著者
北澤 毅 近藤 弘 佐々木 一也 有本 真紀
出版者
立教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本共同研究におけるテーマは、感情をめぐって、(1)発達・社会化、(2)文化的規範、(3)人間関係(解釈学の視点から)、(4)情操教育(音楽教育の歴史と現状)の観点に大別される。これらの観点から3年間研究を重ね、上記(1)〜(4)までの観点を、主に(a)理論的検討、(b)相互行為における子どもの泣き、(c)記憶と涙、(d)ジェンダーと涙という研究課題へと展開させた。その成果として研究協力者の協力を得つつ、下記構成のもとで報告書を執筆した。以下の成果が本研究のまとめとなる。第1部 問題設定と理論枠組第1章 本研究のねらい-「文化」概念に着目して-第2章 感情概念の捉え方の変遷-その社会性に着目して-第2部 相互行為における子どもの泣き第3章 発達という文化-保育実践における泣きの記述に着目して-第4章 園児間トラブルにおける保育士のワーク-<泣き>への対応に着目して-第5章 児童のく泣き>を巡るトラブルの構成-遊び場のフィールドワークから-第6章 「涙」をめぐる定義活動及び修復活動の開始と園児の「泣き」-「泣き始めること」と「泣き続けること」の相互行為分析-第3部 制度化された涙3-1.記憶と涙第7章 卒業式の唱歌-共同記憶のための聖なる歌-第8章 制度化された場面の感情喚起力-テレビドラマの分析を通して-3-2.ジェンダーと涙第9章 表象としての涙とジェンダー-絵本の表現技法の分析を通して-第10章 涙・泣きに関するジェンダー言説の分析補論関係性としての涙-哲学的考察-
著者
北澤 毅 有本 真紀 間山 広朗 間山 広朗
出版者
立教大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

教育の場において大人と子どもは非対称的な関係にある。そこには子どもへの<まなざし>ともいうべき文化的・社会的規範があり、それは教育事象自体を成り立たせているものである。本共同研究は主に社会構築主義・エスノメソドロジーの方法を駆使し、教育実践現場における相互行為場面から今日流通する教育言説、さらには歴史的資料までをも射程にとらえ、「子どもへの<まなざし>」に関する総合的研究を行った。
著者
北澤 毅 有本 真紀 間山 広朗 鶴田 真紀 小野 奈生子
出版者
立教大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2018-04-01

2018年度においては、研究実施計画に基づき、〈A〉「学校的社会化基礎研究」、〈B〉発達障害研究、〈C〉「尋常1年生の誕生」および「児童観」の変容に関する歴史社会学研究を行った。〈A〉については、社会化論に関する理論・方法論的研究として、構築主義と学校的社会化という観点から、逸脱と社会化に関する理論的方法論的な検討を行った。また、経験的研究として、関東地方の小学校・幼稚園、中国地方のこども園でのフィールドワークを実施した。その成果として、幼稚園の教育場面における学校的な相互行為形式や、成員カテゴリ-の使用のされ方に着目して、<園児であろうとする>子ども達の実践方法を分析した。〈B〉については、関東地方の小学校において特別支援教育に在籍している児童の観察調査や、小学校時代に特別支援学級から普通級に転籍した経験をもつ中学3年生に関するインタビュー調査を実施した。また、発達障害児に関してこれまでに収集した資料データの整理を行った。こうした調査、作業を通して、「逸脱」を構成する概念装置としての「発達障害児」に対する「子どもらしさ」の語られ方や、放課後児童クラブでの発達障害児支援における支援員の葛藤についての検討を行った。〈C〉では、近代学校開始以来、小学校への新規参入者が「児童になる」様相と、彼らをとりまく保護者や教員のもつ「児童観」の変容を歴史社会学の観点から明らかにした。また、これまでに収集した一次史料のデータベース化と分析を継続し、大正期になされた児童への評価から教師の児童観の検討を行った。以上の調査研究の進展に伴って、2018年度には、学会発表や学術論文に加えて、学校における教師の方法論を社会学的立場から描き出した編著(北澤・間山編)、および発達障害の社会学研究としての単著(鶴田)を公刊した。
著者
北澤 毅
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.59-74, 1998-10-20 (Released:2011-03-18)
参考文献数
17
被引用文献数
1

This paper argues about the possibility of discourse analysis from the point of view of social constructionism. Under this theory, social problems are defined as the activities of individuals or groups making grievances and claims with respect to certain putative conditions. Therefore, this theory “directs attention to the claims-making process, accepting as given and beginning with the participants' descriptions of the putative conditions and their assertions about their problematic character.”(Ibarra and Kitsuse 1993, p.28.)However, there is a criticism that regarding the claims-making process as given is ontological gerrymandering by constructionists, because claims-making activities are cast as having the same ontological status as the conditions claimed by members.But, according to Coulter, this paper asserts that claims-making activities or discourses and the objects indicated by them are not ontologically equal, and these things are shown by members' everyday practices themselves.Taking these methodological positions, this paper examines the 1997 Kobe murder case in order to figure out how the “juvenile” category has been used by members.For example, the 14-year old suspect in this case remained unnoticed and a month passed after he committed his second murder in May 1997 in spite of many possibilities that he could be recognized. The way members have used the “juvenile” category in everyday life made him visible but unrecognizable. Therefore, this murder case teaches us that the “juvenile” category should not be taken for granted and should be reconsidered all the time.
著者
北澤 毅
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.5-23, 2012

