著者
佐藤 信
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.63-95, 2015-03

本稿は、近代日本の典型的な権力者である山県有朋とその館を事例として、空間と政治の連関を研究したものである。椿山荘(東京)や無隣庵(京都)、古稀庵(小田原)といった山県の邸宅はその庭によってよく知られているが、それらの館がどのように使われていたか明らかではないところも多い。本稿は、山県有朋関係文書や田中光顕関係文書などの政治史史料を用いることで、この問題に取り組んだ。本稿はまず、館の変遷と変遷の理由を明らかにした。1880年代に大磯が「政界の奥座敷」として活性化すると、そこから隠れるためにさらに東京から遠隔な館が必要とされるようになり、無隣庵はこうした静養の地として設定された。この無隣庵は同時に幕末維新期の記憶装置でもあった。やがて山県は無隣庵に籠って上京を拒否するという政治技術を用いるようになったが、それでも無隣庵会議に代表されるような政治活動は稀な事例に過ぎなかった。一方、1907年、無隣庵に代わる静養の地として建設された古稀庵は、山県の政治的影響力の拡大によって予想以上に「政治化」され、椿山荘に代わって主たる館として利用されるようになった。これに伴って椿山荘や小淘庵の必要性は急激に低下した。このように、山県は政治的意図に基づいて館を移動させたわけではなかったが、館の地理的移動によって生じた政治的効果を最大限利用したと言える。また、本稿では無隣庵の洋館を出発点として、山県の空間の使い方についても考察した。そこでは、山県が自身の館の操作可能を確保することで、訪問客との主客関係を固定化していた可能性を指摘した。山県が空間のこのような作用を重視したことは、山県の政治的性格をも浮き彫りにするものでもあり、空間の使い方に注目した政治的人格の比較研究の可能性を示すものである。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.193-241, 2012-09-28

髪には、人々の身分や生き方が如実に反映されてきたという歴史から社会の変遷を読み取り、また人々のもつ無意識の戦略について論じることで、普遍的な美への志向を読み取る。化粧や髪形は時代とともに変化する。動態的には公家から武家へといった支配的地位にいる者の変化、異性から同性など、「誰のためによそおうのか」というよそおう対象の変化に伴って、表現として変化する。
著者
永岡 崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.127-169, 2013-03

本稿は、異なる立場の人びとが「知の協働制作者」(Johannes Fabian)として直接的に接触・交渉しあいながら宗教の歴史を描いていく営みを協働表象と名づけ、具体的な事例を検討しながらその意義を明らかにしようとするものである。その事例は、一九六〇年代に行われた『大本七十年史』編纂事業である。近代日本の代表的な新宗教として知られる大本が、歴史学者・宗教学者らとともに作りあげた『七十年史』は、協働表象の困難さと可能性を際立った形で提示している。 大本という宗教団体の七〇年にわたる歴史を描くというこの事業は、大本に集った人びとの過去だけでなく、現在と未来のありように密接にかかわるものであった。新宗教の矛盾や葛藤に満ちた歴史のなかに研究者が介入し、多様な信仰、多様な経験に秩序を与え、そのざわめきを鎮めていくことは、来るべき信仰や実践のありように規範を提示していくことでもある。大本内部で平和運動を推進する出口栄二や事業に参加した歴史学者は、近代日本の支配体制に対抗する異端として、また一貫した平和主義的宗教としての大本の「本質」を創造していた。 彼らによって構築される「本質」は、そこに回収されきらない多様な歴史的経験を排除するか、副次的なものとして劣位に置くことになる。だが、古参の信徒が抱えるそうした歴史的経験や、史料の読解よりも「本質」を優先させる物語の過剰にたいする若手研究者の反発は、首尾一貫した滑らかな歴史が内包する暴力性を浮き彫りにするのである。 協働表現の意義は、おそらく成果として出来上がった歴史叙述そのもののなかにではなく、その過程で生起する自己変容の経験、越えがたい差異の経験、そして他者を前にして自分の行使する暴力に気付かされる経験のなかにこそある。もっともこうした経験は、当事者によってはうまく分節化できないこともある。協働の場に介入する分析者の役割は、そこに沈殿した経験の意味を開示し、さらにそれを公共的議論へと接続することなのだ。
著者
細川 周平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.209-248, 2007-03

