著者
古川 一明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.269-294, 2013-11-15

東北地方の宮城県地域は,古墳時代後期の前方後円墳や,横穴式石室を内部主体とする群集墳,横穴墓群が造営された日本列島北限の地域として知られている。そしてまた,同地域には7世紀後半代に設置された城柵官衙遺跡が複数発見されている。宮城県仙台市郡山遺跡,同県大崎市名生館官衙遺跡,同県東松島市赤井遺跡などがそれである。本論では,7世紀後半代に成立したこれら城柵官衙遺跡の基盤となった地方行政単位の形成過程を,これまでの律令国家形成期という視点ではなく,中央と地方の関係,とくに古墳時代以来の在地勢力側の視点に立ち返って小地域ごとに観察した。当時の地方支配方式は評里制にもとづく領域的支配とは本質的に異なり,とくに城柵官衙が設置された境界領域においては古墳時代以来の国造制・部民制・屯倉制等の人身支配方式の集団関係が色濃く残されていると考えられた。それが具体的な形として現われたものが7世紀後半代を中心に宮城県地域に爆発的に造営された群集墳・横穴墓群であったと考えられる。宮城県地域での前方後円墳や,群集墳,横穴墓群の分布状況を検討すると,城柵官衙の成立段階では,中央政権側が在地勢力の希薄な地域を選定し,屯倉設置地域から移民を送り込むことで,部民制・屯倉制的な集団関係を辺境地域に導入した状況が読み取れる。そしてこうした,城柵官衙を核とし,周辺地域の在地勢力を巻き込む形で地方行政単位の評里制が整備されていったと考えた。
著者
川村 清志 小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.214, pp.195-217, 2019-03-15

本稿は,民俗学における日記資料に基づく研究成果を概観し,その位置づけを再考することを目的とする。民俗学による日記資料の分析は,いくつかの有効性が指摘されてきた。例えば日記資料は,聞き取りが不可能な過去の民俗文化を再現するための有効な素材である。とりわけ長期間にわたって記録された日記は,民俗事象の継起的な持続と変容を検証するうえでも,重要な資料とみなされる。さらに通常の聞き取りではなかなか明らかにし得ない定量的なデータ分析にも,日記資料は有用であると述べられている。確かにこのような目論見のもとに多くの研究が行われ,一定の成果が見られたことは間違いない。ただし日記を含めた文字資料の利用は,民俗学に恩恵だけをもたらしてきたとは,一概にはいえない。文字資料への過度な依存は,民俗学が担ってきた口承の文化の探求とそこで紡がれる日常的実践への回路を閉ざしかねないだろう。そこで本稿では,これまで民俗学が,日記資料とどのように向かい合ってきたのかを問い直すことにしたい。民俗学者が,日記資料からどのようなテーマを抽出してきたのか,また,それらはどのような手順を踏むものだったのか,そこでの成果は,民俗学に対して,どのような展開をもたらし得るものであったのかを検証していく。これらの検証を通して,本論では日記研究自体が内包していた可能性を拡張することで,民俗学の外延を再構成し,声の資料と文字資料との総合的な分析の可能性を指摘した。
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.41-81, 1983-03-15

This chronological table was compiled to indicate the development of Japanese Folklore Studies since the Meiji era. Important literature related to Japanese Folklore, significant events and activities in the Japanese Folklore Society are arranged in chronological order and divided into two columns: (1) Matters related to Yanagita Kunio, and (2) Others.Principal events and related items were included in the table to illustrate the interrelation between events, e.g.: criticism and refutation passed upon articles, publication of monographs and research papers based on field work.
著者
鋤柄 俊夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.161-239, 1993-03-25

