著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.131, pp.51-84, 2006-03

戦場における佐倉歩兵第五七連隊の行動は、いくつかの連隊史や回想録で比較的よく知られている。しかし、兵士たちの平時の日常生活、意識については不明な点も多いように思われる。本稿は一九三四(昭和九)年に連隊のある上等兵がほぼ毎日書いていた日記帳の内容を分析して、連隊の兵士が毎日どのような訓練・生活を送っていたのかを再構成することを目的とする。日記の筆者は(おそらく)三三年一月現役入営し、翌三四年七月一九日除隊している。日記帳にはこのうち三四年一月一日から除隊後の同年八月一八日までの記述がある。具体的に千葉での演習・勤務、富士山麓での演習、対抗競技と連隊への帰属意識、日常の衣食住、私的制裁、連隊と地域社会との関わり、といった諸テーマを設定して、兵士たちの〈日常〉の再構成に努めるとともに、彼らが自己の所属する軍隊をどうみていたのか、それは帝国軍隊の支持基盤たりえたのか、といった問題にも展望を示したい。なお、参考資料として、本日記の全文を連隊生活とは直接関係のない除隊後のものを除き、翻刻した。The activities of the 57th Sakura Infantry Regiment on the battlefield are relatively well known from a number of regimental histories and memoirs. However, little is known about the daily life and thoughts of soldiers during peacetime. The aim of this paper is to reconstruct the daily training and life of soldiers in the regiment from the study of a diary written virtually everyday by a private first class in the regiment in 1934. The diarist most likely took up his position in January 1933 and then left the regiment on July 19, 1934. The diary contains entries from January 1 through August 18, 1934, by which time he had been discharged from the regiment.This paper attempts to reconstruct the daily lives of soldiers and covers the topics of exercises and duties in Chiba, exercises at the foot of Mt. Fuji, competitive sports and loyalty to the regiment, everyday clothing, food and shelter, un-offirial forms of punishment, and the relationship between the regiment and the local community. It also takes a look at how the soldiers regarded the regiment they were attached to and whether this constituted support for the Imperial Army. It may be noted that this diary, with the exception of the part following the writer's discharge from the regiment which is not directly related to the daily activities of the regiment, has been republished in full to provide background information.
著者
菊池 勇夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.23-41, 2008-03

『松前屏風』は、地元の絵師小玉貞良が蝦夷地の場所を請け負う商人の依頼によって、18世紀半ば頃の松前藩の城下町(福山)の景観を描いたものである。この屏風の読解の1つの試みとして、唯一アイヌの人々が描き込まれている松前来訪の部分に焦点をあててみた。彼等は毎年5月前後に艤装した船で蝦夷地各場所から貢物を持ってきて、沖の口番所近くの浜辺に、円錐状の丸小屋と呼ばれる持ち運び可能な仮設の住まいを作り、そこに滞在した。屏風にはアイヌの乙名(オトナ、村の長)らが松前藩主に謁見するために、藩士(通詞)に案内されて丸小屋から松前城に向かうところが描かれている。近世初期、松前城下はアイヌの人々が蝦夷地から盛んにやってきて交易(=ウイマム)する場であった。1640年代頃より商場知行制が展開してくると、松前の船が蝦夷地に派遣されるようになり、アイヌの城下交易は衰退を余儀なくされた。1669年のシャクシャインの戦い以後、このウイマム交易は松前藩によって御目見儀礼に変質させられ、松前藩の政治的支配の浸透として理解されている。しかし、見方を変えてアイヌ側からこの18世紀の御目見儀礼を捉えるならば、アイヌ側の主体的な意思もまた汲み取ることができるのではないか、というのが本稿の主眼である。18世紀末になると、松前城下からアイヌの丸小屋の風景が消えていく。それはどのように評価すべきことなのか。おそらくはシャクシャインの戦い以後の近世中期的な松前藩とアイヌの関係の終焉を意味していたに違いない。"Matsumae-byobu" is a folding screen depicting a castle town (Fukuyama) in Matsumae-han during mid-eighteenth century. Matsumae painter, Teiryo Kodama drew this screen being asked by Oumi-merchant who was in charge of Ezo trading. In order to understand this screen, I examined the Matsumae arrival section which exclusively depicted Ainu people.Ainu people transported articles of tributes from all parts of Ezochi on a rigged ship every year around May. They built a mobile cone-shaped shack for temporary dwelling and stayed on a beach near the customs office (Okinokuchi-bansho). This shack was a necessity for Ainu people's traveling. On the screen, there is Otona, Ainu's head of village, and others who are guided by Matsumae clansman (translator) to Matsumae castle from their shacks. After entering the castle, they met the lord of Matsumae-han and given products such as rice, liquor and tobacco.During early modern period, Matsumae castle town were often visited by Ainu people from Ezochi for trading called Uimamu. During 1640's trading post fief system (Akinaiba-chikousei) had spread and trading ships from Matsumae were sent to Ezochi. This invited the decline of Ainu trading in the castle town. After the 1669 war of Shakushain, Uimamu trading has been changed into Omemie (Uimamu) audience ritual by Matsumae-han and we understand that this shows political dominance over Ainu. However, when we consider this phenomenon from Ainu's point of view, eighteenth-century Omemie audience ritual may have subjective intention of Ainu people. I will explore this issue in this paper.In the late eighteenth century, Ainu shacks disappear from Matsumae castle town. How do we evaluate this? Probably, this suggests the end of Matsumae-han and Ainu relationships during the eighteenth century.一部非公開情報あり
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.167, pp.127-142, 2012-01

