著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.161, pp.39-60, 2011-03

本稿は、主として西日本地域に神社祭祀組織として広く分布する宮座について、とくに中国地方と北部九州の宮座を取り上げ、これを近畿地方の宮座と比較分析して、宮座の構造とその地域的変差を明らかにするとともに、宮座の現代的変化についても考察しようとするのが目的である。本稿で第一に論じたのは、宮座の概念についてである。本稿では、内面から、すなわち宮座の内部的な構造に立ち入って宮座を概念規定した。宮座は「一定の地域社会において当屋制を原理とする神社祭祀組織」である。宮座の内部構造に注目すれば、宮座は株座の形態をとるにせよ、また村座の形態をとるにせよ、対内的な家相互の平等性・対等性と、対外的な封鎖性排他性(ときには秘儀性)を特徴とする祭祀組織であると規定できよう。第二は、宮座の地域的多様性の問題である。宮座の地域的類型として、本稿では「家当屋制」と「組当屋制」を提示した。家当屋制とは、宮座のメンバーである家々の当屋順序を直接指定するような原理にもとづく当屋制であり、近畿地方の当屋制はこれにあたる。これに対して、組当屋制とは当屋順序がそれぞれの宮座メンバーの順序として直接指定しないで、地域、組などの順序に従って当屋の順序が間接的に規定している当屋制であり、兵庫県播磨地方以西の中国地方の宮座、北部九州国東半島の宮座がこれにあたる。第三に、宮座の現代的変化の問題についても論じた。中国地方や国東半島の宮座を通して明らかなことは次の諸点である。ひとつは、とくに人権思想平等思想の普及による株座から村座への変化である。ひとつは祭礼費用負担方法の変化である。特定の当屋が負担する「当屋負担型」から、全戸で平等に負担する「宮座負担型」への変化である。現代の宮座研究は今後とも宮座のこうした現実を直視しなければならない。
著者
春成 秀爾 小林 謙一 坂本 稔 今村 峯雄 尾嵜 大真 藤尾 慎一郎 西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.133-176, 2011-03-31

奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.43-77, 2018-02-28

森林や草原の景観はふつう1~2年で大きく変わることはないが,数十年の単位で見ると,樹木の成長や枯死,あるいは草原の放置による森林化などにより,しばしば大きく変化する。本稿では,高度経済成長期を画期とする植生景観変化とその背景について,中国山地西部の2つの地域の例について考えてみた。その具体的な地域として取り上げたのは,広島県北西部の北広島町の八幡高原と山口県のやや西部に位置する秋吉台である。その2つの地域について,文献類や写真,また古老への聞き取りなどをもとに考察した。その結果,八幡高原では,たとえば,今はスキー場などの一部を除き,草原はわずかしか見られないが,高度経済成長期の前までは,牛馬の放牧などのためなどに存在した草原が少なからず見られた。その草原の大部分は森林に変わり,また,高度経済成長期の前の森林には大きな木が少なかったが,燃料の変化などにより,森林の樹木は高木化した。なお,その地の草原は,高度経済成長期の直前の頃よりも少し遡る昭和初頭の頃,あるいは大正期頃まではさらに広く,その面積は森林を上回るほどであった。その変化の背景には,そこで飼育されていた馬の減少もあったが,別の背景として,大正の終り頃から製炭が盛んになり,山林の主な運用方法が旧来の牛馬の飼育や肥料用などのための柴草採取から,炭の原木確保のための立木育成へと変わったことがあった。一方,秋吉台には,今も草原が広く見られるが,それはそこが国定公園などに指定されている所で,草原の景観を守ることが観光地としての価値を維持するためにも重要であるためである。しかし,その秋吉台の草原も,高度経済成長期の前と比べると,草原面積は少し減少している。また,草原やその周辺の山林への人の関わり方の大きな変化により,植物種の変化など,その草原には大きな質的変化が見られ,また草原を取り巻く森林も高木化が進むなど大きく変化してきている。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.355-390, 2008-03-31