大阪府南河内郡美原町とその周辺の地域は,特に平安時代後期から南北朝期にかけて活躍した「河内鋳物師」の本貫地として知られている。これまでその研究は主に金石文と文献史料を中心にすすめられてきたが,この地域の発掘調査が進む中で,鋳造遺跡および同時代の集落跡などが発見され,考古学の面からもその実態に近づきつつある。ところで従来調査されてきた奈良時代以降の鋳造遺跡は,寺院または官衙に伴う場合が多く,分析の対象は梵鐘鋳造土坑と炉または仏具関係鋳型とスラグなどが中心とされていた。一方河内丹南の鋳造遺跡についてみれば,鍋などの鋳型片および炉壁・スラグ片は一般集落を構成する遺構群の中から出土し,炉基部をはじめとする鋳造関連施設の痕跡もその一部で検出される。これらは鋳造施設をともなった中世集落遺跡の中の問題なのである。そしてこの地域の集落遺跡は,河内丹南の鋳物師の本貫地であったという記録と深く関わっている可能性が強いのである。小論はこの前提に立ち,丹南の中世村落を復原する中で特に職能民の集落に注目し,それが文献史研究の成果により示されている河内鋳物師の特殊な社会的存在とどのように関わってくるのかを考えたものである。考察は中世村落研究と鋳造遺跡研究の2点に分けられる。前者では,灌漑条件を前提とした歴史地理と景観復原の方法から村落の成立環境を,文献記録と遺跡の数量化分析から村落の配置と規模および古代から近世にかけての移動を復原した。後者では,全国の鋳造遺跡の整理から遺構の特徴,日置荘遺跡の検討から遺物の特徴を抽出し,鋳造作業における不定型土坑と倉庫空間の重要性および,鋳造集団がもつ特殊な流通について指摘した。これらの分析から,丹南の村落は成立環境の異なる条件により,少なくとも2つの異なった変化過程を示す可能性があり,それぞれに付属する鋳造集落においても同様な傾向のみられることがわかった。この仮説について,小論では日置荘遺跡をモデルとした鋳物師村落の景観復原を例に提示しておいたが,丹南鋳物師の2つの系統との関連の問題とあわせて,今後社会史的に復原検討されるべき課題とされよう。
著者
李 秀鴻 朴 宣映
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.195, pp.1-55, 2015-03

本稿では,これまで調査された韓半島南部地域の青銅器~三韓時代の環濠遺跡48ヶ所を集成し,環濠の時期ごとの特徴や性格,変化の傾向を検討した。韓半島南部地域において環濠は,青銅器時代前期には登場しており,清原大栗里遺跡で確認できる。幅の狭い3列の溝が等高線方向に曲走する。出土遺物からみて遼寧地域から直接移住した集団が築造したものと判断できる。青銅器時代において環濠の成立および拡散が明瞭に確認できる時期は,青銅器時代後期である。この時期には,大部分の環濠が嶺南地域に集中的に分布し,その中で地域的な差異も看取できる。まず,蔚山圏ではすべて丘陵上に分布し,1列の環濠がムラの周りを取り囲む形態が多い。地形や立地の特徴から,儀礼空間を区画する性格があったと判断できる。本稿では,環濠自体と環濠が眺望できる集落からなる結合体を,拠点集落と把握した。一方で,晋州圏では主に沖積地の大規模な集落に環濠が備わっている。木柵をともなう場合もあり,防御もしくは境界という機能がより強かったようである。ただし,防御といっても必ずしも戦争の際の防御だけではなく,野生動物の脅威にも対応した施設であった可能性もある。環濠が大規模な集落に設置されているため,拠点集落の指標となることは蔚山圏と同様である。環濠の成立は,青銅器時代の前期と後期の画期と評価でき,大規模な土木工事である環濠の築造を可能にした有力な個人の登場を推測することができる。三韓時代の前期には,韓半島の広い範囲に環濠遺跡が分布する。この時期には儀礼遺構としての意味が極大化する。1列の主環濠の外部に同一方向の幅狭の溝が並行するものが一般的な形態である。山頂部に円形に設置する例が多い。三韓時代の後期には環濠遺跡の数が急減する。これらは木柵をともなったり,環濠の幅が広くなったりしており,社会的緊張による防御的性格が強くなるように見受けられる。三韓時代後期に環濠が急減するのは,中国や高句麗から土城が伝来し,各地の国々が統合する過程において,地域の小単位としてあった環濠集落もより大きな単位への統合されていくためと考えられる。
著者
藤井 隆至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.259-290, 1993-11-10