漁村から町場や農村への魚行商は、交易の原初的形態のひとつとして調査研究の対象となってきた。しかし、それらの先行研究は、近代的な交通機関発達以前の徒歩や牛馬による移動が中心であり、第二次世界大戦後に全国的に一般化した鉄道利用の魚行商については、これまでほとんど報告されていない。本論文では、現在ほぼ唯一残された鉄道による集団的な魚行商の事例として、伊勢志摩地方における魚行商に注目し、関係者への聞き取りからその具体像と変遷を明らかにすると同時に、行商が果たしてきた役割について考察を試みた。三重県の伊勢志摩地方では、一九五〇年代後半から近畿日本鉄道(以下、近鉄)を利用した大阪方面への魚行商が行われるようになった。行商が盛んになるに従って、一般乗客との間で問題が生じるようになり、一九六三年に伊勢志摩魚行商組合連合会を結成、会員専用の鮮魚列車の運行が開始される。会員は、伊勢湾沿岸の漁村に居住し、最盛期には三〇〇人を数えるほどであった。会員の大半を占めるのは、松阪市猟師町周辺に居住する行商人である。この地域は、古くから漁業従事者が集住し、戦前から徒歩や自転車による近隣への魚行商が行われていた。戦後、近鉄を使って奈良方面へアサリやシオサバなどを売りに行き始め、次第にカレイやボラなどの鮮魚も持参して大阪へと足を伸ばすようになった。それに伴い、竹製の籠からブリキ製のカンへと使用道具も変化した。また、この地区の会員の多くは、大阪市内に露店から始めた店舗を構え、「伊勢屋」を名乗っている。瀬戸内海の高級魚を中心とした魚食文化の伝統をもつ大阪の中で、「伊勢」という新たなブランドと、当時まだ一般的でなかった産地直送を看板に、顧客の確保に成功した。そして、より庶民的な商店街を活動の場としたことにより、大阪の魚食文化に大衆化という裾野を広げる役割をも果たしたのではないかと考えられる。Fish peddling from fishing villages to towns or farming villages, as a primitive trade form, has been the subject of studies. Previous studies, however, were mainly conducted on fish peddling on foot or by cattle and horse before the development of modern transportation, and there have been few reports about fish peddling by railway, which became prevalent over the country after World War II. In this paper, focusing attention on fish peddling in the Ise-Shima region as an example of the only one remaining collective fish peddling by railway, a concrete image of it and changes are clarified from interviews with the persons concerned, and the role that the peddling played is considered.In the Ise-Shima region in Mie Prefecture, fish peddling to the Osaka area using trains operated by Kintetsu Corporation (hereinafter referred to as Kintetsu) started in the latter half of the 1950s. As peddling became more active, problems between peddlers and general passengers increased. In 1963, the Ise-Shima Fish Peddling Association was formed, and fresh fish trains only for its members started operation. The members resided in fishing villages on the coast of Ise Bay, and the number of members exceeded 300 in its peak period.Most of the members were peddlers who resided around the Ryoushi-cho in Matsuzaka City. From long ago, this region has been home to many people engaged in the fishing industry, and from the prewar period, fish peddling to neighboring areas on foot or by bicycle was conducted. After the war, they began selling Japanese littleneck shell and salt mackerel to the Nara area by Kintetsu and gradually expanded the peddling to the Osaka area, carrying fresh fish such as righteye flounder and mullet. Along with the expansion, the tools they used changed from bamboo cages to tin cans. Many of the members in this region, who started trading at roadside stands, had their own shops called "Iseya" in Osaka City. In Osaka with its tradition of fish culture of mainly quality fish from the Seto Inland Sea, the new brand "Ise" and the direct-from-the-farm style, which was not common at that time, attracted people and led to the successful acquisition of customers. It is considered that by using shopping streets that were more familiar among ordinary people as their places of activities, it played the role of expanding the lower end of fish food culture in Osaka among the public.
著者
平川 南
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.5-24, 1996-02-29