本稿は、明治末から大正初期にかけての地方改良運動の時期に行なわれた風俗調査『飾磨郡風俗調査』(兵庫県飾磨郡教育会)と『奈良県風俗志』資料(奈良県教育会)の両者における婚姻、妊婦・出産、葬儀の習俗について分析を試みたものであり、論点は以下のとおりである。第一に、両者の風俗調査の間には、旧来の慣行を一方的に「刷新改良」しようという飾磨郡教育会と、「我ガ風俗ノ何種ハ本ノマヽニシテ、何種ハ如何ニ変化シ将タ西洋ヨリ入来レルカヲ調ベ置カン」とする奈良県教育会とのその動機づけと姿勢の上で大きな差異があったことが判明した。そこで、第二に、『奈良県風俗志』に報告された奈良県下の各村落における大正四年(一九一五)当時の婚姻、妊婦・出産、葬儀の習俗について、その当時すでに変化が起こっていた習俗と、いまだに変化が起こっていない習俗との両者の実情を明らかにすることができた。(1)婚姻の儀式で注目されるのは、上流、中流、下流の階層差である(結納や嫁入り、自由結婚に対する意識など)。(2)妊婦と出産に関して変化のみられた習俗と変化のみられない習俗については、民俗慣行としての妊産婦をめぐる伝統的な営為が、近代化によって医療と衛生の領域へと移行していく当時の状況にあっても、産穢をめぐる部分はなかなかそのような変化が見られなかった。(3)婚姻の習俗や出産の習俗と比較して、葬送の習俗の場合にはあまり大きな変化が見られなかったが、その中にあっても葬式の参加者たちによる盛んな飲酒や飲食の風習が廃れてきていた。当時の刷新改良の眼目が、①無礼講から礼節へ、②虚栄奢侈から堅実倹約へ、③迷信から衛生へ、④祝祭から哀悼へ、という点にあったために、葬儀での盛大な飲食は、この①と②と④に抵触するものとみなされたからと考えられる。そして、一方では、先の出産習俗の中の産穢にかかわる部分と同様に葬送習俗の死穢にかかわる部分にはまだ強い介入がみられなかった。第三は、民俗の変化という問題についてである。民俗の伝承の過程における変遷については、基本的に集団的で集合的なものであるから相対的な変遷史であり絶対的な年代で単純化して表すことができない傾向がある。しかし、本稿では風俗志の資料分析によって、その民俗の変遷が具体的な地域における変化として具体的な年代を当ててリアルタイムで確認することができた。
著者
宮内 貴久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.347-389, 2018-02-28

本論は『朝日新聞』,『読売新聞』の記事から,添い寝中に子どもが死亡する事故について,なぜ発生するのか,死因,住環境,授乳姿勢,死亡年齢を検証することにより,添い寝と授乳の実態と変化を明らかにした。さらに育児書の検討から添い寝がどう捉えられていたのか,適当とされる授乳期間はどの程度だったのか明らかにした。添い寝で死亡する事故は明治期から発生しており,時代によって死因は異なった。1870~1910年代は80%以上が乳房で圧死していた。1920年代になると乳房で圧死は67%,布団と夜具での死亡事故が20%となる。1930年代には乳房での圧死が50%まで減少し,布団と夜具での死亡事故が26%となる。こうした事故は職業には関係なくあるゆる住宅地で発生していた。1940~1960年代前半には深刻な住宅不足問題を背景に,スラムなど極めて劣悪な住環境に居住するブルーカラーの家で事故が発生した。1960年代後半にも住宅の狭小が原因による圧死事故が発生するが,高度経済成長による所得の増加による家電製品の普及とともに,タンス,学習机などの物があふれて部屋が狭小化し,そのため圧死するという事故が発生した。1970年代にはアメリカの育児法が紹介され,うつぶせによる乳児の死が問題視され,さらに死の多様化が進んだ。18冊の育児書の検討から11冊の育児書が添い寝を否定,5冊が注意すべきこととされたこと,また添い寝中の授乳により乳房で窒息死する危険性を指摘する育児書が12冊あったことからも,添い寝の危険性を喚起する新聞記事と一致し,社会問題となっていた。20冊の育児書の検討から,適当とされた離乳開始時期は5ヶ月頃からが3冊,10~12ヶ月が4冊,もっとも遅いのは2~3年だった。時代による離乳期の特徴は特にみられなかった。離乳時期は遅く4~5歳児への授乳,特に末子は5~6歳まで授乳するケースもあった。授乳は母親にとって休息がとれる貴重な時間であり,それが遅い離乳の要因の一つだった。母子健康手帳では添い寝が否定されたが,現実には多くの母親は添い寝をしていた。育児における民俗知と文字知にはズレがみられる。1985年に『育児読本』が大幅改訂され,これまで否定されていた添い寝が,親子のスキンシップとして奨励されるように変化した。
著者
澤田 和人
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.125, pp.69-99, 2006-03-25

