著者
遠部 慎 宮田 佳樹 小林 謙一 松崎 浩之 田嶋 正憲
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.137, pp.339-364, 2007-03-30

岡山県岡山市(旧灘崎町)に所在する彦崎貝塚は,縄文時代早期から晩期まで各時期にわたる遺物が出土している。特に遺跡の西側に位置する9トレンチ,東側に位置する14トレンチは調査当初から重層的に遺物が出土し,重要な地点として注目を集めていた。彦崎貝塚では土器に付着した炭化物が極めて少ないが,多量の炭化材が発掘調査で回収されていた。そこで,炭化材を中心とする年代測定を実施し,炭化材と各層の遺物との対応関係を検討した。層の堆積過程については概ね整合的な結果を得たが,大きく年代値がはずれた試料が存在した。それらについての詳細な分析を行い,基礎情報の整理を行った。特に,異常値を示した試料については,再測定や樹種などの同定を行った。結果,異常値を示した試料の多くは,サンプリング時に問題がある場合が多いことが明らかになった。特に水洗サンプルに顕著で,混入の主な原因物質は現代のものと,上層の両者が考えられる。また,混入した微細なサンプルについても,樹種同定の結果,選別が可能と考えられた。これらの検討の結果,明らかな混入サンプルは,追試実験と,考古学的層位などから,除くことが出来た。また,9トレンチと14トレンチと2つのトレンチでは堆積速度に極端な差が存在するものの,相対的な層の推移は概ね彦崎Z1式層→彦崎Z2式層→中期層→彦崎K2式層→晩期ハイガイ層となることがわかった。今後,本遺跡でみられたコンタミネーションの出現率などに留意しつつ,年代測定試料を選別していく必要がある。そういった意味で本遺跡の事例は,サンプリングを考えるうえでの重要なモデルケースとなろう。
著者
鈴木 正崇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.247-269, 2012-03-30

長野県飯田市の遠山霜月祭を事例として、湯立神楽の意味と機能、変容と展開について考察を加え、コスモロジーの動態を明らかにした。湯立神楽は密教・陰陽道・修験道の影響を受けて、修験や巫覡を担い手として、神仏への祈願から死者供養、祖先祭祀を含む地元の祭と習合して定着する歴史的経緯を辿った。五大尊の修法には、湯釜を護摩壇に見立てたり、火と水を統御する禰宜が不動明王と一体になるなど、修験道儀礼や民間の禁忌意識の影響がある。また、大地や土を重視し竈に宿る土公神を祀り、「山」をコスモロジーの中核に据え、死霊供養を保持しつつ、「法」概念を読み替えるなど地域的特色がある。その特徴は、年中行事と通過儀礼と共に、個人の立願や共同体の危機に対応する臨時の危機儀礼を兼ねることである。中核には湯への信仰があり、神意の兆候を様々に読み取り、湯に託して生命力を更新し蘇りを願う。火を介して水をたぎらす湯立は、人間の自然への過剰な働きかけであり、世界に亀裂を入れて、人間と自然の狭間に生じる動態的な現象を読み解く儀礼で、湯の動き、湯の気配、湯の音や匂いに多様な意味を籠めて、独自の世界を幻視した。そこには「信頼」に満ちた人々と神霊と自然の微妙な均衡と動態があった。
著者
齋藤 努 坂本 稔 高塚 秀治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.177, pp.127-178, 2012-11-30

宮城県に在住する刀匠・九代法華三郎信房氏とご子息の栄喜氏のご協力により,代々継承している作刀技術のうち,「卸し鉄」「折り返し鍛錬」「焼き入れ」の3つについて,自然科学的な観点から調査を行い,下記の諸点が明らかになった。卸し鉄では,同じ炉を使い,ほとんど同じような動作をしているのに,軟鉄への浸炭と銑鉄からの脱炭という正反対の反応を起こすことができる。両者において,炉内ではまったく異なるメカニズムが働いていると推測される。すなわち,軟鉄の浸炭では,炉の上部で固体の鉄に炭素が吸収され,融点が下がって半溶融状態となり,炉底に垂れ落ちていく。炉底ではできるだけ風があたらないようにして,脱炭が起こらないようにする。一方,銑鉄の脱炭では,炉の上部で鉄が溶解して液体状態になり,炉底に少しずつ流れ落ちていく。炉底では羽口からの風があたるようにして,鉄中の炭素を燃焼させ,炭素濃度を下げる。折り返し鍛錬において,折り返し回数が増えるにつれて,炭素濃度の均一化されていく様子が観察された。参考文献などにある「折り返し鍛錬によって介在物が減少していく」という現象は確認されず,鍛接面に生じるものもスラグに由来するものも,折り返し回数が増えるほど小さくなり均一に分散されていくことがわかった。鍛造開始時の加熱温度については,仮着けでも泥沸かしでも,鉄の炭素濃度に応じて異なる傾向がみられた。また仮着けと泥沸かしの工程では,加熱温度,作業を行う温度,作業継続時間に相違がみられた。これはそれぞれの工程での目的と刀匠の意識が反映されているものと考えられた。焼き入れにおいて,沸と匂を作りわける場合の加熱温度の違いを実験的に確認できた。これは刀匠の感覚とも整合的であった。また焼刃土の下の鉄の温度の測定により,焼刃土が地部の徐冷に役立っていることが確認された。
著者
五十川 伸矢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.1-79, 1992-12-25

