著者
柴山 元彦 寺戸 真 中川 要之助
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第III部門 : 自然科学 (ISSN:03737411)
巻号頁・発行日
vol.44, no.2, pp.251-262, 1996-02-28 (Released:2009-02-20)

1995年1月17日に起きた兵庫県南部地震によって淡路島にあらわれた野島地震断層は,延長10km以上にもなる地震断層である。この断層を横断する12測線を設定し,放射能探査を行った。その結果断層部分で,高放射能値がいずれの測線でも認められた。また,簡易測定機器でも断層部分で高い値を示すことが分かった。筆者等はこれまで大阪平野下に存在する活断層の可能性を放射能探査法によって明らかにしてきたが,野島地震断層の放射能探査により活断層の発見がこの方法でより確かなものになった。 The Nojima Earthquake Fault, which has been formed by the earthquake of magnitude 7.2 occurred in the southern part of Hyogo prefecture, Japan, on January 17, 1995, extends more than 10km from Ezaki Lighthouse located at the northern end of Awaji Island to Toshima-cho. The fault runs parallel to the northern of the Nojima geological Fault. The former research (SHIBAYAMA・NAKAGAWA 1995 etc.) has been carried out to present the active faults found beneath Osaka Plain by Radioactivity Prospecting Method. This research was carried out to draw the distribution map of radioactive level by radioactivity prospecting method in the area of Nojima Fault. From the present study which 255 points of intensity of radioactivity could be checked, the following two could be shown; 1> there are some high radioactive level zones in this investigating area, 2> One of these zones are in agreement with the Nojima fault as new fault. From these it has become apparent that higher level zones show an active fault.
著者
岡島 昭浩
出版者
九州大学国語国文学会
雑誌
語文研究 (ISSN:04360982)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.36-50, 1987-06-03 (Released:2009-04-22)
著者
新潟大学人文学部附置地域文化連携センター 新潟大学災害復興科学センターアーカイブズ分野 新潟歴史資料救済ネットワーク
出版者
新潟大学人文学部附置地域文化連携センター
巻号頁・発行日
2010-09

第1日 9月19日(日) 長岡市浦瀬町倉庫から旧種苧原小学校へ史料運搬 / 第2日 9月20日(月) 資料の整理作業(午後,山古志会館にてシンポジウム) / 第3日 9月21日(火) 資料の整理作業
著者
久保 文武
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.6号, pp.29-51, 1988-12

徳川秀忠の息女和子が元和六年(一六二〇)六月十八日、後水尾天皇の女御として入内したが、武家側よりの入内は約四百年前平清盛の女徳子(建礼門院)入内以来のことで、この件が決して円滑にはこばなかったことは周知の事実として、江戸初期の朝幕関係を物語る格好の史料とされている。そして、後水尾天皇の再三にわたる拒絶とも解せられる譲位の意志を醜意させた、最後の詰めの段階での画策、奔走は幕府側では京都所司代板倉勝重と一外様大名の藤堂高虎であった。しかも、事の紛糾後はむしろ高虎の奔走が中心的役割を果したといえる。和子入内に至る経緯については、徳川家の正史ともいえる「徳川実紀」も何らふれず、元和六年五月八日の和子江戸出発より、六月十八日の入内当日の記事のみが華々しく記述されているのみである。和子入内は家康の遠望と秀忠の政略によるものであるが、詰めの段階での紛糾の解決についてはほとんど記述された論稿がない。ことに武家側の史料を根拠にした論稿は全くなかったともいえる。昭和五一年度の京都大学文学部研究紀要16号に、朝尾直弘氏が京大国史研究室蔵の「元和六年案紙」をもとにの発表せられたのが唯一のものといえる。同論稿は元和六年案紙を武家側当事者の有力な根本史料として、公家側の日記類に匹敵する価値ある史料として、史料考証をまじえながら、従来、明らかにされていなかった重要事実を説述している。本稿ではこの朝尾教授の学恩を蒙りつつ、畿内の数ある有力な親藩・譜代の大名を差しおいて、何故、一外様大名の藤堂高虎がこの難しい交渉の任に選ばれたかの疑問を追求してみることにする。
著者
緑川 明憲
出版者
慶應義塾大学国文学研究室
雑誌
三田國文 (ISSN:02879204)
巻号頁・発行日
no.42, pp.1-17, 2005-12 (Released:2005-00-00)

一 はじめに二 江戸時代の公家は本当に貧乏だったのか?(一) 文学作品にみる公家の生活(二) 歴史資料にみる公家の生活三 近衛家の家領四 伊丹とその繁栄五 近衛家の裕福な財政の背景(一) 伊丹の献上金など(二) 天英院・諸大名の「お手伝い」六 おわりに : 近衛家の繁栄
著者
冷泉 為人 Reizei Tamehito
出版者
神奈川大学21世紀COEプログラム
雑誌
立命館大学・神奈川大学21世紀COEプログラム ジョイントワークショップ報告書 『歴史災害と都市 -京都・東京を中心に-』
巻号頁・発行日
pp.21-28, 2007-02

