著者
野宮 大志郎
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.327-335, 2014

研究の国際化に伴い, ISAの大会に参加する日本人は急速に増加している. ISAのリサーチ・コミティを, 今後どのように各自の研究に活かせばよいか. その方策を探るのが本稿の目的である. ISAのリサーチ・コミティを研究者組織として見た場合, いくつかの際立った特徴がある. 本稿では, それらの特徴を他の研究組織の特徴と比較しながら, 明示化する. その後, リサーチ・コミティを舞台として国際共同研究を進めるためには, どのような個人戦略や注意が必要になるか, 共同研究に伴うリスクを交えながら論じる.
著者
内藤 準
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.390-408, 2014

「機会の平等」は現代社会の最重要な規範的原理の1つであり, 階層研究では「完全移動」 (親子の地位の独立) として解釈されてきた. しかし近年この考え方に対しては「親子の地位の関連は平等な機会のもとで本人たちが形成した選好に基づく選択の結果でありうる」という強力な理論的批判が提示されている (個人選択説). そこで本稿では, 階層研究における機会の平等概念の理論的分析をおこない, 完全移動や結果の平等との関係を再検討する. そして, 完全移動を機会の平等の指標とする伝統的なアイデアを個人選択説の批判から救い出すことを試みる.<br>先行研究の検討とシンプルな理論モデルを用いた分析から以下のことが明らかになる. 第1に, 階層の再生産に関するいくつかの社会のタイプのうち, 機会が平等な社会は, 本人の地位が親の地位によってではなく本人に責任のある個人的要因によって規定されることを条件とする. 第2に, 機会の平等は完全移動を含意するが, 完全移動は「個人の責任」を考慮しないため機会の平等を含意せず, 両者はこの点で異なる. 第3に, 機会の平等を完全移動とする従来の考え方は個人選択説の批判を避けられない. だが分析対象である「社会階層」を適切に定義する分析枠組みをおけば, 選好形成に関する個人選択説の仮定が成立しなくなり批判は解除される. 最後に, 本稿の知見がもたらす今後の研究への方法論的含意と規範理論的課題への社会学的アプローチを示す.
著者
鳶島 修治
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.374-389, 2014

本稿の目的は, 学業面の主観的能力を表す「学力に関する自己認知」 (以下, 学力自己認知) という媒介変数の役割に着目した検討をとおして, 現代日本における教育達成の男女間格差・階層間格差の因果的メカニズムの解明に貢献することである. この目的を達するため, 学力自己認知の指標として学業的自己概念と学業的自己効力感を使用し, 「高校生の教育期待に対する性別と出身階層の影響を学力自己認知が媒介する」という仮説の検証を行った. PISA2003の日本調査データを用いて固定効果モデルによる分析を行った結果, (1) 男子は女子よりも教育期待が高く, 出身階層が高いほど教育期待は高いこと, (2) 数学の学力を統制したうえでも男子は女子に比べて数学の自己概念・自己効力感が高いこと, (3) 出身階層が高いほど数学自己効力感は高いこと, (4) 数学自己効力感は教育期待に対して数学の学力とは独立した正の効果をもつことが示された. (5) また, Sobel testによる間接効果の検定を行ったところ, 数学自己効力感を媒介した性別と出身階層の間接効果はいずれも有意であり, 「教育期待に対する性別と出身階層の影響を学力自己認知が媒介する」という仮説は数学自己効力感に関して支持された. 現代日本における教育達成の男女間格差・階層間格差の生成メカニズムを考えるうえでは, 学力自己認知 (特に学業的自己効力感) という媒介変数の役割に注目する必要がある.
著者
三谷 はるよ
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.32-46, 2014

本稿の目的は, 「市民活動参加者の脱階層化」命題が成り立つかどうかを検証することである. すなわち, 資源のある人もない人も等しく市民活動に参加するような状況に変化しつつあるのかどうかを検討する. そのために本稿では, 1995年と2010年に実施された全国調査データであるSSM1995とSSP-I2010を用いて, 社会階層と市民活動参加の関連の動向に注目した時点間比較分析を行った.<br>分析結果は以下のとおりである. 第1に, 1995年も2010年も変わらずに, 高学歴の人ほど市民活動に参加する傾向があった. 第2に, 1995年では高収入や管理職の人ほど市民活動に参加する傾向があったが, 2010年ではそのような傾向はなかった. 第3に, 1995年では無職の人は市民活動に参加する傾向があったが, 2010年では逆に参加しない傾向があった. 本稿から, 高学歴層による一貫した市民活動への参加によって教育的階層における「階層化」が持続していたこと, 同時に, 中流以上の層や管理職層, 無職層といった従来の市民活動の中心的な担い手の参加の低下によって, 経済的・職業的階層における消極的な意味での「脱階層化」が生じていたことが明らかになった.
著者
赤川 学
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.20-37, 2005-06-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
19
被引用文献数
2