鋳鉄鋳物は,こわれると地金として再利用されるため,資料数は少ないが,古代・中世の鍋釜について消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の資料を集成した。これらは,羽釜・鍋A・鍋B・鍋C・鍋I・鉄鉢などに大別でき,9世紀~16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,古代には羽釜と鍋Iが存在し,中世を通じて羽釜・鍋A・鍋Cが生産・消費されたが,鍋Bは14世紀に出現し,次第に鍋の主体を占めるにいたるという,器種構成上の変化がある。また,地域によって異なった器種が用いられた。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・鍋A・鍋Bが併用されたが,その他の西日本の各地では,鍋A・鍋Bが主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて鍋Cが主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具も,ここでは鉄仏や鉄鉢のように鋳鉄で製作されることもあった。また,近畿地方の湯立て神事に使われた伝世品の湯釜を,装飾・形態・銘文などによって型式分類すると,河内・大和・山城などの各国の鋳造工人の製品として峻別できた。その流通圏は中世の後半では,一国単位程度の範囲である。こうした鋳鉄鋳物を生産したのは,中世には「鋳物師」と呼ばれる工人であった。鋳造遺跡の調査成果から,銅鉄兼業の生産形態をとるものが多かったことが想定できる。また,生産工房は,古代には製鉄工房に寄生する形態をとるが,中世には鋳物砂の産地周辺に立地する場合が多い。中世後半には都市の周縁に立地するものも現われた。生産に必要な固定資本の大きさから考えて,商業的遍歴はありえても,移動的操業は少なかったものと推定できる。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.141-193, 2002-03-29

本稿は,長野盆地における大河川の氾濫原・沖積扇状地と山麓丘陵部という対照的な二つの地域における災害と開発の歴史を類型化する試みを提示するとともに,開発勢力に注目して中世社会の災害と開発力の歴史的特質を検討しようとするものである。前者,大河川の氾濫地域では開発が後れ,ほとんど近世の新田開発によると考えられていた。しかし,近年の大規模開発による考古学調査と用水や地名を中心とした荘園遺構調査など総合的地域史研究によって,10・11世紀における古代の先行した開発が確認され,大河川の洪水災害のあとも,伊勢上分米を開発資本として投資・復興させつつ御厨に編成しようとする動きと,国衙と結んで公領として再組織する動向とが拮抗していたこと。その開発勢力として伊勢平氏の平正弘一門が大きな役割を果たしたことを指摘した。他方,山麓丘陵部から扇状地一帯に古代の鐘鋳川を利用した条里水田が先行していたが,9・10世紀における土砂災害で鐘鋳川が埋没を繰り返す中で,国衙による条里水田の維持・復興が困難になり,院政期には後庁の在庁官人を指揮しうる院権力と結ぶ開発勢力が鐘鋳川を復旧・延長し,周辺部の再開発地に松尾社領や八条院領を立荘していった。さらにその縁辺部の非条里水田地域では,鎌倉~室町期に御家人平姓和田氏や国人高梨氏が六ヶ郷用水という第二次的補足的用水体系を開削して新しい開発地域を拡大していく努力を繰り返した。この開発勢力として院の北面や女院侍として活躍する一方鎌倉御家人をも輩出した越後平氏諸流の存在を「京方御家人」という概念で把握すべきことを指摘した。地域の開発景観が時代の変遷と開発主体の相違にもとづいて複合構造をなしていたといえよう。
著者
春成 秀爾 小林 謙一 坂本 稔 今村 峯雄 尾嵜 大真 藤尾 慎一郎 西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.133-176, 2011-03

奈良県桜井市箸墓古墳・東田大塚・矢塚・纏向石塚および纏向遺跡群・大福遺跡・上ノ庄遺跡で出土した木材・種実・土器付着物を対象に,加速器質量分析法による炭素14年代測定を行い,それらを年輪年代が判明している日本産樹木の炭素14年代にもとづいて較正して得た古墳出現期の年代について考察した結果について報告する。その目的は,最古古墳,弥生墳丘墓および集落跡ならびに併行する時期の出土試料の炭素14年代に基づいて,これらの遺跡の年代を調べ,統合することで弥生後期から古墳時代にかけての年代を推定することである。基本的には桜井市纏向遺跡群などの測定結果を,日本産樹木年輪の炭素14年代に基づいた較正曲線と照合することによって個々の試料の年代を推定したが,その際に出土状況からみた遺構との関係(纏向石塚・東田大塚・箸墓古墳の築造中,直後,後)による先後関係によって検討を行った。そして土器型式および古墳の築造過程の年代を推定した。その結果,古墳出現期の箸墓古墳が築造された直後の年代を西暦240~260年と判断した。
著者
阿南 透
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.223-252, 2018-02-28

