著者
熊谷 一乗
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.24, no.3, pp.38-58,140, 1973-12-31 (Released:2009-11-11)
被引用文献数
1

This article intends to analyze a formation process of an educational policy with a view to inquire how the politics cope with the educational problems. The object case of this study is the formation process of an educational policy in the ministerial party, namely, the Liberal-Democratic Party (L.D.P.), and the structural-functional aspects of the policy machinery and the Dietman in change of an educational policy were especially investigated by the author. In L.D.P. the expert group in charge of the educational policy has been formed. This special group is composed of the Dietmen, who belong to the Sectional Council for a cultural-educational policy called “Bunkyo Bukai” (B.B.) or the Muestigation Committee of a Cultural-educational system called “Bunkyo Seido Chosakai” (B.S.C.). There two organs perform different functions respectively in the policy formation process, that is to say, B.B. is deal with the urgent problems, for example, the formulation of the budget and the legislation, on the other hand, B.S.C., is to grapple, with basic problems on the educational policy, to research and clarify fundamental lines of the educational policy. M.B.B. the young Dietmen who were graduated from non-government university have taken leadership, on the other side, in B.S.C. the veteran Dietmen from high classed bureaucrat hold an important position. The party organs for the educational policy and the Ministry of Education stand by each other, and there is closely interdependent relation between the expert Dietmen of education and bureaucrats of the Ministry of Education. According to some marks observed in the formation process of an educational process, we can point out the distinguishing tendency of bureaucratization and functional specialization. It seems that this tendency has been promoted by increasing demands about education from various social spheres to politics.
著者
保田 卓
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.3, pp.313-329, 1999-12-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
32

本稿は, これまでほとんどとりあげられなかったルーマンの高等教育論の全体像を, 散発的で数少ない著作から再構成する試みである。ルーマンによれば, 1960年代末以降のドイツの大学の民主化は, 大学の集団政治化と官僚制化を齎した。集団の挙動のみならず個人の行動をも各集団の利害によって統制する集団政治は一時, 大学を機能的脱-分化の方向に導いたが, やがて官僚制が, 一方で教育・研究の自律性, 他方で教育の相対的組織化容易性, さらに進学率の増大を梃子にして, 集団政治に反応し, これを圧倒するに至った。しかしそれで問題が解決したわけではない。大学システムが適応していかなければならない “環境問題” は, 進学率増大の他にも, 研究と教育の「威信の増幅」関係の崩壊・ライフコースの脱-制度化・相互作用における教養の利用価値の逓減, と山積している。そこでルーマンの提案する適応戦略は, 研究の「観察の観察」への機能分化, 教育における課程=システム分化である。かかる提案の背後にあるのは, ルーマン一流の機能分化史観である。こうしたルーマンの高等教育論の特質は, 大学における民主化が期せずして官僚制化を招来するという視点を示したこと, 研究と教育の機能分化にポジティヴな可能性を提示したことである。
著者
北田 暁大
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.49, no.4, pp.635-650, 1999-03-30 (Released:2010-11-19)
参考文献数
40

われわれはごく日常的なコミュニケーションの場面において, 他者の行為を記述することによりその行為をその行為者へと帰属させ, 「責任」の所在を指示しているといえようが, そうしたなかで, 行為者の意図 (目的) とは齟齬をきたすような行為記述がしばしば「適切」であるとされることも少なくない。行為者自身が自らの行為の記述に関する「権威」でありえない状況のなかで, われわれはいかにして行為記述の適切性を見定め, また行為の責任を帰属させているのであろうか。本稿では, こうした行為の同定 (identification) や帰責 (attribution) のメカニズムをめぐる問題に照準しつつ, A.Schutzの提示した理由動機/目的動機の概念的区別を導きの糸として, 「行為を解釈すること」と「行為 (者) の責任を問うこと」がどのような関係にあるのかをまずI・II節で分析し, 行為者責任 (行為と行為者の関係) と行為の責任 (行為とその結果の関係) との相違を明らかにする。そして次に, N.Luhmannの「道徳」についての知見を参照しながら, 道徳コミュニケーションにおいて問われる責任が, 行為者責任/行為の責任のいずれとも異なる位相にあることを示し, そのようにして捉えられた道徳が現代社会において孕んでいる両義的な性格をIII節において論じていく。「責任」や「道徳」の社会学 (コミュニケーション論) 的な位置づけを与えることが, 本稿全体を通しての目的である。
著者
須永 将史
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.341-358, 2012

