著者
福島 金治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.212, pp.41-56, 2018-12

延慶改元は徳治三(一三〇八)年の後二条天皇の死去と花園天皇の践祚を契機に行われた。延慶改元は鎌倉幕府が天皇の管轄事項である改元に関与した例とされるが、従来、改元の問題は即位過程の中で実施された改暦と切り離されて論じられてきた。島津家本『大唐陰陽書』に付載された伏見上皇院宣と得宗北条貞時書状は、延慶改暦に功のあった宿曜師宣算を褒賞したものである。本稿では、これと花園天皇の即位に到る過程、および朝廷への窓口である六波羅探題金沢貞顕による公家からの典籍の借用・書写・収集からうかがえる人的交流をリンクさせることで、改元・改暦をめぐる公武交渉の実態を検討した。花園天皇の即位に際して選定された「延慶」は、伏見院の主導で関東申次西園寺実兼らの意向を反映していた。一方、即位の日取りの設定には凶例とされる中間朔旦冬至が問題であった。先例とされた保元改暦は、鳥羽上皇没後の保元の乱の発生が背景にあったことをみると、延慶改暦は乱の発生を回避する願望があった可能性がある。一方、貞顕による典籍の書写・収集活動は、彼の文化的営為を知る目的で研究されてきたが、その書写先には大覚寺統の公家や改元・改暦に関わった人物との交流が濃厚である。書写活動には公家からの情報収集などの目的が潜んでいただろう。また、後年の貞顕書状には延慶元年の改元・改暦の時期に東使が在京していたために自身の鎌倉下向がかなわなかったとある。これは、東使二階堂貞藤・長井貞広が上洛して花園天皇の奏事始にいたる交渉、長崎思元が関与した改元・改暦完了後の建長・円覚両寺を定額寺とする一件と円覚寺扁額の拝領という二つの事態をさしていよう。右の事情を勘案すると、即位以前の改元と批判された延慶改元と鎌倉幕府の関与を強調する公家の態度は、中間朔旦冬至の回避を前提に即位・改元の日取りに合意した伏見院と得宗北条貞時の立場を反映していると考えることができる。The era name was changed to Enkyō in Tokuji 3 (1308), when Emperor Gonijō died and was succeeded by Emperor Hanazono. This incident was referred to as an example of interferences of the Kamakura Shogunate with the era name change, which fell within the exclusive competence of the emperor, although most past studies discussed the era name change separately from the calendrical reform made at that time as part of the enthronement process. Ex-emperor Fushimi and Tokusō Hōjō Sadatoki praised Sensan, a master astrologer, for his contribution to the calendrical reform to Enkyō in their letters, respectively, which were appended to the Shimazu family's copy of Daitō Inyōsho (the Book of Yin and Yang in the Tang Era). This study analyzes this calendrical reform in relation to the process of enthronement of Emperor Hanazono and in comparison to the personal networks reconstructed by examining which Court nobles Kanesawa Sadaaki, appointed to Rokuhara Tandai as a liaison to the Imperial Court, borrowed, copied, and collected books from to elucidate the actual negotiations between the Imperial Court and the Shogunate on the era name change and the calendrical reform.Enkyō was chosen as the name of the first era of the reign of Emperor Hanazono, reflecting the opinions of Court nobles such as Saionji Sanekane, Kantōmōshitsugi (a liaison to the Kamakura Shogunate), under the leadership of Ex-emperor Fushimi. Meanwhile, that year's winter solstice coincided with a new moon, breaking the coincidence cycle of 19 years, and this was seen as a bad omen. The fact that at the time of the calendrical reform to Hōgen, which formed a precedent, the War of Hōgen broke out after the death of Ex-emperor Toba implied that the calendrical reform to Enkyō may have been related to the wish to avoid war. On the other hand, the studies of Sadaaki's collection and transcription of books aimed to elucidate his cultural activities but also revealed that through these activities, he is highly likely to have interacted with Court nobles of the Daikakuji lineage and other people involved in the determination of the era name change and the calendrical reform. His transcription activities may have been secretly aimed at collecting information from Court nobles. Moreover, according to a letter he later wrote, he could not go to Kamakura because Tōshi messengers dispatched from the Kamakura Shogunate stayed in the capital city at the time of the era name change / calendrical reform in Enkyō 1 (1308). This could refer to the following two issues: (1) the dispatch of Tōshi messengers, Nikaidō Sadafuji and Nagai Sadahiro, to the capital city to negotiate details about the enthronement of Emperor Hanazono and (2) the involvement of Nagasaki Shigen in negotiations to grant Kenchō-ji and Engaku-ji temples the status of Jōgakuji after the era name change / calendrical reform and bestow a signboard on the latter temple. In light of the above, it can be assumed that the era name change to Enkyō, which was criticized for preceding the enthronement, and Court nobles' attitudes that emphasized the interferences of the Kamakura Shogunate may have reflected not only the political stance of Tokusō Hōjō Sadatoki but also the agreement of Ex-emperor Fushimi to set the dates of the enthronement and the era name change to avoid the irregular coincidence of the winter solstice and moon cycles.
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.763-790, 2001-03

これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
著者
平 雅行
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.159-173, 2010-03

中世社会における呪術の問題を考える際、その議論には二つの方向性がある。第一は中世を呪術からの解放という視点で捉える見方であり、第二は中世社会が呪術を構造的に不可欠としたという考えである。前者の視角は、赤松俊秀・石井進氏らによって提起された。しかし、中世社会では呪詛が実体的暴力として機能しており、天皇や将軍の護持僧は莫大な財と膨大な労力をかけて呪詛防御の祈祷を行っていた。その点からすれば、中世では呪詛への恐怖が薄れたとする両氏の考えは成り立たたない。とはいえ、合理的精神が着実に発展している以上、顕密仏教と合理性との関係をどう捉えるかが問題の焦点となる。そこで本稿では『東山往来(とうさんおうらい)』という書物をとりあげ、①そこでの合理性や批判精神が内外の文献を博捜した上で答えを見出そうとする挙証主義によって担保されていたこと、②その挙証主義は顕密仏教における論義や文献学研究を母胎として育まれたことを明らかにした。さらに密教祈祷においても、①僧侶が医療技術を援用しながら治病祈祷を行っていたこと、②一宮で行われた豊作祈願の予祝儀礼も、農業技術の達成を踏まえたものであったことを指摘した。そして、高い合理性を取り込んだ呪術、呪術性を融着させた高度な合理主義が顕密仏教の特質であると論じた。そして、顕密仏教が中世の呪術体系の頂点に君臨できた要因として、①文献的裏づけの豊かさと質の高さ、②祈祷を行う僧侶の日常的な鍛錬、③呪詛を正当化する高度な理論の3点をあげた。最後に、合理性と呪術性の共存、呪術的合理性と合理的呪術性との混在は、顕密仏教だけの特質ではなく、程度の差こそあれ、現代社会をも貫く超歴史的なものと捉えるべきだと結論している。

1 0 0 0 OA 挹婁の考古学

著者
大貫 静夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.151, pp.129-160, 2009-03-31