「男女共同参画が実現すれば, 出生率は上がる」.これは現在, もっとも優勢な少子化言説である.本稿ではリサーチ・リテラシーの手法に基づいて, これらの言説と統計を批判する.第1に, OECD加盟国の国際比較によると, 女子労働力率, 子どもへの公的支出と出生率のあいだには, 強い正の相関があるようにみえる.しかしこのサンプルは, しばしばしばしば恣意的に選ばれており, 実際には無相関である.第2に, JGSS2001の個票データに基づく限り, 夫の家事分担は子ども数を増やすとはいえない.第3に, 共働きで夫の家事分担が多い「男女共同参画」夫婦は, 子どもの数が少なく, 世帯収入が多い.格差原理に基づけば, 彼らを重点的に支援する根拠はない.第4に, 政府は18歳以下のすべての子どもに, 等しく子ども手当を支給すべきである.それは, 子育てフリーライダー論ではなく, 子どもの生存権に基礎づけられている.現在の公的保育サービスは, 共働きの親を優先している.親のライフスタイルや収入に応じて, 子どもが保育サービスを受ける可能性に不平等が生じるので, 不公平である.もし公的保育サービスがこのような不平等を解決できないなら, 民営化すべきである.最後に, 子ども手当にかかる財政支出は30歳以上の国民全体で負担しなければならないが, この支出を捻出するには, 3つの選択肢がありうると提案した.その優先順位は, (1) 高齢者の年金削減, (2) 消費税, (3) 所得税, である.この政策により, 現行の子育て支援における選択の自由の不平等は解消され, 年金制度における給付と拠出の世代間不公平は, 大幅に改善される.
著者
天野 正子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.22, no.3, pp.30-49, 1972-01-30 (Released:2009-11-11)
参考文献数
5
被引用文献数
10 2

The main purpose of this article is to elucidate the process by which the occupations in the modern society are professionalized, through a case study of the nurse in Japan. The nurse is still considered as a semi-profession in Japan. Why is it ? In conclusion, it is due to the fact that there still remains a big distance between the nurse and “full-fledged professions” in that the nurse lack autonomy or a wide range of freedom as individuals and groups' and speciality to guarantee the autonomy or a system of highly professionalized knowledge and technology, both of which constitute a basic requirement of professions. In other words, the central questions in professionalization of the nurse are : firstly, how to establish their “speciality” based on the systematized knowledge and technology, and secondly, how to free themselves from subordination to medical doctors amidst the rapidly bureaucratizing organization of hospitals and thus to establish their “speciality”. The answers to these two questions have so far been sought in the improvement of training and certification system of the nurse and in the movements for obtaining rights as laborers. This article, however, intends to examine the structure of attitudes and opinion of nurses toward the situations and meaning of the occupation in which they are engaged, as a preliminary task before attempting to identify the tendency toward professionalization in the policy or in the movement. It seems essential if we are to consider the possibility that the nurse may be professionalized. The survey used in this paper was administered to 296 nurses holding certificates under the new system in seven hospitals in Tokyo. Contrasting the results of this survey, I also used parts of the results of the survey administered to 246 students in their final year enrolled in nine nursing junior colleges or higher institutes. The following points have been revealed by the surveys : Reflected strongly in the opinion and attitude of nurses are the difficult situations for the professionalization such as unsatisfactory system and content of education, immature science of nursing, subordinate relation to medical doctors, gap between what they are originally expected to do and what they are actually doing, and weak Japan Nursing Association, which should play a central role in the efforts toward the professionalization of the nurse. This fact implies that the nurse has not yet reached even the level of semi-profession, the typical example of which are the elementary and lower secondary school teacher. In spite of this low level of professionalization, they are quite satisfied with the present level of specialization and autonomy and optimistic about the future of their occupation. The nurse still remains to establish itself as a semi-profession. Its full-fledged professionalization will begin when it has attained speciality and autonomy as a semi-profession. But, it is quite dubious if they will show the confidence and optimistic perspectives about the level of professionalization of their occupation and its future possibility as they do today, even when they have established as a semi-profession.
著者
三上 剛史
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.57, no.4, pp.687-707, 2007-03-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
37
被引用文献数
3 1