本稿は,高度成長期における都市祭礼の変化を,地域社会との関係に注目しながら比較し,変化の特徴を明らかにするものである。具体的には,青森ねぶた祭(青森県青森市),野田七夕まつり(千葉県野田市),となみ夜高まつり(富山県砺波市)を例とする。青森ねぶた祭では,1960年代に地域ねぶたが減少するが,1970年代には公共団体や全国企業が加わって台数が増加し,観光化が進んだ。そして各地への遠征や文化財指定へとつながった。野田七夕まつりなどの都市部の七夕まつりは,1951〜1955年に各地の商店街に普及するが,1965〜1970年頃に中止が目立った。野田でも1972年にパレードを導入し,市民祭に近づけることで存続を図った。となみ夜高まつりなど富山県の「喧嘩祭」は,1960年頃に警察やPTAなどから批判されて中断し,60年代後半に復活した。このように,高度成長期前期には,どの祭礼にも衰退や中断,重要な変更がみられた。一方,後期には,祭礼が復興し発展したことが明らかになった。変化の要因として,前期の衰退には,経済効率第一の風潮のほか,新生活運動も関与していた可能性がある。後期の復興には,石油ショック以後の安定成長期の「文化の時代」に,祭礼が文化として扱われ,文化財指定を受ける「文化化」,祭礼が観光資源になる「観光化」,行政などが予算を立案し,業務として運営する「組織化」,さらに事故のない祭礼を目指す「健全化」などの特徴が見られる。
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.85-120, 2012-03-01

本稿では,弥生文化を,「灌漑式水田稲作を選択的な生業構造の中に位置づけて,生産基盤とする農耕社会の形成へと進み,それを維持するための弥生祭祀を行う文化」と定義し,どの地域のどの時期があてはまるのかという,弥生文化の輪郭について考えた。まず,灌漑式水田稲作を行い,環壕集落や方形周溝墓の存在から,弥生祭祀の存在を明確に認められる,宮崎~利根川までを橫の輪郭とした。次に各地で選択的な生業構造の中に位置づけた灌漑式水田稲作が始まり,古墳が成立するまでを縦の輪郭とした。その結果,前10 世紀後半以降の九州北部,前8 ~前6 世紀以降の九州北部を除く西日本,前3 世紀半ば以降の中部・南関東が先の定義にあてはまることがわかった。したがって弥生文化は,地域的にも時期的にもかなり限定されていることや,灌漑式水田稲作だけでは弥生文化と規定できないことは明らかである。古墳文化は,これまで弥生文化に後続すると考えられてきたが,今回の定義によって弥生文化から外れる北関東~東北中部や鹿児島でも,西日本とほぼ同じ時期に前方後円墳が造られることが知られているからである。したがって,利根川以西の地域には,生産力発展の延長線上に社会や祭祀が弥生化して,古墳が造られるという,これまでの理解があてはまるが,利根川から北の地域や鹿児島にはあてはまらない。古墳は,農耕社会化したのちに政治社会化した弥生文化の地域と,政治社会化しなかったが,網羅的な生業構造の中で,灌漑式水田稲作を行っていた地域において,ほぼ同時期に成立する。ここに古墳の成立を理解するためのヒントの1 つが隠されている。
著者
森栗 茂一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.277-304, 1993-03-25

従来,民俗学では,性の問題を取り扱うことは少なかった。また,男の視点からのみ,議論が展開することが多かった。ここでは,水俣病の発生の問題を,地域共同体の崩壊のなかでみようとし,とくに夜這いといわれる共同体的な性の交換制度の崩壊について,議論した。明治に入って,日本の近代化は,新興寡占地主を生み,土地の集中をもたらした。貨幣経済の浸透とともに,土地を持たない農民の間では,相互扶助関係は崩壊し,性の相互交換としての男と女の助け合い関係としての夜這いが衰退した。一方,工場を持たない天草などのより貧困な地域からは,女が売りに出され,近代都市の周辺に売春街が形成された。男の心は,新興地主も,伝統的な旧家も,そして工場労働者も,売春へと向かい,そこに放蕩を繰り返し,没落していった。それは,近代における人間の経済のエロチシズムであったのかもしれないが,その行き着く先は,水俣病という自己破滅であった。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.1-43, 2005-03