挹婁は魏志東夷伝 Weizhi Dongyizhuan の中では夫餘の東北,沃沮の北にあり,魏からもっとも遠い地に住む集団である。漢代では,夫餘の残した考古学文化は第2松花江 Songhua Jiang 流域に広がる老河深2期文化 Laoheshen 2nd Culture とされ,北沃沮は沿海州 Primorskii 南部から豆満江 Tuman-gang 流域にかけての沿日本海地域に広がっていた団結文化 Tuanjie Culture に当てることで大方の一致を見ている。漢代の挹婁はその外側にいたことになる。漢代から魏晋時代 Wei-Jin Period に竪穴住居に住み,高坏を伴わないという挹婁の考古学的条件に符合する考古学文化はロシア側のアムール川(黒龍江 Heilong Jiang)中・下流域および一部中国側の三江平原 Sanjiang Plain 側に広がるポリツェ文化がよく知られている。北は極まるところを知らず,東は大海に浜するという点では,今知られる考古学文化の中ではアムール川河口域まで広がり,沿海州の日本海沿岸部まで広がるポリツェ文化が地理的にもっともそれに相応しいことは現在でも変わらない。そのポリツェ文化はその新段階に沿海州南部に分布を広げる。層位的にも団結文化より新しい。魏志東夷伝沃沮条に記された,挹婁がしばしば沃沮を襲うという記事はこの間の事情を反映したものであろう。ただし,ロシア考古学で一般的な年代観を一部修正する必要がある。最近,第2松花江流域以東,豆満江流域以北に位置する,牡丹江流域や七星河 Qixing He 流域において漢魏時代の調査が進み,ポリツェ文化とは異なる諸文化が展開したことが分かってきた。これらの魏志東夷伝の中での位置づけが問題となっている。すなわち,東夷伝に記された挹婁としての条件を考えるかぎり,やはり既知の考古学文化の中ではポリツェ文化がもっともそれに相応しく,七星河流域の諸文化がそれに次ぎ,牡丹江流域の諸文化,遺存がもっともそれらから遠い。しかし,だからといって,これらを即沃沮か夫餘の一部とするわけにはいかない。魏志東夷伝の記載から復元される単純な布置関係ではなく,実際はより複雑だったらしい。
著者
野地 恒有
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.195-213, 2003-03-31

本稿は,金魚観賞における選評基準を題材とした動植物観賞の文化の比較民俗学的研究である。選評基準とは,金魚観賞において,金魚を選定・評価する基準のことである。本稿では,第1に,現代の日本金魚の選評基準として蘭鋳(らんちゅう),土佐金(とさきん),地金(じきん)の3品種の金魚を取り上げることによってその選評基準と観賞の志向をとらえ,第2に,18世紀の中頃に著された金魚飼育書『金魚養玩草(きんぎょそだてくさ)』を用いて江戸時代の金魚の選評基準を検証し,第3に,中国金魚の選評基準との比較を行った。その結果,日本金魚の選評基準は,1品種に完結した理想形として提示されており,その基準への嵌合という飼育形態がみられた。そして,その観賞の志向は,一定の理想形への深化とまとめられた。『金魚養玩草』からも,ほぼ同様な金魚観賞の志向を見出すことができたが,『金魚養玩草』には,1品種の枠を越えて新品種を評価する態度がみられ,現代における日本金魚と異なる観賞の志向もとらえられた。中国金魚の選評基準は多品種を包括した実体に即した等級分類として提示されており,定形の基準外の品種作出という飼育形態がみられた。そして,その観賞の志向は,多様姓への拡大とまとめられた。金魚の観賞における選評基準は伝承文化を背景としている。金魚飼育とは選評基準に合致した金魚を作り出す技術のことであり,選評基準とは金魚の飼育技術と密接に関係している知識体系のことである。金魚の飼育をはじめ,花卉・草木や盆景・盆栽の栽培などは〈改造された自然〉を対象とする技術であるとともに,〈改造された自然〉の観賞でもある。それは,動植物観賞の文化ということができる。〈改造された自然〉を観賞する文化において,日本では定形へ深化し,中国では変形に拡大すると予想される。その志向の差は自然観の質的な相違を表出するものである。
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.1-59, 2000-03-31

哀悼傷身の習俗の一つに抜歯がある。この抜歯は18~19世紀のハワイ諸島の例が有名である。抜く歯は上下の中・側切歯であって,首長や親族の死にさいして極度の哀悼の意をあらわすために1回に2本を抜く。文献記録では,16~18世紀の中国の四川省や貴州省に住んでいた佗佬の例がもっとも古い。しかし,考古資料では,徳島県内谷石棺墓の男性人骨に伴った女性の上顎中切歯1本が哀悼抜歯の存在をしめしており,4世紀までさかのぼる。中国新石器時代の抜歯は,7000年前に上顎の側切歯を抜くことから始まる。抜歯の年齢・普及率からすると,成人式とかかわりをもつと考えてよい。中国では4500年前になると,この習俗はいったん衰退する。まもなく今度は上下の中・側切歯を抜くことが安徽・江蘇・山東付近で始まる。抜歯の年齢はあがり,その頻度は低くなる。新たに始まったこの抜歯は死者に対する哀悼のためであった,と私は推定する。上下の中・側切歯を抜いた例は,モンゴル(~19世紀?),シベリア(新石器~19世紀?),アメリカ(15世紀以前~19世紀?),日本(縄文前期~6世紀=古墳時代),琉球(縄文~13世紀),ポリネシア(18~19世紀)で知られている。中国新石器時代に発祥した哀悼抜歯が数千年かけてアジア・アメリカ・太平洋にひろがっていったことを,これらの事実は示唆している。ポリネシア・シベリア・モンゴルでは,髪を切り身体を刀で傷つける哀悼傷身は,首長や親族との特別に親密な関係を表現し更新する役割を果たしている。考古資料にのこされている哀悼抜歯の痕跡は,墓の内容,男女の別などを考慮することによって,抜歯された人物の社会的な位置を探り,さらにはその社会の構造を解明していく手がかりとなる可能性を秘めている。
著者
遠藤 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.183, pp.245-261, 2014-03-31

