著者
陣野 俊史
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.15-28, 2018-03-30 (Released:2019-03-30)
参考文献数
6

現代のフットボールは、試合スケジュールや選手の活動のあらゆる領域にまでスポンサーの統治の力が浸透している文化現象である。しかし他方でそれは、その時代の社会的諸問題を浮き彫りにするものでもある。本論は過去二十年のフランス代表チームを跡付けながらその社会的・歴史的背景を考察するとともにワールドカップというイヴェントがいかに解釈できるのかを論じる。1998年大会、社会的に移民規制が高まる中でのフランスの優勝は「統合」の機運を生み出した。様々なキャリアと人種の選手の集合体こそがフランス代表だった。そこではワールドカップは刹那的ではあるが統合の夢を生み出しうるものだった。だが2000 年代以降のフランス代表が露呈したのは分断の線であった。適度に貧しいという均質化した環境から代表選手を目指すプロセスの共通性は、ジダンの時代にはあったが、ドラソーの頃には消え失せていた。郊外の中でもとりわけ治安に問題のある地域「シテ」に出自を持つ選手たちと社会的エリート階層出身の選手たちとの間にある亀裂は、社会的分裂の象徴だった。その問題が大きく顕在化したのが、2010 年南アフリカ大会である。そのときワールドカップは、そうした問題を世界に向けてあからさまな形で発信するイヴェントとなった。人種的統合/排除、階層的分断といった問題だけでなく、フランスにとってワールドカップは過去の植民地問題があらためて交渉される場としての可能性を持つものでもある。2014 年大会では旧宗主国フランスと旧植民地アルジェリアの試合が実現する可能性があった。二つの国の人種・政治・差別の問題が複雑に絡まり合い「親善試合」が期待できない状況で、2014 年のアルジェリアの健闘は貴重な機会だった。旧宗主国と旧植民地の間の複雑な歴史を露呈させ、そのうえでそうしたいっさいを配慮せずに試合を実現できるのも、ワールドカップのもつ可能性である。

1 0 0 0 OA 特集のねらい

著者
有元 健
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.3-4, 2018-03-30 (Released:2019-03-30)
著者
黄 順姫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.23-33, 1996

本稿は相撲の場合競技者の身体がおのおのの民族の有する身体文化と深く関わりながら, 特定の競技の固有性の中で創出された文化の規律化されたものであることを分析してきた。具体的には力士の身体を「受容としての身体」「表出としての身体」「メタファーとしての身体」という枠組みをもうけ考察を行った。その結果次のことが明らかになった。すなわち, 「受容としての身体」について, 第一に, 日本の力士は阿うんの呼吸を特徴とする日本の相撲競技の立ち合の仕方を規範として受容している。第二に, 力士は土俵を通じて自己完成を行う相撲道を身体化する。第三に, 力士の身体への裸身信仰は日本の民族の身体文化と深く関係づけられている。<br>また,「文化の表出としての身体」について, 第一に力士の身体は彼が行った稽古の質, 量及び稽古への態度を表出する。第二に, 力士の身体における感情表出の仕方は相撲社会のなかで形成された相撲の文化を内面化していることを表す。第三に, 力士の身体の得意技, 型は彼の身体の特徴を反映し, 相撲に対する内面のあり方を表出する。<br>さらに,「メタファーとしての身体」について, 第一に力士の身体は「個人の身体」と「社会的身体」との「交差点」に成立する日本文化の遊びのフォルムである。第二に, 力士の身体は「政治的身体」として国際間の象徴的地位をめぐる象徴的権力闘争の桔抗の構図を表象している。第三に力士の身体についてアメリカでは「脂肉」「巨大性」「パワー」「破壊力」の規範化されたイメージが創出, 消費されている。以上「メタファーとしての身体」から次の結論をみちびきだすことができる。すなわち, メタファーとしての力士の身体は相撲の特性に由来し, 相撲世界の固有の論理を越え, 国際政治・経済の関連のなかで象徴的権力の維持, 再生産のからくり人形として操作されているのである。
著者
鈴木 秀人
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.21, no.2, pp.51-62, 2013-09-30 (Released:2016-08-01)
参考文献数
15