本稿は、あらたに発見された長野市の守田神社所蔵の新史料『鉄炮之大事』とセットで伝来した『南蛮流秘伝一流』の史料を翻刻・紹介するとともに、中世における技術と呪術の相関関係を考察したものである。第一に、『鉄炮之大事』は、天正十九年から、文禄三年、文禄五年、慶長十年、元和元年までの合計十五点の文書群である。これまで最古とされる永禄・天正期の火薬調合次第とほぼ同時代のものから、文禄・慶長・元和という江戸初期への移行期までの変遷を示す史料としては、稀有な史料群である。しかも、これまで知られている大名家と契約をとりかわした炮術師の炮術秘伝書よりも古い史料群であり、民間の地方寺社に相伝された修験者の鉄炮技術書としては、最古ではじめての文書群である。第二に、『南蛮流秘伝一流』は『鉄炮之大事』とセットで相伝されたもので、その内容は南蛮流炮術の伝書ではなく、戦傷者などの治療技術を記載した医書である。鉄炮の技術と医術とがセットで相伝・普及されたことが判明した。傷の治療法として縫合術や外科手術法が相伝されており、内容的にポルトガル医学だけではなく、室町期に日本で独自に発達した金瘡医学の要素が強く、両者の混在を指摘した。第三に、『鉄炮之大事』『南蛮流秘伝一流』には、火薬調合や膏薬製造など技術的薬学的知識が、呪法や作法によって神秘化・儀礼化され、呪術的性格をあわせもっていた。実践的戦闘法として活用された戦国期に近い天正・文禄年間ほど、技術的要素が濃厚であり、慶長・元和年間の近世社会になるほど、呪術的性格を強化しているという逆転現象を指摘した。This paper introduces a new historical document called the "Teppo no Daiji" ("Gun Manual") newly discovered in a collection at Morita Shrine in Nagano City together with historical documents entitled "Nanban-ryu Hiden Ichiryu" ("Nanban School Book of Secrets"). It also investigates the correlation between techniques and magic during the Middle Ages.First, "Teppo no Daiji" is a collection of a total of 15 documents dating from 1591, 1594, 1596, 1605 and 1615. It dates from virtually the same period as material on blending gunpowder dating from the late 1550s through to the early 1590s that had until now been considered the oldest of its kind. As materials that show the changes that occurred during the time leading up to the period of transition at the beginning of the Edo period (from mid 1590s to early 1620s) they are indeed rare materials. What is more, as historical materials that are older than a book of secrets on the art of guns written by a gunsmith who was contracted to a feudal lord that had been known about earlier, they are the oldest and first writings on the art of guns by practitioners who bequeathed them to a temple or shrine situated on private land.Second, "Nanban-ryu Hiden Ichiryu" was bequeathed with "Teppo no Daiji" as a set, and instead of being a record of the art of guns according to the Nanban school, it contains details of methods for treating soldiers injured in battle. It turns out that writings on gun techniques and medicine were handed down and disseminated as a set. Stitching techniques and surgical methods are given as methods for treating injuries. In addition to details of Portuguese medicine, there are strong elements of the method for treating wounds caused by swords that was developed independently in Japan during the Muromachi period, suggesting a mixing of these two types of medicine.Third, the transmission of technical and chemical knowledge on such things as blending gunpowder and making ointment from the "Teppo no Daiji" and "Nanban-ryu Hiden Ichiryu" is mysticized and ritualized by the use of magic and ritual so that it also possesses a magical dimension. There is an abundance of technical elements in the materials dating from the Tensho and Bunroku periods of the mid 1570s through the mid 1590s that are closer in time to the Sengoku period when practical fighting methods were adopted. They also reveal a reverse phenomenon in that in the documents dating from the Keicho and Genna periods at the end of the 16th century and beginning of the 17th century when early modern society was developing in Japan, there is a stronger magical element.
著者
高橋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.149-164, 2003-10-31

生命の危機にさらされたとき人々はどのようにこれに立ち向かうのか。日本歴史上人々は天変地異の大災害や即死病といわれる伝染病の大流行に直面した。文明の進歩、医学の革新等、人々の生命に関する恐怖感は遠のいたと一見思われがちの現代であるが、二〇〇三年のSARSの大騒動は未だ伝染病の脅威が身近に存在することを思い知らしめてくれた。本稿は安政五年(一八五八)突如大流行したコレラによって引き起こされた危機的状況、パニック状態を刻明に実証しようとしたものである。人々は即死病といって恐れられたコレラが襲って来る危機的状況のなかでどのようにこれに対拠したのか、本稿は駿河国富士郎大宮町(現富士宮市)を具体例として取り上げる。偶々大宮町の一町人が克明に記録した袖日記を解読することから始める。長崎寄港の米艦乗組員から上陸したコレラ菌は東へ東へ移動し次々と不可思議な病いを伝染させ、未曾有の多量死を現実のものとした。コレラに対するさまざまな医療行為が試みられるが、一方で多種多様、多彩な情報を生み出し、妄想をまき散らしていく。まさに、現実の秩序がくつがえる如く、人々を安心立命させていた精神(心)の枠組が崩壊し、人々はありあらゆる禦ぎ鎮魂の呪術を動員し救いを求めていく。コレラ伝染の時間的経過と空間的ひろがりに対応して人々の動きは活発化し、非日常の異常に自らを置く方策を腐心していく。コレラの根源を旧来の迷信の狐の仕業、くだ狐と見なして狐を払うため山犬、狼を設定し、三峯山の御犬を借りようとする動きやこの地域に特に根強い影響力を有する日蓮宗の七面山信仰がコレラを抑える霊力をもつとして登場する。極限状況の人々の動向にこそ時代と社会の精神構造があらわにされるのである。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.203-236, 2012-03-01

