著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.180, pp.107-128, 2014-02-28

洛中洛外図屏風歴博甲本は、現存最古の洛中洛外図屏風として知られているが、制作された目的や、発注者については明らかでなく、作者についても定説を見ない状況が続いていた。これに対して筆者は、描かれた事物の分析によって、室町幕府の実権を握る細川高国が、将軍足利義晴のために御所を自邸の付近に造り、家督を嫡子稙国に譲ったことを契機として、絵師狩野元信に発注した、という仮説を立てた。しかし、発表後に、これに対する批判も出されたため、今回の共同研究での成果も踏まえて、それらについて検討を行なった。描かれた将軍御所が何であるかは、年代や制作目的の鍵となる問題だが、筆者が想定したとおり、細川高国が造った「柳の御所」であることが、文献史料の再検討から確定し、発注者は、細川高国ないしその周辺であることが明らかとなった。作者については、土佐派とする説は積極的な根拠がなく、狩野松栄とする説も時代的に無理があって、画風からも歴史的背景からも、美術史のこれまでの通説通り、狩野元信周辺に求めるのがやはり妥当である。筆者の説を否定する立場の黒田日出男氏は、この間いくつかの論考を発表しているが、結果的には筆者の説とほとんど変わらないものとなっており、異なる部分については黒田氏の方が誤っていることを指摘した。筆者の解釈や記述にも誤りや不十分な点があったが、本共同研究をはじめとするこの間の研究の進展で、総体的には学界としての定説に近づいていると言える。
著者
菊池 勇夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.23-41, 2008-03

『松前屏風』は、地元の絵師小玉貞良が蝦夷地の場所を請け負う商人の依頼によって、18世紀半ば頃の松前藩の城下町(福山)の景観を描いたものである。この屏風の読解の1つの試みとして、唯一アイヌの人々が描き込まれている松前来訪の部分に焦点をあててみた。彼等は毎年5月前後に艤装した船で蝦夷地各場所から貢物を持ってきて、沖の口番所近くの浜辺に、円錐状の丸小屋と呼ばれる持ち運び可能な仮設の住まいを作り、そこに滞在した。屏風にはアイヌの乙名(オトナ、村の長)らが松前藩主に謁見するために、藩士(通詞)に案内されて丸小屋から松前城に向かうところが描かれている。近世初期、松前城下はアイヌの人々が蝦夷地から盛んにやってきて交易(=ウイマム)する場であった。1640年代頃より商場知行制が展開してくると、松前の船が蝦夷地に派遣されるようになり、アイヌの城下交易は衰退を余儀なくされた。1669年のシャクシャインの戦い以後、このウイマム交易は松前藩によって御目見儀礼に変質させられ、松前藩の政治的支配の浸透として理解されている。しかし、見方を変えてアイヌ側からこの18世紀の御目見儀礼を捉えるならば、アイヌ側の主体的な意思もまた汲み取ることができるのではないか、というのが本稿の主眼である。18世紀末になると、松前城下からアイヌの丸小屋の風景が消えていく。それはどのように評価すべきことなのか。おそらくはシャクシャインの戦い以後の近世中期的な松前藩とアイヌの関係の終焉を意味していたに違いない。"Matsumae-byobu" is a folding screen depicting a castle town (Fukuyama) in Matsumae-han during mid-eighteenth century. Matsumae painter, Teiryo Kodama drew this screen being asked by Oumi-merchant who was in charge of Ezo trading. In order to understand this screen, I examined the Matsumae arrival section which exclusively depicted Ainu people.Ainu people transported articles of tributes from all parts of Ezochi on a rigged ship every year around May. They built a mobile cone-shaped shack for temporary dwelling and stayed on a beach near the customs office (Okinokuchi-bansho). This shack was a necessity for Ainu people's traveling. On the screen, there is Otona, Ainu's head of village, and others who are guided by Matsumae clansman (translator) to Matsumae castle from their shacks. After entering the castle, they met the lord of Matsumae-han and given products such as rice, liquor and tobacco.During early modern period, Matsumae castle town were often visited by Ainu people from Ezochi for trading called Uimamu. During 1640's trading post fief system (Akinaiba-chikousei) had spread and trading ships from Matsumae were sent to Ezochi. This invited the decline of Ainu trading in the castle town. After the 1669 war of Shakushain, Uimamu trading has been changed into Omemie (Uimamu) audience ritual by Matsumae-han and we understand that this shows political dominance over Ainu. However, when we consider this phenomenon from Ainu's point of view, eighteenth-century Omemie audience ritual may have subjective intention of Ainu people. I will explore this issue in this paper.In the late eighteenth century, Ainu shacks disappear from Matsumae castle town. How do we evaluate this? Probably, this suggests the end of Matsumae-han and Ainu relationships during the eighteenth century.一部非公開情報あり
著者
植野 弘子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.377-411, 1992-03-31