Present Kyoto Imperial Garden was built comparatively newly.Many Imperial Courts' house was located centering on Kyoto Palace and Omiya Palace in Kyoto Imperial Garden till modern times. It was transfering the capital to Tokyo from Kyoto, and many Imperial Court moved to Tokyo in 1869. As a result, the circumference of Palace was improved and itbecame present Kyoto Imperial Garden.The Imperial Court town of the Edo period suffered a great deal of damage according to the fi re, the earthquake, etc.repeatedly. Especially the confl agration of 1708 burned the large area of the Imperial Court town and the circumference. The Imperial Court town was equipped with fi re extinguishingsystem and disaster prevention system after the confl agration of 1708.
著者
塚本 明 TSUKAMOTO Akira
出版者
三重大学人文学部
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-19, 2000-03-25 (Released:2017-02-17)

近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍の死もその対象となった。基本的には宮中及び京都周辺の社寺に限定して出され、朝廷行事や神事等がその間中断された。さて伊勢神宮に京都の「触穢令」が伝えられるのは宝永六年を初発とするが、これは触穢伝染を予防するためのもので、天保年間に至るまでは伊勢神宮・朝廷側ともに、京都の触穢が伊勢にも及ぶという認識はなかった。だが伊勢神宮を朝廷勢力に取り込む志向が強まるなかで、弘化三年時には朝廷は伊勢神宮の抵抗を押し切り、触穢中の遷宮作時を中断させるに至る。両者の対立の背景には、触穢間の相違に加え、神宮神官らが全国からの参宮客を重視したことがあった。
著者
塚本 明 ツカモト アキラ TSUKAMOTO Akira
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.A35-A50, 2004-03-25 (Released:2017-02-17)

近世の伊勢神宮門前町の宇治・山田における、死穢への意識とそれを忌避する作法の時期的変化を考察した。死穢は神社世界の触穢体系の中核を占め、これに触れた者は厳しい行動規制を強いられた。中世以来、為政者たちの死に際して、死穢が広く遍満したとして、朝廷から京都近辺と伊勢神宮を含む関係する寺院に「天下触穢令」が発令される場合があった。だがこれとは別に、伊勢神宮が独自に、宇治・山田市中に対して発令する「触穢令」が確認できる。神宮の服忌令によれば、宮地での変死体発見、「速懸」を行わずに死体を一昼夜放置した場合、火災における焼死の発生の際に、市中一体の触穢となった。だが一八世紀初頭を画期として、宇治・山田市中への触穢令は激減する。その要因は、触穢の発生を避ける作法が発達したことにあった。火災や水害で死者が出ても、それが直接の死因ではないとしたり、届け出方に工夫をこらしたりしたのである。また、死の発生地を縄や溝で囲んで、穢れが拡散しないようにする方法も一般化していった。先例を重視する神宮も、この時期には規定通りに触穢を適用することが困難であると認識していた。山田奉行も参宮客の意向を理由に、触穢適用の軽減を命じた。しかし、触穢において物忌らが神宮長官の触穢の判定に激しく異議を唱えたように、神官達内部で解釈をめぐり争われることもあった。判定をめぐる紛議でしばしば問題にされたのが、世間の評判、風説である。触穢の判定、死穢を避けられるか否かは、神宮に対する外界からの認識が影響した。 論説 / Article
著者
塚本 明 Tsukamoto Akira
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.15-34, 2010-03-28 (Released:2017-02-17)

「神仏分離」の歴史的前提として、近世の伊勢神宮門前町、宇治・山田における神と仏との関係を分析した。仏教を厳しく排除する原則を取る伊勢神宮であるが、その禁忌規定において僧侶自体を嫌忌する条文は少ない。近世前期には山伏ら寺院に属する者が御師として伊勢神宮の神札を諸国に配賦したり、神官が落髪する事例があった。神宮が「寺院御師」を非難したのは山伏らの活動が御師と競合するためで、仏教思想故のことではない。だが、寺院御師も神官の出家も、幕府や朝廷によって禁止された。宇治・山田の地では、寺檀制度に基づき多くの寺院が存在し、神宮領特有の葬送制度「速懸」の執行など、触穢体系の維持に不可欠な役割を果たしていた。近世の伊勢神宮領における仏教禁忌は、その理念や実態ではなく、外観が仏教的であることが問題視された。僧侶であっても「附髪」を着けて一時的に僧形を避ければ参宮も容認され、公卿勅使参向時に石塔や寺院を隠すことが行われたのはそのためである。諸国からの旅人も、西国巡礼に赴く者たちは、伊勢参宮後に装束を替えて精進を行い、一時的に仏教信仰の装いを取った。神と仏が区別されつつ併存していた江戸時代のあり方は、明治維新後の「神仏分離」では明確に否定された。神仏分離政策は、江戸時代の本来の神社勢力から出たものではなかった。 裏表紙からのページ付け
著者
山口 大輔(意眞)
出版者
龍谷仏教学会
雑誌
佛教學研究
巻号頁・発行日
no.67, pp.71, 2011-03-10 (Released:2011-07-05)
著者
福田 博同
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.A95-A110, 2010-03 (Released:2010-03-15)

図書館は「読む自由」を保証するため、すべての人に電子資料を含む図書館資料を提供する義務がある。図書館は今や、その電子資料を作る主体でもある。ICT の発達により「読書権」を保証する機会は拡大したが、その利用方法もアクセシビリティに配慮する必要がある。公立図書館の利用教育において、児童や障害者へのサービスは古くから取り組まれているが、重複障害者や高齢者への取り組みは緒に就いたばかりである。そのような現状において、公立図書館での利用教育の課題を分析し、インターネットによる図書館利用教育を中心として、あるべき方向を論ずる。