本稿は,近年の戦後民俗学の認識論批判を受けて,柳田國男が構想していた民俗学の基本であっ た民俗の変遷論への再注目から,柳田の提唱した比較研究法の活用の実践例を提出するものであ る。第一に,戦後の民俗学が民俗の変遷論を無視した点で柳田が構想した民俗学とは別の硬直化し たものとなったという岩本通弥の指摘の要点を再確認するとともに,第二に,岩本と福田アジオと の論争点の一つでもあった両墓制の分布をめぐる問題を明確化した。第三に,岩本が柳田の民俗の 変遷論への論及にとどまり,肝心の比較研究法の実践例を示すまでには至っていなかったのに対し て,本稿ではその柳田の比較研究法の実践例を,盆行事を例として具体的に提示し柳田の視点と方 法の有効性について論じた。その要点は以下のとおりである。(1)日本列島の広がりの上からみる と,先祖・新仏・餓鬼仏の三種類の霊魂の性格とそれらをまつる場所とを屋内外に明確に区別して まつるタイプ(第3 類型)が列島中央部の近畿地方に顕著にみられる,それらを区別しないで屋外 の棚などでまつるタイプ(第2 類型)が中国,四国,それに東海,関東などの中間地帯に多い,また, 区別せずにしかも墓地に行ってそこに棚を設けたり飲食するなどして死者や先祖の霊魂との交流を 行なうことを特徴とするタイプ(第1 類型)が東北,九州などの外縁部にみられる,という傾向性 を指摘できる。(2)第1 類型の習俗は,現代の民俗の分布の上からも古代の文献記録の情報からも, 古代の8 世紀から9 世紀の日本では各地に広くみられたことが推定できる。(3)第3 類型の習俗は, その後の京都を中心とする摂関貴族の觸穢思想の影響など霊魂観念の変遷と展開の結果生まれてき た新たな習俗と考えられる。(4)第3 類型と第2 類型の分布上の事実から,第3 類型の習俗に先行 して生じていたのが第2 類型の習俗であったと推定できる。(5)このように民俗情報を歴史情報と して読み解くための方法論の研磨によって,文献だけでは明らかにできない微細な生活文化の立体 的な変遷史を明らかにしていける可能性がある。
著者
日比野 光敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.271-295, 2011-01-31

ドジョウは人間にとってたいへん身近な存在である。ドジョウというと子どもたちは,丸い頭と口のまわりのヒゲ,そして丸い尻尾を描くことであろう。大人にとっても,ドジョウすくいなどで親しみ深く扱われてきた。ドジョウ鍋やドジョウ汁,あるいは蒲焼きなどとしてドジョウを食べることも,全国各地で見られた。また,めずらしいと思われるかもしれないが,ドジョウをすしにすることもあった。そのいくつかは,まだ健在である。ところが,その多くは,じゅうぶんな記録もされぬままに,消えてなくなろうとしている。本稿はドジョウずしを取り上げ,これらの正確なレシピを書きとどめることを第一目標とする。筆者はこれまでに,ドジョウ(マドジョウ)のすしを長野県佐久市,愛知県豊山町,滋賀県栗東市,大阪府豊中市,兵庫県篠山市で調査した。また,シマドジョウやホトケドジョウのすしを栃木県宇都宮市で,アジメドジョウのすしを福井県大野市,岐阜県下呂市で調査した。その結果言えることは,ひと口に「ドジョウのすし」といっても,その作り方は一様ではない。それはすしの種類からみても,実に多くの形態に及んでいることがわかった。その上で,ドジョウずしが消えてゆく理由,さらにはドジョウが語るものを考えてみる。ドジョウはほかの淡水魚に比べ,特殊な存在である。体型は,われわれが食べ慣れているフナやモロコとは違って細長い。多くの大人たちが「魚は食べるもの」という情報は知っていても,その姿かたちはフナやモロコのように「魚の形」をしているものであって,ドジョウのように細長いものではない。それゆえ,食べることには,よくも悪くも,抵抗感がある。加えて,子どもたちはドジョウを可愛らしく描く。保育園や学校では,日記をつけて観察させることもある。そんな「可愛い動物」を,なぜ食べなければならないか。ドジョウを食べることは,罪悪感まで生み出してしまう。かつては,自然に存在するものすべてが,われわれの「餌」であった。ドジョウだって同じである。ゆえに,自然に対して感謝したり恐れおののいたりする崇拝まで生まれた。だが,現在はどうか。自然に対する畏敬の念が,子どものみならず大人でさえも,なくなってしまった。結果,ドジョウは「可愛いもの」,もしくは逆に「普通の魚とは違う,異様な魚」となり,少なくとも「食べる存在」ではなくなってしまったのではあるまいか。ドジョウずしが消えてしまった原因は,あくまでも人間が作り出したものである。ドジョウは,静かにこのことを物語っているのではないだろうか。
著者
坂井 久能
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.315-374, 2008-12