帷子は今日よく知られた服飾のひとつであろう。しかしながら、その基礎的な研究は充分にはなされていない。本稿では、そうした状況を打開すべく、基礎的研究の一環として、室町時代から江戸時代初期にかけての材質の変遷を解明する。可能な限り文献を渉猟した結果、以下のような動向が辿られた。一五世紀に於ける帷子の材質は、布類、なかでも麻布がごく普通であった。絹物の例も散見されるが、それはあくまで特殊な用例であり、普遍化したものではない。一六世紀に入ると、麻布の種類も他の植物繊維の例も増え、布類の種類が豊富になっている。それと同時に、生絹という絹物も見られるようになった。一六世紀の末期ともなると、生絹は広範に普及を見せ、布類と等しいまでの重要な位置を占めている。一七世紀初期に於いては、布類については一六世紀末期の状況と大差は認められない。注目されるのは、綾などの絹物や、材質は不明であるが、唐嶋といった生地である。これらは慶長期の半ば頃から登場し始め、帷子の内でも単物として細分されて記録に出てくる。単物は裏を付けずにひとえで仕立てたものである。その材質には、絹物や木綿が見られる。単物は一六世紀後期に明瞭に確立をみせているが、当初は帷子とは分けて記載されており、慶長期中頃に至って帷子の内に組み入れて記載され始める。すなわち、単物というジャンルが、帷子というジャンルに融合をみせていく経過を示すのである。この動向は、絹物である生絹が単物と帷子との間を取り持つ契機として大きな役割を果たし、実現したと推察できる。このように、はじめ布製であった帷子は、やがて絹物でも仕立てられるようになっていった。それは、帷子の独自性を揺り動かす出来事であった。小袖と材質の上でさしたる相違がなくなり、引いては、独立した存在であった帷子が小袖と一元化されるようになるためである。
著者
吉田 広
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.239-281, 2014-02-28

水稲農耕開始後,長時間に及んだ金属器不在の間にも,武器形石器と転用小型青銅利器という前段を経て,中期初頭に武器形青銅器が登場する。一方,前段のないまま,中期前葉に北部九州で小銅鐸が,近畿で銅鐸が登場する。近畿を中心とした地域は自らの意図で,武器形青銅器とは異なる銅鐸を選択したのである。銅鐸が音響器故に儀礼的性格を具備し祭器として一貫していくのに対し,武器形青銅器は武器の実用性と武威の威儀性の二相が混交する。しかし,北部九州周縁から外部で各種の模倣品が展開し,青銅器自体も銅剣に関部双孔が付加されるなど祭器化が進行し,北部九州でも実用性に基づく佩用が個人の威儀発揚に機能し,祭器化が受容される前提となる。各地域社会が入手した青銅器の種類と数量に基づく選択により,模倣品が多様に展開するなど,祭器化が地域毎に進行した。その到達点として中期末葉には,多様な青銅器を保有する北部九州では役割分担とも言える青銅器の分節化を図り,中広形銅矛を中心とした青銅器体系を作り上げる。対して中四国地方以東の各地は,特定の器種に特化を図り,まさに地域型と言える青銅器を成立させた。ただし,本来の機能喪失,見た目の大型化という点で武器形青銅器と銅鐸が同じ変化を辿りながら,武器形青銅器は金属光沢を放つ武威の強調,銅鐸は音響効果や金属光沢よりも文様造形性の重視と,青銅という素材に求めた祭器の性格は異なっていた。その相違を後期に継承しつつ,一方で青銅器祭祀を停止する地域が広がり,祭器素材に特化していた青銅が小型青銅器へと解放されていく。そして,新たな古墳祭祀に交替していく中で弥生青銅祭器の終焉を迎えるが,金属光沢と文様造形性が統合され,かつ中国王朝の威信をも帯びた銅鏡が,古墳祭祀に新たな「祭器」として継承されていくのである。
著者
俵木 悟
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.435-458, 2017-03-31