ジュディス・バトラーの身体へのアプローチにはどのような意義があるのだろうか. 本稿ではまず, 『ジェンダー・トラブル』におけるバトラーの身体へのアプローチに, 重要な側面が3つあることを指摘する. それは, 第1に, ジェンダー概念の再定義がなされていることであり, 第2に, 身体論の主要な論点を「身体なるもの (=The body)」という論点から「個々の身体 (=bodies)」という論点へと移行させようとしていることだ. そして第3の側面は, 「身体なるもの」の「内部/外部」の境界が不確定であるという主張がなされていることである.<br>次に, フェミニズム/ジェンダー論にとっての既存の身体観を整理し, バトラーが各論者の身体観をどのように批判し, どのように乗り越えようとしたかを述べる. バトラーはボーヴォワールの議論が精神/身体の二元論を保持していることを批判し, イリガライの議論が生物学的性差としてのオス, メスの二元論を保持していることを批判する. バトラーのアプローチによると, 2人が保持するそうした二元論自体が, 問題視されるべきなのである.<br>本稿では, バトラーの貢献とは次のようなものだと結論する. それはすなわち, ジェンダーという概念を再定義することによって, 人々を異性愛の基準においてのみ首尾一貫させる現象の水準を指摘しようとしたことだ. また本稿では, <ジェンダー>を実証的に明らかにするためには, 実際の社会において使用される身体や行為を記述することがフェミニズム/ジェンダー論の今後の課題であることも示唆する.
著者
福間 良明
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.329-347, 2002-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
18

本稿では, 戦前の小泉八雲研究=「ハーン学」の言説における「西洋」「日本」「辺境」の表象を分析し, 「西洋」「日本」「辺境」が交錯する場で紡がれるナショナリティを浮き彫りにする.1900年代の「ハーン学」では, 「日本」は, 「西洋」のような普遍性を希求しつつもそれが欠如したものとして認識されていたが, 次第に「西洋」に比した特殊性が強調されるようになり (1910~20年代), さらには「西洋」に代わる別の普遍性を「西洋」に向けて呈示することが志向されるようになった (1930~40年代).だが, 同時に, そのような中で, その自己像を正当化すベく, 「日本」は, 「辺境」を排除/包摂の対象として描き, また流用していった.そこでは一方で, 「西洋」からの視線, オリエンタリズムが受容され, 内面化され, つねに「西洋」に呈示されるべき自己像が意識されつつ, 他方で, そのような自己表象を成立させるために, 「辺境」の表象, 「辺境」による逆照射が不可欠だった.だが, 「日本」は「西洋」と「辺境」とに向き合う中で生産/再生産され, 強化されるだけでなく, その三者の交錯の中でナショナリティがゆらぐ契機もあった.本稿では, ハーン学言説の分析を通して, 「西洋」「辺境」という2つの他者との交渉でナショナリティが構築され, また同時にゆらぎ, その決定されざる残余が浮き彫りにされる様相を提示する.
著者
石田 浩
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.252-266, 1989-12-31 (Released:2009-11-11)
参考文献数
23

産業主義のテーゼは産業社会における社会経済的資源の配分過程が同質化することと、業績主義的原理の重要性が産業化の進行とともに進展することを予想した。本研究のテーマはこの産業主義のテーゼを念頭に置き、学歴と社会経済的地位達成過程に関する日米英国際比較研究を行うことにある。学歴取得過程に関してみると、生得的要因は現代日本、アメリカ、イギリス社会において依然として根強い影響力をもっていることが指摘された。コーホート分析では、生得的要因の高卒、Oレベル学歴へ与える影響力は産業主義のテーゼが予期したように減少傾向にあるが、高等教育機関レベルの教育機会は逆に閉鎖性が増大する傾向にあることが判明した。社会経済的地位達成過程に目を移すと、コーホート分析による趨勢は、産業主義のテーゼの予期するように学歴 (業績主義的原理) が出身背景 (属性主義的原理) に比べて相対的重要性を増大する傾向が日米英三国に読み取れる。しかし、社会経済的資源の配分過程が日米英三国において同質的であるという仮説は分析結果から支持されたとは言い難い。社会経済的地位達成過程における学歴の出身背景に対する優位性は、アメリカにおいて最も顕著に見られ、日本はイギリスよりも学歴の相対的重要性は低い。さらに学歴の社会経済的効用にも日米英三国の間にかなりの違いが見られる。これらの結果によれば、産業社会における社会経済的地位の配分過程は、各国独自の教育制度と労働市場の構造に大きく影響されており、必ずしも同質的なパターンを生み出すとは限らないことが推察される。
著者
近藤 哲郎
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.47-60, 1994-06-30 (Released:2010-11-19)
参考文献数
56