旧軍が軍用地または艦艇内に設けた神社を、営内神社・校内神社・艦内神社などと称した(以下、営内神社等と総称する)。営内神社等は、今まで殆ど顧みられず、研究もされてこなかった。それは何故なのか、という記録と記憶の問題ととともに、収集したデータから営内神社等とは何なのかという基本的・概略的な大枠を捉えようとしたものである。営内神社等は、法令上は神祠として扱われ、広義には軍施設内に設けられた神祠と定義することができる。稲荷神などを祀る事例が初期に散見することから、邸内神祠・屋敷神の性格を持つもので、艦内神社の船霊がそれに相当するであろう。しかし、やがてこの稲荷祠を天照大神などを祀る神祠に変えた事例が示すように、いわゆる国家神道下に天照大神や靖國神社祭神、軍神や殉職者などを祀る神祠に大きく変貌を見せるようになり、このような神祠が昭和に入ると盛んに創建された。後者を狭義の営内神社等とみることができる。その性格は多様である。戦死病歿者を祀った場合は、靖国神社・護國神社と共通する招魂社的性格をもちながらも、特に顕彰において役割の違いがあったと思われる。殉職者を祀った場合は、靖國神社と異なる招魂社的性格をもったものといえよう。神祇を祀り武運長久等を祈る守護神的な性格、敬神崇祖の精神を涵養し、神明に誓い人格を陶冶するいう精神教育の機能なども見られた。招魂社的な神祠も、慰霊・顕彰とともに、尽忠報国を誓う精神教育の役割を備えていた。また、営内神社等は近代の創建神社の範疇に入るべき性格や、海外の駐屯地に営内神社を遷座・創祀したことからは、海外神社に含めるべき性格ももっている。このように多様な性格を持つ営内神社は、軍が管理した神社として、近代の戦争と宗教を理解する上で極めて重要な神社であるといえる。今や数少なくなった軍の経験者の記憶の中から、また僅かに残された資料から、営内神社等とは何なのかを探る。Shrines built on military land and naval vessels by the former Japanese military went by several names in Japanese, including "einai jinja", "konai jinja" and "teinai jinja". Deities and those who died or were wounded in war were worshipped in these shrines, which, according to law, should have been called "jingi". This paper explores why the military built these shrines, how they functioned and how they met their end. It also attempts to uncover the significance of the construction of shrines dedicated to the war dead in the context of "shokonsha", "gokoku shrine", "Yasukuni Shrine" and "cenotaphs (chukon-hi)" which were shrines dedicated to the souls of those who lost their lives for their country, and various other memorials. Virtually no records survive of these military shrines, nor is there much history of research on this subject. Today, most have faded into oblivion leaving no trace, with but a few skeletons remaining. As a result, these military shrines and the war and military life seen through them remain solely in the memories of the dwindling number of those who were in the military. It is through these few records and oral histories that this paper explores the significance of the existence of these shrines.
著者
山本 光正
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.36, pp.p239-254, 1991-11