録音を黙って鑑賞する喫茶店(レコード喫茶と仮に呼ぶ)は日本独自の音楽空間といえる。本論はそのひとつであるジャズ喫茶が昭和初年に生まれ、昭和十年代にスウィングの流行とともに定着した過程を追う。レコード喫茶は録音に依存して欧米音楽を受容せざるを得なかった日本の状況と深く関わっている。録音は大正時代、「缶詰音楽」と軽蔑されるどころか、コンサート興行の基盤が未熟であるために生で演奏を聴けない曲種を知るのに不可欠なテクノロジーとして洋楽評論家に高く評価された。レコード鑑賞空間はそのような前提から生まれた。震災後、カフェが女給のエロティシズムを売り物にしたのに対して、その姉妹施設、喫茶店は主に大学生や若い社会人相手にもっと親密な雰囲気、趣味的なサービスを売り物にした。レコード喫茶は彼ら向けの音楽を聞かせることで一般の喫茶店と区別を図り、レコード、オーディオ、サービス・ガール、インテリアの四つの要素で店の特徴を出した。女給目当ての客も少なくなかったようだが、店の看板はレコード収集と高価な再生装置だった。ジャズ喫茶の始まりには昭和初年の都市中間層の拡大、彼らの新しい娯楽のかたちや感性、趣味の洗練への関心、文化ヒエラルキー観、音響テクノロジーの発展、レコード市場の拡大、ニッチ市場の確立などが関わっている。ジャズ喫茶の勃興はスウィングの人気に刺激された面がある。スウィングは一九二〇年代の白人ジャズと異なり、個人の即興を重んじ、ヨーロッパ音楽の亜流ではない新しい美学を打ち出した。スウィング支持者はそのレコードをダンスの伴奏ではなく、鑑賞に足る芸術と見なし、それにふさわしい世評を書き、演奏家や名曲の録音歴(ディスコグラフィー)を調査した。中古盤市場も充実した。ジャズ喫茶は静寂のなかでレコードを聴きこむ雰囲気を作り出した。それは私財を投資した公共的なレコード収集庫として機能し、愛好家集団の経緯・知識の拠点となった。
著者
鈴木 洋仁
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.79-104, 2017-01

本稿は、「平成」改元にあたって、小渕恵三官房長官(当時)が行った記者会見を分析することによって、大日本帝国憲法(1889)と日本国憲法(1947)における天皇の位置づけの相違を分析するものである。具体的には、改元を天皇による「時間支配」の究極の形式と定義したうえで、「平成」改元における、(1)政治性、(2)公共性、(3)メディア性という3点の違いを抽出する。なぜなら、日本国憲法においても、大日本帝国憲法と同様、「一世一元」の原則が法律で定められているからである。 改元の政治性とは、改元における権力を、誰が持っているのか、という点であり、天皇から内閣へと移っている。すなわち、天皇は、改元の場面において、政治性を帯びていない。そして、改元の公開性とは、「平成」改元すなわち、日本国憲法下での改元においては、記者会見を開いたという点である。対して1926年の「昭和」改元においては、記者会見が開かれなかったために、新元号を「光文」とする誤報事件が起きていた。最後の改元のメディア性とは、発表する側が、メディアを意識していたか否か、という点である。「昭和」においては、意識するほどにメディアは発達していなかったが、「平成」においては「テレビ時代だから」として、新元号を発表する当時の内閣官房長官が「平成」の書を掲げるほどの発展を遂げていた。 以上のことから、本稿は、「時間支配」という点において、「昭和」改元は、その完成形態であり、「平成」改元は、「視覚的支配」をも組み入れた新たな「時間支配」であると結論づけている。