本稿は,雑誌『郷土研究』がどのような主題をもち,どのような方法でその主題を分析していったかを解明する。この雑誌は1913年から1917年にかけて発行された月刊誌で,柳田国男はここを拠点にして民間伝承を収集したり自分の論文を発表したりする場としていた。南方熊楠からの質問に対して,この雑誌を「農村生活誌」の雑誌と自己規定していたが,それでは「農村生活誌」とは何を意味するのであろうか。彼によれば,論文「巫女考」はその「農村生活誌」の具体例であるという。筆者の見解では,「巫女考」の主題は農村各地にみられる差別問題を考究する点に存していた。死者の口寄せをおこなうミコは村人から低くみられていたけれども,柳田はミコの歴史的系譜をさかのぼることによって,「固有信仰」にあってミコは神の子であり,村人から尊敬されていた宗教家で,その「固有信仰」が「零落」するとともに差別されるようになっていったという説を提出している。差別の原因は差別する側にあり,したがって差別を消滅させるためには,すべての国民が「固有信仰」を「自己認識」する必要があるのであった。その説を彼は「比較研究法」という方法論で導きだしていた。その方法論となったものは,認識法としては「実験」(実際の経験の意)と「同情」(共感の意)であり,少年期から学んでいた和歌や学生時代から本格的に勉強していた西欧文学をもとにして彼が組み立ててきた認識の方法である。もう一つの方法論は論理構成の方法で,帰納法がそれであるが,数多くの民間伝承を「比較」することで「法則」を発見しようとする方法である。こうした方法論を駆使することによって彼は差別問題が生起する原因を探究していったが,彼の意見では,差別問題を消滅させることは国民すべての課題でなければならなかった。換言すれば,ミコの口寄せを警察の力で禁止しても差別が消滅するわけではなく,差別する側がミコの歴史を十分に理解することが必要なのであった。
著者
廣田 浩治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.223-247, 2003-03-31

公家権門の家領を支配する担い手に、家僕を中心とする家政機構がある。中世後期の九条家の家僕は、「御番衆中」「境内沙汰人」などといわれ、諸大夫級と侍身分の家僕から成る。中世前期以来の家司が脱落する過程で、九条家家門との主従関係を強めた家僕が残り、家門が侍身分の家僕までも直接統括する体制に変質した。家門と家僕の関係は家と家の関係という性格が強まり、中世後期の九条家家僕の構成は九条政基・尚経期に一定の確立をみた。中世後期の九条家領荘園といえば日根荘がよく知られる。が、同家領はそれだけでなく、畿内・西国に複数存在し、また九条家関係の寺院の所領も畿内・西国に広がり、所領支配の面で九条家への依存度を強めた。特に寺院所領の錯綜する東九条御領(境内)では九条家「本役」賦課体制をとり、寺院所領の家領化が進んだ。家領支配に当たっては諸大夫級の家僕が奉行、侍身分の家僕は主に上使に任じた。当該期の荘園支配の本質はあらゆる手段を講じてできるだけ多くの収納を実現することにある。このため奉行・上使はしばしば家領に下向し、代官・在地勢力の離反を防ぎ、「案内者」を起用して荘務の協力者とした。家僕相互にも荘務遂行の下向経費捻出や給分保障の点で依存関係があり、これが家領相互の並行支配を支えた。また家僕には金銭の「秘計」「引替」の能力も求められた。日根荘のように家門が下向して直務支配を行う場合には、家門と複数の家僕(奉行―上使)による支配機構が整備される。政基の日根荘支配は複数の家僕に支えられ、また家門―家僕の主従関係は荘内の寺僧などにも広げられた。政基の支配は京都東九条の尚経を頂点とする他の家領支配とも関連しており、孤立したものではなかった。中世後期の九条家は家僕編成の主従制を強化したが、地域領主化したのではなく、公家権門として家僕の荘務を基盤に複数所領の収納維持を志向したのである。
著者
佐藤 宏之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.75-87, 2014-01