近世における関所の研究は,当然のことながら,幕府諸政策との関連で把えられている。大名統制や入鉄砲に出女に代表されるように,研究の大きな課題の一つは関所設置の目的や意義にある。こうした関所研究の傾向からみると,一般庶民男子の通行はその研究の中で占める位置は極めて小さなものである。一方庶民の旅という観点からみると,庶民男子の通行には,幕府の定めた通過方法とはかなり異なる点がみられる。庶民男子が旅をする場合,往来手形を持参し,手形の改めを受けるだけで関所を通行することができた。もしも手形を持参しない場合でも,取り調べの結果不審な点がなければ通行を許されていたことになっている。ところが旅日記をみると,しばしば関所――主に箱根関所――に手形を「提出」している記事がみられる。提出しているのは往来手形とは別のもののようである。このことを裏付けるように,やはり旅日記には旅の途中で手形を作成・発行してもらっている記述がよくみられる。特に多いのが江戸の旅宿である。東国の人々の多くは伊勢参宮の際江戸に入り,1~2泊して伊勢に向かうが,その際旅宿で手形の発行をしてもらっている。右のような関所手形についての幕府,関所側の記録は極めて少ないようである。このような関所手形について,かろうじて『箱根御関所日記書抜』に途中手形という名称で記されている。その内容も旅の途中での手形発行を禁じたものである。このような手形が自然発生的に成立したとはとても考えられない。恐らく何らかの理由により一時的にとった処置が,途中手形に姿を変え尾を引きずり,これを旅籠屋が利用したのであろう。いずれにせよ庶民男子が関所を通過する時,旅の途中で発行してもらった手形を関所に提出したことは事実として認めざるを得ない。The study of the barrier stations in the Early Modern Period has been, as a matter of course, understood in its relationship to the policies of the Tokugawa Shogunate, as typically seen in the control of the Daimyo (feudal lords), the bringing in of weapons, and women coming out (from Edo, where wives of Daimyo were kept hostage), one of the important subjects of studies lies in the significance of the establishment of barrier stations.Considering this leaning in the study of the barrier stations, passage by men of the common class receives little attention.On the other hand, from the viewpoint of the common people, the passage of barrier stations by men of the common class was considerally different from the manner stipulated by the Shogunate. When a man of common class went on a trip, he carried a traffic bill called "Orai-Tegata", and could pass barriers only on being checked for the bill. Even if he did not possess a bill, if he was not doubted in an interrogation, he would have been permitted to pass the barrier station.When reading travel diaries, however, I often find passages referring to the "filing" of a bill to a barrier station―mostly to that at Hakone. It seems to have been something different from the ordinary traffic bill. In support of these passages, other passages in travel diaries include descriptions of the preparation and issuance of bills during the course of a journey. This was most frequent in travellers' lodges in Edo.People in eastern Japan, on their way to the Ise Shrine, entered Edo and stayed there one or two days before continuing their journey again. At that time, they had the bill issued at their lodge.It seems these bills for passing the station were rarely described in the records of the Shogunate or barrier station. They are mentioned only as "Tochu-Tegata" (part-way bill) in a document called "Extract of Hakone Station Daily Report". The content of this document was a prohibition of the issuance of this type of bill in the course of a journey.It is unbelievable that such a bill came into being spontaneously. It is probable that a temporary measure, which had been taken for some reason, survived in the form of Tochu Tegata.In any case, it was an obvious fact that men of the common class filed a bill which was issued in the course of their trip, in order to pass a barrier station.
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.73-86, 1995-01-20

縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。まず第1に,縄文時代の家畜はイヌだけであり,そのイヌは狩猟用であった。弥生時代では,イヌの他にブタとニワトリを飼育していた。イヌは,狩猟用だけではなく,食用にされた。そのため,縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されなかった。第2に,動物儀礼に関しては,縄文時代では動物を儀礼的に取り扱った例が少ないことである。それに対して弥生時代は,農耕儀礼の一部にブタを用いており,ブタを食べるだけではなく,犠牲獣として利用したことである。ブタは,すべて儀礼的に取り扱われたわけではないが,下顎骨の枝部に穴を開けられたものが多く出土しており,その穴に木の棒が通された状態で出土した例もある。縄文時代のイノシシでは,下顎骨に穴を開けられたものは全くなく,この骨の取り扱い方法は弥生時代に新たに始まったものである。第3に,縄文時代では,イノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶はない。シカとイノシシは,縄文時代の主要な狩猟獣であり,ほぼ同程度に捕獲されている。それにも関わらず,土偶の出土状況には大きな差異が見られる。弥生時代になると,土偶そのものもなくなるためかもしれないが,イノシシ土偶はなくなる。土器や銅鐸に描かれる図では,シカが多くなりイノシシは少ない。このように,造形品や図柄に関しても,縄文時代と弥生時代はかなり異なっている。以上,3つの点で縄文時代と弥生時代の動物に対する扱い方の違いを見てきた。これらの違いを見ると,縄文時代と弥生時代は動物観だけではなく,考え方全体の価値観が違うのではないかと推測される。これは,狩猟・漁撈・採集から農耕へという変化だけではなく,社会全体の大きな変化を示していると言える。弥生時代は,縄文時代とは全く異なった価値観をもった農耕民が,朝鮮半島から多量に渡来した結果成立した社会であったと言える。
著者
富田 正弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.192, pp.129-170, 2014-12