12 0 0 0 IR 布衣始について

著者
近藤 好和
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.11-36, 2010-09

本稿は、これまで研究のなかった天皇装束から上皇装束へ移行する転換点となる布衣始(ほういはじめ)という儀礼の実態を考察したものである。 第一章では、布衣始考察の前提となる天皇装束と上皇装束の相違をまとめた。公家男子装束は必ず冠か烏帽子を被り、冠対応装束と烏帽子対応装束に分類できる。天皇は冠しか被らず、冠対応装束のうち束帯と引直衣という特殊な冠直衣だけを着用した。一方、上皇は臣下と同様に烏帽子対応装束も着用した。かかる烏帽子対応装束の代表が布衣(狩衣)であり、布衣始とは、天皇譲位後初めて烏帽子狩衣を着用する儀礼である。 ついで宇多から正親町まで(一部近世を含む)のうち上皇だけを対象として、古記録を中心とする諸文献から布衣始やそれに関連する記事を抜き出し、第二章平安時代(宇多~安徳)、第三章鎌倉時代(後鳥羽~光厳)、第四章南北朝時代以降(後醍醐~正親町)の各時代順・各上皇順に整理して、布衣始の実態を追った。 天皇装束と上皇装束の相違は摂関期から認識されていたが、上皇が布衣を着用するという行為が意識されるようになるのは高倉・後白河からであり、それが布衣始という儀礼として完成し、天皇退位儀礼の一環として位置づけられるようになるのは鎌倉時代、特に後嵯峨以降である。さらに南北朝時代には北朝に継承され、室町時代には異例が多くなり、上皇のいない戦国時代を経て、江戸時代で復活するという流れがわかった。 最後に、布衣始が院伝奏や院評定制といった院政を運営する制度と同じく後嵯峨朝で完成した点に注目し、布衣始の成立と定着もかかる流れの一環として理解することができ、布衣始が伝奏や評定が行われた院政の中心的場である仙洞弘御所で行われたことから、布衣始は院政開始儀礼であり、布衣という装束を媒介として天皇の王権から上皇(「治天の君」)という新たな王権への移行を可視的に提示する儀礼であったという見通しを述べた。
著者
Baskind James
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.125-161, 2008-03

ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(一八五〇-一九〇四)が、広範囲に亘って、日本の紹介と理解に大いに貢献した人であることは誰もが認めるだろう。しかし、ハーンの影響は民俗学や昔話に限られているわけではない。ハーンには日本の宗教や信仰、精神生活についての深みのある分析も非常に多くあり、宗教関係のテーマが、ハーンの全集の大半を占めているといってよい。それゆえ、今日、ハーンは西洋人に日本文化や仏教を紹介した解釈者としても知られている。そして同時にハーバート・スペンサーの解釈者でもあり、多くの仏教についての論述中にはスペンサーの思想と十九世紀の科学思想と仏教思想とを比較しながら、共通点を引き出している。ハーンにとっては、仏教と科学(進化論思想)は相互排他的なものではなかった。むしろ、科学的な枠組を通じて仏教が解釈できると同時に、仏教的な枠組で進化論の基本的な思想がより簡単に理解できると信じていた。この二つの思想形を結びつけるのが、業、因果応報、そして輪廻思想である。ハーンが作り上げた科学哲学と宗教心との融合は、ただハーン自身の精神的安心のためだけではなく、東西文明の衝突による傷を癒すためにもあった。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.4, pp.p123-147, 1991-03

前稿(一)においては、福島正則と加藤忠広の二大名の改易事件について検討した。その結果、両改易ともに、幕府側の政略的な取り潰しということはできず、むしろ両大名側に処罰されて致し方のない重大な違法行為のあることが否定できないことが明らかとなった。このように徳川幕府の大名改易政策は、従前考えられてきたような政略的で権力主義的な性格のものではないのである。そしてこのことは、この大名改易の実現過程における、その実現のあり方という面についても言いうる。本稿では大名改易の実現過程を、改易の決定過程と、当該大名の居城と領地の接収を行うその執行過程とに分けて見ていく。秘密主義と権力主義という幕府政治についての一般通念と異なって、大名改易政策の実現過程に見られるのは、諸大名へのそれぞれの改易事情の積極的な説明であり、城地の接収に際しての大名領有権に対する尊重と配慮であった。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.405-419, 2007-05-21