ある出来事が問題視されることが起点となって,その出来事をもたらした原因探求が開始される。原因探求は,問題事象を理解し解決策を検討するためであると同時に,問題事象をもたらした責任の所在を特定するための試みと考えられている。それゆえ原因探求に躍起となるのだが,そうした試みはしばしば泥沼化し,問題事象は混迷を深め悲劇をもたらすことがある。<BR> 本稿では,いじめ自殺と水俣病という,ほとんど無関係と思われる社会問題を対比させることで,「責任の根拠としての原因」という認識に導かれた言説実践がどのような現実を生み出してきたか,そして今も生み出しているかを明らかにしようと試みた。そのためにまずは,「意志と責任」「年齢と責任」「カテゴリーと責任」「偶然と責任」という視点から「因果関係と責任」の論理関係を検討することで,「責任の根拠として原因」という認識の論理的矛盾を明らかにした。と同時に,私たちの社会のなかで原因解明と責任追及がいかに実践されているかを言説分析の視点から解明することで「実践と認識の二重性」を指摘し,そうした二重性がもたらす困難を描き出すために,いじめ自殺と水俣病に見られる構造的同型性(=原因究明言説の隘路)を論じた。<BR> そして最後に,「責任の根拠としての原因」という認識がもたらす困難から脱却するための二つの方向性を示唆した。一つは,無過失責任論の可能性であり,もう一つは責任言説の再編可能性である。
著者
北澤 毅
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.38-54, 2017

<p>本稿の目的は, 教育社会学領域における構築主義研究の展開をレビューするとともに, 今後の課題を論じることである. そのためにまずは, 本稿における構築主義に対するスタンスを明らかにした. 簡潔に述べるなら, OG批判を受けて, 言説実践は実在するが, 言説が想定する社会問題の実在性は問わないという方法的立場を採用した. それを受けて「実在/構築」という分類軸を設定し, 教育社会学領域における構築主義研究の特徴と課題を浮き彫りにすることを目指した.</p><p>まずは構築主義前史として, 山村賢明と徳岡秀雄の研究に着目し, それらがどのような意味で構築主義の前史として位置づくかを論じた. そのうえで, 1980年代から始まる教育社会学領域における構築主義研究の系譜を, 教育問題の構築過程の研究と教育問題言説研究とに大別し, それぞれの研究系譜を「実在/構築」という軸から論じた. なかでも, 教育問題言説研究を, 言説とは別に状態の実在性を想定する「言説批判分析」と, 言説が現実を作り出すという言語論的転回以降の言説観に基づく「言説分析」とに峻別し, それぞれの特徴を論じることに力点をおいた. それを受けて最後に, 言説が現実を作るというテーゼは, 構築主義が研究対象とする日常生活世界に適用されるだけでなく, 構築主義研究それ自体にも当てはまることを強調し, 構築主義研究の発展のためには新たな分析概念の創出が不可欠であると論じた.</p>
著者
北澤 毅
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.5-23, 2012-06-15 (Released:2013-06-17)
参考文献数
24
被引用文献数
1

ある出来事が問題視されることが起点となって,その出来事をもたらした原因探求が開始される。原因探求は,問題事象を理解し解決策を検討するためであると同時に,問題事象をもたらした責任の所在を特定するための試みと考えられている。それゆえ原因探求に躍起となるのだが,そうした試みはしばしば泥沼化し,問題事象は混迷を深め悲劇をもたらすことがある。 本稿では,いじめ自殺と水俣病という,ほとんど無関係と思われる社会問題を対比させることで,「責任の根拠としての原因」という認識に導かれた言説実践がどのような現実を生み出してきたか,そして今も生み出しているかを明らかにしようと試みた。そのためにまずは,「意志と責任」「年齢と責任」「カテゴリーと責任」「偶然と責任」という視点から「因果関係と責任」の論理関係を検討することで,「責任の根拠として原因」という認識の論理的矛盾を明らかにした。と同時に,私たちの社会のなかで原因解明と責任追及がいかに実践されているかを言説分析の視点から解明することで「実践と認識の二重性」を指摘し,そうした二重性がもたらす困難を描き出すために,いじめ自殺と水俣病に見られる構造的同型性(=原因究明言説の隘路)を論じた。 そして最後に,「責任の根拠としての原因」という認識がもたらす困難から脱却するための二つの方向性を示唆した。一つは,無過失責任論の可能性であり,もう一つは責任言説の再編可能性である。