現代日本の音楽学は欧米の音楽学の輸入の系譜をひく研究が支配的であるため、今日注目する者は必ずしも多くはないが、西洋音楽が導入される以前の近世日本でも旺盛な楽律研究の営みがあった。儒学が官学化し浸透した近世には、儒学者を中心にして、儒教的な意味における「楽」の「律」を探求する学が盛んになり独自の展開を見せるようになっていたのである。それは今日一般に謂う音楽理論の研究と重なる部分もあるが、異なる問題意識の上に展開していたため大分色合いを異にしている。本稿は、近世日本で開花していた楽律研究の営みを掘り起こす手始めとして、京都の儒学者、中村惕斎(1629~1702)の楽律研究に注目し、惕斎が切り拓いた楽律学の要点と意義を試論として提示したものである。筆者の考える惕斎の楽律学の意義は次の六点に要約される。①『律呂新書』に基づき楽律の基準音、度量衡の本源としての「黄鐘」の概念を示した、②『律呂新書』を基本にすることで近世日本の楽律学を貫く、数理的な音律理解の基礎をつくった、③『律呂新書』の説く「候気」の説は受け入れず、楽律の基は人声とする考え方を提示した、④古の楽律を探求するにあたって、実証、実験を重んじた、⑤古の楽律の探求にあたって、日本の優位性を説いた、⑥古の楽の復興を希求した。
著者
根津 朝彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.121-152, 2019-03

本稿は,『毎日新聞』の社会部記者であった内藤国夫(1937~1999年)を中心に,東大闘争の専従記者が「1968年」報道にいかに携わったのかを明らかにする。第1節では,運動学生の行動動機を顧みずに,かれらを「暴徒」と見なす全般的な報道の特徴を検討した。それをよく示すものが『山陽新聞』の改ざん事件と,内藤国夫が取材した王子デモ報道であった。この背景には,学生運動の「暴徒」観を根強く抱く編集幹部の存在が挙げられる。第2節では,大学担当記者になった内藤国夫が東大専従記者となり,大河内一男総長の辞意報道に及ぼした影響や,各社が集った東大記者クラブと取材班の陣容を整理した。第3節では,内藤の日頃の取材先を押さえた上で,東大専従記者と運動学生の緊張関係が高まった読売新聞記者「暴行」事件に焦点をあてた。この事件を契機に学生の新聞不信が激化したことと,内藤の学生のために取材をしているという「君らのため」観との間に乖離があることを示した。第4節では,安田講堂の攻防で時計台放送が投げかけた,記者たちにとって東大闘争と報道とは一体何であったのかという,内藤を含めた記者たちの主体性を突きつける問題を考察した。それとともに警察側のデモ現場での巧妙な潜入や学生対策の実態について言及した。内藤は,東京大学法学部の卒業生という利点をいかし,取材源に食い込み,多くのスクープをものにした。しかし,その取材現場では学生の「暴徒」観に象徴されるように,事実に向き合おうとする記者と報道機関の姿勢も問われていた。そして多様な事実を報じる回路を制約したのが,現場記者と編集幹部の認識の差であった。記事決定の裁量権をもつデスクや編集幹部の力関係の構造の下,「1968年」報道も多面的な現実を読者に報じる役割が妨げられていたのである。最後に東大闘争と学生運動における暴力の問題についても見通しを提示した。
著者
木下 光生
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.271-290, 2011-11-30