近年、古代史研究の大きな課題の一つは、各地における地方豪族と農民との間の支配関係の実態を明らかにすることである。その末端行政をものがたる史料として、最近注目を集めているのが、郡符木簡である。郡司からその支配下の責任者に宛てて出された命令書である。この郡符木簡はあくまでも律令制下の公式令符式という書式にもとづいているのである。したがって、差出と宛所を明記し、原則として律令地方行政組織〔郡―里(郷)など〕を通じて、人の召喚を内容とする命令伝達が行われるのであろう。これまでに出土した一〇点ほどの郡符木簡はいずれも里(郷)長に宛てたもので、例外の津長(港の管理責任者)の場合は個人名を加えている。このような情況下で新たに発見された荒田目条里遺跡の郡符木簡(第二号木簡)は、宛所が「里刀自」とあり、三六名の農民を郡司の職田の田植のために徴発するという内容のものである。まず第一に、刀自は、家をおさめる主人を家長、主婦を家刀自とするように、集団を支配する女性をよぶのに用いている。宛所の里刀自は、上記の例よりしても、本来の郡―里のルート上で理解するならば、里を支配する里長の妻の意とみなしてよい。第二には、行政末端機構につらなり、戸籍・計帳作成や課役徴発を推進する里長と、在地において農業経営に力を発揮する里長の妻=里刀自の存在がにわかにクローズアップされてきたと理解できるであろう。これまで里刀自に関する具体的活動の姿は皆無であっただけに、今後、女性と農業経営の問題を考察する格好の素材となると考えられる。

3 0 0 0 OA 熊祭りの起源

著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.57-106, 1995-03-31

熊祭りは,20世紀にはヨーロッパからアジア,アメリカの極北から亜極北の森林地帯の狩猟民族の間に分布していた。それは,「森の主」,「森の王」としての熊を歓待して殺し,その霊を神の国に送り返すことによって,自然の恵みが豊かにもたらされるというモチーフをもち,広く分布しているにもかかわらず,その形式は著しい類似を示す。そこで人類学の研究者は,熊祭りは世界のどこかで一元的に発生し,そこから世界各地に伝播したという仮説を提出している。しかし,熊祭りの起源については,それぞれの地域の熊儀礼の痕跡を歴史的にたどることによって,はじめて追究可能となる。熊儀礼の考古学的証拠は,熊をかたどった製品と,特別扱いした熊の骨である。熊を,石,粘土,骨でかたどった製品は,新石器時代から存在する。現在知られている資料は,シベリア西部のオビ川・イェニセイ川中流域,沿海州のアムール川下流域,日本の北海道・東北地方の3地域に集中している。それぞれの地域の造形品の年代は,西シベリアでは4,5千年前,沿海州でも4,5千年前,北日本では7,8千年前までさかのぼる。その形状は,3地域間では類似よりも差異が目につく。熊に対する信仰・儀礼が多元的に始まったことを示唆しているのであろう。その一方,北海道のオホーツク海沿岸部で展開したオホーツク文化(4~9世紀)には,住居の奥に熊を主に,鹿,狸,アザラシ,オットセイなどの頭骨を積み上げて呪物とする習俗があった。それらの動物のうち熊については,仔熊を飼育し,熊儀礼をしたあと,その骨を保存したことがわかっている。これは,中国の遼寧,黄河中流域で始まり,北はアムール川流域からサハリン,南は東南アジア,オセアニアまで広まった豚を飼い,その頭骨や下顎骨を住居の内外に保存する習俗が,北海道のオホーツク文化において熊などの頭骨におきかわったものである。豚の頭骨や下顎骨を保存するのは,中国の古文献によると,生者を死霊から護るためである。オホーツク文化ではまた,サメの骨や鹿の角を用いて熊の小像を作っている。熊の飼育,熊の骨の保存,熊の小像は,後世のアイヌ族の熊送り(イヨマンテ)の構成要素と共通する。熊の造形品は,オホーツク文化に先行する北海道の続縄文文化(前2~7世紀)で盛んに作っていた。続縄文文化につづく擦文文化(7~11世紀)の担い手がアイヌ族の直系祖先である。彼らは,飼った熊を送るというオホーツク文化の特徴ある熊祭りの形式を採り入れ,自らの発展により,サハリンそしてアムール川下流域まで普及させたことになろう。それに対して,西シベリアでは,狩った熊を送るという熊祭りの形式を発展させていた。そして,長期にわたる諸民族間の交流の間に,熊祭りはその分布範囲を広げる一方,そのモチーフは類似度を次第に増すにいたったのであろう。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-15, 2003-10-31