元和四年(一六一八)四月九日、幕府は大名改易後の居城の収公にさいし、城付武具はそのまま城に残し置くこととの方針を定めた。さらに、軍事目的のために備蓄した城米も引き継ぎの一環として、備蓄の有無と備蓄方針の確認を求めた。本稿は、国立歴史民俗博物館所蔵の石見亀井家文書のなかにある、元和三年の津和野城受け取りに関する史料を素材に、城受け取りのさいに引き継ぎの対象となる財(モノ)に着目する。城受け取りのさいには、城内諸道具の目録が作成され、それに基づいて引き継ぎが行われる。その目録化の過程において、武家の財は公有の財と私財とに峻別される。公有の財とは城付の武具・道具や城米であり、大名自身の私有物ではなく、幕府から与えられたモノといえる。すなわち、その帰属権が最終的に将軍に収斂していくものである。一方、私財とは大名や家臣の武具・家財や雑道具などであり、その処分は個々人の裁量に任せられたモノといえる。こうした動向の契機となったのが、天正一八年四月二九日に真田昌幸宛てに出した豊臣秀吉の朱印状ではないかという仮説を提示する。秀吉は、降伏した城々は兵粮・鉄砲・玉薬・武具を備えたままで受け取るという戦闘力を具備した城郭の接収確保を指示し、接収直後に破城とするのではなく、無抵抗で明け渡す城の力(兵粮・鉄砲・玉薬・武具)を温存した。秀吉は、その後の奥羽仕置を貫徹するなかで、諸国の城々は秀吉の城という実態と観念を形成していったのである。こうした城付の武具や城米を目録化することによって把握することは、城の力を把握することでもあった。したがって、近世の城の構成要素は、城付の武具と城米であったということができよう。このような城付の武具と城米を把握・管理した江戸幕府は、国家権力を各大名に分有させ、それを背景とした統治業務の分業化を行いつつも、幕府の国家的支配の体系のなかに編成していったと考えられる。On April 9, 1618, with reference to the seizure of a castle where a daimyo ( feudal lord) usually resided, the Shogunate decided on a policy that after daimyo kaieki (punishment by removal of samurai status and expropriation of territories) , any arms belonging to a seized castle must be left in place. Moreover, the Shogunate demanded to know the quantity and any storage conditions of jomai (rice originally reserved for military purposes) .Employing historical evidence concerning the seizure of Tsuwano Castle in 1617, which is found in documents relating to the Kamei family of Iwami Province in the possession of the National Museum of Japanese History, this paper focuses on possessions (assets) that were handed over upon seizure of the castle.Before accepting a castle, a complete inventory of all goods and materials within the castle was created, and based on this list, the castle was handed over. In the preparation process of the inventory, the assets of a samurai family were divided and assessed as belonging to either the government or the family.Government ownership concerned arms, tools, and jomai that belonged to the castle; they can be considered as possessions originally given by the Shogunate, not a daimyo's private possessions. That is to say, any right of possession was in the end attributed to the shogun. On the other hand, family possessions were arms, household goods, and miscellaneous tools of retainers, and their disposal was left to the individual daimyo's discretion.Such a trend was probably triggered by a shuinjo ( shogunal charter for trade) given by Hideyoshi Toyotomi to Masayuki Sanada on April 29, 1590. Hideyoshi gave directions to seize and secure a castle sufficiently provided with a military capability, more specifically, to receive surrendered castles complete with all food provisions, firearms, ammunition, and armor, in order to maintain the military power of any castle delivered without resistance, and not to destroy the castle immediately after seizure. Hideyoshi carried through the subsequent Punishment of the Ou region, during which he was actually putting into practice the concept that the castles in the provinces belonged to Hideyoshi.Understanding the quantity of military equipment and jomai that belonged to a castle by creating an inventory also allowed the assessment of the military capability of the castle. Therefore, one can safely state that the component parts of a castle in early-modern times were the weapons of war and jomai belonging to that castle.It can be considered that the Edo Shogunate, which understood and controlled the arms and jomai belonging to a castle, allocated some state authority to each loyal daimyo, and against the background of such a policy, while promoting the specialization of ruling and administrative work, the Shogunate was incorporating the policy into its own state ruling system.
著者
呉屋 淳子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.171-211, 2015-12-25