本稿は、台湾漢民族における死霊と土地の超自然的存在との関連についての一試論である。漢民族においては、祖霊と死霊は明確に区別されている。死霊―「鬼」は、子孫をもたず、あるいはこの世に恨みを残して死んだものであり、冥界で不幸な境遇にあるとされる。こうした「鬼」はこの世にさまよい出で人々に不幸を振りまくことになる。しかし、「鬼」は可変的性格をもち、祖先にも神にも変化する存在である。これまでの研究においては、「鬼」は霊的世界のアウトサイダーであり、「鬼」を無体系なものとみなしてきた。しかし、「鬼」はけっして混沌たる世界を漂漾しているのではない。人と「鬼」との交信には「鬼」を統轄する神々が登場する。この神々は陰陽両界に関わるとともに「地」に関わる神であり、「鬼」が昇化して神になったものもいる。落成儀礼〈謝土〉において、人は建造物を建てた土地から邪悪なものを払い、その土地を「陰」の世界の土地の持ち主〈地基主〉から買い取らねばならない。〈地基主〉とは、かつての土地の持ち主で死後その霊がその土地に残ったものとされている。つまり「鬼」であり、「鬼」が土地の主となるのである。土地は「陰」から「陽」の世界のものとなって初めて人が住むのにふさわしいものとなる。土地は陰陽の両界をつなぐ場である。人と死霊は「地」に関わる超自然的存在によって媒介され、人はその住む地によって冥界と切り放せない現世を知るのである。漢民族は冥界をこの世と同様にリアルに描いている。そして、冥界と地とを結び付けることによって、また「鬼」という浮遊性をもつ超自然的存在に一定の秩序を与えることによって、人が他界を生活の中に感じ、また解釈を与えているのである。
著者
高橋 晋一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.221-237, 2015-02-27

本稿の目的は,阿波踊りにおける「企業連」の誕生の経緯を阿波踊りの観光化の過程と関連づけながら検討することにある。とくに,阿波踊りの観光化が進み,現代の阿波踊りの基盤が作られるに至る大正期~戦後(昭和20年代)に注目して分析を行う。大正時代には,すでに工場などの職縁団体による連が存在していた。またこの頃から阿波踊りの観光化が始まり,阿波踊りを会社,商品等の宣伝に利用する動きが出てきた。昭和(戦前)に入ると阿波踊りの観光化が進み,観光客の増加,審査場の整備などを通して「見せる」祭りとしての性格が定着してくる。小規模な個人商店・工場などが踊りを通じて積極的に自店・自社PRを行うケースも出てきた。戦後になるとさらに阿波踊りの観光化・商品化が進み,祭りの規模も拡大。大規模な競演場の建設と踊り子の競演場への集中は,阿波踊りの「ステージ芸」化を促進した。祭りの肥大化にともない小規模商店・工場などの連が激減,その一方で地元の大会社(企業)・事業所の連が急激に勃興・増加し,競演場を主な舞台として「見せる」連(PR連)としての性格を強めていった。こうした連の多くは,企業PRを目的とした大規模連という点で基本的に現在の企業連につながる性格を有しており,この時期(昭和20年代)を企業連の誕生・萌芽期とみてよいと思われる。なお,阿波踊りの観光化がさらに進む高度経済成長期には,職縁連(職縁で結びついた連)の中心は地元有名企業から全国的な大企業へと移っていく。阿波踊りの観光化の進展とともに,職縁連は,個人商店や中小の会社,工場中心→県内の有力企業中心→県内外の大企業中心というように変化していく。こうした過程は,阿波踊りが市民主体のローカルな祭り(コミュニティ・イベント)から,県内,関西圏,さらには全国の観光客に「見せる」マス・イベントへと変容(肥大化)していくプロセスに対応していると言える。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.17-44, 2003-10-31

東日本の弥生文化は西日本からの影響のもとに形成されるという観点が,これまでの研究の主流を占めてきた。しかし,東日本における弥生文化の形成は,西日本からの一方的な影響だけで説明できず,地域相互の絡み合いの中から固有の地域文化が成立してきたという視点が重視されつつある。本稿は弥生文化圏外の北海道を中心として展開した続縄文文化である恵山文化ならびにそれに先立つ時期の文化と中部日本の弥生文化との地域を越えた相互交流を,墓制を構成する文化要素を中心に経済的側面をまじえて考察した。東日本の縄文時代から弥生時代に至る経済的,文化的な画期は,①縄文晩期後葉の大洞A式期に稲作を含む西日本の新たな文化の情報を獲得し,②縄文晩期終末の大洞A´式に続く砂沢式期,すなわち弥生Ⅰ期に水田稲作を導入し,試行錯誤を経て③弥生Ⅲ期に大規模な水田の経営を達成する,というように概括できるが,そうした諸段階と連動するかのように,北海道と中部日本の弥生文化には遠隔地間の相互交流が認められる。①,②の画期には,恵山文化およびそれに先立つ時期の墓に中部日本の再葬墓に付随する要素が認められる一方,恵山文化で発達した剥片や小型土器の副葬が中部日本に認められ,そうした交流を経て③の画期には再葬墓に特有の顔面付土器の要素が恵山文化に受容された。弥生Ⅲ期は東日本で本格的な農業集落が成立した大画期であり,弥生Ⅳ期にかけての太平洋沿岸では北海道から駿河湾に及ぶ交流を,土器の動きや回転式銛頭の南下・北上から跡づけることができる。北方系文化が南関東の農業集団の漁撈活動に影響を与えていたことと,農耕集落の組織編成が漁撈集団との関わりのなかで進行した可能性が指摘できるのも重要である。こうした稲作以外の面での相互交流が道南地方と中部日本の間に築かれていたことは,恵山文化の性格のみならず,東日本の弥生文化の性格を理解する上でも看過できない点である。
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.173-249, 1985-03-25