これまで,一般的に縄文時代の家畜はイヌのみであり,ブタなどの家畜はいないと言われてきた。しかし,イノシシ形土製品やイノシシの埋葬,離島でのイノシシ出土例から縄文時代のイノシシ飼育が議論されてきた。イノシシ飼育の主張でもっとも大きな問題点は,縄文時代のイノシシ骨に家畜化現象が見られなかったことである。ところが縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象と疑われる例があることが分かった。また,イノシシがヒトやイヌと共に埋葬されている例が知られるようになり,改めてイノシシについてヒトやイヌとの共通性を議論する必要が出てきた。そこで,本論では千葉県茂原市下太田貝塚出土資料を紹介するとともに,イノシシ形土製品・イノシシ埋葬・離島のイノシシ・骨格の家畜化現象の4項目について再検討した。その結果,文化的要素からみれば,縄文時代中期以降にブタが飼育されていたことはほぼ確実である。また,離島への持ち込みという文化的項目と骨格の家畜化現象の点から見ると,縄文前期からすでにブタが飼育されていた可能性が大きいことが分かった。しかし,縄文時代のブタは,骨格的変化が小さいことから,野生イノシシと家畜のブタが交雑可能な程度のかなり粗放的な飼育であったと推測された。ブタの存在がほぼ確実になったことは,縄文時代が単純な狩猟・漁労・採集経済ではなく,イヌとブタを飼育し,ある程度の栽培植物を利用する新石器文化であったことを意味するものである。
著者
高桑 いづみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.166, pp.131-152, 2011-03-31

紀州徳川家伝来楽器の内,国立歴史民俗博物館が所蔵する龍笛・能管あわせて27点について,熟覧及びX線透過撮影を通して調査を行った。その結果,高精度の電子顕微鏡によって従来「平樺巻」とされてきた青柳(H‒46‒39)が,樺ではなく籐ないしカラムシのような蔓を巻いていたことが判明し,仏像の姿に成形した錘を頭部に挿入した龍笛があることが判明するなど,従来の調査では得られない成果が多々あった。一方,付属文書と笛本体が一致しない例もあり,笛が入れ替わった虞れも考えられる。たとえば能管の賀松(H‒46‒53)は,付属品や頭部の頭金の文様から,『銘管録』に載る「古郷ノ錦」ではないかと推測される。いつの時期か不明だが,コレクションの実態が混乱したようである。時期は不明だが,紀州徳川家のコレクションは少しづつ散逸してきた。その事実と照らし合わせながら,今後さらなる調査が必要になるであろう。
著者
長谷川 成一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.237-255, 1995-11-30