近年,学校教育のなかで民俗芸能が積極的に行われている。学校教育で教えられている民俗芸能を見てみると,その在りようは,年々多様化している。特に,2006(平成18)年の教育基本法改訂に伴い,『新学習指導要領』のなかで「伝統の継承」に関する文言が明記され,正規の教育課程でも「伝統と文化」に関わる教科・科目の導入が顕著となってきている。本稿で取り上げる沖縄県八重山諸島石垣島に所在する3つの高等学校で導入された八重山芸能も,『高等学校学習指導要領』改訂に伴う教育課程の再編成によって実施されている。また,学校教育で民俗芸能の教育が導入される状況は,地域によってもさまざまである。たとえば,地域社会を主体として民俗芸能の継承を行うには,困難な状況となり,学校教育が民俗芸能の継承の一翼を担っている場合がある。本稿が対象とする八重山諸島は,地域社会だけでなく,八重山諸島の3つの高等学校のそれぞれの学校が主体となり,地域社会と相互に関わり合いながら民俗芸能の教育が行われている。そして,民俗芸能が地域と切り離されて教授されてきた訳ではなく,むしろ地域社会と密接な関わりを保ちながら行われていた。このようなことから,本稿では,八重山諸島の歴史的,社会的,文化的背景を踏まえて,現代八重山における八重山芸能の継承の現状と展開を,現在,3つの高等学校で行われている八重山芸能の教育の事例から明らかにする。その際,近世琉球期に八重山諸島と沖縄本島を行き来した人々がもたらした影響を通して,今日の八重山芸能がどのような人的交流を経て確立され,学校教育に取り入れられてきたのかについてみていく。具体的には,まず,廃藩置県以降,琉球王府に仕えた元役人の琉球古典芸能家が八重山諸島の人々へもたらした影響と,琉球古典芸能の八重山諸島への流入が八重山芸能の確立に与えた影響とその展開について検討する。次に,戦後の沖縄と八重山で芸能の普及に大きな役割を果たした「研究所」に着目しながら,芸能を継承する場の変化について指摘する。それらを踏まえて,現在,八重山の3高校の生徒および教員が八重山内外を移動することによって受ける沖縄本島や日本本土からの影響について検討し,八重山芸能が創造される過程について明らかにする。八重山の高等学校の事例を通して,今日の八重山芸能の継承と創造の過程について考察する。
著者
山折 哲雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.p365-394, 1985-03

Kūkai, the Heian Buddhist (774-835) received permission from the government to construct a hall called Shingonin in the center of the royal palace for the performance of rituals of Esoteric Buddhism. Every year, a ritual called Goshichinichimishiho was performed at the hall over seven days every second week during the New Year. A mandala was displayed as the central divinity and other images of Esoteric Buddhism were installed. Many followers of Esoteric Buddhism prayed for national security and the harvest.The most important thing to be noted in the ritual was that prayers were offered while sacred water was sprinkled on the emperor. When the emperor could not be present at the ritual, prayers were offered while sacred water was sprinkled on the emperor's clothes placed on a table. This ritual was believed to drive away evil spirits that may possess the emperor, and to make his body strong and full of life.Goshichinichimishiho is reminiscent of rituals such as Niinamematsuri and Onamematsuri that took place in the royal palace from ancient times. Niinamematsuri is a harvest cult held in November every year. In this ritual the emperor slept and ate with his guest the god Amaterasuōmikami in a temporary palace. The importance of the ritual lies in the fact that it tried to soothe down and fortify the soul of the emperor, which would gradually have weakened as the year drew to an end. In this sense the ritual was performed to strengthen and revive the spirit of the emperor. When a new emperor ascended the throne, after the coronation, Onamematsuri was performed. In this case, the ritual to revive and fortify the soul of the emperor took place after the ritual where the soul of the previous emperor was succeeded by the new emperor. Thus the fortification and succession of the empeor's soul were the main importance of Niinamematsuri and Onamematsuri, whereas in Kūkai's Goshichinichimishiho, the prime importance of the ritual lay in driving away evil spirits that might possess the emperor. From the comparison of these two rituals, Kūkai must have been conscious of the political and religious function of Niinamematsuri and Onamematsuri and had the intention to oppose these rituals by introducing the ideology of Esoteric Buddhism in the center of a national ritual. Goshichinichimishiho performed in Shingonin was continued during the Heian period. In later times it became less popular because of the rise of the study of Japanese classical literature and Confucianism. After the Meiji Era it was completely abolished.
著者
井上 宗一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.225-249, 2011-03-31

昨今、日本の相撲、特に大相撲やアマチュア相撲の動態は、相撲に付与された「国技」という呼称、およびそれに付随して共有されているイメージを揺るがしつつある。大相撲における外国人力士の台頭、アマチュア相撲によるオリンピック正式種目登録への動きなど、選手構成、組織の運営方針や競技の形態などの多様な展開がその大きな要因のひとつである。その一方、力士の人間性や所作などについては、宗教的な言説を基盤とした一種の様式美とされ、「品格」、「品位」といった言説と絡み合いながら、「日本の伝統的競技」の代表的なもの、つまり「国技」として位置付けられる要因となっている。これまでの民俗学における相撲研究では、相撲の「国技」たる「品格」を保証するような、相撲の宗教儀礼としての側面のみを照射し、それ以外の側面についてあまり語られてきていない。そこには、民俗学固有ともいえる事例の選別や、言及の指向が存在しており、さらに言うならば、民俗学は相撲のみならず、競技を競技として対象化してこなかったのではないかと考える。本稿ではまず、民俗学における競技についての言及を振り返り、その固有ともいえる指向を検討する。次いで北陸地方で行なわれている神事相撲の事例を通して、対象とする事例を拡大して検討することで、民俗学での競技に対する、より開かれたアプローチの構築に寄与したい。
著者
廣田 浩治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.223-248, 2003-03