一般的には、現在行われている体育授業の直接的な起源は、19世紀後半に成立した「体操」の授業と考えられている。しかしながらここでは、英国のパブリック・スクールで課外活動として行われていたスポーツを、現在の体育授業の1つのルーツと措定する。なぜなら、現在の体育カリキュラムにおける内容の大半は「体操」ではなく「スポーツ」であり、かつ英国パブリック・スクールにおいて、それらのスポーツは単なる身体の規律訓練を超えた教育的な価値を見出されたからである。 本論文の目的は、英国パブリック・スクールに焦点を当てながら、体育科教育の過去を把握し、その過去に規定されていると思われる体育科教育の現在を描き出し、さらには、その超克を志向するという方向で体育科教育の未来を展望することである。 スポーツ活動が教育として承認されていく過程は、3つの段階にわけることができる。まず最初に、教師たちがスポーツを抑圧したり禁止したりした18世紀後半から19 世紀初頭の時期があった。次に、教師たちが校内の規律を維持するために、生徒たちの協力を得ることをねらってスポーツを公的に承認した19 世紀初めから半ば頃までの時期があった。そして第3番めに、教師たちが生徒の人格形成に役立つというスポーツの教育的な価値ゆえに、スポーツを積極的に奨励するに至った19 世紀半ば以降の時期があったのである。 最も重要な段階は第2番めの段階である。この時期のスポーツ活動の特徴は、教師たちにとっては社会統制の1つの手段であったスポーツも、生徒たちにとっては純粋に「遊び(プレイ)」であったに違いないということにある。我々は、教育としてのスポーツの出発点が、生徒たちの自発性によって導かれたというこの事実に注意を払うべきである。 このような体育科教育の歴史を振り返ると、これまでの体育科教育は運動を行う側にとっての根本的な意味、そこにある面白さを十分に考えてはこなかったことに気がつく。そういった視点からすると、運動のプレイとしての要素を重視する「楽しい体育」という体育授業論の可能性は、体育科教育の未来にとって1つの方向性を示しうる。
著者
吉田 毅
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.53-68, 2016

<p> 本稿の目的は、中途身体障害者の車椅子バスケットボール(以下「車椅子バスケ」)への社会化に関する研究の一環として、交通事故に遭い受傷した後に車椅子バスケとともに他種目への参加というキャリア、言わば複線的スポーツキャリアを形成していった元カーレーサーが、受傷してから車椅子バスケへの社会化を遂げていくプロセスで寄与した主な具象的な他者について解明することであった。それにあたり困難克服の様相にも着目した。方法はライフヒストリー法を用いた。ここでは、対象者へのインタビューで得た語りを基にライフヒストリーを構成した。主な知見は次の通りである。<br> 対象者は受傷したことにより、障害との闘いをめぐる困難及びレース活動からの現役引退をめぐる困難を経験した。氏が前者を克服していくプロセスで寄与した主な他者としては、〈かけがえのない他者〉(父親)及び〈寄り添う他者〉(親友)が見出され、これらは〈親密圏〉を築く他者とも捉えられた。また、氏は車椅子バスケとともに、受傷前に貴重であったレース活動をレクリエーション的に継続することで後者を克服していった。氏にとってはいずれも貴重であり、車椅子バスケへの社会化を遂げていくプロセスはそれらが並行する様相を呈していた。このプロセスで寄与した主な他者としては、車椅子バスケへと〈誘う他者〉(入所仲間)及び〈導く他者〉(車椅子バスケクラブの先輩)、車椅子バスケ活動の精神的支えとなる〈寄り添う他者〉(親友)、それにレクリエーション的なレース活動へと〈つなぐ他者〉(レース仲間)が見出された。これらのうち〈誘う他者〉以外は親密圏を築く他者とも捉えられた。</p>
著者
金子 史弥
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.63-75, 2012-03-25 (Released:2016-09-06)
参考文献数
34

