著者
鈴木 由利子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.157-209, 2017-03

水子供養が、中絶胎児に対する供養として成立し、受容される経緯と現状についての調査と考察を行った。水子供養が一般化する以前の一九五〇年代、中絶胎児の供養は、人工妊娠中絶急増を背景として中絶手術を担った医療関係者によって散発的に行われた。一九六五年代には、中絶に反対する「いのちを大切にする運動」の賛同者により、中絶胎児と不慮死者を供養する目的で「子育ていのちの地蔵尊」が建立され、一般の人びとを対象とした供養を開始した。一九七一年になると、同運動の賛同者により、水子供養専門寺院紫雲寺が創建された。同寺は中絶胎児を「水子」と呼び、その供養を「水子供養」と称し、供養されない水子は家族に不幸を及ぼすとして供養の必要を説いた。参詣者の個別供養に応じ、個人での石地蔵奉納も推奨した。この供養の在り方は、医療の進歩に伴い胎児が可視化される中、胎児を個の命、我が子と認識し始めた人びとの意識とも合致するものだった。また、中絶全盛期の中絶は、その世代の多くの人びとの共通体験でもあり、水子は不幸をもたらす共通項でもあった。胎児生命への視点の芽生えを背景に、中絶・胎児・水子・祟りが結びつき流行を生みだしたと考えられる。水子供養が成立し流行期を迎える時代は、一九七三年のオイルショックから一九八〇年代半ばのバブル期開始までの経済停滞期といわれたおよそ一〇年間であった。一方、水子供養の現状について、仏教寺院各宗派の大本山・総本山を対象に、水子供養専用の場が設置、案内掲示があるか否かを調査した。結果、約半数の寺院境内に供養の場が設置されているか掲示がみられ、明示されない寺も依頼に応じる例が多い。近年の特徴として、中絶胎児のみならず流産・死産・新生児死亡、あるいは不妊治療の中で誕生に至らなかった子どもの供養としても機能し始めている。仏教寺院を対象とした水子供養の指針書の出版もみられ、水子供養のあるべき姿やその意義が論じられている。This paper examines how the memorial services for babies died as a result of abortion was established and accepted as well as what it is like now. At the post-Second World War period, the number of abortions rapidly increased, and memorial services for aborted babies were performed intermittently by medical workers involved in abortions. Subsequently, supporters for the Pro Life Campaign (an anti-abortion movement in the 1960s) contributed to the creation of a Statue of Kosodate Inochi no Jizōson (the Guardian Deity of Child-rearing and Life) in 1965 and started to hold memorial services for the general public. The services were held not only for aborted babies but also for children died from accidents. In 1971, Shiun-ji Temple was established as a special temple for memorial services for aborted babies. As soon as the temple started to hold memorial services for aborted babies (called as Mizuko Kuyō), the services prevailed. It is considered because the advancement of obstetrics technologies made it possible to recognize the fetal life and because people tried to resolve the domestic problems arising through drastic social changes during the rapid economic growth period by attributing them to aborted babies. The majority of the head temples of Buddhist sects expressly offer memorial services for aborted babies. Many temples without places for memorial services for aborted babies also hold such services when requested. Thus, memorial services for aborted babies seem to generally prevail today.