本稿は、日本の賤民と百姓が一八世紀後半~一九世紀以降、自他の身分を強く意識し出す状況を素材として、共同研究の全体テーマ「身体と人格をめぐる言説と実践」を、日本近世史研究において問うことの意義を考えるものである。本テーマは、これまでの近世史研究ではほとんど意識されてこなかったが、その問いを、自己の「客観的な実態」(身体)と「自己認識」(人格)の間に生ずるズレやせめぎ合いをめぐる問題に置き換えてみれば、近世史研究で残されている課題、とりわけ賤民と百姓の自他認識論として議論することが可能となる。そしてそうした視点にたつと、一八世紀後半~一九世紀という時代のもつ重要性が鮮やかに映し出されることとなる。通常、右の時代は、民衆の力によって身分(制)社会が「動揺」「崩壊(解体)」する時代として描かれがちである。だが、当該期の賤民や百姓が邁進した地位向上運動をつぶさに見てみると、当時の民衆が「身分」を相対化しようとしていたどころか、むしろそれにこだわりまくり、身分を拠り所にした自己表明を、運動によって公言して憚らない人びとであった点に気づかされる。しかもそれらの運動は、いずれも、他身分・他賤民との「平等」ではなく、「差別化」を図ろうとするものばかりであり、それに邁進すればするほど、本来複雑な実態をもつ「客観的な自己」と「自分が自覚する自己」をひたすら乖離・分裂させるものであった。こうした動向を、単に「限界」視するのは無意味であり、人びとが「身分」に寄り添おうとした切実な思いに、もっと肉迫し得るような発想と時代認識をもたなければならない。加えて、他者との「差別化」を孕むような地位向上運動は、近現代日本社会でも確認できる。その意味で、「身体と人格をめぐる言説と実践」という問いかけは、「前近代/近代」という既存の時間認識を相対化する可能性も秘めている。
著者
榊 佳子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.41-60, 2008-03-31

日本古代の喪葬儀礼は七世紀から八世紀にかけて大きく変化した。そして喪葬儀礼に供奉する役割も、持統大葬以降は四等官制に基づく装束司・山作司などの葬司が臨時に任命されるようになった。葬司の任命に関しては、特定の氏族に任命が集中する傾向があり、諸王・藤原朝臣・石川朝臣・大伴宿祢・石上朝臣・紀朝臣・多治比真人・佐伯宿祢・阿倍朝臣が葬司に頻繁に任命されていた。これらの氏族が何故頻繁に葬司に任命されていたか、その理由を検討すると、諸王や真人姓などの皇親氏族の場合、天皇の親族であることが任命される理由であり、藤原氏も当初は葬司への任命はあまりなかったものの、天皇外戚になったことから重用されるようになったと考えられる。その他の氏族は、もともと食膳奉仕や宮城守衛などの職掌を担っていた氏族であり、さらに天皇の殯宮にても同様に食膳奉仕や殯宮守衛を行っていたことが、葬司任命につながったものと思われる。つまり葬司は喪葬儀礼の変化の中で新たに設けられたものであったものの、その任命に当たっては実際には以前からの喪葬儀礼の影響を強く受けたものであった。なお喪葬儀礼専掌氏族として有名な土師氏は、葬司にはほとんど任命されていなかったが、実際には六世紀後半以降、天皇の殯を管掌する役割を担っており、八世紀を通じて遺体に食膳を献上するなどの奉仕を行っていた。
著者
神戸 航介
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.212, pp.1-39, 2018-12-20