柳田國男は一九三〇年代から、特定の時代・地域の人びとにおける「良い/悪い」や「好き/嫌い」といった感性的な価値判断を「趣味」という言葉でとらえ、心意現象の一部として民俗資料に含めることを提唱していた。これを展開した千葉徳爾は、芸術・娯楽に関わる民俗資料に「審美の基準」を位置づけた。本稿は、従来の民俗学が十分に論じてこなかったこの「趣味」や「審美の基準」を、民俗芸能の具体的事例にもとづいて論じる試みである。鹿児島県いちき串木野市大里の七夕踊りは、ナラシと呼ばれる一週間の稽古の過程において、各集落から選ばれた青年による太鼓踊りの評価が行われる。その評価が地域の人びとの関心を集め、多様な「良い踊り」に関する多様な言語表現や、流派に関する知識、技法の細部へのこだわり、踊りの特徴を継承する筋の意識などを生み出し伝えている。それらを手がかりとして、この踊りに関わる人びとにとって「良い踊り」という評価がどのように構成されているのかについて考察した。大里七夕踊りの場合、その評価の際だった特徴は、「成長を評価する」ということである。単に知覚的(視覚的・聴覚的)に受けとられる特徴だけでなく、踊り手がどれだけ十分に各人の個性を踊りで表現し得たかが評価の観点として重視されていた。これは近代美学における審美性の理解からは外れるかもしれないが、民俗芸能として生活に即した環境で演じられる踊りの評価に、文化に内在する様々な価値が混然として含まれるのは自然なことであろう。大里七夕踊りの場合、そのような価値を形成してきた背景には、近代以降に人格の陶冶の機関として地域の生活に根付いてきた青年団(二才)によって踊りが担われてきたという歴史が強く作用していると考えられる。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.80, pp.185-202, 1999-03

弥生時代には,イレズミと考えられる線刻のある顔を表現した黥面絵画が知られている。いくつかの様式があるが,目を取り巻く線を描いた黥面絵画A,目の下の線が頰を斜めに横切るように下がった黥面絵画B,額から頰に弧状の線の束を描いた黥面絵画Cがおもなものである。それぞれの年代は弥生中期,中~後期,後期~古墳前期であり,型式学的な連続性から,A→B→Cという変遷が考えられる。Aは弥生前期の土偶にも表現されており,それは縄文時代の東日本の土偶の表現にさかのぼる。つまり,弥生時代の黥面絵画は縄文時代の土偶に起源をもつことが推測される。黥面絵画には鳥装の戦士を表現したものがある。民族学的知見を参考にすると,イレズミには戦士の仲間入りをするための通過儀礼としての役割りがあったり,種族の認識票としての意味をもつ場合もある。弥生時代のイレズミには祖先への仲間入りの印という意味が考えられ,戦士が鳥に扮するのは祖先との交信をはかるための変身ではなかろうか。畿内地方では,弥生中期末~後期にイレズミの習俗を捨てるが,そこには漢文化の影響が考えられる。その後,イレズミはこの習俗本来の持ち主である非農耕民に収斂する。社会の中にイレズミの習俗をもつものともたないものという二重構造が生まれたのであり,そうした視点でイレズミの消長を分析することは,権力による異民支配のあり方を探る手掛かりをも提示するであろう。
著者
板橋 春夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.135-145, 2002-03-29

桐生新町の天王祭礼は由緒ある祭礼で、市神は桐生織物と深い関係にある。御旅所は当番町の天満宮寄りに安置するのが習わしであった。桐生新町では明治三十年代まで鉾や屋台を引き回していたが、電灯線が引かれ渡御に支障が出るようになって中止となり、御輿も現在廃止した。近世期のにぎわいぶりは彦部信有「桐生の里ぶり」に詳しいが、現在、その面影を見出すのはむずかしい。そこで隣接する在郷町である大間々町の天王祭礼でその様子を見ていく。桐生新町の御輿は「天王伝右衛門」という人物がかつて掌握していたが、何らかの理由で退転。正徳二年(一七一二)に江戸の職人が御輿を製作。桐生新町の御輿は大間々へ回っていたという。大間々町の天王祭礼は、寛永六年(一六二九)、京都から八坂神社の分霊を市神として勧請し、三丁目大泉院内に祀ったのが始まりである。仮御輿だったので万冶元年(一六五八)に新規製作。町の大火で消失してしまい、寛政三年(一七九一)に新規製作した。祭日は徳川家康が関東に入った際に絹織物を献上したところ、それが勝利の吉例になったのにちなむというものである。大間々町の天王祭礼に関する聞き書きを行い、具体的な祭りの様子を記述した。全国各地で伝統的祭礼が衰退し、代わりに行政主導型の新しいイベントとして改編する動向がある。桐生市や大間々町の天王祭礼はそれぞれ高度経済成長期に大きな変化があった。本稿では大間々町の天王祭礼を聞き書きと地元紙『東毛タイムス』の記事を利用して変化を探った。
著者
川森 博司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.1-21, 1991-03-30