著者
藤沢 敦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.441-458, 2009-03-31

日本列島で古代国家が形成されていく過程において,本州島北部から北海道には,独自の歴史が展開する。古墳時代併行期においては,南東北の古墳に対して,北東北・北海道では続縄文系の墓が造られる。7世紀以降は,南東北の終末期の古墳と,北東北の「末期古墳」,そして北海道の続縄文系の墓という,3つに大別される墳墓が展開する。南東北の古墳と,北東北の続縄文系の墓と7世紀以降の「末期古墳」の関係については,資料が豊富な太平洋側で検討した。墳墓を中心とする考古資料に見える文化の違いは,常に漸進的な変移を示しており,明確な境界は存在しない。異なる文化の境界は,明確な境界線ではなく,広い境界領域として現れる。このような中で,大和政権から律令国家へ至る中央政権は,宮城県中部の仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視する。各種考古資料の分布から見ると,最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれている。東北北部と北海道では,7世紀以降,北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いが顕在化する。この両者の関係を考える上で重要なことは,「末期古墳」が,北海道の道央部にも分布する点である。道央部では,北東北の「末期古墳」と強い共通点を持ちつつ,部分的に変容した墓も造られる。しかも,続縄文系の墓と「末期古墳」に類似する墓が,同じ遺跡で造られる事例が存在する。さらに,続縄文系の墓の中には,「末期古墳」の影響を伺わせるものもある。道央部では,「末期古墳」と続縄文系の墓は密接な関係を有し,両者を明確な境界で区分することは困難である。このような墳墓を中心に見た検討から見ると,異なる文化間の境界は,截然としたラインで区分できない。このことは,文化の違いが,人間集団の違いに,簡単に対応するものではないことを示している。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.249-268, 2008-12-25

近年、神社史研究が活発化しつつあるが、その分析対象となる多くの神社史料がもつ歴史的特徴や問題点について留意されることが少ない。そこで神社史料についての資料学的検討を行った。第一は、現存する神社や現任の神官層の保管下にある神社史料群はむしろ限定された文書群にすぎず、むしろより多くの関係史料群が社家文書として個人所蔵に帰しており散逸の危機に直面し、史料群の全体像はなお不明の状態のものが多いといわなければならない。社家文書の群としての全体的構造を理解することは、神社資料に対する史料批判を厳密にするうえで必要不可欠な作業である。第二に、個別神社史料群は、明治の廃仏毀釈によって仏事関係史料群が流出し、史料群の構成は大改変を受けている。そのため、現存史料群から描く神社史像は歴史実態から乖離してしまうという問題に直面することになる。改めて、廃仏毀釈の実態解明や旧聖教類の所在についての史料調査が重要な課題になっている。第三は、現存する神社史料群は、とくに近世・近代の神官層による神道書や縁起の編纂・改変という諸問題を抱えている。しかし、それらの解明は今後の課題であり、史料学的な問題点として論じられていない。神道史というものが近世国学や近代国家神道によって、「近代日本的な偏見」を受けていることが指摘されてきた。近世・近代の国家神道の下で神道書や神社史料がどのようなイデオロギー的変容を遂げたのかをあきらかにすることは、神社史料研究の一研究分野としなければならない。こうした神社史料ももつ諸問題や特質をトータルとして論じる多面的な資料学的研究が必要になっている。
著者
菊地 暁
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.141-172, 2011-03-31

従来の「民俗学史」が抱えてきた「柳田中心史観」「東京中心史観」「純粋民俗学中心史観」ともいうべき一連の偏向を打開すべく、筆者は「方法としての京都」を提唱している。その一環として本稿では国民的辞書『広辞苑』の編者・新村出(一八七六―一九六七)を取り上げる。新村は柳田国男と終生親交を結び続けたが、その学史的意義が正面から問われたことはこれまでなかった。その理由の一端は、両者の交流を跡づける資料が見つからなかったことによるが、筆者は、新村出記念財団重山文庫ならびに大阪市立大学新村文庫の資料調査から、柳田が新村に宛てた五〇通あまりの書簡を確認した。これらは便宜的に、a)研究上の応答、b)資料の便宜、c)運動としての民俗学、d)運動としての方言学、e)交友録、に区分できる。これらの書簡からは、明治末年から晩年に至るまで、語彙研究を中心とした意見交換がなされていること、柳田の内閣書記官記録課長時代に新村が資料閲覧の便宜を得ていること、逆に柳田が京大附属図書館長の新村に資料購入の打診をしていたこと、柳田が「山村調査」(一九三四―一九三六)の助成金獲得にあたり、新村に京大関係者への周旋を依頼していること、一九四〇年創立の日本方言学会の運営にあたって、研究会開催、学会誌発行、会長選考、資金繰りなど、さまざまな相談していること、等々が確認される。こうした柳田と新村の関係は、一高以来の「くされ縁」と称するのが最も妥当なように思われるが、その前提として、「生ける言語」への強い意志、飽くなき資料収集、言語の進歩への楽観、といった言語認識の基本的一致があることを忘れてはならない。さらには、二人の関係が媒介となって、京大周辺の研究者と柳田民俗学との交流が促進されたことも注目される。
著者
渡邉 一弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.95-118, 2012-03