公家権門の家領を支配する担い手に、家僕を中心とする家政機構がある。中世後期の九条家の家僕は、「御番衆中」「境内沙汰人」などといわれ、諸大夫級と侍身分の家僕から成る。中世前期以来の家司が脱落する過程で、九条家家門との主従関係を強めた家僕が残り、家門が侍身分の家僕までも直接統括する体制に変質した。家門と家僕の関係は家と家の関係という性格が強まり、中世後期の九条家家僕の構成は九条政基・尚経期に一定の確立をみた。中世後期の九条家領荘園といえば日根荘がよく知られる。が、同家領はそれだけでなく、畿内・西国に複数存在し、また九条家関係の寺院の所領も畿内・西国に広がり、所領支配の面で九条家への依存度を強めた。特に寺院所領の錯綜する東九条御領(境内)では九条家「本役」賦課体制をとり、寺院所領の家領化が進んだ。家領支配に当たっては諸大夫級の家僕が奉行、侍身分の家僕は主に上使に任じた。当該期の荘園支配の本質はあらゆる手段を講じてできるだけ多くの収納を実現することにある。このため奉行・上使はしばしば家領に下向し、代官・在地勢力の離反を防ぎ、「案内者」を起用して荘務の協力者とした。家僕相互にも荘務遂行の下向経費捻出や給分保障の点で依存関係があり、これが家領相互の並行支配を支えた。また家僕には金銭の「秘計」「引替」の能力も求められた。日根荘のように家門が下向して直務支配を行う場合には、家門と複数の家僕(奉行―上使)による支配機構が整備される。政基の日根荘支配は複数の家僕に支えられ、また家門―家僕の主従関係は荘内の寺僧などにも広げられた。政基の支配は京都東九条の尚経を頂点とする他の家領支配とも関連しており、孤立したものではなかった。中世後期の九条家は家僕編成の主従制を強化したが、地域領主化したのではなく、公家権門として家僕の荘務を基盤に複数所領の収納維持を志向したのである。
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.179-212, 1996-02-29

この報告は、沖縄八重山波照間島の盆行事についての記述と分析である。波照間島の盆行事はムシャーマを中心とする村落レベルの行事と家族単位の盆行事の二つに区分される。ムシャーマは来訪神ミルクを先頭とする仮装行列と棒術、太鼓、獅子舞、ニンブチャー(念仏踊り)を内容とする行事であり、村落レベルでの盆行事にはこのほかに来訪神アンガマの行事とイタシキバラとよばれる行事がある。これに対して家族単位の盆行事は、先祖を迎えて供物を供えて供養し、そして先祖を送るという、構造的にはごく一般的な内容の盆行事である。本稿では波照間島の盆行事をつぎの三点を中心に考察を試みた。第一は、村落レベルの行事と家族単位の盆行事の儀礼過程の記述と両者の意味の差異、および両者の関係についての検討である。第二は、ムシャーマ行事のもつ祖先祭祀的性格と農耕儀礼、特に豊年祭的性格についての考察である。そして第三は、盆行事に登場するミルク、フサマラー、アンガマの三つの来訪神についての検討である。これらの諸問題について分析の結果、つぎのような結論に達した。第一に、波照間島の盆行事のうち、村落レベルの行事は主として無縁の先祖に対する供養がその中心であり、家族レベルの盆行事は各家族の正当な先祖に対する祖先祭祀であって、両者は意味が異なる。第二に、村落レベルの盆行事は、豊年祭的要素と祖先祭祀的要素の双方を含んでおり、これはもともと無縁先祖に対する祭祀として行われていたムシャーマ行事に豊年祭アミジワーの行事が移行し両者が合体した結果である。第三に、八重山地域で活発に行われている来訪神信仰のなかでも波照間島のミルク、フサマラー、アンガマは、たとえばミルクがブーブザーとよばれる夫やミルクンタマとよばれる子供たちとセットになって登場するなど、いくつかの独自の特徴をもつことが明らかになった。
著者
清水 靖久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.39-70, 2019-03

