- 著者
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藤沢 敦
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.152, pp.441-458, 2009-03-31
日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。南東北の古墳と,北東北の続縄文系の墓と7世紀以降の「末期古墳」の関係については,資料が豊富な太平洋側で検討した。墳墓を中心とする考古資料に見える文化の違いは,常に漸進的な変移を示しており,明確な境界は存在しない。異なる文化の境界は,明確な境界線ではなく,広い境界領域として現れる。このような中で,大和政権から律令国家へ至る中央政権は,宮城県中部の仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視する。各種考古資料の分布から見ると,最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれている。東北北部と北海道では,7世紀以降,北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いが顕在化する。この両者の関係を考える上で重要なことは,「末期古墳」が,北海道の道央部にも分布する点である。道央部では,北東北の「末期古墳」と強い共通点を持ちつつ,部分的に変容した墓も造られる。しかも,続縄文系の墓と「末期古墳」に類似する墓が,同じ遺跡で造られる事例が存在する。さらに,続縄文系の墓の中には,「末期古墳」の影響を伺わせるものもある。道央部では,「末期古墳」と続縄文系の墓は密接な関係を有し,両者を明確な境界で区分することは困難である。このような墳墓を中心に見た検討から見ると,異なる文化間の境界は,截然としたラインで区分できない。このことは,文化の違いが,人間集団の違いに,簡単に対応するものではないことを示している。