日中戦争中の弾丸除けの御守である千人針や日の丸の寄書きを見ていると、かなり頻繁に出てくる見慣れない漢字のような文字「[扌+合+辛][扌+台][扌+合+辛][扌+包+口](サムハラ)」。その文字は千人針のみならず衣服に書き込まれたり、お守りとして携帯された紙片に書かれたり、戦時中の資料に様々な形で見られサムハラ信仰とも言うべき習俗であることが分かる。戦時中のサムハラ信仰は、弾丸除け信仰の一つに集約されていたと考えられるが、その始まりは少なくとも江戸時代に遡り、その内容は、怪我除け、虫除け、地震除けなど多岐にわたっていた。「耳囊」をはじめとした江戸期の随筆にこの奇妙なる文字、あるいは符字とも呼ばれる特殊な漢字が度々紹介されている。その後、明治時代になり、日清・日露戦争といった他国との戦争に際して、弾丸除けのまじないとして、活躍することとなる。出征する兵士に持たせるお守りとして大量に配られ、その奇妙なる文字は兵士たちの間で弾丸除けの俗信として広がっていった。なかでも田中富三郎という人物の活動がサムハラ信仰を全国的に知らしめるきっかけとなり、戦時中のサムハラ信仰を全国的に普及させ、現在のサムハラ神社に引き継がれている。俗信の研究の重要性は、宗教などに権威化されたお札などと違って、民間信仰のなかから生まれ、少しずつ様々な意味づけがなされ、いつの間にか人々がその奇跡を信じ、成立するものである。戦時中の人々は、弾丸除けの俗信を信じることで、その現実を乗りきろうとした。こうした俗信の由来は、その時代時代に信じやすいように様々な逸話が加えられ、加工されていく。その時代のなかで解釈することと、その俗信の変化を通史的に整理することと、その両面が研究として必要となる。サムハラ信仰の研究は少なからずあるが、断片的であり、通史的に現代までを俯瞰する研究はない。本稿では、江戸期に始まるサムハラ信仰を現代まで俯瞰することを目的とする。"Samuhara," which is a group of letters like unfamiliar kanji, appears very often in senninbari, which is a charm against bullets during the war, and hinomaru yosegaki. The letters were not only written on senninbari but also on clothes and pieces of paper to be carried as charms and appear in wartime materials in various forms, which indicates that the custom was what could be called the samuhara belief.The wartime samuhara belief would have been focused on a single belief to protect against bullets. However, when it started in the Edo period, its contents varied from protection against injuries to that against insects, and earthquakes, etc. Essays from the Edo period, including "Mimibukuro," often introduce these strange letters or kanji, known as fuji.During the Meiji period, these letters played an important role as a charm against bullets in wars against other countries, such as the Sino-Japanese War and the Russo-Japanese War. They were also distributed as charms to the soldiers who went to war, and became known among soldiers as a popular belief to protect against bullets.In particular, Tanaka Tomisaburo took the initiative to ensure the samuhara belief was known nationwide. Because of him, the wartime samuhara belief spread nationwide and was inherited by the current samuhara shrine.The study of these folk beliefs is important for the following reasons. Unlike talismans authorized by religions, folk beliefs were born from popular beliefs. They gradually gained various meanings until eventually the miracles were believed in by people and became established. Wartime people attempted to surpass the reality by trusting in such folk beliefs.Various anecdotes were added to the original folk beliefs to make them more plausible in each period. Both interpretations of each period and an overview of the changes in folk beliefs over history will be necessary for the study.Although there have been many studies of the samuhara belief, they are fragmented, and none provide an overview of the complete history to the present. This article is an attempt to provide an overview of the samuhara belief from the Edo period when it started to the present.