本稿では,近世十三湊に関して,いずれも今後の研究を進める上で基礎となる,次の3点にわたる課題を掲げ,それらについて解明する作業を実施した。第1は,十三湊は近世に果たして「とさ」呼ばれていたのか,あるいは「じゅうさん」と呼ばれていたのか,すなわち訓読みなのか音読みなのかについて,従来の通説と各史料を再検討した。その結果「十三」は中世以来の「とさ」の呼称が本来なのであって,近世に入って次第に音読みのそれと併用されるようになった。江戸幕府から命じられた享和3年(1803)「陸奥国津軽郡村仮名附帳」の作成に際して,弘前藩が音読みを採用したことから,音読み「じゅうさん」が十三の地名呼称として定着した。そこには近世国家における漢字文化の普及によって漢字表示地名が呼称地名を変改してゆく姿が看取され,十三も例外ではなかった。第2は,十三津波伝承について,藩政時代には前代歴譜などに掲載された「興国元年の海嘯」伝承と津軽一統志等に見える白髭水伝承とは別個のものであった。しかし,近代にはいって両者の伝承が広く知られるようになったことから,次第に同じものとみなされるようになり,その結果1940年代には現在における「興国元年の海嘯」=白髭水,いわゆる十三津波伝承が形成されるようになった。第3は,近年注目を集めている「慶安元年極月 奥州十三之図」(函館市立図書館蔵)の年代について考証した。はぼ同様の時期と手法で描かれたであろうと推定される鰺ヶ沢・深浦の湊絵図(同館蔵)との比較考証の結果,天和3年(1683)以前の絵図であることは間違いなく,さらに慶安元年の年記を正確なものであると立証はできなかったが,17世紀前半の十三・鰺ヶ沢・深浦の各湊を描写したものと見て支障はないのではないか,という結論を得た。以上の3つの主題はいずれも相互に密接な関連をもつものとはいえないが,今後の近世十三湊の研究に際して決して見落としてはならない基本的な問題であろう。また中世十三湊を記す中世史料が決定的に不足している現況からすれば,十三湊に関する近世の史料類や絵図,伝承の再吟味は中世十三湊の解明に手掛かりを与えることが可能なのでないかと考えるのである。
著者
松田 睦彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.11-24, 2015-12-25

小稿は人の日常的な地域移動とその生活文化への影響を扱うことが困難な民俗学の現状をふまえ,その原因を学史のなかに探り,検討することによって,今後,人の移動を民俗学の研究の俎上に載せるための足掛かりを模索することを目的とする。1930年代に柳田国男によって体系化が図られた民俗学は,農政学的な課題を継承したものであった。柳田の農業政策の重要な課題の一つは中農の養成である。しかし,中農を増やすためには余剰となる農村労働力の再配置が必要となる。そこで重要となったのが「労力配賦の問題」である。これは農村の余剰労働力の適正な配置をめざすものであり,柳田の農業政策の主要課題に位置づけられる。こうした「労力配賦の問題」は,人の移動のもたらす農村生活への影響についての考察という形に変化しながら,民俗学へと吸収される。柳田は社会変動の要因として人の移動を位置づけ,生活変化の様相を明らかにしようとしたのである。しかし,柳田の没後,1970年代から1980年代にかけて,柳田の民俗学は批判の対象となる。その過程で人の移動は「非常民」「非農民」の問題へと縮小される。一方で,伝承母体としての一定の地域の存在を前提とする個別分析法の隆盛により,人の移動は民俗学の視野の外へと追いやられることになった。人の日常的な移動を見ることが困難な民俗学の現況はここに由来する。今後,民俗学が人びとの地域移動が日常化した現代社会とより正面から向きあうためには,こうした学史的経緯を再確認し,人びとが移動するという事象そのものを視野の内に取り戻す必要がある。Regular population movements between regions and their impacts on lifestyle and culture are difficult topics for today's folklorists to address. In order to identify the causes of such difficulties, this paper examines the history of folklore studies. The end goal of this examination is to find clues as to how future folklore studies can address the issue.The folklore studies systematized by Kunio Yanagita in the 1930s were derived from agro-politics. One of the major agro-political issues he was interested in was the development of medium-scale farmers. In order to increase their number, rural surplus labor needed to be reallocated. What was important there was the issue of labor allocation to make full use of rural surplus labor. This was a main focus of Yanagita in his research on agricultural policies. It was later absorbed by folklore studies while being transformed into the issue of impacts of population movements on rural life. Yanagita regarded population movements as a factor of social changes and examined the phenomenon to reveal changes in lifestyle.His folklore studies, however, were criticized after his death, in the 1970s and 1980s, during which the issue of population movements was trivialized to the issues of "non-folks" and "non-farmers." The rise of a separate analysis method based on the assumption that there were communities that served as bases for transmitting tradition also marginalized the issue of population movements from folklore studies. This is why regular population movements are difficult topics for today's folklorists to deal with.Now that we are living in a society where inter-regional population movements have become very common, it is essential for folklorists to recognize the above-mentioned historical context of folklore studies and incorporate the perspective of population movements into their studies.