東大紛争大詰めの1968年12月23日,加藤一郎総長代行が全学共闘会議に最後の話し合いを申入れ,懸案の文学部処分の「白紙還元」を提案したのに,全共闘は話し合いを拒否したという説がある。事実ではないが,その当否を検討するためにも,文学部の学生がなぜ処分されたのか,その「白紙撤回」を全共闘はなぜ要求しつづけたのか,1969年1月18,19日の機動隊導入による安田講堂の攻防は避けられなかったか,1969年12月まで文学部だけ紛争が長引いたのはなぜかを考察する。東大紛争における文学部処分とは,1967年10月4日の文学部協議会の閉会後,文学部学生仲野雅(ただし)が築島裕(ひろし)助教授と揉みあいになり,ネクタイをつかんで暴言を吐いたとして無期停学処分を受けたことである。当時の山本達郎文学部長は,12月19日の評議会で,仲野の行為を複数教官に対する「学生にあるまじき暴言」として誇大に説明して処分を決定し,一か月後に事実を修正したが伏せた。1968年11月就任の林健太郎文学部長は,同月上旬の軟禁時以外は,仲野と築島の行為の事実を議論せず,教師への「非礼な行為」という説明を維持した。1969年8月就任の堀米庸三文学部長は,9月5日,仲野処分を消去するとしたが,処分は適法だったと主張しつづけ,築島の先手の暴力という事実を指摘されても軽視した。この文学部処分は,不在学生が処分された点で事実誤認が明らかになった医学部処分とともに東大紛争の二大争点であり,後者が1968年11月に取消されたのちは,最大の争点だった。加藤執行部は,12月23日,文学部処分について「処分制度の変更の上に立って再検討する用意がある」と共闘会議に申入れたが,林文学部長らが承認する見込みはなかったし,共闘会議から拒否された。「白紙還元」の提案と言えるものではなかった。
著者
花部 英雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.57-67, 2012-03

