著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.35-54, 1988-03-30

Through out the 16th century and into the 17th century, Japan went through a period of a historic upheaval. Opinion is divided as to how to interpret this upheaval, but the dominant view is that the political power arriving afterwards established feudalism. During this period of great change, revolts called “ikki” broke out in various parts of the country. They arose especially in remote mountain areas and for this reason it has long been thought that these revolts were retarded ones caused by old rulers who mobilized peasants under their rule in order to maintain their retarded society, and that, in this sense, there is not much historical significance in these revolts. This paper intends to challenge thus accepted notion, focusing our attention on the fact that these revolts broke out in deep mountains and examining their historical significance.The paper has considered the cases of the Kitayama ikki in 1614, Shiibayama ikki in 1619, and lyayama ikki in 1620 as revolts in deep mountains in the early 17th century. What is common to all these theaters of revolt is, in the first place that the areas' economy was based on non-paddy farming, especially on slash-and-burn farming, in deep mountains. In the second place, these areas had been politically independent, considered as “area having no ruler”. Another common factor is that all the revolts were armed and ended in massacres.All these points suggest that these 17th century revolts were not the revolts of old rulers in retarded regions, but rather were an inevitable result of the process of ruling non-paddy cultivators of mountains by the unifying powers based on paddy cultivation in plains shown in the term “Kokudaka system”. Thus we can see the historical significance of these uprisings in the fact that they represented the resistance of mountain people to protect their own society.
著者
幡鎌 一弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.331-356, 2008-12

本稿は、十七世紀中葉における吉田家の活動を、執奏、神道裁許状、行法、勧請・祈祷、神学の五つに分類し、それぞれの実態と相互の関係を検討しながら、神社条目によって吉田家の神職支配が確立していった際の問題点を明らかにしたものである。以下、三点を指摘した。第一に、幕府が寛文五年に神社条目を発布したとき、吉田家の地方神職への支配は確実に広がりをみせていたが、吉田家は幕府が想定するほど朝廷内での地位を持ち合わせていなかった。そのため、従来の研究史では、吉田家の地位を過大評価することになり、執奏をめぐる争論の理解を不十分なものにしていた。第二に、従来の研究では、吉田家と地方との関係について、執奏や神道裁許状の発給による支配関係、身分編成に眼を奪われ、吉田神道の行法の広がりについて、十分理解できていなかった。このため、吉田家と地方大社の複雑な関係について、分析する視点を持ち得なかった。第三に、吉田家の神学の停滞があらわになり、神社祭祀(裁許状・行法の伝受)への特化を決定付けたのは、神社条目が発布された直後に神学への欲求の高まったことと、その発布に力を尽した吉川惟足の活動(講釈という手法)が大きく影響していた。
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.219-242, 2003-10-31

2000年11月,日本考古学は「前・中期旧石器遺跡」捏造事件の発覚という,未曾有の学問的・精神的打撃をうけた。事件発覚前に一部の研究者から疑いがかけられていたにもかかわらず,奏功せず,新聞社が隠し撮った映像によって初めて捏造を認めなければならなかった。日本考古学には偽造を見抜く鑑識眼,つまり資料批判の精神とそれを議論する諸条件が十分に発達していなかったと認めるほかない。ここでとりあげる日本の偽造例は,研究者による最初の調査と報告がずさんであったために,数十年にわたって,考古資料として通用してきたものである。イギリスのピルトダウン人骨事件をはじめとして,科学の世界,そして人間の社会には捏造は珍しくない。今回の捏造事件について真に反省する,再発を防止しようというのであれば,考古学の諸分野に適用できる鑑識眼を養成すること,偽造の鑑識結果を発表できる場を用意し,反論できなければ,それを素直に受け入れるという勇気と覚悟をもつことが必要である。偽造や誤断を指摘することが憚られるような学界や人間の気持ちをのりこえたところに,捏造事件後の日本考古学の未来は初めて開けてくるだろう。
著者
宇野 隆夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.377-430, 1997-03-28