本稿は日本古代国家の租税免除制度について、法制・実例の両面から検討することにより、律令国家の民衆支配の特質とその展開過程を明らかにすることを目指した。律令制において租税制度を定めた篇目である賦役令の租税免除規定は、(1)身分的特権、(2)特定役務に任じられた一般人民、(3)儒教思想に基づく免除、(4)民衆の再生産維持のための免除、の四種類に分類することが可能である。こうした構造は唐賦役令のそれを継受したものであるが、(1)は律令制以前の畿内豪族層の系譜を引く五位以上集団の特権という性格を持っていたこと、(2)は主として中央政府の把握のもとに置かれた雑任を対象とし、在地首長層の力役編成に依拠した地方の末端職員は対象とならなかったことなど、唐の制度を日本固有の事情により改変している。一方(3)(4)の免除は中国古来の家父長制的支配理念や祥瑞災異思想を背景とするもので、日本の古代国家はこうした思想を民衆支配に利用するため、租税免除規定もほぼそのまま継受した。六国史等における実際の租税免除記事を見ると、八世紀には(3)(4)の免除は即位や改元など王権側の事情、災異など民衆側の事情を契機とし、現行支配の正当性を主張するために国家主導で実施された。しかし九世紀になると、王権側の事情による租税免除は次第に頻度を減少させていくように、儒教的支配理念が民衆支配の思想としては機能しなくなる。災異の場合も王権主導の免除は減少し国司の申請による一国ごとの免除が主流になっていき、未進調庸の免除も制度的に確立するが、これは国司の部内支配強化に対応し国司を通じた地方支配体制の進展に対応するものであり、十世紀には受領に対する免除として再解釈されていた。ただし天皇による恩典としての租税免除の思想は院政期まで存在しつづけたのであり、ここに古代国家の最終的帰結を見いだすことも可能であろう。
著者
遠藤 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.183, pp.245-261, 2014-03

現代日本の音楽学は欧米の音楽学の輸入の系譜をひく研究が支配的であるため、今日注目する者は必ずしも多くはないが、西洋音楽が導入される以前の近世日本でも旺盛な楽律研究の営みがあった。儒学が官学化し浸透した近世には、儒学者を中心にして、儒教的な意味における「楽」の「律」を探求する学が盛んになり独自の展開を見せるようになっていたのである。それは今日一般に謂う音楽理論の研究と重なる部分もあるが、異なる問題意識の上に展開していたため大分色合いを異にしている。本稿は、近世日本で開花していた楽律研究の営みを掘り起こす手始めとして、京都の儒学者、中村惕斎(1629~1702)の楽律研究に注目し、惕斎が切り拓いた楽律学の要点と意義を試論として提示したものである。筆者の考える惕斎の楽律学の意義は次の六点に要約される。①『律呂新書』に基づき楽律の基準音、度量衡の本源としての「黄鐘」の概念を示した、②『律呂新書』を基本にすることで近世日本の楽律学を貫く、数理的な音律理解の基礎をつくった、③『律呂新書』の説く「候気」の説は受け入れず、楽律の基は人声とする考え方を提示した、④古の楽律を探求するにあたって、実証、実験を重んじた、⑤古の楽律の探求にあたって、日本の優位性を説いた、⑥古の楽の復興を希求した。Study about the tune based on Confucianism was done actively in Japan before the modern era where Western Musicology was not yet introduced. This paper discusses the feature and meaning of the Study about the tune which was done in Edo period(1603-1867), focusing Nakamura Tekisai(1629-1702) , The Confucian scholar of Kyoto. In this paper, I show characteristic points of Nakamura Tekisai's study about the tune can count the following six .① Based on " Ritsu ryo Shin sho" written by Tsai Yuan-ting who was a scholar of the Sung dynasty in China, he showed that the pitch pipe of "Koh shoh" used as the standard of the tune could be also a standard of weights and measurements. ② Based on " Ritsu ryo Shin sho", he built the foundation of the mathematical temperment understanding that can be seen consistently to Study about the tune which was done at the Edo period. ③ He did not accept "kouki(a method of observe Ki)" that was explained in "Ritsu ryo Shin sho" as how to ask for ideal tune, but he presented his view point that basis of the ideal standard tune is a voice. ④When he searched for ideal tune of Chinese ancient times(that era was considered that the ideal tune had been realized), he respected the actual proof remaining in Japan and the experiment. ⑤ In the searching for ancient tuning, he claimed that Japan had predominance conditions. ⑥ He wanted ancient music to be revived someday and studied the ideal tuning as the foundation for it.
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.13-32, 2003-03