フーコー最晩年の『快楽の活用』と『自己への配慮』に基づいてフーコーの経験的分析手法を体系的に理解しようとする関心のもとで, 1970年代中葉以降のフーコーの変貌を方法論レベルで検討する。本稿では, 『知への意志』における権力分析の構想から最晩年の二つの著書に至るフーコーの変貌を, 権力モデルの変更, 分析水準の一元化, 〈倫理〉の設定という三つの側面から捉え.最晩年における基本的なパースペクティブを明らかにする。
著者
武笠 俊一
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.291-304, 1990-12-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
8

時間論には、いろいろなアプローチがありうるが、本稿では時間計測の歴史に焦点をあてることによって、その計測技術の飛躍と近代社会の成立との関連を論じてみたい。近代以前の社会において、時計には時刻を知るためのものと時間の量を計るもの、二つのタイプがあった。ところが、ともに時間をはかる器具でありながら、この二つの時計は互換性をほとんど持っていなかった。しかし、近代の初頭において振り子が機械時計の調速部に採用されると、時間計測の精度は飛躍的に向上し、二つの時計は一つに統合されてゆく。「時計の統合」にいたってはじめて時間計測の普遍性が確立される。それは、近代科学、工業技術の発達の基礎となったばかりでなく、近代人の時間意識を作りかえ、複雑きわまりない近代的社会システムの形成を可能にしたのである.
著者
室井 研二
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.18-31, 1997-06-30 (Released:2009-10-13)
参考文献数
28

従来, 理論と実践は対立概念として想定されてきたといえるが, 今日では実践それ自体が理論的な主題とされる場合も多い。本稿では「実践」の理論的含意を主にA.ギデンズの学説に即して考察する。最初に, 意味学派的用法の「実践」が, マルクス主義的用法とは異なったやり方で, 近代認識論に対する方法論的な対抗を意図した概念であることを指摘し, その内容をやや敷衍して解説する。ギデンズの「実践」もそのような意味学派の知見に依拠し, 社会研究の方法論的再考を志向するものであるが, 同時にそれ自体が日常的な人間行為のモデルとしての側面も備えている。それ故, 次に, そのモデルの内実について検討する。主眼とされるのは意識的な対象化に先行するいわば社会内属的な次元での「理解」の様態や準拠基盤であるが, その大要を主に時間と空間といった観点に引きつけて整理した。最後に, 人間行為に対するそのような着眼の背後には, 社会的現状認識や望むべき社会構築のあり方に関するギデンズ独自の価値観が投影されており, 近代批判としての視角が意図されていることを指摘する。他の批判理論との比較を通して, その特徴と可能性について検討した。
著者
高橋 由典
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.4, pp.830-846, 2006-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
14

体験選択とは, 行為選択の第三の規準 (感情性の規準) を適切に表現するため筆者によって案出された概念だが, これまでのところ, 体験選択の種差をめぐる議論は十分になされてはいない.この稿では, 体験選択一般についての議論から歩を進め, 開いた社会性と結びつく体験選択を取り上げることにする.開いた社会 (société ouverte) とはいうまでもなく, ベルクソンに由来する概念である.開いた社会性につながる体験選択は, その後の行為選択へ甚大な影響を与える.それゆえこの種の体験選択について考察を進めることは, 行為選択の第三の規準を考える上できわめて有意義であるにちがいない.最初に具体例およびベルクソンのテキストに依拠しながら, 開いた社会性それ自体の意味が検討され, それが動性に関係する概念であることが明らかにされる.ついでこの意味での社会性と体験選択のつながりについての言及がなされ, 開いた社会性と結びつく体験選択の位置が明確にされる.開いた社会性はどのような行為選択を結果するのだろうか.行為論的な観点からは, この問いは大きな意味をもつ.そこで多元的現実論などを参照しつつ, 動的な意思決定の可能性が示唆されるに至る.最後に開いた社会概念の応用の先例としてコミュニタス概念が取り上げられ, この稿の方法論的な意義が確認される.
著者
長谷川 公一
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.436-450, 2000-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
31
被引用文献数
2 1