中世的食器様式は,焼物・木・漆・鉄のように多様な素材を使用し,東アジア規模から1国規模以下までの様々な生産流通システムを経た製品から成り立っている。本稿は中世の人々がこの多様な種類・器種の食器にどのような意味を込めて使用したかを考えようとするものである。そのために食器を型式と計量という二つの方法によって分析し,その結果と出土遺跡の性質との関わりに着目した。型式については,貯蔵・調理・食膳の各用途を通じて,写しの体系の中にあるものと,ないものとに二大別した。写しの頂点にあるものは中国製陶磁器が代表的なものであり,日本製施釉陶器の多くと無釉陶器・土器・瓦器・木漆器の一部に写しの現象が存在する。これに対して基本的に写しの体系に加わらないか脱却傾向にあるものは,日本製土器・瓦器・無釉陶器・木漆器の多くである。これら写すか写さないかについては,種類・器種毎に明確な決まりがあったと考え得る。また年代的には,中世前期には写さない在り方が主流であり,中世後期には種類を越えた写しの現象が増加する。この大別を基礎とした計量と遺跡の性格との対比の結果から,他を写さず釉薬や漆をかけない土器・瓦器・陶器・木器類は宗教・儀礼的な意味を込めて使用したものであると考えた。その源流は王朝国家期の平安京中枢部における食器使用法にある。これに対して写しの体系にあるものは,品質の上下を問題とする身分制的な使用であると評価した。この使用法の源流も古代にあるが,武家が主導して復活させたと考えた。漆器は,この両分野にまたがり,かつ日常の食器の主役である。土器・瓦器の鍋・釜の多くは鉄製鍋・釜を写すが,構成比率が著しく低い場合が多く,土器食膳具と一連の使用法であったと推察した。中世的食器様式の多様性は,雑多な品々の寄せ集めの結果ではなく,様々な意味を与えて使い分けた結果であり,その様式構造の変化は社会構造の変化を的確に反映するものであったと考える。
著者
四柳 嘉章
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.29-47, 2018-03-30

本稿では中世的漆器生産へ転換する過程を,主に食漆器(椀皿類)製作技術を中心に,社会文化史的背景をふまえながらとりあげる。平安時代後期以降,塗師や木地師などの工人も自立の道を求めて,各地で新たな漆器生産を開始する。新潟県寺前遺跡(12世紀後半~13世紀)のように,製鉄溶解炉壁や食漆器の荒型,製品,漆刷毛,漆パレットなどが出土し,荘官級在地有力者の屋敷内における,鋳物師と木地・塗師の存在が裏付けられる遺跡もある。いっぽう次第に塗師や木地師などによる分業的生産に転換していく。そうしたなかで11~12世紀にかけて材料や工程を大幅に省略し,下地に柿渋と炭粉を混ぜ,漆塗りも1層程度の簡素な「渋下地漆器」が出現する。これに加えて,蒔絵意匠を簡略化した漆絵(うるしえ)が施されるようになり,需要は急速に拡大していった。やがて15世紀には食漆器の樹種も安価な渋下地に対応して,ブナやトチノキなど多様な樹種が選択されるようになっていく。渋下地漆器の普及は土器埦の激減まねき,漆椀をベースに陶磁器や瓦器埦などの相互補完による新しい食膳様式が形成された。漆桶や漆パレットや漆採取法からも変化の様子を取り上げた。禅宗の影響による汁物・雑炊調理法の普及は,摺鉢の量産と食漆器の普及に拍車をかけた。朱(赤色)漆器は古代では身分を表示したものであったが,中世では元や明の堆朱をはじめとする唐物漆器への強い憧れに変わる。16世紀代はそれが都市の商工業者のみならず農村にまで広く普及して行く。都市の台頭や農村の自立を示す大きな画期であり,近世への躍動を感じさせる「色彩感覚の大転換」が漆器の上塗色と絵巻物からも読み解くことができる。古代後期から中世への転換期,及び中世内の画期において,食漆器製作にも大きな変化が見られ,それは社会的変化に連動することを紹介した。
著者
福原 敏男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.117, pp.251-268, 2004-02