以下の論考は, 道徳に対する現代社会学のアンビヴァレントな関わりを, 社会学が現在直面している社会情勢から再考し, 社会学という学問が, そのそもそもの成立において孕んでいた契機を反省する営みとして提示するものである.検討の対象となるのは, グローバル化の中で改めて「社会とは何か」を問う理論的諸潮流であり, また, 「福祉国家の危機」およびリスク社会化によって明らかになりつつある「連帯」の再考である.まずは, U.ベックを始めとして各方面で展開されつつある, グローバル化とともに「社会」の概念そのものが変革されなければならないという議論を糸口として, 「社会的なもの」とは何かを問い直してみたい.それは, 福祉国家の前提となっていた「連帯」の概念を再検討しながら, M.フーコーの「統治性論」を通して近代社会の成り立ちを問う理論的潮流に繋がるものであり, 同時に, N.ルーマン的意味でのシステム分化から帰結する道徳的統合の「断念」, あるいは新しい形での連帯の可能性を問うことでもある.これは, なぜ社会学という学問が成立しえたのかを自問することでもあって, グローバル化の中で「社会」という概念の妥当性と社会学の可能性が再検討されている今, 避けて通ることのできないテーマである.
著者
佐藤 嘉倫
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.49, no.2, pp.188-205, 1998-09-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
35
被引用文献数
2

本稿の目的は, 合理的選択理論に対する批判を分類し, それぞれの批判の論理構造を検討し, 受け入れるべき批判を明らかにすることである。 批判は次のように分類される。 (1-a) 選好の文化依存性の指摘, (1-b) プロスペクト理論, (2-a) 合理性仮定の経験的妥当性に対する批判, (2-b) 共有知識仮定に対する批判, (3-a) 経験的事象の説明可能性に対する批判, (3-b) 複数均衡の存在に対する批判, (3-c) 社会現象は行為から成り立つとは限らないという批判。これらの批判のうち, (1-a) から (2-b) までは, 合理的選択理論の仮定に関する批判である。これらの批判は, 経験科学理論に対する批判として意味がないわけではないが, 理論の説明力を無視して仮定の妥当性のみを問うならば, 生産的ではなくなる。 (3-a) の批判は, 合理的選択理論の説明力に対する批判であり, 重要である。 (3-b) の批判に対しては合理的選択理論は適切に対処できる。 (3-c) の批判は, 合理的選択理論よりも優れた説明力を持つ理論を提示していないので, 現状では受け入れるわけにはいかない。 以上の批判の検討から, (3-a) の批判に適切に対処することが, 合理的選択理論をより豊かな社会学理論にするメイン・ルートであると結論される。
著者
山田 信行
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.158-171, 1995-09-30 (Released:2009-10-13)
参考文献数
35

本稿は, マルクス派の視点から歴史社会学の方法論を整備しようとする一つの試みである。本稿は三部から構成される。第一に, アメリカ合州国における歴史社会学の方法論論争を概観することによって, 求められている方法が演繹的な方法と「総体性」への志向であることを確認する。そのうえで, そのような要件をみたす方法が, 弁証法的なそれにほかならないことを提唱する。第二に, 史的唯物論の再構成の試みに見られる難点を確認したうえで, それを克服する試みとして, 多元的資本主義発展論としての弁証法的歴史社会学の構想を提示する。この際, 弁証法という論理が閉鎖的な「概念の自己展開」とは区別されるものであることが強調される。第三に, 弁証法的な論理の問題構制は「ポスト・マルクス主義」のそれと必ずしも抵触するものではなく, ギデンスも含めたポスト・マルクス主義的主張はかえって弁証法的方法の可能性を矮小化するものであることを指摘する。
著者
大光寺 耕平
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.86-101, 2001-06-30 (Released:2010-04-23)
参考文献数
26

本稿は, 人間の心理的なものの理論の内で, ジャック・ラカンの精神分析学理論をどのように位置づけるべきかを考察したものである.そのために, 言説に関するラカンの理論を, ニクラス・ルーマンのオートポイエーシス的システム理論の立場から検討する.ラカン派の立場は, 人間がことばを持っていることによって, 精神的に動物とまったく異なる働きをすることを前提としている.本稿ではそれに対して, 人間の精神が動物と共通する面をも持っていることを重視し, 〈語る主体〉と〈動物的存在〉の二重性を仮定すべきことを, そのような二重性を理論的に扱うことの難しさとともに指摘した.それからルーマンのシステム理論と比較することによって, ラカンにおける「構造」の概念が, システムの内在的な関係ではなく環境との関係に指向していること, 及びシステムが環境の刺激を利用するさいに「脱トートロジー化」の機構によっていること, という2点でルーマンのシステム理論と共通していることを明らかにした.またその結果, 〈語る主体〉と〈動物的存在〉の関係が構造的カップリングの概念によって適切に理論化されうるという可能性を示した.
著者
吉沢 夏子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.35, no.2, pp.130-144, 1984-09-30 (Released:2010-04-23)
参考文献数
39
被引用文献数
1 1