社会学は成立以来, 近代市民社会の秩序原理の焦点として, 「共同性」と「公共性」を論じてきた.しかしこれまで日本の社会学において, 公共性をめぐる社会学的考察が十分に展開されてきたとはいいがたい.公共性をめぐって論じられるべきは, 第 1 に, パブリックの概念の現代的変容という位相である.概念の多義化, 「私的領域」との相互浸透, グローバル化にともなう空間的拡大, 「自然の権利」を含むパブリックな空間の構成諸主体の拡大が著しい.第 2 は, 市民社会の統合原理としての公共性の位相である.先進社会にほぼ共通に, 過度の個人主義が個人主義そのものの存立基盤を掘り崩しかねないというベラーらの指摘する危機的状況がある.今日, 公共哲学の復権がもとめられるのはこの文脈においてである.第 3 は, ハーバマス以来の「公共圏」, 公衆としての市民による公論形成, 社会的合意形成をめぐる位相である.肥大化した国家とマスメディアのもとで, 公共圏の再生もまた世界的課題である.第 4 は, 公共政策にかかわる政策的公準としての公共性の位相である.規範的公共性と, 権力的な公共性との分裂・乖離という事態のもとで, 大規模「公共事業」をめぐる長期の紛争と環境破壊が繰り返されてきた. 第5 は, 市場でも政府でもない「市民セクター」が担う公共性をめぐる位相である.ボランタリーな市民活動と政府および営利セクターとのコラボレーションが現代的焦点である.

1 0 0 0 OA 入信の社会学

著者
伊藤 雅之
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.158-176, 1997-09-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
37
被引用文献数
1

本稿の目的は, 新宗教に参加する個人に焦点をあてた社会学的諸研究を批判的に概観しながら, 入信プロセスの包括的な理解にむけての有効なアプローチを究明することである。筆者は, 社会的に規定されながらも意味探求をする存在としての信者像を前提とした上で, 多元的な諸要因を包括する入信モデルを構築する基礎固めを目指す。具体的には, 約30年前に提案された古典的入信モデルの再評価と批判的修正を行いながら, 今後入信研究を発達させていくための理論枠を確立し, また実証研究をする際の鳥瞰図を提示することを試みたい。本稿ではまず (1) 社会学的な入信研究の対象および入信に影響を与える諸要因を概観し, 次に, (2) 入信の主体である個人の捉え方をめぐる2つのアプローチ (社会・心理決定論と能動的行為者論) を批判的に検討する。以上の議論をふまえて, (3) 入信プロセスを総合的に理解する1つの手がかりを, ロフランド=スターク・モデルに求め, モデルの再評価を行う。最後に (4) このモデルに必要な修正点を検討しながら, 新しい入信モデルの可能性を探ることとする。
著者
竹内 里欧
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.745-759, 2005-12-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
47
被引用文献数
1

本稿では, 明治期から大正期の, 処世本, 礼儀作法書, 雑誌記事を資料に, 「西洋化」・「近代化」・「文明化」を象徴する人間像として機能した「紳士」という表象をめぐる言説を分析する.特に, 「紳士」を揶揄するレトリックや論じ方に注目し, その類型の整理を試みる.それにより, 近代日本において, 「西洋」, 「文明」の有していた力やそれへの対応について明らかにする.「紳士」をめぐる言説においては, 「真の紳士」に「似非紳士」を対置し, 「真の紳士」の視点から「似非紳士」を批判するレトリックが多くみられる.「西洋の真の紳士」という理念型から「日本の似非紳士」を揶揄する (=「『似非紳士』の構築」) のも, 「真の紳士」の対応物を「武士道」, 「江戸趣味」に見出すなど過去に理念型を求める (=「『真の紳士』の改編」) のも, どちらも, 現在の時空間ではないところにユートピアを設定しそこから批判することを通じて「現実」を構成するという論理構造を共有している.「真の紳士」という「理念」と「似非紳士」という「現実」を共に仮構するという理想的人間像への対応は, 抽象化された (それ故「武士道」などと等値可能になる) 「西洋」という目標に向かい邁進する日本の近代化の構造を反映している.それは, 近代化・西洋化の要請と, 「日本」のアイデンティティの連続性の創出・維持という, 当時の矛盾を含んだ2つの課題に対応する文化戦略であったことが透視される.
著者
土井 文博
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.45, no.3, pp.316-331, 1994-12-30 (Released:2010-01-27)
参考文献数
8