嘉永五年(一八五二)六月三日夜より三夜連続して、兵庫津の二七の町々(現在の神戸市兵庫区の二六町と中央区の相生町に相当する)が雨乞を目的として、西国街道を舞台に一大灯火行列を繰り広げた。本稿では、その光と色彩と音のページェントともいうべき造り物風流を取り上げて、その風流史的意義について考察する。雨乞というと連想されるのは修験者の祈禱など、すぐれて宗教的な行為である。しかし、本稿で取り上げる雨乞は、危機儀礼というにはあまりに華美であり、新出の『嘉永五子年六月 福原雨乞記』(神戸市立博物館蔵)の挿絵を見ると、あたかもテーマパークにおけるイベント・パレードを見るような、心うきうきする楽しさがある。それはまた、観客の視線を意識した祭礼行列のようでもある。同書巻末によると、惣人数一万三百人あまり、ほかに北浜と南浜の町より加勢人足約五〇〇〇人、松明一二〇〇、半鐘四〇七、太鼓三〇四、大釣鐘四、八丁鉦三〇、法螺貝六三、弓張提灯七一二〇が参加したと記される。一般的に、村落の雨乞いの方法として、村中の人々が鉦・太鼓・法螺貝などを鳴らしながら、松明を持って行列を作って氏神などを出発して村を一周し、近くの霊山に登り、河原に降りてきて松明を積んで燃やす千本松明行事が知られる。兵庫津の事例はその都市版と想定できるが、兵庫津の内でも、農民が集住する「地方十八町」のうち一六町が参加しており、日照りは農業にとって深刻であったことをうかがわせる。稲の生育期の旧暦六月初旬における降雨の多寡は、稲作にとって死活問題だからである。毎年繰り返される年中行事と異なり、雨乞のような一回性の臨時の行事においては、殊に、各町の創意工夫が発揮され、まさに風流の精神が溢れ出る行事ともいえよう。Starting on the third day of June 1852, the 27 machi of Hyogotsu (currently the 26 machi in Hyogoku and Aioi-machi in Chuo-ku, Kobe City) took part in a grand lantern procession along the Saigokukaido in which they prayed for rain. This paper looks at this refined "tsukuri-mono", which may also be described as a pageant of light, color and sound.The practice of praying for rain is associated with prayers by mountain ascetics, and as such is an exceedingly religious practice. However, the practice of praying for rain described here is too ostentatious for a ritual performed at a time of crisis, and from the illustrations contained in the newly found "Fukuhara Record of Prayers for Rain in June 1852" it is a lively and entertaining procession of the kind one would see at a parade at a theme park. It resembles a festival parade that is aware of the gaze of onlookers.At the end of this document it is recorded that a total of more than 10,300 people took part in the procession, as well as 5,000 helpers from Kitahama and Minamihama, 1,200 torches, 407 small hanging bells, 304 drums, 4 large hanging bells, 30 "hatcho" bells (usually attached to the body), 63 conch shells and 7,120 hand-held lanterns. The method of praying for rain for the villages involved the villagers using the bells, drums, conch shells, etc. to produce noise at the same time as they were forming a procession in which the participants held torches as they departed from the site of the tutelary deity, completing a circuit of the village, climbing a nearby sacred mountain, descending to the banks of a river where they gathered the torches together in a bundle and burned them in a practice known as the "thousand torches" (senbon shomei). We may assume that this example from Hyogotsu was an urban version, although peasants living in 16 of the 18 towns in the area within Hyogotsu took part in the procession, which suggests the seriousness of the continued dry weather for fanning. For rice cultivation, the amount of rain that falls in the beginning of the sixth month following the lunar calendar when the rice is starting to grow is a matter of life or death.Unlike the annual events that are repeated each year, practices like praying for rain that are special one-off practices display the creativity of each town and truly exhibit the spirit of refined practices (furyu).
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.208, pp.143-164, 2018-03-09