This paper describes and analyses ancestor worship in Japanese family, especially Ihai (memorial tablet of ancestors) cult. In the Japanese family, various forms of ancestor worship is practiced traditionally and briskly. These ancestor worship is practiced every day and special events in the year. There are various types of ancestor worship in Japan, feneral and grave system, succession system of ancestor's personal name, mourning rule, and fukudanka system (double affiliation system to the family temple) are some example. Among the various types of ancestor worship, I analysed the succession system of ancestor's personal name (UENO 1982, Structure of personal names and family types in Japan., in Review of economics and political science, Meiji University, vol. 50, No.5-6, pp. 249-321.). This paper has very much to do with my previous paper.In this paper I attempt to clarify the relationship between ancestor worship and family structure typologically. In the other paper, I classfied Japanese family typologically into four types from family construction, and three types from familty structure. (UENO 1984, Family structure in Japan, in Nihon Minzokubunka Taikei (An Outline of Japanese Folk-culture), vol. 8, pp. 409-454.). Four types of family construction are as follows. (1) Extended family type, (2) Stem family type, (3) Family type with inkyo system (inkyo is domestic residential separation system into some smaller units in the family), and (4) Nuclear family type. Three types of Family struction are as follows. (1) Patrilateral family, (2) Patrilateral conjugal family, and (3) Bilateral conjugal family.The data on which this paper is based were collected by my fieldwork from 1970 to 1983 and from various reports and papers by Japanese folklorist, anthropologist and sociologist. I analysed these data from two points. First point is form of memorial tablet, for example shape, material, site in the house etc, and rule of cult. Second point is kinship relationships between ancestors which is worshipped by memorial tablets and living members of the family, especially family head. Then I classfied Japanese ihai cult into three types. First type is Patrilineal type. In this type Fa (father), Mo (mother), Fa Fa, Fa Mo, Fa Fa Fa, Fa Fa Mo of family head is worshipped by the memorial tablet in the same family. Second type is Bilateral Type. In this type Fa and Mo, Fa Fa and Fa Mo, Mo Fa and Mo Mo, or wife's Fa and Mo of family head are worshipped in the given family. Third type is intermediate type of the two types. In this type, Mother's parents or wife's parents are worshipped temporarily in the family. In many areas this type of ihai cult is called Ihaiwake.In conclusion, the relationship between types of ihai cult and family structure is as follows. family types types of ihai cult(1) Extended family type (1) Patrilineal type(2) Stem family type (2) Ihaiwake type(3) Family type with inkyo system (3) Bilateral type(4) Nuclear family type
著者
黒田 篤史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.202, pp.225-242, 2017-03-31

柳田國男の記念碑的著作『遠野物語』の一一二話に考古学的な記述があることは、これまであまり注目されてこなかった。本稿はこの『遠野物語』一一二話の成立過程とその背景を明らかにすることで、柳田國男の考古学的関心について考察するものである。『遠野物語』の成立に最も深く関与しているのは、話者である佐々木喜善の語りである。本稿では、一一二話に何が記されているのかを紐解いた後、佐々木の語りの原形を探るため、彼が少年時代に採集した考古遺物のリストである『古考古物號記』を読み解いた。そこには、佐々木が主に地元で採集した遺物の地点やその形状などが記されていて、一一二話の内容と大まかに一致する。また佐々木が後年著した「地震の揺らないと謂う所」にも考古学的記述があり、佐々木が柳田に一一二話の元になる話を語った意図を見出すことができた。このように佐々木の語りの原形を明らかにしていくことで、佐々木の語りの意図は必ずしも『遠野物語』一一二話に反映されていなかったことが見えて来た。このズレを生んだのは、柳田の意図が介在したためである。柳田の意図はどこにあるのか、佐々木に聞き書きを行っていた頃に柳田によって著された「天狗の話」や「山民の生活」に、その答えを見出すことができた。柳田は鎌倉時代頃まで少なくとも東北地方には先住民にあたる「蝦夷」と「日本人」は隣接する地域に併存していたという先住民観を持っていた。そうした考え方が『遠野物語』一一二話に色濃く顕れていることが、これらの文献を比較することで明らかとなった。本稿の検討から、柳田の考古学的関心は、日本人と先住民の関係を探るために寄せられていたことがより明白となった。
著者
森栗 茂一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.67, pp.245-265, 1996-03-29

東北の河原町の特色一般に、日本のマチ場は河原や坂に位置するという。ここでは、東北のさまざまな城下町の河原に位置する町について検討した。日本の川は、勾配が急なため、また局地的な降水のため、広い河原が存在する。近世の都市においては、これを河川改修することで、城下町を建設してきた歴史がある。そうした河原町には、次の三つの歴史展開のケースがある。 ① 下級武士の住宅地としての歴史をたどったもの。現在も住宅地。 ② 城下町の武士の町と町人の町の境界の川にそった所にあり、現在も盛り場になっている。 ③ 城下町から出た街道が、城下町の端の川を渡頭のターミナルとして展開したもの。現在でも、職人町・在郷商人町となっている。弘前、盛岡、会津若松、仙台など、ある程度以上の規模の城下町では、こうした、町外れの河原の町が存在していた。なかでも、仙台の河原町周辺は、飢饉のときの餓死者を処理し、供養する場であった。また、被差別の人々、流浪芸人・障害者が集まっていた。河原である限り、差別された「河原者」と関わる歴史がある。仙台では、その差別をストレートに記述している資料があることに問題を感じる。一方で、仙台ではそうした差別の歴史を隠したり排除するのではなく、彼らの存在も、地域の特色の一つとして肯定的に受け止める姿勢がある。これは、差別の現実が眼前にあり、かつそうした差別記述を隠そうとする西日本の伝承の状況と異なっている。
著者
東 潮
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.31-54, 2004-02-27