A・シユッツの学、および現象学的社会学やエスノメソドロジーについてはすでにさまざまな解釈や批判がなされている。その中でも、これらの学的営為をいわゆる “主観主義” ということばで括ることはかなり広い支持を得ているように思われる。しかし、いったい “主観主義” とは何か。それは従来の “主-客図式” の枠を前提にしたものなのか。またそれは “問主観的” な世界を明らかにすることはできないのか。これが本稿での問題である。その考察にあたってここでは、まずシュッツをフッサールとの関係で位置づけるという作業を通してシユッツに対する批判および評価を再構成し、次にそのことによって逆に社会学との関係でシュッツの積極的な存在意義を浮き彫りにする、という手法をとる。シュッツの貢献は、社会学においてこれまで省みられることのなかった新しい問題領域-間主観性問題-を発見し、それを社会学的な問題として主題化する道を開いたことである。そしてシユッツの学、およびシユッツを出発点とするその後の展開の中で、 “主観主義” の “主観” は従来の “主-客図式” の枠ではもはや捉えられない薪しい意味を獲得するのである。
著者
白鳥 義彦
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.46-61, 1995-06-30 (Released:2010-01-29)
参考文献数
23

デュルケームの生きた第三共和政期のフランスは, 「非宗教的・無償・義務的」という原則に支えられた初等教育制度が確立されたことに端的に見られるように, 近代的な国民国家を目指した歩を進めようとしていた.同時に, 普仏戦争の敗北から出発した第三共和政には国家の再建ということが課せられており, その一環として, 初等・中等教育と並んで高等教育の改革もまた議論された。このような背景を踏まえ, 本論文では, デュルケームの教育論のなかでも初・中等教育の問題の陰にかくれ, これまで検討されることの少なかったかれの大学論に注目した. かれは, 高等教育の問題についてもまた深い論述を行っている.実際デュルケームは, 1900年前後の「新しいソルボンヌ」を代表する人物の一人でもあった。デュルケームの論述の検討を通じて, 改革に至る当時の大学の諸問題や, 改革の理念における大学像が明らかにされる.大学は, 職業的な専門教育をおこなうグラン・ゼコールとは区別され, 社会的紐帯を高める役割を期待された「科学」の場として把握されている. またデュルケールの社会学は, そのような科学観を背景に大学内に制度化されたのであり, 高等教育改革の議論と関連づけることにより, かれの社会学の性格も浮き彫りにされるのである。
著者
小笠原 真
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.32, no.2, pp.57-71, 1981-09-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
46

本小稿は、日本の近代化と宗教の関連性を究明しようとする先学の諸説のなかから、日本の近代化 (=資本主義化) と浄土真宗の内面的な関連性を検討しようとする先学の諸説のみを取り上げている。そしてまず、日本の近代化と浄土真宗の関連性を積極的に評価しようとする内藤莞爾氏やR・N・ベラーの所説を検討し、M・ヴェーバーの所説と比較した場合の問題点として、西欧歴史と日本歴史との発展形態の相違について必ずしも十分な配慮がなされていない点と、ヴェーバーは新教と産業資本の関係を論究しているのに対して彼らは浄土真宗と商業資本の関係を考察している点、の二点を指摘している。次いで、日本の近代化と浄土真宗の関連性を消極的に評価しようとするヴェーバー自身や小口偉一氏らの所論を吟味し、特にヴェーバ-の所論を発展させる方途として、日本では何故西洋の如く個人の内面的規範としての禁欲的精神が出て来なかったかという点と、そういう精神が出て来なかったにも拘らず何故目本ではベトリープが形成され資本主義化が大きく押し進められてきたかという点に、答える必要のあることを指摘している。続いて、本稿はそれらの点に解答を記述する過程で、日本の近代化の主体的条件を浄土真宗を含めた日本の諸宗教に求める見解には消極的な評価を与え、逆にそれを「国」・「家」の「共同体成員」としての外面的規範に求める立場には積極的な評価を下すべきことを強調している。
著者
水津 嘉克
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.47, no.3, pp.335-349, 1996-12-30 (Released:2010-05-07)
参考文献数
29
被引用文献数
1

今日「差別や偏見は正しいことですか」と尋ねられて, 肯定的な答をする人はむしろ少数であるにもかかわらず, 身体や精神に障害を持つ人に対する偏見は相変わらず根強く残存しているように思われる。これまで多くの議論が, 社会的な場面におけるこれら差別や偏見を, 相互作用の断絶という文脈で語ってきた。しかし, 「排除」は必ずしもその直接的な形をとってのみあらわれるとは限らない。本論稿で問題とするのは社会的相互作用が拒絶される形で現出する差別・偏見ではない。一見社会的相互作用が維持されている場面のなかに〈方法〉として維持されている「排除する-される」という関係である。それは「私的局域の侵害」「現実構築作業への参加拒否」「主体的人間像の否定」という形で現れてくる。以下, 前提となる議論を若干試みた後, それぞれの「排除」について議論を行う。