古代日本における政治・軍事権力の頂点に立つ者に対して、天皇という称号が用いられたが、その称号が用いられる以前は大王であった。大王から天皇へと称号が変わったのは、いつ頃かについては、これまで多くの議論があった。現在においても、その時期については、断案がない。
著者
上垣外 憲一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p41-57, 1994-09

明治日本の朝鮮との関係を論ずる場合、明治初年の征韓論はともかく明治九年の江華島条約を日本の朝鮮への侵略の第一歩として叙述する場合が多い。しかし、実際にその当時の新聞論調を読むと、むしろこの朝鮮との条約の締結を、ペリー来航時の状況に譬えて考えているものが多いことがわかる。 従って、朝鮮の頑固な排外的態度も、これを日本蔑視として糾弾する意見と同時に、かつての日本もまた同様であったではないかとして、寛容な態度でこれに臨むべきとする論調もまた少なくないのである。特に明治十五年の壬午軍乱では、多くの出版物が多種多様な論調を張った。この当時の論説では相反する意見を併記することがよく行われたが、これは対話体で、アジアに対する積極進出論者と穏健な同盟論者の意見の双方を平等に描き出した手法に対して先駆的な位置にあるものというべきである。 しかし、明治十八年の甲申政変に際しては、厳しい言論統制が行われ、日本側が、積極的にクーデターの後押しをしたという事実は全く国民には知らされなかった。以後、朝鮮に対しての情報が制限された中で、日本人の朝鮮への意見が自由に集約されるということは、国会開設という事態があったにもかかわらず、起こりえなかった。 日清戦争に際しては、戦争に熱中して日本勝利に酔い、朝鮮に対しては後進国という蔑視が目だつなかで、改革勢力としての東学党に対する評価は、自由党がわのみならず、政治的立場としては国家主義的なアジア進出を目指す東邦協会の論調においても、真摯な改革団体としての東学党を高く評価するものがある。 その東学党が日本軍、政府軍によって壊滅させられ、さらに国王のロシア公使館への避難によって、親露政権が誕生すると、これまで朝鮮の改革に深い関心をもって様々な論調を張ってきた福沢諭吉は、一切の同情心を捨てて朝鮮に対せよと説く。三国干渉において日本の憎悪の的となったロシアとの提携は、明治初年から十年代には豊かに見られた朝鮮に対する日本人の同情心に最後の打撃を与えたのである。
著者
松田 利彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.35, pp.469-490, 2007-05-21

本稿は、近代日本植民地における「憲兵警察制度」を素材に、近年の「帝国史」研究で提唱されている「統治様式の遷移」という研究手法の可能性と限界について考察した。
著者
山梨 淳
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.221-304, 2011-10

本論は、日露戦争後の一九〇五年末に行われたアメリカ人のウィリアム・ヘンリー・オコンネル教皇使節の日本訪問に焦点をあて、二十世紀初頭に転換期を迎えつつあった日本のカトリック教会の諸動向を明らかにすることを目的としている。オコンネル使節の訪問は、日露戦争時に戦地のカトリック教会が日本により保護されたことに対して、教皇庁が明治天皇に感謝の意を表するために行われたものであるが、また日本のカトリック教会の現状視察という隠れた目的をもっていた。 幕末期より二十世紀初頭に至るまで、日本のカトリック教会の宣教は、フランスのパリ外国宣教会の宣教師によって独占的に担われてきたが、日露戦争前夜の時期には、同会の宣教活動は、近代国家の日本では十分な成果を挙げ得ないものとして日本人信者の一部に批判を投げかけられるようになっていた。長崎教区の一部の信者らは、慈善活動など下層階級への宣教事業に力を入れるパリ外国宣教会に不満を抱いて、学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申すら行っている。 世紀転換期、東京大司教区では、知識人層を対象にした出版活動や青年運動が展開されており、パリ外国宣教会には日本人の若手カトリック知識人の活発な活動に期待する宣教師も存在したが、彼らは少数派であった。オコンネル使節の来日時、日本人カトリック者は、彼に日本の教会の現状を伝えて、フランス以外の国からの修道会の来日やカトリック大学の設立を具申し、教皇庁の権威に頼ることによって、教会の内部変革を試みようとした。 二十世紀初頭、日本人カトリック者らが一部の神父の理解をえて活動を行った信徒主体の活動は、パリ外国宣教会の十分な理解をえられず、しばしば停滞を余儀なくされる。同会の宣教師と日本人カトリック者との関係の考察は、当時におけるカトリック教会の動向の一端をうかがうことが可能にするだろう。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.103-128, 2009-11