縄文時代の関東地方の後期初頭には,多数の遺体を再埋葬する多数合葬・複葬例という特殊な墓制が存在する。このような事例は,再埋葬が行われた時期が集落の開設期にあたる,集落や墓域において特別な場所に設けられている,幼い子供は含まれない,男性が多いといったいくつかの特徴が指摘でき,現在までに6遺跡7例が確認されている。このような墓制は祖霊祭祀を行う際に「モニュメント」として機能したと思われるが,同様の意味を持ったと思われる事例は,福島県三貫地貝塚や広島県帝釈寄倉岩陰遺跡などでも確認されており,時期や地域を越えて確認できる墓制だと思われる。従来,同様の事例とされてきた千葉県下太田貝塚から検出された3例を今回検討したところ,下太田貝塚の事例はいずれも,「モニュメント」としての意義をもつ多数合葬・複葬例の特徴に該当しないことがわかった。このことから,筆者は下太田貝塚の事例は,「モニュメント」としての意義は持たず,単に遺体を集積し「片付けた」ものと判断した。また,縄文時代の後半期には墓を含む大型の配石遺構などが「モニュメント」化し,祖霊祭祀の拠り所となるものが多くなるが,このような多数合葬・複葬例もその文脈の中で理解できると思われる。すなわち,縄文時代の後半期においては,集団関係の新規作成や集団統合・紐帯強化のための一つの手段として,人骨および墓の利用が行われるようになり,「記念墓」がその新しい集団の「シンボル」・「モニュメント」となるような状況が創出された。その精神的・技術的背景には,系譜関係の意図的切断・統合といった,系譜的な死生観の応用が存在する。大規模な配石遺構も含めて,シンボル化した「モニュメント」において祖霊を祀ることによって,さらなる集団関係が再生産されていくとともに,何故に自分たちがそこに存在し,各種資源を優先的に使用するのかという正統性を表示・再確認することになる。そこには新たな「伝統」の確立が意図されており,祖霊観の存在および祖霊祭祀の意義を読み取ることが可能である。
著者
瀬口 眞司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.208, pp.191-213, 2018-03-09

関西地方の縄文社会の地域的特色,それを醸し出した要因や背景を問うた。議論のポイントは,〈資源の収穫期間の長さ〉と〈資源利用の方向性と強化の程度〉である。そこで,出土堅果類,打製石斧数,磨製石斧数,堅果類貯蔵量の数量的分析などを行った。結果,東日本に比べ,遺跡出土の堅果類はより多様で,収穫期間もより長く,集約的な労働編成の必要性が低かった可能性を改めて見いだした。また,土地・森林の開発強化には消極的で,資源利用の強化の程度も低く抑えられていたことも見いだせた。関西縄文社会の集団規模は極小さく,求心的な社会構造も生まれていないが,それは資源環境が貧しいからではなく,集団の求心性よりも世帯の自律性が優先され続け,社会の階層化や財・権力の集中にブレーキをかける仕組みが保持されていたからであり,収穫期間がより長い森林資源環境が,その地域的特色の維持を支えていたと考えられる。
著者
岡 惠介
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.319-355, 2003-03-31

本稿は,北上山地の山村における藩政時代以来の森林利用を,商品生産や生活のための利用などに分類しながらその実態を洗い出したものである。商品生産のための利用としては,藩政時代にその起源が求められる養蚕,狩猟,たたら製鉄,牛飼養,大正から昭和初期以降の枕木生産,製炭,昭和30年以降のパルプ・用材生産がある。年間伐採量を推定すると,森林に与えるダメージが大きかったといわれているたたら製鉄用の製炭による森林伐採は,昭和期の製炭やパルプ・用材生産のための森林伐採に比べればその規模は小さい。また,たたら製鉄は三陸沿岸に比較的多く,製塩の燃料用木材の伐採も同様で,北上山地の中央部では大規模な伐採はなかった。製炭による大規模な森林伐採は,昭和10年ごろからの自動車道路の開削によってスタートし,途中からパルプ・用材生産に移行しながら,林道の延長・整備によって昭和60年代まで継続し,安家の主たる生業の位置にあった。この50年以上にわたる森林伐採に耐えうる大径木の豊富な森林は,安家川中下流域では,たたら製鉄衰退後の明治から大正期に蓄積され,また上流域では藩政時代以来の蓄積によるものであったと考えられる。生活の中では様々な森林の植物が利用され,資源の枯渇を招くような採取はみられず,また道具類の素材になる性質・形状をもった野生植物が,巧みに利用されてきた実態が浮かび上がってきた。また信仰儀礼のための森林資源の利用が多く,山村の人々の心の部分においても,森林の資源が欠かせなかったことが確認できた。現在の森林利用の重要なものに燃料としての利用があり,未来にむけた循環型社会のモデルとして,山村の薪の伝統的な利用形態を支えていく地域のシステム作りが必要であると考えられる。
著者
和田 晴吾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.247-272, 2009-03-31