この論文の目的は, E. デュルケムが提唱した道徳共同体論を基として, 社会学が目指すべき実証的な社会分析のあり方を整理し提唱することにある。つまり, デュルケムが語る道徳的世界を日常生活レベルで具体的に描き出し, 人々の実際の社会生活の分析, そして改善に役立てられるような研究の方向を示すというものである。そこで, まずデュルケムの道徳共同体論について概観し, そのポイントや特徴を押さえる。次に, デュルケムの道徳共同体論を具体化するのに成功していると言われるゴフマンについて検討し, その功績や特徴を押さえる。その際にゴフマンの道徳共同体論の欠点もまた明らかにする。最後に, デュルケムの方法論が抱える課題を示した上で, 私自身のデュルケム解釈に基づいて, ゴフマンの対面的相互行為分析をデュルケムの方法論の中にうまく位置づける方法を提案する。「社会を学問する」という場合, それは様々な方向で行われている。ある者は大規模なアンケート調査を行うことによって, ある者は純理論的な見地から, またある者は参与観察によって, という具合にその社会分析のあり方は実に多彩である。そうした多様な社会学の方法論の中で, 本稿では E デュルケムが提唱した道徳共同体論に注目して, 実証的な社会分析の一つの可能性を提示することにしたい。
著者
木田 徹郎
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.18, no.4, pp.2-13, 1968-03-01 (Released:2010-05-07)
参考文献数
11

The study of social pathology analysed various social problems utilizing an approach which adopted the concepts of social disorganization, deviant behavior, anomie, and dysfunction. These analyses, focusing respectively on personality system, family system, and community system, have used the methods of control-group research, participant observation, and questionnaire. They took a common basis in an objective and relativistic view-point, which gradually made clear such points as the following.(1) Standards and norms vary according to social classes. (2) In order to solve some problem, it is necessary to proceed with an analysis of the larger system to which object of analysis belongs. (3) Analysis of social disorganization and deviant behavior necessarily entails the study of non-conformity and social change.Social welfare workers regard the problems they face as objects for solution, rather than merely for analysis. Although sociological analysis of such problems is important and necessary, in most cases it does not go beyond the explanation of the past and present causes and processes involved in the problems. The social welfare approach, on the other hand, consists in the practice of choosing what behavior the individual should take in the “future”, and in. assisting him to do so. Hence it is necessary that the social welfare worker be a specialist and that he take on responsibility for guiding individual. The social welfare approach, therefore, becomes really effective only when it is based on information gained from cooperative research with an objective and relativistic social science such as sociology, and when in addition it is connected into a “specialized practice”, in which a matter considered apart from a standpoint as an outsider. In order for this increase in the effectiveness of the social welfare approach, to take place hereafter, evaluations of the results both of various problems related to social change and of operations involving planned changes in the functioning of the social system will be more and more necessary.
著者
池田 太臣
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.51-67, 2004-06-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
25

支配は, 政治学および社会学において, 中心的なテーマのひとつであった.けれども近年, この支配についての関心は衰退し, その概念の有効性も疑われつつあるように思われる.この'支配概念の有効性の衰退'ともいえる現象は, 一体, いかなる理由によるものであろうか.この問いに答えるためには, なによりもまず, 支配研究の源流にさかのぼる必要があると思われる.というのも, 支配概念の導入の初発の関心を明らかにすることではじめて, その概念の社会科学上の存在意義を解明することができるからである.今述べた “支配の社会学の初期設定” を探るために, 本稿では, トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』を取り上げる.なぜなら, この書におけるホッブズの議論こそが, 支配の社会学の嚆矢であると考えることができるからである.上記の関心にしたがって, 本稿では, まずホッブズの議論の特徴として2つの点を指摘する.これらが, “支配の社会学の初期設定” である.さらに, このような設定を可能にしたホッブズの思想的前提を, 人間観と社会観との2つの観点から明らかにする.この指摘によって, ホッブズの議論の限界と可能性が明らかになると同時に, ホッブズ以降の支配論ないし支配の社会学の歴史を整理するための足かがりが得られる.そして最後に, 議論の簡単なまとめと今後の研究の展望について触れることにしたい.
著者
数土 直紀
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.496-508, 2000-03-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
21

