し,中国の大卒者の就職における家族の影響を明らかにすることを目的とする。 分析の結果,以下のことが明らかになった。共産主義の遺制と強い家族主義の文化を残したまま急激な市場経済を導入した中国においては,大卒者の就職プロセスは,依然として戸籍制度や労働市場における体制内外の分断といった構造的・制度的要因によって制約されている。大卒者及びその家族はその中で可能な限り有利な就職機会と将来設計を手にするために,私的な家族・親族ネットワークを動員している。家族・親族ネットワークの効果は,ネットワーク自体の地域的広がりの度合いにより一定程度規定されている。そのような「家族戦略」とも言える中国の大卒就職のあり方は,個人としての大卒者にとって制約と資源という両義的な意味をもつ。 本稿の分析が示唆するように,大卒の就職を「成人期への移行」の一部として捉えることで,大卒者の就職が埋め込まれている「社会構造」を,これまでよく分析の射程に入れられてきた「大卒労働市場」及び「社会ネットワーク」を超え,より包括的に検討することが可能となる。