古墳での人の行為を復元し,遺構や遺物を検討することで,前・中期の古墳を,遺体を密封する墓としての性格と,「他界の擬えもの」としての性格の,二つの面から捉えようと試みた。この段階では,人は死ぬと魂は船に乗って他界へと赴くとされたが,遺体は棺・槨内に密封され,そのなかで生前のような生活を送るとは考えられなかった。奈良県巣山古墳で発見された船は,実際の葬送の折に,魂が他界へと旅立つ様子を現実の世界で再現するためのものだった。他界の内容は,船に乗って他界へと至った死者の魂は,くびれ部の出入口で船を降り(船形埴輪),禊をし(囲形埴輪),斜面を登った岩山の頂上の防御堅固で威儀を正した居館に棲むが,そこは飲食物に満ち,日々新たな食物が供えられるといったものだった。葺石や埴輪や食物形土製品は他界を演出するための舞台装置や道具立てで,中期中・後葉には,これに人物・動物埴輪が加わった。しかし,横穴式石室が採用されると地域差が顕在化する。後期に石室が普及した畿内では,石室は「閉ざされた棺」を納める「閉ざされた石室」で,遺体は,前代同様,棺内に密封され,玄室内は死者の空間とはならなかった。墳丘に人が登らなくなり,舞台装置や道具立ては形骸化しだしたが,古墳は「他界の擬えもの」として存続し,石室は「槨」的な性格を受けついだ。一方,中期に石室が採用されだす九州北・中部では,石室は「開かれた棺」を備える「開かれた石室」で,そこは死者が生前と同じような生活を続ける空間となった。その場合,家形埴輪とは別に死者の棲む家が用意されるが,玄室の天井が天空を表しそのなかに家形の施設を配する場合と,玄室空間そのものを死者の宿る家とする場合とがあった。『古事記』の黄泉国訪問譚の舞台は前者にあたる。ここでは,墳丘上の他界と,石室内部の他界の,二つの性格の異なる他界が入れ子状態で共存した。このような棺や石室の系譜は,中国の北朝や高句麗の一部に求めることができる。
著者
横山 泰子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.43-55, 2012-03-30

江戸時代に日本で作られた手品の解説本の中には、手品のみならずまじないの情報が掲載されている。こうした記事は手品史の観点からはあまり注目されないが、奇術と呪術が渾然一体となっていた当時の人々の感覚を知るうえで面白い研究対象といえる。本論では、中国の『神仙戯術』の翻訳からはじまる近世日本の手品本を概観し、その中に記されたまじないを取り上げた。初期の『神仙戯術』や『続神仙戯術』は、手品をはじめ、呪術や生活術などを集めている。もともと中国でも、種や仕掛けを用いて不思議な現象を見せる娯楽としての手品と、まじない等の情報が混在していた。日本の手品観は、中国の手品観の影響を受けていると思われる。また、中国の呪術と似たものが日本の本にも見られるので、文献を通じて中国のまじないが日本人の日常生活の中に浸透していったと考えられる。ただし、まじないの方法には日中で異動がある。外国の呪術は、日本の生活環境にあうよう、改変されて伝えられたのだろう。本来まじないは口頭で秘密裏に伝えられるものだったと考えられるが、江戸時代においては生活上の実用的な知識として本に記されて流布した。奇しくも、まじない本や手品本、占い本等のいわゆる「秘術」を公開する文献は、十七世紀後期に刊行されはじめる。この時期を日本における秘術公開時代の幕開けと考えてみたい。手品本のまじないは、先行の呪術系の書物に類似するものが見られる。専門書の中のまじないの情報が、手品本の中に流入していったものと思う。手品本に記されたまじないには、呪歌を伴うものや、書記行為を伴うものがある。近世日本では、十七世紀から民衆の識字率が向上したが、そうした社会的背景が、手品本の存在や字を書くまじないのあり方と関係している。行為者の能力や資質にあわせて、様々なまじないができるようになっているところに、江戸時代のまじない文化の大衆性を感じる。
著者
五十川 伸矢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.46, pp.p1-79, 1992-12