『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」,同倭人条の「南北市糴」の記事について,対馬・壱岐の倭人は,コメを売買し,鉄を市(取)っていたと解釈した。斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で,5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで,倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によってえていた。鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から,それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものであった。5世紀末ごろ倭に移転されたとみられる製鉄技術は,慶尚北道慶州隍城洞や忠清北道鎮川石帳里製鉄遺跡の発掘によってあきらかとなった。その関連で,大阪府大県遺跡の年代,フイゴ羽口の形態,鉄滓の出土量などを再検討すべきことを提唱した。鋳造斧形品は農具(鍬・耒)で,形態の比較から,列島内のものは洛東江下流域から供給されたと推定した。倭と加耶の間において,鉄(鉄鋌)は交易という経済的な関係によって流通した。広開土王碑文などの検討もふまえ,加耶と倭をめぐる歴史環境のなかで,支配,侵略,戦争といった政治的交通関係はなかった。鉄をめぐる掠奪史観というべき論を批判した。
著者
黒田 智
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.127-151, 2004-03-01

勝軍地蔵とは、日本中世における神仏の戦争が生み出した軍神(イクサガミ)であった。その信仰は、観音霊場を舞台に諸権門間の対立・内紛といった戦争を契機として誕生した。そして征夷大将軍達の物語とともに、その軍神(イクサガミ)的性格を色濃くしていった。多武峯談山神社所蔵「日輪御影」は、いわば勝軍地蔵誕生の記念碑的絵画であった。「日輪御影」は、応長・正和年間(一三一一〜一二)に、興福寺との合戦に際して戦場となった多武峯冬野における日輪出現と、その周辺の観音勝地で起こった三神影向伝説を絵画化したものである。画面下方に描かれた束帯に甲冑を着した三眼の異人は、良助法親王と推測され、彼が喧伝した勝軍地蔵を想起させる。画面上方の円光中に描かれた藤原鎌足像は、三眼の異人と対をなして勝軍地蔵の化身として配置されている。また画面上部に描かれた三つの円光は太陽・月・星であり、山王三聖信仰を背景とする三光地蔵の表象である。「日輪御影」に表された勝軍地蔵信仰の世界観は、三光の多様な言説を背景として、鎌倉中期から南北朝期にかけて浮上する太陽・日輪の文化の急速な波及と密接に関わっている。太陽・日輪イメージは、勝軍地蔵信仰と結びつくことで、戦う神仏のイデオロギー・武威のシンボルへと収斂していたのである。こうした太陽・日輪イメージは、天空における太陽の月・星に対する優位性が日本という国家・国土の優越性に準えられた思想であった。それは、日本の神仏の優位性を主張し、日本という国土を神聖化し、日本を仏教的コスモロジーの中心に位置付けようとする運動であった。勝軍地蔵信仰は、同時代の中世的国家・国土観念と不可分な結びつきをもちながら、後代に少なからぬ影響を及ぼしていったのである。
著者
関 周一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.237-259, 2018-03

本稿は、中世日本における外来技術の伝来に関して、それを可能にするための条件ないし背景や、伝来技術の移転についての試論である。第一に、国家や地域権力といった公権力が、技術の伝来に果たした役割を考察した。古代においては、律令国家が遣唐使を派遣して、選択的に技術を導入した。中世においては、国家が技術導入を主導することは少なかった。中国人海商が博多に結桶をもたらした事例のように、民間交流によって技術が伝来し、博多という都市の住民の需要に応じて、技術が受容された。一六世紀前半、戦国大名による職人の編成が進んだ。小田原北条氏が奈良や京都の職人を招き、豊後府内の大友館の周辺には職人が居住した。種子島時尭は、配下の刀鍛冶に鉄砲の製造を命じた。第二に、伝来した技術の移転について、鉄砲の事例から考察した。文之玄昌『鉄炮記』では、種子島から畿内への鉄砲伝来の経緯について、(1)鉄砲と火薬の製法・発射方法が、根来寺に伝わった段階、(2)鉄砲の生産技術が、堺に伝わった段階という二段階が描かれていた。「南蛮鉄砲」を将軍に献上した豊後府内の大友義鎮は、将軍足利義輝の所持品である鉄砲を模倣製造することを命じられ、鉄砲の生産を開始した。第三に、種子島に鉄砲生産の技術が伝来した背景となる海上交通や貿易について考察した。一六世紀前半、日向国〜種子島〜琉球との間には、活発な交流があった。種子島と琉球との貿易は、一五一〇年代ころから始まっていた。種子島忠時は、琉球国王尚真から、船一艘の荷物への課税を免除された。日向国では、島津忠朝(島津豊州家)が遣明船の警固や造船を行い、琉球と頻繁に交渉していた。油津にある臨江寺の玄永侍者は、琉球出身であった。遣明使鸞岡省佐は、琉球国の人が明で自分のことを聞いたという話を、日向国で聞いている。This article examines the conditions, or background factors, for the introduction of foreign cultures as well as the transfer of imported technology in medieval Japan.Firstly, this article analyzes the role of public authorities such as state and regional authorities in the introduction of foreign cultures. In ancient times, the ritsuryō state dispatched diplomatic missions to the Tang Dynasty and selectively brought back technology. In medieval times, however, the state did not play a leading part in the import of technology. As illustrated by an example of yuioke (hooped wooden buckets) brought to Hakata by Chinese marine traders, technology was introduced through commercial interaction and selectively accepted depending on the demand of residents in Hakata.In the early 16th century, artisans were organized by daimyō warlords. For example, the Odawara Hōjō family invited artisans from Nara and Kyōto. The Ōtomo family also had craftsmen live around their residence in Funai, Bungo. Tanegashima Tokitaka ordered his swordsmiths to produce muskets.Secondly, the transfer of imported technology is examined by using the spread of musket-making technology as an example.Teppōki (Record of the Musket), written by Bunshi Genshō, describes the transfer of musket-making technology from Tanegashima Island to the Kinai region in two stages: (1)introduction of musket-making technology and firing procedures and gunpowder formula to Negoro-ji Temple and (2) introduction of musket-making technology to Sakai.Ōtomo Yoshishige from Funai, Bungo, paid a tribute of Western muskets to Shōgun Ashikaga Yoshiteru. Ordered to produce muskets modeled after one possessed by the shōgun, Yoshishige started the production of muskets.Thirdly, marine transport and trade are examined as a background factor for the introduction of musket-making technology to Tanegashima Island. The first half of the 16th century saw active interaction among Hyūga, Ryūkyū, and Tanegashima.Trade between Tanegashima and Ryūkyū started around the 1510s. Shōshin, the King of Ryūkyū, exempted Tanegashima Tadatoki from customs duties for a ship of cargo.In Hyūga, Shimazu Tadatomo (the Hōshū branch of the Shimazu clan) had his people escort vessels sent to the Ming Dynasty as well as build ships. He also established close relationships with Ryūkyū. An attendant of Genei of Rinkō-ji Temple in Aburatsu came from Ryūkyū. Moreover, Rankō Zuisa, a Japanese envoy dispatched to the Ming Dynasty, heard in Hyūga that someone from Ryūkyū heard about him in Ming China.
著者
福原 敏男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.45, pp.p257-325, 1992-12
被引用文献数
1