The two main topics of Japanese folktales are marriage and fortune-making. This thesis analyzes the latter type of folktales in an attempt to reveal the spirit of people who lived in a typical Japanese village community to hand down these pieces of folktales.Significant among the type of fortune-making folktales are stories characterized by antagonism between I-the main character who makes a fortune and II-another character who fails to make a fortune. The antagonism is expressed in various combinations of conflicting parties such as a man and his wife, a man and his neighbor, or a man and his real brother or stepbrother, among which the preferred one in Japan is that of a man and his neighbor.In the Amami and Okinawa islands, however, a type of antagonism between ‘a man and his brother’ appears in a high ratio depending on some kinds of stories. Detailed analysis of folktales in the Amami and Okinawa islands is expected to identify the difference from folktales in the main land of Japan so that the nature of antagonism between characters in Japanese folktales may be better understood.The Japanese features may also be more clearly understood by comparing her folktales with that of other nations to reveal their similarities and differences. For example, in Korea, a type of antagonism between ‘a man and his brother’ appears more frequently in their folktales. More careful comparison, however, requires a classified collection of materials from various countries, based on which international comparison should be made.The fact that a type of antagonism between ‘a man and his neighbor’ is the preferred type in Japanese folktales indicates that the relationship with neighbors was of main concern to people in a typical Japanese village community. Folktales provide valuable resources for investigating their inner world.
著者
渡部 鮎美
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.253-274, 2008-11-30

臨時雇いとは出稼ぎや日雇いのように,日々または1年以内の期間を定めておこなわれる労働である。本論では農業と臨時雇いなどの他の仕事を兼業する人々の生計活動の分析を通して,兼業というワークスタイルについて論じる。調査地の千葉県南房総市富浦町丹生は房総半島南端に位置する集落である。丹生の人々は1960年から現在まで,農業とともに日雇いや農業パートなどの多くの臨時雇いをしてきた。とくに1970年代前半までは臨時雇いが農閑期の収入源となっていた。しかし,1970年代後半になるとビワ栽培が盛んになり,農業収入が増加して臨時雇いの経済的な意味は希薄化する。それでも現在まで丹生や周辺地域で臨時雇いが続けられてきたのは,臨時雇いが賃金を得る以外の意味をもっていたからである。まず,彼らにとって臨時雇いはヒマな時間を埋めるための仕事であった。そして,臨時雇いは外出がしづらい環境のなかで,家庭の外へ出る手段にもなっていた。また,彼らにとって臨時雇いは一生や一年,一日のなかでおこなわれる多様な生業活動のひとつであった。これまでの労働研究では,生計活動と直接結びつかない労働も生計活動と直接結びつく労働と同等の価値をもっていたことが示されている。また,そうした労働観が諸生業の産業化によって崩れていることも指摘されている。しかし,産業化後も生計活動と直接結びつかない臨時雇いのような生業活動は主たる生計手段となる生業活動からの逸脱となっている。一般にイレギュラーな労働とみられる臨時雇いも人々の生活の上ではなくてはならないものだったのである。本論では,複合生業論などの先行研究で見出された個々の生業活動が,実際にどのようにおこなわれているのかを参与観察や生計活動の通時的な分析を通して示した。そして,一生や一年,一日のなかで,主たる生業活動を逸脱しては復帰する営みが,現代の農業と他の仕事を兼業する人々の労働の総体としてとらえられるものであったことをあきらかにした。
著者
田村 省三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.209-233, 2004-02-27