鋳鉄鋳物は,こわれると地金として再利用されるため,資料数は少ないが,古代・中世の鍋釜について消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の資料を集成した。これらは,羽釜・鍋A・鍋B・鍋C・鍋I・鉄鉢などに大別でき,9世紀~16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,古代には羽釜と鍋Iが存在し,中世を通じて羽釜・鍋A・鍋Cが生産・消費されたが,鍋Bは14世紀に出現し,次第に鍋の主体を占めるにいたるという,器種構成上の変化がある。また,地域によって異なった器種が用いられた。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・鍋A・鍋Bが併用されたが,その他の西日本の各地では,鍋A・鍋Bが主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて鍋Cが主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具も,ここでは鉄仏や鉄鉢のように鋳鉄で製作されることもあった。また,近畿地方の湯立て神事に使われた伝世品の湯釜を,装飾・形態・銘文などによって型式分類すると,河内・大和・山城などの各国の鋳造工人の製品として峻別できた。その流通圏は中世の後半では,一国単位程度の範囲である。こうした鋳鉄鋳物を生産したのは,中世には「鋳物師」と呼ばれる工人であった。鋳造遺跡の調査成果から,銅鉄兼業の生産形態をとるものが多かったことが想定できる。また,生産工房は,古代には製鉄工房に寄生する形態をとるが,中世には鋳物砂の産地周辺に立地する場合が多い。中世後半には都市の周縁に立地するものも現われた。生産に必要な固定資本の大きさから考えて,商業的遍歴はありえても,移動的操業は少なかったものと推定できる。
著者
高橋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.147-164, 2002-03

近世史研究にあって身分制度については、長く硬直的な理解がつづいた。士農工商の身分制度が厳しく守られ、特に武士と百姓・町人間の身分移動はあり得ないというのが通説であった。しかし、村落史、都市史研究の進展の中から家や家族史研究の深化によって、身分間移動を示す史料の事実が明らかにされつつある。本稿が取り上げる北関東上州の在郷町桐生新町の織屋吉田家に江戸の武家株売買、譲渡に関する数点の文書を見出した。吉田家では武家株を買収して武家身分に上昇することはなかったが、これらは巨大政治都市江戸に生まれていた武家株売買の状況を示す実に貴重な情報史料である。売り物として登場する武家株は、「矢の根とぎ御用達」(蔵前取五九俵)代金六五〇両、打物御用達(三〇人扶持)一二五〇両の二株である。また、何百、何千両の大金が動く売買譲渡の手続きについては詳細な取り決めを定めており、紛争を回避する手段が講じられている。多くは買い手が売り手の家の養子となって継嗣するため、売り手側の借金の有無、扶養家族の有無によって金額、支払い手続きに様々な工夫がなされている。苟も御家人株とはいえ、幕臣の一翼を担い、それなりの由緒を誇りに世襲を原則とする武家が、金銭によって売買、取り引きされていることにまず驚かされる。このような事実をどのように理解すべきなのか、幕藩体制の内実を揺るがす事態ではないのか。先祖伝来の武家身分を株として売っても生計を立てねばならない窮迫せる武士と、経済的な実力を背景に金にものをいわせて由緒ある武家身分を手にいれようとする町人・百姓身分が存在したことは事実である。近世の身分の内実はどうであったのか、幕藩制の総体の理解にかかわって武家株売買の実態は究明されねばならない。In the study of near modern history, the understanding of the class system has long been inflexible. A common view was that there was rigid demarcation among the classes of warriors, farmers, artisans and tradesmen. They considered it impossible to change in social standing, particularly between warriors and farmers/townsmen could occur.However, deeper studies of family history as a result of advanced studies of village history and urban history have gradually clarified the fact from the historical materials that indicate the mobility between different social standings.At the Yoshida family, a weaver in a zaigo-cho Kiryu-shinmachi in Joshu (North Kanto) that the paper considers, the writer found several pieces of documents regarding the stock trades and transfer by samurai families in Edo.Although the Yoshida family did not rise to the status of warriors by acquiring samurai family stocks, these historical materials give us very important information about the real situation of exchanges of samurai family stocks that were already on the market in the political megalopolis Edo.The two following stocks appeared on the market : "Yanonetogi goyo-tashi" (Kuramaedori 59 bags of rice) for the price of 650 ryo and "Orimono goyo-tashi" (a ration for 30 persons) for the price of 1250 ryo. There were detailed arrangements for the procedures of trades and transfer in which a great deal of money was dealt with, and measures to avoid conflicts were devised. In many cases, as buyers would succeed the family of the seller as an adopted son, various means were contrived for the amount and payment procedures, depending whether sellers had debts or not, or whether they had a family to support or not.Furthermore, it is surprising that the title of the samurai family, which played the role of a vassal of the Shogun and continued to exist based upon heredity with a pride of its own lineage, was traded with money. How should we understand the situation like this? Wasn't it the case that shook the foundation of the Tokugawa Shogunate system?The real situation was that two classes existed : the warriors, who suffered from financial difficulties and had to sell their status as samurai inherited for generations in the form of stocks for a living, and townspeople and farmers, who tried to acquire the traditional status of samurai by resorting to their financial power, namely, money.To know about the real conditions of social classes in the early modern times, the real face of the samurai family stock trade should be clarified in relation to the understanding of the Tokugawa Shogunate system as a whole.
著者
平川 南
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.118, pp.253-281, 2004-02-27