3 0 0 0 OA 渡嶋再考

著者
小口 雅史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.84, pp.5-37, 2000-03-31

斉明紀に見える「渡嶋」が具体的にどの地域を指すのかという問題の解明は、日本古代国家における一大転機であった大化改新後の初期律令国家の形成過程や、当時の国際関係を考える上できわめて重要な問題であって、早く江戸時代から学者の注目を集めてきた。古くは津軽の北は北海道であるという単純な理解から、渡嶋=北海道説が流布していたが、その後、津田左右吉等によって『日本書紀』のいわゆる「比羅夫北征記事」の厳密な読解が試みられるようになり、史料の解釈から渡嶋を本州北部の内におさめる見解が有力となっていき、戦後の通説的位置を永く占めてきた。しかし近年の北海道考古学の急速な進展にともなって本州と北海道との間の豊かな交流が明らかになるにつれて、比羅夫は当然北海道へ渡ったであろうという共通認識が形成され、津軽の北は当然北海道であるという渡嶋=北海道説が復活し、現在ではこれが通説となったと言ってよい。しかし中世以前における「津軽」は、現在の津軽地方の南部のみを指す語であり、半島海岸部はむしろ道南地域と密接な関わりを持つ世界であった。またそうした津軽海峡を挟む世界は、道央部あるいは道東・道北部とはやはり違った世界である。こうしたことを考えるとき、津軽の北に位置するという渡嶋はこの海峡を挟む世界に相当するのではないかと思われる。そのさらに北には「粛慎」の世界が存在したのであるが、それこそ道央部や道東・道北部といった、本州側からはよりいっそう未知の世界であったのではないか。「粛慎」の風俗習慣などについての多様な史料の在り方は、「粛慎」自体のもつ複合的な民族要素によっているものと思われる。この津軽海峡を挟む世界は、一〇世紀頃にいったん消滅し、それが渡嶋という用語の消滅の背景となるが、まもなく復活し、中世においては、津軽海峡を「内海」とする、海峡の南北一体の世界がまた形成されていったと考えられる。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.199, pp.55-66, 2015-12-25

1970年代から80年代にかけて盛んに論じられた都市民俗学はどのように形成され,どういった可能性と限界とを持っていたのだろうか。本稿はそうした問題について,都市民俗学の模索段階,形成期について検討し,その様相について論述を試みる。さらに都市民俗学を表面的には標榜しなくても,都市をとらえた民俗研究を検討し,その可能性を指摘する。ここでは特に世間話や個人に関する着目が重要であったことを確認する。全体として,都市民俗学は現代社会や民俗変化を対象化するムラを超える民俗学へと民俗研究が発展的に解体する過程と位置づけることができ,そこでの問いや模索された対象や概念化の取り組みは,現代における民俗的諸事象との対峙を志向する研究へと分節化されたということができるのである。
著者
岸本 直文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.369-403, 2014-02

1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,¹⁴C年代データは新たな枠組みを提示しつつある。箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。The development of the study on sankakubuchi shinjukyo (triangular-rimmed mirrors decorated with gods and animals) in the 1990s dated the Hashihaka burial mound to around the middle of the third century. This research results revealed a direct connection between the Wa State described in Gishiwajinden (Account of the Wa in History of the Wei Dynasty written by Chinese) and the Wa Sovereignty and enabled to understand them as consecutive development. This is because it can be considered that the proliferation of keyhole-shaped burial mounds and gamontai shinjukyo (mirrors with an image band decorated with gods and animals) throughout the area around the Seto Inland Sea, which can be regarded as the movements of the Wa State described in Gishiwajinden, started when Himiko was queen of the Wa State in the first half of the third century. Therefore, the establishment of the Wa Sovereignty with several coexisting Wa kings can be dated to the beginning of the third century. This starting point of the Wa State, which exceeded the regional boundaries of the Yayoi period, marked a turning point of the age. Defined as "the period of nation building in Wa," the Kofun period can include the first half of the third century as its early stage.Remaining challenges are to get a clear picture of the Yamato State in the Late Yayoi period, as a leading force in the Wa State, and understand why the Yamato State became the leader of the Wa State after the domestic warfare. On the other hand, since there were exceedingly few iron implements and large-scale burial mounds, some researchers consider that the Wa Sovereignty did not follow as an extension of the Yamato State in the Kinai region but was established by an emerging force in the eastern Setouchi region. There are significant differences of opinion on who established the Wa State.With regard to the shift from the Yayoi period to the Kofun period, the carbon-14 dating method is suggesting a new framework. The method can reconfirm the date of the Hashihaka burial mound as around the middle of the third century. More importantly, the Shonai pottery is dated earlier to the second century. This means that the formation of the Makimuku site is also dated earlier to before the birth of the Wa State. Therefore, the site can be regarded as the independent establishment of the base of the Yamato State.Defining the Kofun period as described above, the present article is aimed at giving the latest picture of how the Wa State was established, based on the new view of dating. To this end, the article covers the establishment process of the Yamato State from the Late Yayoi period to the Kofun period and new perspectives on the Makimuku site, as well as examines the development of keyhole-shaped burial mounds including a comparison between the Tatetsuki mound tomb and Makimuku Ishizuka burial mound.
著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.173-223, 2008-03-31