早川庄八『宣旨試論』の概要を章毎に紹介しながら少し立ち入って検討を加え,その結果に基づいて,主として早川が論じている宣旨の体系論と奉書論に対して,いくつかの感想めいた批判をおこなってみた。早川の宣旨論は,9・10世紀における諸々の宣旨を掘り起こし,その全体を誰から誰に伝えられたかという機能に即して整理をおこない,その体系化を図ろうとしたものである。上宣については,「下外記宣旨」・「下弁官宣旨」・「下諸司宣旨」に及び,上宣でないものについては,「検非違使の奉ずる宣旨」,「一司内宣旨」,「蔵人方宣旨」まで視野に入れて,漏れなく説明し尽くしている。ここに漏れているものは,11世紀以降にあらわれる地方官司における国司庁宣や大府宣,官司以外の家組織ともいうべき機関における院宣・令旨・教旨・長者宣などであり,9・10世紀を守備範囲とする『宣旨試論』にこれらを欠く非を咎めだてをすることはできない。強いて早川の宣旨体系論の綻びの糸を探し出そうとするならば,唯一天皇の勅宣を職事が奉じて書く口宣と呼ばれる宣旨について論及していない点である。それほどに,早川の宣旨論は完璧に近い。つぎに早川は,宣旨とその施行文書との関係を論じ,奈良時代に遡って宣旨を受けて奉宣・承宣する施行文書に奉書・御教書の機能を発見する。そのうえで,従来の古文書学が,宣旨や奉書・御教書を公家様文書として平安時代に誕生したと説く点を厳しく批判する。早川が説くように宣旨の起源も,奉書・御教書の機能をもつ文書の起源も,8世紀に遡るという指摘は傾聴に値する。しかし,宣旨を施行する公式様文書が全て奉書・御教書の機能をもつという点には疑問がある。上宣を受けて出される官宣旨は奉書としての機能をもつとしても,上宣を受けて出される官符は差出所である太政官に上卿自身が含まれているわけであるから,奉書的な機能はないというべきである。また,従来の古文書学で奉書・御教書が平安時代に多く用いられる意義を強調するのは,奉書的機能に関わって論じられているのではなく,奉書・御教書が書札様文書・私文書であることに意義を見出して論じられているのである。したがって,早川の批判にも拘わらず,従来の古文書学における公家様文書という分類はなお有効性をもっている。もちろん,これによっても,早川の宣旨論は,古代古文書学におけてその重要性がいささかも色褪せるものではない。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.245-275, 2015-03

本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。This article reviews and briefly examines the history of research on the three books of Baekje: Kudara Honki (Original Records of Baekje) , Kudara Ki (Records of Baekje) , and Kudara Shinsen (the New Selection of Baekje) . Taking various arguments into consideration, this article indicates that the three books consisted of old and new elements because they were born out of a dilemma; they were based on the original books written from the self-centered viewpoint of Baekje but edited by Baekje exiles as historical materials for the compilation of Nihon Shoki ( the Chronicles of Japan) in a favorable manner for Japan in the beginning of the eighth century. The editors of Nihon Shoki altered the times of events by modifying the Chinese zodiac calendar when using Kudara Ki to write a legend of the origin of Japan; however, as typically represented by inconsistency of the name of Japan, such as called "Kikoku" in Kudara Ki, " (Oh-) yamato" in Kudara Shinsen, and "Nihon" in Kudara Honki, it is considered that in principle, the quotations in the notes of Nihon Shoki from the three books were hardly embellished. All of the three books were history books dated with imperial era names and the Chinese zodiac calendar system and were aimed to delineate the background of the family and profession of each Baekje clan surviving after the fall of their dynasty. In Kudara Ki, the ideal of King Song Myong period, in the sixth century, described by Kudara Honki was mirrored in the King Chogo period, and historical legitimacy was explained to Japan from the viewpoint of Baekje with an eye on its northern enemy, Goguryeo. At first, Kudara Honki was written to describe the history of the dynastic ancestors of the Kudara-no-Konikishi clan exiled from Baekje. Then, Kudara Ki was created for the purpose of providing historical legitimacy to the domination of Mimana, as well as depicting exchanges between Baekje and Wakoku (Japan) . Last, Kudara Shinsen was compiled to summarize the common perspective of numerous Baekje clans who claimed the collateral descent of the Baekje Dynasty by detailing the eras from ⑦ King Biyu to ⑪ King Muryeong, whose lineage had not been clear. Though the three books were edited one by one, they were systematically compiled for the same purpose. Inconsistencies in expression among the three books were corrected from the viewpoint of compatibility with Nihon Shoki by using terms to describe the diplomatic relationships at the times of events more clearly. In particular, the word "Kikoku" was used to describe the relationship between Baekje and Wakoku not as a tributary or completely equal relationship but as the "third slantedrelationship."Our former article indicated that a variety of groups fighting against Baekje were collectively called as the "Japanese Mimana Government" and argued that Nihon Shoki had incorporated the perspective of Baekje that was inconsistent with that of the editors of the chronicle. This is considered because the perspective regarding the Japanese Mimana Government was affected by the insistence derived from the original materials of Kudara Honki, which was compiled from the self-centered viewpoint of Baekje.