本稿の目的は、イギリスのニューレイバー政権の下で展開された地域スポーツ政策を批判的に読み解くことで、昨今のイギリスにおける国家政策としての地域スポーツ振興の背後に存在する政治的思想、すなわち「統治性」を理論的に明らかにすることである。 本稿は、ニューレイバー政権の地域スポーツ政策には「地域のクラブ、コミュニティやボランタリー組織を含めた『諸アクターとの協働』によるスポーツ振興」と「地域社会の再生やコミュニティの形成をはじめとした多様な役割を期待されてのスポーツ振興」という2つの特徴が見られることを、関連する政策文書の分析を通じて指摘した。その上で、ニューレイバー政権による地域スポーツ振興の背後にはミッチェル・ディーンやニコラス・ローズらが「アドヴァンスト・リベラリズム」と名付けた統治性が存在していたことを明らかにした。すなわち、ニューレイバー政権の下で、政府とスポーツイングランドは自らが直接地域スポーツを振興するのではなく、一方ではスポーツ競技団体や地方自治体などの「パートナー」に権限を与えながら、他方では政策目標の設定、助成金の分配、政策評価などの様々な「統治のテクノロジー」を駆使することによって各パートナーを「遠隔統治」することを目指していた。加えて、地域スポーツを含めた社会全体のアドヴァンスト・リベラルな統治を支える「個人」と「コミュニティ」を地域スポーツの振興を通じて構築しようとしていた。 以上のような作業を通じて本稿は、ニューレイバー政権の下での地域スポーツの統治と前保守党政権の統治との間に存在する差異と連続性を理論的に説明した。さらに、ニューレイバー政権の地域スポーツ政策の主眼はもはや「スポーツ・フォー・オール」にはなく、アドヴァンスト・リベラルな統治を支える「個人」と「コミュニティ」を構築する「統治のテクノロジー」としての地域スポーツ振興にあると指摘した。
著者
森川 貞夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.27-42, 2010-03-20 (Released:2016-10-05)
参考文献数
11

日本の全国的統轄スポーツ組織である体協(Japan Sports Association)・JOCはオリンピック大会に参加するために1911年に創立された。しかし体協・JOCは創立以来、スポーツの振興を多くのスポーツ愛好者に基礎を置いて進めるというよりは、政府・財界に寄生しながら今日まで進めてきたために未だ財政的にも組織的にも自立しえないでいる。したがって、戦前も戦後も「国策としてのスポーツ」への協力・推進と「競技力向上」に実際の活動・事業の力点が置かれてきた。 1970年代前後の国際的な「スポーツ・フォア・オール」運動の進展に呼応するように一時日本でも国のスポーツ政策に路線の転換が行われたが、21世紀直前より再びオリンピック大会での「メダル獲得率」を目標にした「強化策」と結びついた「スポーツ立国」論という、大国主義的イデオロギーを中核にした「国策としてのスポーツ」論が幅をきかせ始めている。 本論では、これまでの「国策としてのスポーツ」論を歴史的に追求しながら、さらに今日の「スポーツ立国論」が結局は「メダル獲得率」を目標とする「強化策」と結びつき、必然的に「実績主義」「メダル主義」に陥らざるを得なくなるという問題点を指摘し、それをどのように克服していくかの展望を「スポーツの高度化とスポーツの大衆化の統一」という視点から叙述する。
著者
亀山 佳明
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.3-20, 2013-03-20 (Released:2016-08-04)

E.コッブの『イマジネーションの生態学』は洞察に満ちた魅力的な書物である。その内容は二つに要約できるであろう。ひとつは、潜伏期の子どもたちはその旺盛なイマジネーションを使って、見るもの・聞くもの・触るものに〈なる〉のであるが、それは「世界づくり」という創造活動でもある、ということ。もうひとつは、そこで養われた創造力は子どもから大人になるときに要求される、個性的人格を形成するさいに必要な創造性を左右する、ということ。これら二つの洞察を説明するコッブの方法には理解しにくいところがある。そこで、コッブとは異なった説明の方法を導入することで、以上の二つの洞察を生かす道を探ってみた。身体の生成論という立場から、次のように解釈してみよう。 第一の問題について。ベルクソンの記憶論を修正して、イマジネーションという概念をこう定義する。世界において知覚・行動するには記憶と身体とが合体する必要があるが、子どものイマジネーションにおいては、半―記憶と半―身体とが合体する、と。このために、子どもが〈なる〉ことができるのは、想像する主体と想像された対象とが相互に浸透し合って、そこに世界を成立させるからである。彼らは次々に世界を創造し、それらを生きることになる。 第二の点について。イメージと知覚・行動が一体化するということは、主体のリズムと対象のリズムとが共鳴することでもある。二つの異なった波長をもつリズムが共鳴すると、そこには第3の波長が生じる。「世界づくり」とはこの第3の波長を生じさせることである。子どもたちがその作業を繰り返すなら、彼らのうちに創造性の源となる基盤が形成されることになる。子どもたちが大人になるときに要求される個性的な人格の創造も、この基盤を通して達成されると思われる。従って、もしもこの基盤が貧弱であったとするならば、人格の創造は困難にならざるを得ないことになる。
著者
藤田 紀昭
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.70-83,128, 1997-03-20 (Released:2011-05-30)
参考文献数
25
被引用文献数
1