中世の幕府は、なぜ鎌倉の地に設置されたのか。おそらくは、鎌倉の地を経由する海上ルートは、中世以前に長い時間をかけて確立されてきたものと想定されるであろう。小稿の目的は、この歴史的ルートを検証することにある。最近発見された、三浦半島の付け根に位置する長柄・桜山古墳は、三浦半島から房総半島に至る四〜五世紀の前期古墳の分布ルートを鮮やかに証明したといえる。また、八〜九世紀には、道教的色彩の強い墨書人面土器が、伊豆半島の付け根の箱根田遺跡そして相模湾を経て房総半島の〝香取の海〟一帯の遺跡群で最も広範に分布し、さらに北上して陸奥国磐城地方から陸奥国府・多賀城の地に至っている。また古代末期の史料によれば、国司交替に際しても、相模―上総に至る海上ルートが公的に認められていたことがわかる。このルートは『日本書紀』『古事記』にみえるヤマトタケルの〝東征〟伝承コースと符合する。これは古東海道ルートといわれるものである。上記の事例の検討によって、ヤマトから東国への政治・軍事・経済そして文化などの伝来は、古墳時代以来伊豆半島・三浦半島・房総半島の付け根と海上を通る最短距離ルートを活用していたことが明らかになったといえる。この西から東への交流・物流の海上ルートの中継拠点が鎌倉の地である。中世の鎌倉幕府は、そうした海上ルートの中継拠点に設置され、西へ東へ存分に活動したと考えられる。
著者
荒川 章二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.35-63, 2008-12