本稿の目的は, 我々が他者と共に生きていくためにこれから何が必要とされるのかを解明することである.このことが問題にされなければならない理由は, 大規模化し複雑化しつつある現代社会においては, 他者と共に生きていくことがいよいよ困難になるであろうことが予想されるからである.本稿では, 最初に, 我々が日常において他者とどのようにして合意を形成しているのかを分析する.他者との間に何らかの合意を持つことは, 共生のためのもっとも基本的な条件だと思われるからである.しかし, 本稿で明らかにされることは, 我々のこれまでの合意形成の仕方が, 現代社会においては自ずから限界を持たざるをえないことである.次に, 我々がこれまで用いてきた合意形成の手段が有効でない場合には, 最小限の合意が有効であることを主張する.最小限の合意とは, 互いの理解のしがたさに関する合意である. そして, このような最小限の合意は, 寛容と主張という新たな戦略を可能にする.新たに示される戦略は, 我々がこれからの社会を他者と共に生きるためには我々自身が大きく変わっていかなければならないことを示唆するだろう.
著者
山田 陽子
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.380-395, 2002-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
36
被引用文献数
1

本論の目的は, 「社会の心理学化」 (P. L. Berger) をE.デュルケム以来の「人格崇拝」の再構成から位置付けることである.心理学的知識が普及した社会では, 「心」に多大な関心が払われる.その侵犯を回避すべく慎重な配慮がなされ, 「心」は聖なるものとして遇される.「心」が重要だと語りかける一方で, それを操作対象とする「心」をめぐる知の普及はいかに解釈されうるか.ここではデュルケムの「人格崇拝」論にE.ゴフマンの儀礼論, A.ホックシールドの感情マネジメント論を接続し, それぞれに通底する「人格崇拝」論の構造と異同を明らかにすることによって解答を試みる.デュルケムは「人格崇拝」概念において, 近代社会では個人の人格に「神聖の観念」が宿ると指摘した.ゴフマンはそれを継承して儀礼的行為論を展開し, 世俗化の進行する大衆社会において唯一個人が「神」である様子を詳細に記述・分析した.デュルケムの宗教論とゴフマンの儀礼的行為論の影響が認められるホックシールドの感情マネジメント論では, 人格や「カオ」に加えて「心」に宗教的配慮が払われることが示唆されている.ホックシールドを「人格崇拝」論から読む試みを通じ, デュルケムやゴフマンの現代的意義を再評価しつつ, 心理学的知識の普及に関する新たな分析視角の導出と理論的枠組みの構築をめざす.
著者
西原 和久
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.57, no.4, pp.666-686, 2007-03-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
58
被引用文献数
1

本論文ではまず, 理論の意味が考察され, 社会学における理論が, 基層理論, 中範囲理論, 理念理論からなることが提示される.ついで, (現象学的社会学の) 発生論的相互行為論の立場から相互行為と身体性ないし間身体性を含む問主観性論が論じられ, あわせて現代社会の基本構造, つまり科学技術社会, 知識情報社会, 高度消費社会, 国際競争社会が示される.さらにそこから筆者は主に, 「界」の概念に着目して国家の問題へと至る議論の道筋を提示する.そして本稿では最終的に, グローバル化時代における社会理論としての社会学理論において, 身体性および/あるいは間身体性の問題と脱国家的志向とが社会学的課題の主要なものとなるべきことが提示される.
著者
和田 仁孝
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.413-430, 2004-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
15

法は, そもそも「自律的主体」概念を要とする近代の秩序編制装置として「法主体化のプロジェクト」を推進してきた.しかし, 皮肉にもそれが可能であったのは, 法と対峙した共同的社会組織が, 法の偏頗性に起因する機能不備を補完していたからにほかならなかった.しかし, 現在, 共同的社会組織の融解にともなって, 人々の法制度への要求は過剰化し, そのことで法の機能不全も露呈してきている.法はそれが本来想定した「法主体」とは異なる, 流動的で多元的な「個人化」の波に直面せざるを得なくなっているのである.「公」「私」の境界の崩壊によって流出した「感情」や「日常的正義感覚」が, 法の個々人による「自前の解釈」への応答を要求し, もはや法は, 普遍的に妥当する実体的規範を説得的に人々の前に提示できなくなってきている.近代の「普遍的正義」という正当化原理が, 「個人化」の動きの中で, もはや有効に作動しなくなっているのである.法という, 「個人」を超越する普遍性に根拠を置く制度, 「個人化」とは対極にあるはずの制度が, 現在の, この「個人化」の流れに直面したとき, そこでは何が生じているのだろうか.ある医療事故訴訟過程の中に見られる「個人化」への対応, 司法の周縁を調整的に拡張するADRの試みなどを, ここでは検討していくことにしたい.