スポーツへの社会化過程に影響を及ぼす, マクロレベルの要因に注目した研究や, 社会化の要素の一つである, 社会化される者の個人的属性について深く掘り下げた研究は数少ない。本研究ではこの点に注目し, 身体に障害のあるスポーツ選手の個人史を使い, スポーツへの社会化過程, すなわち, 社会化される主体的個人と社会化のエージェントとの相互作用の過程を, コンテクスト, 制度, 文化といった枠組みの中で明らかにする。そのために, 車いすバスケットボール選手 (若田瞳さん, 仮名) からの聞き取り調査, 個人史の確認を目的とした, 関係者への聞き取り調査および, 関係文書・文献調査を行った。その結果, 次のようなことが示唆された。1. 重要な社会化のエージェントは時間経過とともに変化していること, また, 複数のエージェントが同じ時期に, 重層的に影響を及ぼしていた。2. 若田さんは社会化される個人であると同時に, 自らをスポーツへと社会化していく主体的個人でもある。3. 二分脊椎という先天的障害のあった若田さんにとって, 低年齢時のリハビリテーションは, その後のスポーツ活動に重大な影響を及ぼしていた。4. 統合された, 遊び, 運動, 教育 (体育) の場での相互作用過程は若田さんのスポーツ的社会化 (スポーツへの社会化および,スポーツを通しての社会化) に大きな影響を与えていた。5. スポーツへの社会化過程は文化, 制度, コンテクスト, エージェントと関連しあっていた。
著者
黒田 勇
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.22-32,148, 2003
被引用文献数
1

1. 本学会の研究プロジェクト「日韓ワールドカップとメディア」のもとで、日韓にかかわる言説に注目し、今回のワードカップがどのようにメディアで意味づけられたのかを、研究プロジェクトのメンバーである黄盛彬と森津千尋の研究を中心に中間報告としてまとめる。それは、主に日韓のアイデンティティをめぐるポリティクスがワールドカップを通していかに現象したかを明らかにするものである。2. テレビビジネスのグローバル化の中で、サッカーがキラーコンテンツとしてビジネスの中心となり、ワールドカップもスポーツの「祭典/祝祭」という意味合いからメディアビジネスのメガ・イベントとなり、日本のメディアも大きな利益を上げた。3. 日本のメディアは、日本のナショナルとしての熱狂を自明化する一方で、ステレオタイプイメージに従って韓国の熱狂を特殊化し、また、主要メディアの「韓国応援」に対し、インターネット上では「反韓」メッセージが溢れ、その中で欧州サッカーの「よき」消費者である日本のサッカーファンも、アイデンティティをめぐるポリティクスに巻き込まれていった。4. 韓国においてもワールドカップを韓国社会の「世界化」の契機とする戦略とそれへの市民の動員を目指すメディアの動きがあったが、「韓国代表躍進」の結果、そうした戦略の目標とは異なる韓国市民へのインパクトの兆しがある。
著者
笠野 英弘
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.43-58, 2018-03-30 (Released:2018-04-06)
参考文献数
41

本稿の目的は、制度論の限界を克服する主体的なスポーツ組織論の理論構成を提示し、その意義を論じることである。 制度論では、スポーツ制度によって行為者の社会的性格が形成される論理が示されているが、そのスポーツ制度を形成・変革する主体がみえ難い。また、社会的性格形成過程における行為者の主体性の発揮を把握する枠組みも不足している。すなわち、スポーツ制度を形成・変革する主体と行為者の主体性を把捉する理論的枠組みの欠如が制度論における限界として捉えられる。 そこで、制度論と主体的社会化論を援用しながら、スポーツ組織をスポーツ制度や行為者の社会的性格を形成・変革する積極的な主体として位置づけるとともに、行為者の主体性を把捉することが可能な主体的なスポーツ組織論の可能性を提示した。 この主体的なスポーツ組織論においては、スポーツ組織と行為者の両者の主体性を把捉することが可能であり、また、マクロな視点とミクロな視点を包摂するメゾ的視点を提供する意義がある。 主体的なスポーツ組織論では、愛好者の組織化が求められるこれからのスポーツ組織において、特に愛好者が主体性を発揮して積極的にスポーツ組織に働きかけると同時に、スポーツ組織も、登録者に限らず未登録者の要求を積極的に制度形成・改革に反映していく姿勢が求められる。
著者
海老原 修
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.67-82, 2014