六十四種類の「百鬼夜行絵巻」を対象に、その図像の編集過程の復元を試みた。描かれた「鬼」の図像配列の相違に着目し、情報学の編集距離を使って絵巻の系統樹を作成した。その結果、真珠庵本系統の「百鬼夜行絵巻」の祖本に最も近い図像配列を持つのは、日文研B本であるとの推定結果が得られた。また合本系の「百鬼夜行絵巻」についても図像配列を比較し、それらの編集過程の全体像を推定した。
著者
栗田 英彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.47, pp.239-267, 2013-03-29

大正期に一世を風靡した心身修養法に岡田式静坐法がある。創始者の名は岡田虎二朗(一八七二―一九二〇)という。彼は、静坐実践を通じて内的霊性を発達させることができると述べ、日本の伝統も明治以降の西洋文明輸入政策も否定しつつ、個人の霊性からまったく新たな文化や教育を生み出そうとした。こうした主張が、近代化の矛盾と伝統の桎梏のなかでもがいていた知識人や学生を含む多くの人々を惹きつけることになったようである。これまで、岡田の急逝をきっかけに、このムーブメントは急速に消えていったように記述されることが多かった。しかしながら、実際にはその後もいくつか静坐会は存続しおり、その中の一つに京都の静坐社があった。静坐社は、岡田式静坐法を治療に応用した医師・小林参三郎(一八六三―一九二六)の死後に、妻の信子(一八八六―一九七三)によって設立された。雑誌『静坐』の刊行を主な活動として、全国の静坐会ネットワークを繋ぐセンター的な役割を果たしていた。
著者
彭 丹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.11-50, 2012-03-30

日本には八点の国宝茶碗がある。八点のうち、南宋時代に焼造された天目が五点を占める。曜変天目三点、油滴天目一点、玳皮天目一点である。これらの天目茶碗は、生産地の中国の地には残されていないのに、なぜ日本に残っているのか?日本の国宝と中国の天目とは矛盾しないのか?天目を求め続ける日本人の情熱はいったい何か?
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.42, pp.187-214, 2010-09-30

日本の一九二〇年代、三〇年代における(狭義の)モダニズム文藝のヴィジュアリティー(視覚性)は、絵画、写真、また演劇等の映像だけではなく、映画の動く映像技法と密接に関係する。江戸川乱歩の探偵小説は、視覚像の喚起力に富むこと、また視覚像のトリックを意識的に用いるなど視覚とのかかわりが強いことでも知られる。それゆえ、ここでは、江戸川乱歩の小説作品群のヴィジュアリティー、特に映画の表現技法との関係を考察するが、乱歩が探偵小説を書きはじめる時期に強く影響をうけた谷崎潤一郎の小説群には、映画的表現技法の導入が明確であり、それと比較することで、江戸川乱歩におけるヴィジュアリティーの特質を明らかにしたい。それによって、日本の文藝における「モダニズム」概念と「ヴィジュアリティー」概念、そして、その関係の再検討を試みたい。
著者
銭 国紅
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.15, pp.29-49, 1996-12