本研究は、日清戦争期・日露戦争期を通じて、地域ぐるみの戦死者公葬がいかに形成されていくのかを主題としている。地域ぐるみの戦死者葬儀の性格をどうとらえるかは、まだ通説が形成されておらず、「公葬」の定義に関しても論者毎に区々である。この様な研究の現状に対し、本研究では、両戦争期の個別の葬儀事例をいくつか検討し、葬儀執行に関わる地方団体の規程の成立、葬儀の主要な参加者(知事、郡長、市町村長、議員、学校長など)、葬儀費用の徴収法、弔慰料贈与規程の設定、葬儀執行の会場(小学校校庭など)などに注目し、戦死者葬儀が、両戦争期にどのように公的な性格を獲得していくかを跡づけた。後の日中戦争期と異なり、この時期の戦死者に対する地域ぐるみの葬儀に対しては、公費支出は許可されなかったが、葬儀費用も準公費として徴収されており、執行の内実も公葬として位置づけられるという点が、本稿の主張である。さらに何よりも、主催者、あるいは葬儀の記録者自身が、「村葬」などと称し、公葬として自己認識していた。本研究では同時に、葬儀執行の前提となる、戦死者の遺体の処理、遺骨・遺髪の受領とその際の駅頭などでの出迎え、遺族に対する戦死の通報のパターンと通報文の内容、葬儀の際の弔辞の文面などにも注目した。両戦争期のこの時期に、「名誉の戦死」「英霊」「軍人の本分」などの国家的・軍人的価値意識が、どのような経路と舞台装置を介して地域に浸透していったのか、メディアとしての戦死者公葬の意義を明らかにするためである。葬儀は何れも数百人から二〇〇〇人にも及ぶ地域未曾有の葬儀参加者を集めて執行され、特に次代を担う小学校児童の参加が重視された。国民の戦争・軍事認識形成に果たした戦死者葬儀の役割を、より多面的に解明していく必要があると思われる。This is a study of the creation of a tradition of regional public war dead memorialization in Meiji Japan in the period spanning the Sino-Japanese and Russo-Japanese Wars. There is little consensus among researchers as to the characteristics of regional public war dead memorialization, nor is there a definition of "public war dead memorialization" agreed upon by most researchers.In light of the current state of scholarship regarding this topic, this study examines: several cases of public war dead memorialization during the period of the two wars; the formation of regional associations to carry out these memorial ceremonies; the types of individuals who participated in the ceremonies (e.g., prefectural governors, mayors, elected legislators, school principals, etc.); the collection of funding for the ceremonies; the establishment of guidelines for the offering of condolence money (to survivors, etc.); and venues for memorial ceremonies. It also traces the process by which this type of ceremony took on an increasingly official character during the period of these wars. Unlike the practice that began with the later Sino-Japanese War (1937-1945), these regional ceremonies were not initially supported by official public funds. Nevertheless, this study maintains that funds for the memorial services were collected in a semi-official manner, and that the services were for all intents and purposes official public events. The use of terms such as "village funeral" by organizers and others recording accounts of the services at the time confirms that the participants themselves recognized them as official public events.This study also examines other practices related to these funeral services, such as: processing of the mortal remains of war dead; the receiving of cremated ashes or ihatsu (locks of hair of the deceased) and the associated "welcome receptions" for same at hometown train stations; protocols for the reporting of war deaths and the text typically used in these reports; and written eulogies. One goal of this research is to shed light on the significance of public war memorialization ceremonies as media events, as well as to examine them as channels and "stage management" of the regional dissemination of nationalistic and militaristic values as evidenced by the use of terms such as "honorable combat death", "heroic war dead", and "soldierly duty" during the period of the two wars. Public war dead memorialization ceremonies inevitably involved processions of hundreds and sometimes as many as two thousand participants ― mourner numbers unprecedented for funeral services in regional venues. Particular emphasis was placed on participation in these ceremonies by elementary school students who would become the next generation of soldiers. Such a multifaceted research approach is desirable for examining the role played by war memorialization ceremonies in the formation of ideas about war and the military in Japanese popular consciousness.
著者
義江 明子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.49-77, 2009-03-31

金石文に立脚した記紀批判・王統譜研究を前進させるためには,氏族系譜の系譜意識を視野にいれ,かつ,刻銘の素材にこめられた観念と銘文を総合的に考察する必要がある。そこで,最古の氏族系譜である稲荷山鉄剣銘に焦点をあて,鉄剣に系譜を刻む意味を,銘文構成上重要な位置にあると推定される「上祖」の観念とその歴史的変化に注目して分析し,以下の四点を明かにした。①上祖は「始祖」とは異質の祖先表記で,七世紀末以前の地位継承次第タイプの系譜冒頭に据えられた祖である。「上祖」が「始祖」表記に移行するのは書紀編纂の頃である。②銘文刀剣を「下賜」という上下の論理のみで読み解くことには疑問がある。稲荷山鉄剣銘文は,王統譜接合以前の,「上祖」を権威の淵源とする原ウヂの側の自生的な系譜伝承世界をうかがわせる貴重な資料である。③七支刀の象嵌界線に顕著なように,刀剣の形状・呪力と刻銘内容は一体不可分である。鉄剣の鎬上に系譜を刻む行為には,霊剣の切先に天の威力を看取する神話,後世の竪系図の中央人名上直線との類比からみて,重要な信仰上の意味がある。④稲荷山鉄剣系譜を神話的系譜観の観点から考察すると,「地名+尊称」の類型的族長名をつらねた部分は,ウヂ相互の同時代における現実の同盟関係(ヨコの広がり)をタテの祖名連称(ウヂの歴史)に置き換えたものと推定される。これは,祖父―父―子という時系列血統観による父系系譜とは,全く異質の系譜観である。ここから,首長層の共有する観念世界をとりこみつつ,それを超越するものとして王統譜が形成され,七世紀末~八世紀初にかけて時系列直系血統観への転換がはかられることを見通し的に述べ,あわせて,歴史認識における〈始まり〉の設定,系図を通して過去と向き合う〈姿勢〉についてもふれた。