社会科学による質的なデータの数量化は主に同じ土俵上での相対的な重みづけを志向しており、変換されたダミー変数は説明変数であって被説明変数にはなりにくい。量的研究が質的現象を説明するのか、質的研究が量的現象を説明するのか。はたして、両者は対称的な位置づけなのか、もしかすると非対称ではないだろうか。このスタンスに基づき、体育・スポーツ研究領域で長い間、普遍的なデータを提供している内閣府「体力・スポーツに関する世論調査」に質的研究事例を、文部科学省「体力・運動能力調査報告書」に量的研究事例を求めて、それぞれの解釈と課題を提供した。 質的なデータが示す時系列分析は当事者のみならず社会の変容を理解する好材料を呈示する。一方で、量的データはウソをつくかもしれない。平均値の表示は作為的か不作為か判然としないが、体力低下がまやかしである可能性を教えてくれる。2人の得点が50点ならば平均値は50点であるが、2回目に1人が0点となってしまった。したがって平均点50を維持するには残る1人が100点を取らねばならない。3人の平均値が50点であるが、2回目には2人が0点となってしまったので、残る1人は150点を獲得しなければならない。平均点を表示する体力・運動能力の年次推移の背後には、運動やスポーツを行なったりやめたりする子どもたちの運動習慣の変動があり、運動実施状況別にたどると体力・運動能力そのものは不変である可能性が浮かび上がる。このような錯誤を指弾する姿勢は肉感的なフィールドワークによってかたちづくられる、ほんとかしらん、なぜなのかしらん、といった不思議の開陳である。聞き取りや参与観察、インタビューなど質的なアプローチが、研究対象にたいして多元的・多段階的な昆虫の複眼と単眼による量的な分析を刺激し続けている。
著者
山本 教人
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.5-26, 2010

<p> オリンピックメダルやメダリストが、メディアによってどのように描かれているのかを物語の観点から明らかにするために、1952年ヘルシンキ大会から2008年北京大会を報じた「朝日新聞」の記事を対象に、内容分析を行った。<br> 我が国のメダリストに関する分析から、次のことが明らかとなった。メダルの多くが体操、柔道、レスリング、水泳などの種目で獲得されていた。近年、オリンピック新種目での女子選手の活躍が顕著であった。多様な企業に所属する選手が増加傾向にあった。<br> オリンピックでメダルを獲得することは、我が国の国力を世界に向けて示すことであり、メダリストの養成は国策として報じられていた。1970年代前半までのメダリストのメディアイメージは、類い希なる「根性」の持ち主であり、メダリストには超人的な存在の名が冠せられた。精神主義を介してつながる、国家と個人の関係イメージを指摘できた。<br> 東西両陣営によるオリンピックを通した国力の誇示、オリンピックの商業主義が進行する状況で、商業資本を利用したメダルの獲得は、ますます国策として位置づけられるようになった。この時期のメディアは、プレッシャーに負けず実力を存分に発揮する選手を理想のアスリート像として提示した。<br> 1990年代前半のスポーツをめぐる状況の変化のなかで、新しいタイプのメダリストがメディアに登場した。この時期の報道は、メダリストの個人情報に焦点化したものが多く、彼らをひとつのロールモデルとして位置づけているように思われた。このような報道においては、国策としてのメダル獲得と、メダリスト個人の体験はつながりを失ったものとしてイメージできた。しかし時に、選手の振る舞いや言動を通して、国家や組織から自由ではないアスリートの姿がメディアに描かれることもあった。スポーツの商業主義化やメディアの多様化は、今後、国策としてのメダル獲得とメダリスト個人の関係をますます複雑・多様化すると考えられた。</p>
著者
山口 泰雄 土肥 隆 高見 彰
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.34-50, 1996-03-19 (Released:2011-05-30)
参考文献数
29
被引用文献数
3 4