著者
中島 丈晴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.107-129[含 英語文要旨], 2010-03

伊勢湾・知多湾・三河湾・渥美湾を伊勢湾内海として広域的にとらえると、交通の要衝が室町将軍権力によって掌握されていたことが知られる。本論では残存史料が豊富で、伊勢湾内海とも関わりを持った将軍側近・政所執事の伊勢氏を通して、その権力編成が伊勢湾内海地域に与えた歴史的影響を探った。そのために本論では、十五世紀中葉における伊勢氏と被官衆との結合関係の分析を通して、被官衆の組織形態の全体像を把握し、その編成原理を明らかにするとともに、伊勢氏権力構造の特質についても検討することを課題とした。伊勢氏の家政職員である在京被官は、将軍家御物奉行として室町殿に供奉するとともに、在国して各地の「住人」を自身の寄子とし、伊勢氏被官化形成の重要な役割を担っていた。在京被官による、在国被官から伊勢氏への「御対面始」、「代始出仕」、進物の取り次ぎは個別的なものではなく一般的に定着しており、在京被官と在国被官は「申次―寄子」関係による編成であったといえる。伊勢氏の軍事基盤と評価される在国被官は、それに対する奉仕として在京被官に武力協力をしたと推測される。料所代官として在国し、自身の領国的基盤をもたない在京被官が、しばしば伊勢氏から守護譴責に対する幕府御家人への合力を命じられているのはそれゆえと考えられる。つまり両者は権力編成上におけるギブアンドテイク関係にあったといえる。しかし、在国被官は農業経営から分離しておらず、在地で直面する諸問題にさいし自力救済の「弓矢」に及ぶなど分裂・対立することがあり、軍事基盤としては不安定であった。在京被官と在国被官の「申次―寄子」関係に対し、伊勢氏と在京被官は、相続安堵過程の分析から、家同士の結びつき、「奉行」、「預所」など家産経営権の安堵といった点が確認され、家政職員としての活動とあわせ、まさに家産官僚制による編成であったといえる。つまり伊勢氏権力は、家産官僚制と「申次―寄子」関係の二重の編成原理によって構成されていた。権勢を誇った伊勢貞親が没落した文正の政変における被官衆の動向の違いは、編成原理の相違による伊勢氏権力の構造的問題であったと考えられる。こうした伊勢氏権力構造の特質にもとづく権力編成こそ、戦国期にいたるまで伊勢湾内海地域において伊勢氏被官の系譜を引く国人たちが活躍しえた背景であったと考えられる。It is known that strategic traffic points around the Ise Bay Inland Sea, broadly speaking consisting of Ise Bay, Chita Bay, Mikawa Bay and Atsumi Bay, were under the control of the Muromachi shogun. Using the abundance of extant historical materials, this paper explores the historical influence that the power structure of the Ise clan had on that area. At that time, the Ise clan was close to the shogun and held positions in the shogunate's office of administration (mandokoro) and also had connections with the Ise Bay Inland Sea.Through a study of the connections that existed between the Ise clan and hikan (low-ranking retainers) in the mid-15th century, this paper presents a general portrait of the organization of hikan, and in addition to identifying underlying organizational principles, it also examines characteristics of the power structure of the Ise clan.Ise clan administrative officials who served in the capital (Kyoto hikan) served at the Muromachi palace as personal attendants of the shogun. When they served in their home province they made the local inhabitants their retainers, thus playing an important role in the formation of Ise clan hikan. The brokering by Kyoto hikan of meetings between provincial hikan and the Ise clan, attendance at imperial succession ceremonies and gifts was not ad-hoc, but a general practice. The relationship between the Kyoto hikan and provincial hikan was one of "moshitsugi- y oriko,"that is, between bakufu spokesmen for the imperial court and dependent retainers.We may conjecture that provincial hikan, who are seen as having constituted the military base of the Ise clan, gave their military cooperation to the Kyoto hikan whom they served. This most likely occurred because provincial hikan oversaw shogunal holdings and Kyoto hikan, who did not have their own provincial base, were frequently ordered by the Ise clan to assist bakufu vassals with shugo (military governor) reprimands. That is to say, the power structure afforded a give-and-take relationship between the two parties. However, since provincial hikan were still involved in farming, there were divisions and conflicts over the various local issues they faced, which even saw them resorting to arms to resolve a situation, resulting in an unstable military base.Whereas Kyoto hikan and provincial hikan had a"moshitsugi-yoriko"relationship, a study of the process of the confirmation of inheritance confirms links between members of the same family and the right to manage family property. Accordingly, their activities as administrative officials were combined with a bureaucratic organization for family property. In other words, the power of the Ise clan was based on a two-tiered structure comprising a family property bureaucracy and a"moshitsugi-yoriko"relationship. The different actions taken by hikan in the Bunsho change in power in which Ise Sadachika lost his power were the result of a structural problem in the power of the Ise clan caused by the differences in the two organizational principles.It is precisely this power organization based on the characteristics of the power structure of the Ise clan that enabled local overlords (kokujin) with genealogical ties to Ise clan hikan to remain active in the Ise Bay Inland Sea area up until the Sengoku period.