城郭プランは権力構造とどのように連関してできあがったのか。この問題を解くために、きわめて特徴的な城郭プランをもった南九州に焦点をあてて検討を行った。まず鹿児島県知覧城を事例に南九州の戦国期城郭の分立構造を把握した。そして城内に多数の武家屋敷が凝集し、それが近世の麓集落の直接の母胎になったことを確認した。ついで熊本県人吉城を事例に知覧城で確認した城郭構造ができあがった要因を検討した。この議論を進める上で重要なのは人吉城の城郭遺跡が完全な形で残されており、踏査を行うことで把握可能であったことである。そして『相良氏文書』や『八代日記』などの良好な史料を基盤として勝俣鎮夫と服部英雄が深めた戦国期相良氏の権力構造の問題を踏査成果とあわせることで再検討できたことである。この結果、人吉城の分立的な城郭プランは地形要因だけではなく、築城主体の権力構造の特色を反映してできたと結論づけた。そしてこうした築城主体の権力構造と城郭プランとの相関関係は日本列島の城郭・城下を遺跡に即して分析する都市空間研究を進める上で、重要な視座となることを指摘した。
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.169-183, 2003-03-31

飛騨の国人領主江馬氏は、庭園を伴う館で知られている。まず文献史料で考察すると、南北朝初期から将軍に近侍し、遵行指令を受け、中央と密接な関係を持っていたが、一五世紀後半には自立した地位を持つことが知られ、一六世紀には荘園関係の史料には見えなくなる。一方遺構は、一四世紀末~一五世紀前半に、「花の御所」を模倣した館が営まれるが、一五世紀後半には山城などに機能が分散し、一六世紀には館としての機能が廃絶する。こうした現象は他の国人領主の館にも見られることが知られてきており、国人領主が全国的な体系の中で存在していた一五世紀前半から、領域的な領主として自立する一五世紀後半以降への変化と言える。この変化の中で衰退した国人も多く、逆に一四世紀中葉~一五世紀前半には中央と地方の国人の間の安定した関係があったと言え、これを「室町期荘園制」の一面と見なすことができる。
著者
福島 金治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.203-221, 2018-03