本研究の目的は、生活の満足度とスポーツ・余暇行動との関係を分析した“Brown & Frankel のモデル”を追試し, わが国における独自の規定要因を加えた修正モデルを検証することにある。加古川市に在住する458名の中年者と212名の高齢者に対して, 質問紙調査を実施し世代間の差異を検討した。パス解析によるデータ分析の結果, Brown & Frankel モデルはわが国でも妥当であり, 適用可能であることが示された。修正モデルの分析により, 世代差と性差が明らかになった。中年女性と高齢男性において, スポーツ実施と生活の満足度との強い関係が示された。また, 生活満足に対して, デモグラフィック要因や経済的指標よりも, 余暇の満足度が最も強い影響力をもっていた。将来的に, アクティブな生活スタイルはクオリティ・オブ・ライフの重要な要因になるかも知れないことが指摘された。また, スポーツ実施と生活満足における性差の理解に関する縦断的研究が求められる。
著者
黒田 勇
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.22-32,148, 2003-03-21 (Released:2011-05-30)
参考文献数
14
被引用文献数
1

1. 本学会の研究プロジェクト「日韓ワールドカップとメディア」のもとで、日韓にかかわる言説に注目し、今回のワードカップがどのようにメディアで意味づけられたのかを、研究プロジェクトのメンバーである黄盛彬と森津千尋の研究を中心に中間報告としてまとめる。それは、主に日韓のアイデンティティをめぐるポリティクスがワールドカップを通していかに現象したかを明らかにするものである。2. テレビビジネスのグローバル化の中で、サッカーがキラーコンテンツとしてビジネスの中心となり、ワールドカップもスポーツの「祭典/祝祭」という意味合いからメディアビジネスのメガ・イベントとなり、日本のメディアも大きな利益を上げた。3. 日本のメディアは、日本のナショナルとしての熱狂を自明化する一方で、ステレオタイプイメージに従って韓国の熱狂を特殊化し、また、主要メディアの「韓国応援」に対し、インターネット上では「反韓」メッセージが溢れ、その中で欧州サッカーの「よき」消費者である日本のサッカーファンも、アイデンティティをめぐるポリティクスに巻き込まれていった。4. 韓国においてもワールドカップを韓国社会の「世界化」の契機とする戦略とそれへの市民の動員を目指すメディアの動きがあったが、「韓国代表躍進」の結果、そうした戦略の目標とは異なる韓国市民へのインパクトの兆しがある。
著者
森川 貞夫
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.24-49,126, 2000
被引用文献数
1

東京高等師範学校-東京文理科大学-東京教育大学につながる同窓組織「茗渓会」は, 戦前戦後を通じて日本の教育界に有数の人材を輩出したばかりでなく, 日本のスポーツの普及・発展にも大きな役割を果たした。しかしそれは同時に天皇制ファシズムの下では国家的イデオロギーと結びついたスポーツ政策と一体のものであった。しかも東京高師設立の目的が師範学校校長および教員を養成することであったこと, また実際に卒業生の大半が戦前においては全国の中等学校・師範学校および教育行政の中枢にあったためにかれらは, その国家的イデオロギーを率先実行する「下士官」の役割をになわざるを得なかった。したがってスポーツに限ってみても日本のスポーツの普及・発展に貢献すると共に戦前のスポーツによる国威発揚・体力向上・思想善導政策に積極的に加担していくという東京高師出身者の歴史的・社会的役割は避けがたいものであった。しかしその体質は戦後のスポーツの民主化の際に「戦争責任」や「戦争反省」を深く問うこともなく, 無批判に体制に順応し自らが積極的に従属していくというものであり, 今なおその体質が問われるところである。このような体質はスポーツ界にあっては支配的ではあるが, すべての者がそのような立場に立つというわけではない。それを分けるのは東京高師出身者の社会的階層が丸山真男のいうところの中間層の, 主として「第一類型」に属しているところから来るものであり, 国民大衆の側につくのか, 支配的権力の側につくのかの「動揺」はたえずつきまとうものであり, その選択は個人の主体形成に関係する。しかもそれはまた内部での「凌ぎ合い」に加えて, 外部での茗渓外出身者との「覇権争い」もあり, たえず自己矛盾に苛まれざるを得ないものである。
著者
山本 敦久
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究
巻号頁・発行日
vol.24, no.1, pp.19-34, 2016