本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。
著者
新井 勝紘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.126, pp.67-85, 2006-01-31

日本における軍事郵便制度の確立は、一八九四年の日清戦争時に出された勅令がはじまりで、前史としては、一八七四年に太政官布告の「飛信逓送規則」がある。非常時の特別郵便の必要性は早くから認識されていた。日清戦争時だけでも内地と戦地とを合せて一二三九万通余りの量になり、日露戦争時には四億六千万通近い数になっている。戦争の規模も動員数も日清戦争とは大きな隔たりがあるが、その取扱い件数は桁違いで、軍事郵便規則や軍事郵便取扱規程が定められ、我国の軍事郵便制度は日露戦争を契機として整ったといえる。その後増補改正をしつつ、アジア太平洋戦争へとつながり、一九四六年まで続く。このように軍事郵便史を紐解くと、日本の近代史に刻印されている戦争の姿がみえてくる。それは当然ながら、国民意識にも強い影響を与えている。二一世紀に入り、日露戦争一〇〇年、戦後六〇年という節目の年を迎えているが、日本近現代史研究のなかでも、改めてさまざまな視点による戦争研究が活発になり、とりわけ戦争参加が最初で最後の外国体験となった兵士の立場に注目し、かれらの戦争体験を改めて分析対象に据えてみようと多くの取り組みがなされている。個人のプライベイトな手紙である軍事郵便研究もその流れのひとつといえよう。ではいったい、軍事郵便研究の足跡はどのようになっているのだろうか。すでに複数の成果があるが、まだ数が少ない。軍事郵便そのものの発掘と公開が遅れており、筐底に埋もれたまま放置されている。戦争体験者も高齢化し、間もなく直接の聞き取りも困難になる。この現実の上にたって改めて軍事郵便に注目してみると、制度史、郵便そのものの内容分析と比較検討、兵士の戦争体験の中身、銃後の人々の意識、その往復過程での相乗作用、野戦郵便局と検閲の変遷と実態、先行研究の文献確認と課題などが山のように見えてきたが、まず本稿は基礎的研究から着手し、今後の私の研究の端緒としたい。
著者
永島 朋子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.218, pp.183-204, 2019-12-27

本稿は、延喜太政官式123考定条に規定されている挿頭花(かざし)を素材に、平安貴族社会の可視的表象の一端について考察した。挿頭花には造花を装飾する場合と生花を装飾する場合とがある。『延喜式』では一例のみ挿頭花についての記載が見える。それが延喜太政官式123考定条である。延喜太政官式123考定条は、八月十一日に太政官職員の長上官の考文を太政官曹司庁で大臣に口頭報告する儀式である。しかしながら、延喜太政官式123考定条は、挿頭花が穏座三献の場で装飾されることを定めているのみで、実態については記していない。そこで、定考の挿頭花装飾の具体的な様相を解明するため、『政事要略』巻二十二所引西宮記本文に着目し、検討を加えた。その結果、定考での挿頭花には大臣は白菊、納言は黄菊、参議は竜胆、弁以下少納言には時の花(=生花)の挿頭花が装飾されていること、その装飾の場面は太政官曹司庁で行われる饗宴のうち穏座三献であること、穏座三献で用いられている挿頭花は雅楽寮が奏楽を行う間、挿頭花装飾者よりも下位の者が手に取り、装飾者の冠に挿すこと、それがひと続きの作法であったことなどの特徴を抽出した。その上で、定考で用いられる挿頭花の区分は太政官政務処理上の権限の違いを可視化していることなどを指摘した。そして、『政事要略』所引西宮記本文が『西宮記』を著した源高明が大納言として習得した村上天皇の天徳・応和年間(九五七~九六三)までの様相を伝えていることから、この段階までには挿頭花装飾の序列と装飾者の固定化が生じていることを確認した。定考は、天皇の出御が見られないとはいえ、天皇の官制大権に関わる儀式でもある。その穏座三献で挿頭花を用いる制度的な根拠となったのが、延喜太政官式123考定条であることなどを述べた。
著者
松田 睦彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.183, pp.187-207, 2014-03-31