著者
三浦 正幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.85-108, 2008-12

寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。Shrine honden (main sanctuaries) are smaller than the butsudo (Buddha halls) of temples and the inside of a honden is not used very much. However, one feature of honden is that they vary in style and external appearance. Architectural history divides these diverse styles into different categories and explains their origins. Descriptions of the size and styles of honden that are designated cultural properties are mainly classified mechanically according to differences in the style of roof, as is done for temple buildings, and the mixing in of some honden styles unique to shrines is both inconsistent and inappropriate.This paper re-examines current classification of styles, and proposes to correct some, especially the ryonagare-style. According to Eizo Inagaki, there are three main styles of honden, those with a ground sill, those with a central pillar, and those consisting of two rooms. Inagaki's classifications enjoy broad support across different academic fields. However, the author is critical of Inagaki's contentions and does not accept that kasuga-style and nagare-style honden with a ground sill changed from being temporary structures like a mikoshi, which were portable, to being permanent structures, or that shinmei-style and taisha-style shrines have the same origin because they have central pillars. A ground sill is a structural member that is necessary to stabilize a small structure, and does not date from the period of temporary honden, but originated in permanent honden that were of similar origin to those of the shinmei-style. Furthermore, with regard to Inagaki's opinion that both the shinmei-style and taisha-style were influenced by Buddhist architecture and were created to counter the Buddhist style, the author believes that the shinmei-style was created by the imperial court in the latter part of the 7th century and that the taisha-style was created by local chiefs. Given the definition of a honden as a" building with exclusive space for the permanently present kami," and also that the entire interior of a shinmei-style honden is exclusive space for the kami and that in a honden of the taisha-style only the inner sanctuary inside constitutes this exclusive space, the author shows that both are completely different in origin and that it is possible that the latter was derived from saiden (an early religious building).The author also criticizes Hirotaro Ohta's theory that honden in the irimoya-style evolved from haiden (worship halls) for shintaisan (mountains which are believed to be kami's body). In the author's opinion, irimoya-style honden came into being in the late Heian period when ichinomiya and other important shrines were built in each province. As honden that were much bigger than other shrines, they had a storehouse for the many sacred treasures given to the shrine in addition to the exclusive space for the kami. In conclusion, when discussing the categories and origins of styles of honden, it is necessary to pay attention to the relationship between space that is exclusive to the kami and space that is used by people.