一つ物と称する稚児や人形がお渡りする祭礼がある。従来民俗学ではこれをヨリマシ(憑坐・依坐)・ヨリシロ(憑代・依代)と解釈してきた。それに対して、本稿では近畿・九州地方の事例を中心に検討することによって一つ物を再考する。一つ物は平安末期に畿内の祭礼において、馬長(童)が田楽・王の舞・獅子舞・十列・巫女神楽・相撲・競馬・流鏑馬という当時の典型的な祭礼芸能の構成に組み入れられることによって成立した。その成立の場は、宇治・春日・祇園・稲荷・今宮・日吉などの祭にある。一つ物は中世に畿内の祭礼・法会芸能から各地へ、天台―日吉社系の神事芸能構成の一つとして、あるいは八幡社放生会系の神事芸能構成の一つとして伝播した。各地に土着した一つ物は、中世祭祀組織や宮座が解体・変質すると多くのものは消えていった。一つ物はもともと若者や大人も勤め、その生命は意外性や目立つ趣向にあった。しかし、一つ物は祭という同一の形が繰り返される行為のなかで、芸もなくマンネリ化がすすみ多くのものは飽きられて消えていった。そのなかで、稚児や人形が動員されることによってのみ愛でられ命脈を保ち得た。一つ物は元来神賑であったので行列に参加する宗教的意味は希薄で、近代になって民俗学者により憑坐と解釈された。一つ物の本質が、本来の俗(渡り物の一種)から聖(神霊の憑坐)へと解釈されていき現在の定説となっている。一つ物はその発生の平安期の祭礼において、すでに神輿とともに登場している。神学的にいうなら神は神輿にのって御旅所にお渡りするのに、何故別に憑坐に神を憑らせなくてはならないのだろうか。「一つ物」の「一つ」は、数詞とともに一番という順序の意味もあり、一番最初にお渡りをする、一番目立つ、という二つの意味があるのではないか。一つ物の本質は、渡り物・神幸・神のみゆき(お渡り)・渡御・行列(パレード)における風流なのである。In some festivals, a child or doll called "Hitotsumono" passes in the procession. In folklore, this has been conventionally interpreted as Yorimashi or Yorishiro (an image into which the divine spirit enters). As against this, this paper reviews the Hitotsumono by investigating examples mainly in the Kinki and Kyûshû Districts. The Hitotsumono came into being in the late Heian Period in the festivals of the Kinai Region, when a horse driver (a child) was brought into the framework of then typical festival entertainments, such as Dengaku (ritual music and dancing performed in Shinto shrines and Buddhist temples), O-no-mai (King's Dance), Shishimai (ritual lion dance), Seinoo (Court dance performed at the Kasuga shrine), Mikokagura (shrine maidens' music and dancing), Sumô (wrestling), Kurabeuma (horse racing), and Yabusame (horseback archery). The Hitotsumono appeared in the festivals of shrines at Uji, Kasuga, Gion, Inari, Imamiya, and Hie. The Hitotsumono spread from these festivals in the Kinai Region in the early Middle Ages, to various parts of the country, as one of the entertainments for divine service connected with the Tendai-sect and Hie-Shrine, or as one of the entertainments for divine service connected with the Hachiman-Shrine Hôjôe (Buddhist ceremony in which captured animals and fish are released to fields, mountains, ponds or marshes). Many of the Hitotsumono, which became established in various areas, disappeared when the framework of the festivals of the Middle Ages and the Miyaza (local organizations for festivals) were dissolved, or changed in quality. The Hitotsumono was, originally, performed also by young people and adults, and its existence depended on unexpectedness and eye-catching ideas. However, in the repetition of the same acts in festivals, the Hitotsumono became stereotyped with no special art, and most of them lost popularity and disappeared. Only Hitotsumono which brought a child or a doll into the performance remained in existence. The Hitotsumono was originally a medium, so its participation in a parade had no religious meaning. In the Modern Age, folklorists came to consider it as an image into which the divine spirit enters. The interpretation of the essence of the Hitotsumono shifted from that of its original secular existence (a type of performance in the parade) to a sacred one (an image into which the divine spirit enters); the latter is the commonly accepted opinion at the present. The Hitotsumono already existed in festivals in the Heian Period, together with Mikoshi (portable shrines). From the theological viewpoint, the question is why a god should have to rest on a separate image, though the god passes to Otabisho (the resting place) by a portable shrine? "Hitotsu" of the Hitotsumono is not a cardinal number, but an ordinal number. It seems to have two meanings; the Hitotsumono passes by first, and it is the most conspicuous. The essence of the Hitotsumono is the elegance of the procession, the divine presence, the divine visit, or passage, or parade.
著者
大本 敬久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.191, pp.137-179, 2015-02