四五〇〇もの俗信を集めた「北安曇郡郷土誌稿」は、日本の俗信研究の先駆けとなる資料集である。その中の「夢合せ」の項に二〇〇ほどの夢にかかわる俗信がある。まずはこの俗信のうち「夢の予兆」にあたる内容を分析し、民俗としての夢の一般的傾向を明らかにする。次に、「夢の呪い」について、夢を見る以前、以後とに分けてその内容を検討し、夢をどのように受けとめ、それに対応しているかを確認する。さらに呪いのうち韻文形式をとる三首の歌を話題にして、全国的事例からその内容、意味を分析する。そして、この呪い歌の流通の背景に専門の呪術者の関与があることを例証し、呪術儀礼の場で行なわれ、やがて民間に降下してきたことを跡づける。続いて、呪文の「悪夢着草木好夢滅珠玉」を話題にする。福島県の山都町史に悪夢を見た朝、北に向かい「悪夢ジャク、ソラムク、コウムジョウ」と三回唱えればよいという。前述の呪文を耳に聞いた形で伝えてきたものと思われる。この呪文が求菩提山修験の符呪集にあり、修験山伏がこの祈祷にかかわってきたことがわかる。同じ呪文が、陰陽道系の呪術を記した南北朝時代の『二中歴』にあり、ここでは人形に悪夢を付着させて水に流したり、焼却したりする作法が記されている。宮廷の陰陽道儀礼の中で、「悪夢は草木に着け」の呪文が唱えられてきたのであろう。平安時代の『簾中抄』や『口遊』では、桑の木に悪夢を語るとある。なぜ桑の木に悪夢を語るのが悪夢祓いになるのか。現行の民俗を見ていくと、奄美のクチタヴェ(呪文)に好い夢は残り悪い夢は草の葉に止まれというのがある。また、南天に夢を語り、揺するという例もある。南天は「難転」の語呂合せであり、さまざまな呪術儀礼に用いられるが、古くは桑が悪夢消滅の草木であった。桑は蚕の食物であり、悪夢を桑の葉に付着させ、蚕に食べてもらうことで悪夢を消滅させるというのがその原義にあったのではないか、というのが本稿の結論となる。"Kitaazumi-gun Kyodoshiko," gathering as much as 4,500 folk beliefs, is a collection of materials that pioneered the study of Japanese folk beliefs. In these materials, about 200 folk beliefs related to dreams are treated in the "oneiromancy" section. Among these folk beliefs, this article first analyzes the contents of the "omen of dream" and clarifies the general pattern of dreams as folk culture. Subsequently, it examines the contents of the "curse of dream" before and after having dreams and confirms how people treat dreams and react to them. Furthermore, it deals with three curse songs of the verse form and analyzes the contents and meanings based on nationwide examples. Finally, it exemplifies the involvement of professional magicians in circulating these curse songs and proves that the songs were performed at venues of magic rituals, before eventually spreading to common people.Subsequently, the article deals with the incantation of "akumu tsuku somoku-ni komu messu shugyoku-wo." According to the history of Yamato, Fukushima, when you awoke from a bad dream in the morning, you might want to face north and repeat "akumujaku, soramuku, komujo." three times. This seems to have been transmitted by ear from the incantation mentioned above, which appears in the collection of incantations for the Mt. Kubote mountaineering ascetics, suggesting that the mountaineering ascetics were involved in this prayer.The same incantation appears in "Nichureki" of the Nanboku-cho period, in which the incantations of the Yin- Yang school are described, and for the above incantation, how to attach a nightmare to a doll and let water carry it away or burn it is explained. The incantation of wishing "a nightmare attached to trees and plants" would have been chanted in the Yin-Yang rituals at the Imperial Court. "Renchusho" and "Kuchizusami" of the Heian period cite explaining a nightmare to a mulberry tree. Why would doing so result in the expulsion of a nightmare?Among existing folk customs, Amami has kuchitave incantation wishing a good dream stay and a bad dream attached to leaves of grass. There is also an example of explaining a dream to nanten nandina and shaking it. Because the Japanese word "nanten" also means "change of bad luck," it is used for various magic rituals. In ancient times, mulberry trees banished nightmares. People might have believed that because mulberries were eaten by silkworms, nightmares attached to mulberry leaves would also be eaten by silkworms and disappear. This is the conclusion of this article.
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.203-225, 2003-10-31

明治維新後、禄を失い生計の道を絶たれ窮乏化を余儀なくされた士族によって各地で入植・開墾が行われた。わずか七十万石に圧縮された静岡藩では、膨大な数の旧旗本・御家人を無禄移住という形で受け入れたため、立藩当初から家臣団の土着が進められ、荒蕪地の開墾が奨励された。廃藩後は県による支援も行われ、士族授産事業が推進された。しかし、同時期、藩や県からの経済的援助を受けることなく、独力で茶園の開拓に取り組んだ少数の旧幕臣グループがいた。赤松則良・林洞海・渡部温・藤沢次謙・矢田堀鴻らである。矢田堀・赤松は長崎海軍伝習所出身の幕府海軍幹部・エリート士官、林は佐倉順天堂ゆかりの蘭方医、渡部は開成所で教鞭をとった英学者、藤沢は蘭学一家桂川家に生まれた幕府陸軍の幹部であったが、いずれも静岡藩では沼津兵学校や沼津病院に職を奉じていた。藩の公職に就いた彼らには、無禄移住者とは違い、「食うため」には困らないだけの十分な俸給が与えられたのであるが、明治二年(一八六九)以降遠州での開拓・茶園経営に、あえて自らの資産を投入した。洋学知識や洋行経験を有していた彼らは、土質や害虫を研究し、先進地の製茶法を導入したり、アメリカへの直輸出を図ったりと、科学や情報によって地場産業を改良する役割を果たした。しかし、その行動は、苦しい藩財政を助けたり、国益を目指したりといった「公」を意識した動機のみによるものではなく、むしろ個人の営利・蓄財を目的とした私的経済活動としての側面が大きかった。廃藩に前後して上京、優れた能力を買われ一旦は明治政府に出仕した彼らであるが、遠州の茶園はそのまま維持された。海軍中将・男爵となった赤松は退役後には遠州に隠棲し、明治初年以来の念願だった田園生活を楽しむ。茶園開拓をめぐる赤松らの言動からは、官にあるか野にあるかを問わず、「一身独立」を率先実行した近代的人間像が見えてくる。