著者
井上 隆弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.257-291, 2008-03-31

近年、神楽祭儀の根底にある死霊祭儀としての側面に光があてられている。筆者も前著『霜月神楽の祝祭学』において、静岡県水窪町の霜月祭と呼ばれる湯立神楽の深層にある死霊祭儀としての性格について明らかにした。そうした知見をふまえるなら、同じく死霊祭儀としての性格をもつ念仏踊と神楽の比較研究は必須のものといわなければならない。本稿は、こうした立場から、水窪における霜月祭と念仏踊の祭儀の構造比較をとおして、両者に共通する死霊祭儀の特徴的な性格を明らかにし、三信遠における神楽や念仏踊の研究に資することを意図したものである。まず霜月祭についてみると、そこには特有な二重性が見られる。神名帳には一般の神々と区別される形で、ともすれば崇りやすい山や川などのさまざまなマイナーな神霊の名が挙げられ、また死霊の名が公然と記されているのが水窪の特徴である。また、この二重性は湯立や神送りの祭儀にも見られる。死霊を祀る湯立や死霊を送る神送り祭儀が、一般の神々のそれとは明確な区別をもって執行されているのである。念仏踊について見ると、霜月祭と同様の神名帳を読誦する大念仏などと称される踊りが行われるのが水窪の特徴である。新盆踊においては新霊供養の和讃が重視されるが、それ以外の施餓鬼踊、送り盆などでは神名帳を読誦する念仏のウエイトが高い。このように念仏踊は、神々を祀り鎮めるものでもあるのである。その神々のなかには、在地のマイナーな崇り霊とともに、さまざまな死霊も挙げられている。このように霜月祭と念仏踊でともに祀り鎮められる死霊のなかでもとくに重視されたのは禰宜死霊である。禰宜死霊は神名帳のなかでも特別の存在であり、念仏踊の送り盆においては、一般の死霊と区別される形で、まず最初に禰宜死霊が送られるのである。このような禰宜死霊の存在は、村社会における呪的カリスマとしての禰宜の存在の反映であった。禰宜はそのような存在として、さまざまな崇り霊を鎮めたり憑き物を落したりする祈祷を行い、村人の日常生活に欠かせない存在であったのである。このように禰宜死霊が特出した位置をもっているのが、水窪に代表される三信遠における死霊祭儀の特徴といえるであろう。
著者
吉水 眞彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.199-228, 2013-11-15

天智天皇の近江大津宮は667年,後飛鳥岡本宮から遷都され,5年数ヶ月を経た672年の壬申の乱によって廃都と化した短命の宮都である。7世紀代の宮都で大和以外の地へ宮都が移されたのは前期難波宮と大津宮だけである。その一つである大津宮跡は,現在,琵琶湖南湖南西岸の滋賀県大津市錦織に所在することが判明している。大津宮の実像を知るために宮の構造や白鳳寺院の実態,周辺の空間構造を発掘調査で確認された遺構や出土遺物である第一次資料を再評価することと新たな発掘資料も加えて検討した。その結果,大津宮の特殊性が見えてきた。すなわち,対高句麗外交や軍事上の拠点整備を推進するために陸上・湖上交通の整備に重心が置かれ,大津宮の形が短期間のうちに推進されていた点である。大津宮遷都前夜までの比叡山東麓地域は,渡来系氏族の大壁建物や掘立柱建物の集落が営まれ,また各氏族による穴太廃寺や南滋賀廃寺などの仏教寺院も建立されており,周辺には萌芽的な港湾施設も存在していたものと推定される。このように遷都を受け入れる環境が一定程度整備されていた地域に大津宮は移されたのである。そして遷都の翌年,錦織の内裏地区の北西方の滋賀里に周辺寺院の中では眺望の利く最も高所に崇福寺を新たに造営し,対照的に宮の東南方向の寺院の最低地にあたる現在の大津市中央三丁目付近の琵琶湖岸にほぼ同時期に大津廃寺を建立した。つまり崇福寺跡と大津廃寺は川原寺同笵軒丸瓦を共通して使用していることから,大津宮と密接な関係がみられ,前者には城郭的要素があり,後者には木津川沿いの高麗寺と「相楽館」のような関係を有する港湾施設を近隣に配置し,人と物の移動ための機動力を重視して造営された。これらに触発されたかのように周辺氏族は穴太廃寺の再建例にみられるように再整備を行なっている。このように大津宮の内裏地区や,大津廃寺を除いた仏教寺院は高燥の地に立地し,かつ正南北方位を意識した配置がみられるのに対して,木簡などを出土した南滋賀遺跡の集落跡などは低地に営まれ,かつ正南北方位を意識しない建物を構築している。おそらく内裏地区や白鳳寺院,諸機能を分担した各施設は整斉に計画され,その周辺には地形に左右された集落などが混在した空間を呈していたものと思われる。近江朝廷の内裏や寺院・関係施設などを短期間に新設し,ハード面を充実させていくにつれて渡来系集落的景観から大津宮の交通整備重視の未集住な空間へと変遷していったものと考えた。
著者
鯨井 千佐登
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.145-182, 2012-03

日本中世・近世「賤民」の権利のなかでも、①斃牛馬の皮を剥いで取得する権利、②埋葬する死体の衣類を剥いで取得する権利、③「癩者」の身柄を引き取る権利がとくに注目される。中世史家の三浦圭一は「牛馬にとって衣裳にあたるのが皮革に他ならない」とのべて、①と②を「同じレベル」で見ようとした。横井清も「皮を剥いでそれを取得することと死体の衣類を受け取ることが無縁なものとは私も思えない」といい、「身に付けている表皮を剥ぎとる権利と行為」をどのように考えるべきかという問題を提起している。一方、③は中世的な権利で、引き取られた「癩者」は「賤民」集団の一員となった。「癩」は「表皮」に症状のあらわれる皮膚の病であるから、③も含めて、「賤民」の権利は身を覆っている「表皮」にかかわるものとして一括して把握すべきかもしれない。こうした斃牛馬や死体の「身に付けている表皮を剥ぎとる権利」や「癩者」に対する監督権の宗教的源泉が、古くは境界の神にあると信じられていた可能性が高い。境界の神とは地境などに祀られていた神々のことで、「賤民」の信仰対象でもあった。