祖霊観念は日本人の間に抱懐されているものであり,民俗学の重要な課題とされてきた。柳田国男は『先祖の話』の中で「三種の精霊」として祖霊,新仏,無縁という異なる精霊の存在を提示し,盆行事に関する研究や正月の前後に行われる魂祭を研究する一つの指標とされてきた。本稿ではまず「祖霊」の用例を検討してみたが,柳田は「祖霊」の語彙を積極的には用いておらず,三種の精霊についても柳田は「みたま」を基本語彙として説明している。この「祖霊」を以て様々な民俗事例や歴史上の文献史料を解釈していくことは危険であり,その認識に立った上で平安,鎌倉時代における暮れの魂祭に関する文献史料,『枕草子』や『徒然草』等を確認した。また,これらの文献に見られる御魂祭と東日本に広く伝承されている「みたまの飯」については多くの研究者が関連づけて記述してきたが,本稿での検討の結果,正月が「祖霊」を祀る日であったわけではなく,少なくとも,そう遠くない直近の死者の魂が帰ってきて,食物を供えて饗応する日だったと考える方が適当であることを指摘した。そして平安,鎌倉時代に行われていた魂祭と現在の東日本の「みたまの飯」が時代的に連続しているという説にも再検討が必要である事を指摘した。そして,現在の正月とその前後に行われる死者霊の供養や祭祀について,東日本の「みたまの飯」,中国地方の「仏の正月」,四国地方の「巳正月」など,正月から死者供養などの儀礼を避けてきた結果,日本列島の中で正月前後の魂祭や死者供養の民俗に地域差が生じている事を明確にした。このように本稿は列島の民俗事例を俯瞰することで明らかになる地域差を提示した上で,歴史史料も積極的に援用し,比較検討を進めるという試論であり,列島の民俗分布をもとにどのような歴史的展開や社会的要因が背景としてあったのかを考察するという新たな比較研究法の提示を試みるものである。The concept of ancestor spirits cherished by the Japanese has been considered as an important issue in folklore studies. In his book "Senzo no Hanashi" (Story of Ancestors), Kunio Yanagida suggested the existence of three spirits: the spirit of an ancestor, the spirit of the newly deceased, and the spirit of the deceased who left no relatives behind. His theory has served as a basis for subsequent studies on the Bon Festival and the Mitama Festival (ancestral worship rituals in August and around January, respectively). First, this article examines the terminology of the word "ancestor spirit." The word was hardly used by Yanagida, who collectively called the three spirits "mitama" (the spirit of the deceased). In fact, it is often inappropriate to interpret folklore phenomena or historical documents with the concept of ancestor spirits. While keeping this in mind, this paper studies historical documents regarding the Mitama Festival at the end of each year in the Heian to Kamakura Period (794-1333), such as "Makura no Soushi" (The Pillow Book) and "Tsurezuregusa" (Essays in Idleness). The Mitama Festival described in these materials is related by many researchers with the New Year's offerings to mitama (ancestor spirits) in eastern Japan; however, after careful examination, this article points out that the New Year's Day was a day to make offerings to the spirits of the newly dead coming back to this world, rather than to honor the spirits of ancestors. Moreover, this article casts doubt on the view that the Mitama Festival in the Heian to Kamakura Period was transmitted without any interval to the present custom of the New Year's offerings to mitama in eastern Japan. Moreover, this paper indicates that differences between regions across Japan in ceremonies and rituals to remember the deceased around January, such as the New Year's offerings to mitama in eastern Japan, hotoke no shogatsu (a ritual after the third day of the New Year to remember the dead) in the Chugoku Region and mi-shogatsu (a ritual on the day of the Snake in early December to remember the dead) in the Shikoku Region, were caused by the reluctance of people to remember the deceased on the New Year's Day. Thus, indicating regional differences by taking a global view of folklore phenomena all over Japan, as well as actively referring to historical documents, this paper presents a preliminary analysis based on comparison. More specifically, this paper suggests a new comparative study method to clarify the background factors, such as historical movements and social effects, based on the analysis of folklore distribution in the country.
著者
藤沢 敦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.365-390, 2013-11