現実的危険に曝されながら世界への旅を敢行しようとした志士吉田松陰の渡海の試みから、幾たびかの「大君の使節」(一八六〇~一八六七)や留学生たちの時代に至ると、世界に連なろうとする志向が日本の激変をもたらし、実際に自分の目で西洋を見、現場に学ぶことを通して、西洋世界の新しい意味、西洋を含めた世界の実像が次々と日本知識人に再発見されていった。アメリカと出会った福沢諭吉は強烈な文化ショックを受けながら、そのなかから一つの新しい文明像を日本人に将来した。それは同時に新しい世界における新しい日本の新しい位置づけの試みでもあった。一方、十九世紀中国の知識人たちも世界像の拡大を経験した。その探索の軌跡は十九世紀中葉に既にアメリカ文明を中国に持ち込もうとする容閎の「少年留学生派遣計画」や、他に先駆けてヨーロッパ等を見回った清末の官僚知識人・張徳彝の新しい西洋文明像に見出すことができる。西洋諸国との外交折衝に取り組んだ清末の官僚知識人たちは、ヨーロッパに赴く船の中で、あるいはパリ・コミューンの最中で、あるいはそこから帰りの船で、思いがけずに新生日本の遣欧使節たちや留学生たちと巡り合って、それを契機に近代中国の「日本再発見」を始めたのも興味深い一幕であった。こうして本論文は近世日本における世界像の形成を中国を始めとするアジアとの連動において捉え、近代世界を迎えようとする日本知識人における「世界意識」の芽生えとその成長ぶりを分析した。特に、十八世紀初頭から十九世紀後半に至る日本と中国の知識人たちが、勇気を振るい、戸惑いを抱きながら、相前後して近代社会に入るためにそれぞれ独自の世界像を持つにいたった歴史とその意味を考察した。
著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.163-200, 2008-03-31

本稿は、須藤由蔵の手記である『藤岡屋日記』を素材に武士身分の売買と思われる事例を抽出し、近世中後期における武士身分の売買の実態について検討したものである。『藤岡屋日記』の中で十七の武士株の売買の事例が見つかった。分析の結果を下記のようにまとめる。
著者
小暮 修三
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.119-139, 2009-03

かつて、日本の沿岸各地には、裸潜水漁を行いながら生計の主要な部分を賄う人々が存在し、彼/女らは俗に「海人(アマ)」と呼ばれ、特に、男性は「海士」、女性は「海女」と表記されている。この海人の歴史は古く、『魏志倭人伝』や記紀、『万葉集』から『枕草子』に至るまで、その存在が散見される。また、海女をモチーフとした文学作品や能楽、浮世絵も数多く残されている。しかしながら、もはや裸潜水漁で生計を立てている海女の姿は、日本全国のどこにも見つけられない。 このような海女を対象とする研究は、一九三〇年代から民俗学を筆頭に、歴史学、経済地理学、医療衛生学、労働科学、社会学等において、数多く見つけ出すことができる。しかしながら、海女の表象、特にその裸体の表象に関しては、浮世絵に描かれた海女についての記述を除き、特別な関心は持たれてこなかった。 そこで、本稿では、二十世紀を通してアメリカの「科学」雑誌『ナショナル ジオグラフィック』(National Geographic)に現れた海女の姿から、性的視線を内在させるオリエンタリズムの形成について考察する。ただし、そのような過去(二十世紀)のオリエンタリズム批判「のみ」で、この考察を終わらせてしまえば、既存の反オリエンタリズム的枠組みに留まるだけの論考になってしまう。そこから、太平洋戦争前の海女に関するナショナルな表象に触れると共に、戦後の『ナショナル ジオグラフィック』における海女の表象を維持・補完していたと思われる「観光海女」の存在、及び、海女をとりまく社会環境の変化を取りあげ、オリエンタリズムと国内言説の相互関係について考察を行う。
著者
鈴木 堅弘
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.38, pp.13-51, 2008-09-30

本論は、春画として最も有名な北斎画の「蛸と海女」を取り上げ、この画図を中心に春画・艶本表現における図像分析を試みた。まず具体的な図像分析に先駆けて、同種のモチーフが「あぶな絵」や「浮世絵」にも描かれている背景を追うことで、近世期の絵画表現史における「蛸と海女」の画系譜を作成した。そしてその画系譜を踏まえて、北斎画を中心とした春画・艶本「蛸と海女」の図像表現のなかに、同時代の歌舞伎、浄瑠璃、戯作などに用いられた「世界」と「趣向」という表現構造を見出すことにより、春画・艶本分野においても同種の演出技法が用いられていたことを発見するに至った。また、こうした図像分析を通じて、北斎画を中心とした春画・艶本「蛸と海女」の表現構造が、太古より連綿と続く「海女の珠取物語」の伝承要素や、江戸時代の巷間に流布した奇談・怪談の要素で構成されていることを読み解いたといえよう。