経尊著『名語記』は鎌倉中期の辞書で、金沢文庫を設けた北条実時が所持していた。その立場は、京都伏見稲荷の社僧、万里小路資通の弟、花山院宣経の子とする説等がある。藤原定家流の人々との交流を通して在京する北条氏一族と昵懇な関係を築いていたとされる。本稿では、経尊本人の経験した内容を手がかりにその立場と活動の実態を検討した。経尊周辺には後鳥羽院と親近な関係者がいた。それは後鳥羽院の御所・水無瀬殿が広瀬殿に変えられたとある記載にうかがえ、広瀬殿のみえる慈光寺本『承久記』と基盤が共通する。また、備中国村社郷に下向し、郷の住人と目録の読み合わせを行っているが、村社郷の領主紀氏は将軍実朝から安堵され、媒介したのは源仲章であった。仲章は後鳥羽院の近習で、一族の慈光寺家には慈光寺本『承久記』が伝えられ、慈光寺家文書には村社郷の文書が伝来している。経尊は慈光寺家と近い関係にあったと推測される。『名語記』の特徴の一つは下級官人や職人のことやそれに関わる俗語が多くみえることで、経尊は職人支配と深く関わっていたと考えられてきた。そこで慈光寺家の関連内容をみると、仲章の一流は院や朝廷の物資の調達や職人の管理と関わっていた。こうした問題は経尊の地方との関係にもうかがえる。記述の多い西国との関係のなかで年貢や交通・流通に関わる記述をみると、美作では百姓に鍬を賦課して納入できない場合は鹿皮で代替するのが国例とある。また、伊予石は京都市中で竈の石材とされていることがみえる。伊予石の主産地は砥石山(愛媛県砥部町外山)とみられ、そこは伏見稲荷社領山崎荘に含まれる可能性が高い。このことは本人の京都伏見稲荷社に関わる記述と符合する。こうした点から、経尊は伏見稲荷の社僧を基本にしており、慈光寺家出身、または慈光寺家に仕える家に出自があり、荘園の経営実務にたけた人物であったと考えられる。Myōgoki is a dictionary compiled by Kyōson in the mid-Kamakura period and possessed by Hōjō Sanetoki, the founder of the Kanesawa Bunko (Kanesawa Library). As to the origin of the compiler, several theories have been proposed, such as a priest of Fushimi Inari Shrine in Kyoto, a younger brother of Madenokōji Sukemichi, and a son of Kazanin Nobutsune. Kyōson is also believed to have established close relationships with the Hōjō family in Kyoto through interaction with calligraphers of the Teika school. This article examines the experiences of Kyōson to elucidate his social status and activities.Kyōson is assumed to have been acquainted with those closely associated with ex-Emperor Gotoba. One of the reasons for this assumption is because Myōgoki states that the residence of the ex-emperor had been renamed from Minase-dono to Hirose-dono. This imperial villa is also called as Hirose-dono in the Jikōji version of Jōkyūki (Record of the Jōkyū Disturbance). This common description implies that the two documents had a common basis. Moreover, Kyōson visited Murakosogō in Bicchū in order to collate his inventory with that of local residents. He was introduced to the Ki family, who had been enfeoffed with the estate by Shōgun Sanetomo, by Minamoto no Nakaakira, who was a retainer of ex-Emperor Gotoba and whose family (Jikōji) kept the Jikōji version of Jōkyūki as well as the Jikōji documents including the records of Murakosogō. It is therefore presumed that Kyōson had close relationships with the Jikōji family.One of the characteristics of Myōgoki is that it is largely devoted to describing lower government clerks and artisans and their jargon. It has been believed that Kyōson was deeply involved in the control of artisans. Meanwhile, an analysis of description of the Jikōji family reveals that the Nakaakira branch was engaged in the control of artisans and the procurement of goods for the ex-emperor and the Imperial Court. The association of Kyōson with these kinds of people is also observed in his relationships with provincial authorities. His description as to land tax, transport, and logistics in western provinces, on which he spent considerable ink, includes the statement that typically, in Mimasaka, farmers were taxed on their hoes and paid the balance due with buckskin when they could not pay the tax in full. Myōgoki also states that in Kyoto, kilns were made of Iyo stone, which was mainly mined in Mount Toishi (in Toyama, Tobe Town, Ehime Prefecture), which is likely to be included in the Yamazaki estate of Fushimi Inari Shrine. This is consistent with his description about the shrine. Therefore, it is assumed that he was principally serving as a priest at Fushimi Inari Shrine, originally came from the Jikōji family or its subordinate family, and had expertise in the management of estates.
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.57-83, 2012-03-01

縄文時代の埋葬人骨出土例を精査してみると,一個体として取り上げられた事例の中に別個体の部分骨が入っていることがある。これらの中には,頭蓋や下顎,四肢骨といった大型の部位が入っていることがあり,偶発的な混入とは考えがたいものも存在する。このような事例の多くは,これまで単独・単葬例として取り扱われてきたが,当時の人々が意図的に別個体の部分骨を合葬しているのだとすれば,それは単独・単葬例とはまた異なった,別の一葬法として認知されるべきであろう。本稿において,筆者はこのような事例を部分骨合葬例と呼び,葬法の一類型として認定するとともに,そのあり方と意義について検討を行った。その結果,このような事例は関東地方南部を中心として8 遺跡・21 例存在し,単葬の男性に女性の部分骨が入れられている事例が目立つことや,大人と子供の組み合わせの事例も存在すること,埋葬小群内にあってその構成要素となっていることなどが判明した。また,その意義を考察するために従来の合葬例の研究および死生観の研究,すなわち合葬例の被葬者は,基本的には血縁関係者同士であると考えられること,縄文時代の死生観として系譜的な死生観があり,当時の社会構造においてその基礎をなす系譜的関係は,この死生観に沿った形で存在したことなどを踏まえて,本稿では部分骨合葬例の意義を,血縁関係を含めた何らかの社会的関係性を持つ者同士で行われたものであり,その意義を系譜的な関係性を確認・存続するためのものであったと推察した。