古墳時代から飛鳥時代,奈良時代にかけての,東北地方日本海側の考古資料について,全体を俯瞰して検討する。弥生時代後期の様相,南東北での古墳の築造動向,北東北を中心とする続縄文文化の様相,7世紀以降に北東北に展開する「末期古墳」を概観した。さらに,城柵遺跡の概要と,「蝦夷」の領域について文献史学の研究成果を確認した。その上で,日本海側の特質を太平洋側の様相と比較しつつ,考古資料の変移と文献史料に見える「蝦夷」の領域との関係を検討し,律令国家の領域認識について考察した。日本海側の古墳の築造動向は,後期前半までは太平洋側の動向と基本的に共通した変化を示すことから,倭国域全体での政治的変動と連動した変化と考えられる。ところが後期後半以降,古墳築造が続く地域と途切れる地域に分かれ,地域ごとの差違が顕著となる。終末期には太平洋側以上に地域ごとの差違が顕著となる。時期が下るとともに,地域独自の様相が強まっており,中央政権による地方支配が強化されたと見なすことはできない。続縄文文化系の考古資料は,日本海沿いでは新潟県域まで分布し,きわめて遠距離まで及ぶ。また海上交通の要衝と考えられる場所に,続縄文文化と古墳文化の交流を示す遺跡が存在する。これらの点から,日本海側では海上交通路が重要な位置を占めていた可能性が高く,続縄文文化を担った人々が大きな役割を果たした可能性が指摘できる。文献史料の検討による蝦夷の領域と,考古資料に見られる文化の違いは,ほとんど対応しない。日本海側では,蝦夷の領域と推測される,山形県域のほぼ全て,福島県会津盆地,新潟県域の東半部は,古墳文化が広がっていた地域である。両者には,あきらかな「ずれ」が存在し,それは太平洋側より大きい。この事実は,考古資料の分布に見える文化の違いと人間集団の違いに関する考えを,根本的に見直すことを要求している。排他的な文化的同一性が先に存在するのではなく,ある「違い」をとりあげることで,「彼ら」と「われわれ」の境界が形成されると考えるべきである。これらの検討を踏まえるならば,律令国家による「蝦夷」という名付けは,境界創出のための他者認識であったと考えられる。Archaeological evidence from the Kofun period through to the Asuka and Nara periods, discovered in the districts bordering the Japan Sea in the Tohoku region, was examined comprehensively. Particularly, the following four points were examined to give an overview: 1) aspects of late Yayoi period; 2) the construction trends of kofun (ancient burial mounds) in the southern Tohoku region; 3) aspects of post-Jomon culture centering on the northern Tohoku region; and 4) "kofun in the terminal stage" developed from the 7th century onward in the northern Tohoku region. Moreover, concerning an outline of the josaku (government fortification) sites, and the Emishi territories, the author confirmed the study results of historical bibliographies. Based on this acknowledgement, while comparing the characteristics of Japan Sea side districts with the Pacific seaboard districts, the relation between a change in archeological evidence and the Emishi territories found in historical bibliographies was examined, and then the perception of domains by the national administration promoting the ritsuryo codes was considered.Up until the first half of the late Kofun period, construction trends of kofun in the Japan Sea side districts basically show similar variations to those seen in the Pacific seaboard districts; for this reason, it can be considered such changes were made in conjunction with political transformation throughout Japan. However, after the second half of the late Kofun period, regions can be classified into two types – regions with the continued construction of kofun, and those with no construction – giving obvious differences among regions. At the terminal stage, regional differences became more noticeable compared to the Pacific seaboard districts. Closer to our own times, aspects unique to a region were strengthened; therefore, it cannot be considered that local control by the central government was strengthened.Archaeological evidence of post-Jomon culture found in the Japan Sea side districts is distributed up to the Niigata Prefecture area, which ranges over a considerable distance. At those places considered to be important for sea traffic, sites are found that indicate the interchange of post-Jomon culture and kofun culture. These points offer the strong possibility that sea lanes were in an important position on the Japan Sea side districts, along with a possibility that those people who led the post-Jomon culture played a major role in this positioning.The Emishi territories found through examination of historical bibliographies hardly corresponds to the cultural differences seen in the archaeological evidence. In the Japan Sea side districts, almost the entire area of the Yamagata Prefecture, Aizu Basin in the Fukushima Prefecture, and the eastern half of the Niigata Prefecture, all of which are assumed to be the Emishi territories, were areas where kofun culture was spread. There is a clear difference between them, which is larger compared to the Pacific seaboard districts. This fact demands the fundamental reconsideration of the current concepts concerning cultural differences found from distribution of archaeological evidence and differences among human groups. Exclusive cultural identity does not come first; it should be thought that a boundary between "them" and "us" is formed by focusing on any perceived "difference." Based on these examinations, it is possible to consider that the term "Emishi" as used by a nation promoting the ritsuryo codes was coined from a particular perception of another group to create a boundary.
著者
原田 信男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.497-515, 1997-03-28