<p> 本論は、支配の完全な外部を想定できない諸条件のなかで、「スポーツを通じた抵抗」を見いだすための視座について論じている。そのために、まず英国の産物であるクリケットが反植民地闘争の現場になっていく過程を描いたC.L.R.ジェームズの『境界を越えて』を読み解きながら、そこで提示されたスポーツの抵抗理論を概観する。ジェームズにとってスポーツは、国境や文化ジャンルを越えて別の歴史や場所、別の文脈や記憶と繋がりなおすことによって新しい集合性が想起される契機を含むものであった。次に本論はジェームズのこうしたスポーツ論が後のバーミンガム学派に受け継がれていく回路を再発見していく。スチュアート・ホールのポピュラー文化へのまなざし、ポール・ギルロイの「黒い大西洋」、ポール・ウィリスの「象徴的創造性」といった議論を踏まえながら、現代のカルチュラル・スタディーズのスポーツ研究における抵抗理論を検証していく。そうした思考は黒人アスリートの活躍が形成したアウターナショナルな黒人ディアスポラの連帯を論じたベン・カリントンの「スポーツの黒い大西洋」として結実するが、それはスポーツを通じた国民国家の境界線を越えていく複雑な文化的・政治的空間の形成であった。だがそうした対抗的公共圏は、近代資本主義のなかにその一部として生み出されたものでもある。これらの議論をふまえ、本論は最後に、スポーツ文化が資本主義や近代社会、帝国主義といった支配の内部で、その支配的な力や回路を通じて、別の公共圏や別の集合性へと節合される契機を掴まえるための視座を提起する。</p>
著者
山岸 智子
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.53-66, 2010-09-30 (Released:2016-10-05)
参考文献数
24

イランにおいては、20世紀前半から「健全な精神は健全な肉体に宿る」という考え方が広まり、学校体育と女性解放のための諸政策が導入された。女性のスポーツは、健全な社会と家族の健康のために必要と認められたが、女性の身体は繊細で優美なものであるべきとする身体観や家父長主義的な価値観も維持された。 1970年代からのイスラーム復興は、イラン・イスラーム共和国の樹立をもたらした。イスラーム復興は、それ以前の近代化を見直し、ジェンダー平等についても独自の対応をめざしている。イスラーム体制下でも、1991年ファーイェゼ・ハーシェミーはイスラーム女性スポーツ連盟を創設し、4回のイスラーム女性競技会などを開催した。 イスラームの命じる男女隔離と女性の頭髪や体を覆うヴェール(ヒジャーブ)をどのように実施するかについて、イランで政治問題化する一方、フランスなどでは公の場所でのヒジャーブ着用が規制されるようになった。こうしたヒジャーブをめぐる社会= 政治的環境において、イランの女子サッカーチームのユニフォーム問題が生じたのである。FIFAが認められるのはうなじの見えるキャップまでとされ、イラン体育協会はキャップをイスラーム的に適正とは認めがたいとした。その結果イランの女子サッカーチームは2010年ユースオリンピックへの参加が危ぶまれる状況にまで追いこまれた。この例はスポーツ機関をめぐる政治=社会的環境が、国際試合への参加をめぐる対立にまで至りうることを浮き彫りにしていると理解できる。

1 0 0 0 OA 特集のねらい

著者
石坂 友司
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.3-6, 2014-03-30 (Released:2016-07-02)
参考文献数
12
著者
美馬 達哉
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.7-18, 2015

「治療を超えて」生物医学的テクノロジーを健常人に対して用いることで、認知能力や運動能力を向上させようとする試みは、「エンハンスメント(Enhancement)」として1990年代後半以降から社会学や生命倫理学の領域で注目を集めている。とくにスポーツの分野では、新しいトレーニング手法、エンハンスメント、ドーピング、身体改造などの境界は問題含みの混乱状況にある。本稿では、医療社会学の観点から、まず、カンギレムの『正常と病理』での議論を援用して、正常、異常、病理、アノマリーなどの諸概念を整理し、正常/異常が文化的・社会的な価値概念であることを明確化した。 次に、スポーツと身体能力のエンハンスメントに力点を置いて、エンハンスメントをめぐる生命倫理学での議論を概観した。病者への治療(トリートメント:treatment)と健常者へのエンハンスメントを対比して、前者を肯定し後者を否定して線引きする伝統的な議論では不十分であることを、具体的実例を挙げて示した。また、資質と努力の賜物としての達成(アチーブメント:achievement)とエンハンスメントを対比して、前者の徳としての重要性を指摘する議論を紹介した。加えて、本稿は、エンハンスメントの根本問題とは何かという点で、現代社会のテクノロジーによる人間的自然の支配こそが再考されなければならないという視点に立って、エンハンスメントを超える展望を提示した。