小稿は山から石を切り出す採石業に従事する石屋が祀る山の神について,その祭祀の実態を明らかにすることを目的とする。しかし,この目的を達するためには,生業と信仰の関係に注目した研究を取り巻く3 つの問題点を克服しなければならない。すなわち,取りあげられる生業が限定的であること,祭祀の形態についての報告が多くその実態が明らかでないこと,そして,特定の職と職能神との固定的な関係性を前提としていることである。小稿では,この3 つの問題点をふまえたうえで,瀬戸内海地域で活動してきた石屋の山の神祭祀を具体的に検討した。その結果,祭神については特定の神仏と結びつかない例のほか,大山祇神社の大山祇命や石鎚山の石鎚大神といった近隣の社寺の祭神などを祀ることが明らかとなった。また,祭日については正月・5 月・9 月の7 日または9 日という例が多いが,これは近畿から中国,四国に広がる7 日または9 日を山の神の祭日とする考え方と,九州地方を中心に広がる正月・5 月・9月を山の神の祭りを行なう日とする考え方が融合したものである可能性を指摘した。さらに,祭場については山中の特定の場所に簡易に祀るものから神社として祀るものまで多様であり,祈願内容については不慮の事故の防止や良質の石材の産出などが挙げられた。ただ,こうした祭祀の様相は,祭祀の実態を示すものではない。そこで,山の神祭りを行なってきた当事者の語りに注目し,それを同じく石屋の祀る神であるフイゴ神の祭祀についての語りと比較した。すると,これまで石屋の祭祀の中心をなすと考えられてきた山の神に対する信仰が,必ずしも熱心だとは言い難いものであることが明らかになった。こうした結論は,3 つの問題点の3 番目に挙げた特定の職と職能神との固定的な関係を前提とした研究のはらむ危険性を示すものでもある。
著者
倉石 忠彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.237-262, 2003-03-31

道祖神は境界の神であるとする認識は広い。しかし、そのような視点のみによって、民間伝承として全国に伝承されている道祖神の、多様な習俗のあり方が十分に説明されたわけではない。特に都市における道祖神信仰はほとんど視野に入っていなかった。しかし、文献上にみられるのは都市の道祖神信仰である。中世以前は京の都を中心とするが、近世城下町においても盛んに道祖神の祭りが行われている。十九世紀初頭の民間伝承を記録した『諸国風俗問状答』にみられる秋田・長岡の道祖神祭りには、城下町の空間と階層に基づく道祖神祭りのあり方が明確に見られる。これは信州松本あるいは松代においても同様であり、道祖神の信仰が人々の生活と密着していたということができる。そこにみられるのは必ずしも境を閉じて外来のものを遮り止める機能だけではない。境を開く機能を持ち、家の繁栄と生活の安泰を祈る対象でもあった。このような機能を持つようになったのは、境界神が男女双体の神と認識されるようになった結果である。記紀神話においては必ずしも性的な認識がなく、単神として記録されている境界神に性的要素が付加されることにより、境界において閉じる機能を発揮するのではなく、開く機能を発揮する神と考えられるようになった。これはまた佐倍乃加美と呼ばれていた神に、「道祖」の文字が当てられ、さらに「道祖神」と表記され、これがドウソジンと音読みされる契機になった。そのことによって、境界性に制約されることなく、様々な要素を付加されやすくなったということができるであろう。現在でも、都市においては道祖神信仰は再生産されている。