基本的に人々が共同で飲食する場合には,それぞれの構成員の身分や社会関係などが,席次や食事内容などに反映されることが多い。さまざまな身分の人間を抱えて催される祭礼や儀式などでは,特に複雑な人的構成を持つことになるが,同一な身分集団の場合には,比較的単純に同じものを同時に体内に取り込んで,誓約などを行い集団としての精神的な一体化が図られることになる。前者の場合には,同じような食物でも内容を変え,同じ場所であっても主席からの遠近を違え,または時間を微妙にずらすことによって,全体としての共同性を保ちながらも,内部でそれぞれの差異を強調して,参加者の身分関係が表現されていた。また後者の場合には,一致団結して強硬な行動に出る一揆などの際に,一味神水などと称して神聖な神の水を一同が一気に飲む,という一種の誓約行為が採られたのである。小稿では,こうした共同飲食の在り方のうち,特に前者について,①神と天皇,②天皇と貴族,③貴族と武士,④将軍と大名,⑤在地領主と農民,⑥有力農民と一般農民,といったレベルで検討する。すなわち,それぞれのケースについて,古代から中世にかけての身分秩序の在り方が,祭礼や儀礼の際における共同飲食の場に,どのように反映するのかを見ていくこととしたい。さらに儀式などの際に,身分の高い者から低い者への食物贈与である〝下し物〟を中心に分析すると同時に,さまざまな贈答儀礼の中に,武力の誇示や衣食住などの保障を象徴するような構造があることに注目する。しかも,上記のような儀式が,それぞれ単独に完結しながらも,実際には重心円的な構造を持って関連し合い,古代もしくは中世社会の身分秩序が,全体として維持されていたことが重要である。
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.67, pp.95-136, 1996-03

本稿は都市空間の広場に関する共同研究の一つとして、山岳寺院都市を対象に、日本の都市空間の原初形態を抽出したものである。その基本的な山岳寺院都市とは高野山であり、この山中における不思議な空間構成を分析してみると、いわゆる伽藍などが集中する宗教施設ゾーン、院や坊舎など宗教者が居住し、その生活を支える庶民によってつくられたマチ域の日常生活ゾーン、そして高野山が霊山である所以ともなっている墓所の霊園ゾーンの三つの空間(ゾーニング)があることを指摘した。盛時には約二万人を擁した、この密教寺院の都市には、今日で言うところの都市性の要因がいくつも見られる。まず、僧侶とその生活を支える商人や職人と、常時、多くの参詣者を集めていることによって、旅行者を絶えず抱えており、滞留人口がかなりの数にのぼること。次に、密教というか修験道文化がもつところの技術ストックがあり、古代中世の先端技術を推進してきた場であること。それは社会的施設である上下水道設備などにも反映している。さらに参詣者のための名所、旧跡などの見学施設やその他の遊興施設、仕掛けが充実しており、そこには非日常的な色彩表現があって刺激的であること。そして、出入りが激しいことから情報集積の場としても、この山地都市が機能していることなどの都市性を見出すことができる。このような高野山の空間構造と類似の山地都市として、能登の石動山をはじめ、北九州の英彦山や越前の平泉寺などがあげられる。そして、ここでいう山地都市構造は、近世初頭の城下町にも、ゾーニングを踏襲した形跡が見られる。柳田國男は「魂の行くへ」のなかで、江戸の人々が盆に高灯篭をかかげて祖霊を呼び寄せた習俗にちなみ、そこには山を出自とする都市民の精神構造、すなわち山中他界観について触れている。従って、山地都市は近世以降の各地の都市構造の原点として位置づけることができるのではなかろうか。A work of the joint research project dealing with the hiroba (square) of urban space, this paper focuses on mountain temple towns to extract the archetype of the Japanese metropolis. The monastic complex at Mt. Kōya (Kōyasan), Wakayama Prefecture, is the archetypal mountain temple town. An examination of its curious spatial composition shows it to be divided into three different spaces (zones) : the main temple zone where several important temple structures are clustered ; the everyday-life, "town" (machi) zone with living quarters for priests and for the common people working to sustain the priest's livelihood ; and the cemetery zone for which Kōyasan is famous as one of the most sacred mountains in Japan.This esoteric Buddhist temple complex, populated by some 20,000 at its peak, displayed several factors that made it a city in the contemporary sense of the term. First, the number of those living or staying there was―and still is―very large, including priests, merchants and artisans who provided for their daily needs, and many pilgrims. Second, Kōyasan had a rich stock of know-how developed through esoteric Buddhism, or rather the Shugendō (mountain religion) culture, thus promoting the advanced technology of ancient and medieval times, as reflected in social services such as those for water supply and drainage. Kōyasan also had many noted places and historic site ruins, as well as entertainment facilities and other attractions, providing excitement, local color, and a sense of the extraordinary. In addition, with many people (priests, merchants, and pilgrims) coming and going from all over the country, Kōyasan was a place where information was pooled and accumulated, another feature of a city.Other mountain cities with a spatial composition similar to that of Kōyasan are Sekidōzan in Noto (now part of Ishikawa Prefecture) and Hikosan in northern Kyushu and Heisenji in the Echizen province (now Fukui Prefecture). The mountain city composition provided a model of zoning for castle towns at the beginning of the early-modern period. In his "Tamashii no yukue" [The Whereabouts of Souls], folklorist Yanagita Kunio, referring to Edoite's practice during the Bon festival of erecting tall lanterns to welcome the souls of ancestors, talks of the mental makeup of the urban citizens, who originally hailed from mountainous areas, and their belief that the human soul goes to the mountains after death. The present paper argues that the mountain city therefore can be seen as the origin of the urban structure of cities since the early modern period.