本稿は、日本の近代化の先駆けであり、薩摩藩の近代科学技術の導入とその実践の場であった「集成館事業」の背景としての視点から、薩摩藩の蘭学受容の実際とその変遷について考察したものである。薩摩藩の蘭学は、近世における博物学への関心と島津重豪の蘭学趣味から出発し、オランダ通詞の招聘や蘭方医の採用をとおして、しだいに領内に普及していった。そして、蘭学が重用され急速に普及していったのは島津斉彬の時代であり、藩が強力に推進した「集成館事業」の周辺に顕著であった。しかし、藩士たちの蘭学の修得については、中央から遠く離れた地域性や経済的な困難もあって、江戸や大阪への遊学は他の地域に比べて少なかった。むしろ、中央の優秀な蘭学者を藩士に採用したり、蘭学者たちとの人脈を活用するという傾向が強かったと思われる。ただし長崎への遊学は、例外であった。薩摩藩の蘭学普及は、藩主導で推進されている。したがって地域蘭学の立場からすれば、同時代の諸藩とはその目的、内容と規模、普及の事情に相違がみられる。一方で、蘭学普及の余慶がまったく領内の諸地域には及んでいなかったのかと言えばそうではない。このたび、地域蘭学の存在を肯定することのできる種痘の事例を確認することができた。それは、長崎でモーニッケから種痘の指導を受けた前田杏斎の種痘術が、領内の高岡や種子島の医師たちに伝えられ実施されたという記録によってである。また薩摩藩は薩英戦争の直後、藩の近代化を加速するため、洋学の修得を目的とした「開成所」を設置する。ここでは当初蘭学の学習が重んじられていたが、しだいに英学の重要性が増していった。さらに明治二年、国の独医学採用に伴い、藩が英医ウィリアム・ウィリスを招聘して病院と医学校を設置してから、英国流の医学が急速に普及する。この地域が本格的に西洋医学の恩恵を受けるのは、以降のことである。
著者
小林 青樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.213-238, 2014-02-28

本論は,弥生文化における青銅器文化の起源と系譜の検討を,紀元前2千年紀以降のユーラシア東部における諸文化圏のなかで検討したものである。具体的には,この形成過程のなかで,弥生青銅器における細形銅剣と細形銅矛の起源と系譜について論じた。まず,ユーラシアにおける青銅器文化圏の展開を概観した上で,細形銅剣の起源については,北方ユーラシアでは起源前1千年紀前半の段階から,中国北方系の青銅短剣の影響を受けたカラスク文化系青銅短剣の系列があり,一方,アンドロノヴォ系青銅器文化の
著者
坂本 稔
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.305-315, 2007-03-30

土器の使用に伴って付着した物質は,その炭素14年代が土器の使用年代を示すものと考えられる。その起源物質の推定を目的として,土器付着物の炭素・窒素分析を行った。多くの試料は陸上生物に特徴的な値を示し,炭素14年代について海洋リザーバー効果の影響が少ないことが分かった。一方,東北や北海道では海洋生物に特徴的な値を示す試料の割合が増え,その影響は無視できない。炭素の安定同位体比からは,土器付着物に雑穀類などのC4植物の存在が確認され,また窒素の安定同位体比との相関では,食材を反映する内面と燃料材を反映する外面とに違いが見られた。
著者
柴崎 茂光
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.49-73, 2015-02

本報告では,鹿児島県屋久島で行われているエコツーリズム業が地域社会に及ぼす経済的影響を,西暦2000年前後に焦点を絞って,需要側(観光客側)・供給側(エコツーリズム業従業者側)双方の視点から明らかにした。屋久島を訪問する年間約20万人程度の観光客のうち,19-21%に当たる約34,000-38,000人が,屋久島滞在中にエコツアーを利用していた(2001-2002年)。またエコツアーを利用した観光客の過半数(57-60%)が,パッケージツアー(以下,パック旅行)を利用しており,エコツーリズム業とパック旅行の関係が密接であることが判明した。エコツーリズム業の経営構造を分析した所,費用の約50%は労務費が占めていた。その一方,減価償却費は旅館業やボーリング場経営に比べ小さい金額・比率にとどまっており,開業に必要な投資額が莫大でないことが示唆された。損益分岐点分析を行ったところ,売上高は損益分岐点売上高を上回り,また損益分岐点比率もホテル業などよりも小さい値であるため,経営環境は良好であると推測された。屋久島のエコツーリズム業の売上高は,年間5億1,000万-5億7,000万円と推定された。エコツアー業の経営環境は良好である一方で,山岳地域への環境負荷も増大させてきた。こうした状況に対して公的機関を中心に,荒川登山バス(シャトルバス制度),様々な対策を導入してきたものの,抜本的な解決には至っていない。