本稿の課題は、そうした境界の神の本来の姿を見極めることである。本稿では、古くは境界の神に対する信仰が母子神信仰、とくに胎内神=御子神への信仰を骨子としていたことや、境界の神が月神としての性格を備え、人間の身の皮や獣皮、衣類、片袖を剥いで取得すると信じられていたこと、それゆえ境界の神に獣皮や衣類、片袖を捧げる習俗が生まれたこと、境界の神が皮膚の病の平癒という心願をかなえるだけでなく、それを発症させるとも信じられていたことなどを推定した。つまり、境界の神と「身に付けている表皮」との密接な関係を推定し、また、「賤民」の有した境界の神の代理人としての性格の検証という今後の課題を提示した。Among the rights of "senmin" in medieval and early modern Japan, the following three attract special attention: (1) the right to strip and obtain the skins of dead oxen and horses, (2) the right to strip and obtain the clothes of corpses to be buried, and (3) the right to take "lepers" along. The medieval historian Keiichi Miura said "the skins of oxen and horses were regarded as clothes" and treated ( 1) and ( 2) on the "same level." Kiyoshi Yokoi also said "I do not believe that stripping and obtaining the skins is unrelated to receiving the clothes of corpses" and raised the issue of how to consider "the right and behavior of stripping worn superficial skins." On the other hand, (3) was a medieval right, and the "lepers" taken along became a member of the group of "senmin." Because "leprosy" is a skin disease that causes symptoms on "superficial skins," the rights of "senmin" might have to be understood as related to all the "worn superficial skins" including ( 3) .It is very likely that the religious sources of the "right to strip worn superficial skins" of dead oxen, horses, and human bodies, and the right of supervision of "lepers" were believed to be in the gods of the boundaries in ancient times. The gods of the boundaries were worshipped in the boundaries of lands and also believed in by "senmin." This article attempts to ascertain the original figure of the gods of the boundaries.This article presumes the following: in ancient times, the belief in the gods of the boundaries was based on that in the mother-child gods, especially the belief in the fetal or child god; the gods of the boundaries had the character of moon gods and were believed to strip and obtain human skins, animal skins, clothes, and single sleeves; based on such belief, the custom of offering animal skins, clothes, and single sleeves to the gods of the boundaries was started; it was believed that the gods of the boundaries not only healed skin diseases but also caused them. In other words, this article presumes a close relationship between the gods of the boundaries and "worn superficial skins" and presents the future task of verifying the character of "senmin" as agents for the gods of the boundaries.
著者
佐藤 孝雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.107-134, 1993-03-25

アイヌ文化の「クマ送り」について系統を論じる時,考古学ではこれまで,オホーツク文化期のヒグマ儀礼との関係のみが重視される傾向にあった。なぜならば,「アイヌ文化期」と直接的な連続性をもつ擦文文化期には,従来,ヒグマ儀礼の存在を明確に示し,かつその内容を検討するに足る資料が得られていなかったからである。ところが,最近,知床半島南岸の羅臼町オタフク岩洞窟において,擦文文化終末期におけるヒグマ儀礼の存在を明確に裏付ける資料が出土した。本稿では,まずこの資料を観察・分析することにより,当洞窟を利用した擦文文化の人々がヒグマ儀礼を行うに際し慣習としていたと考えられる6つの行為を指摘し,次いで,各行為について,オホーツク文化の考古学的事例とアイヌの民俗事例に照らして順次検討を行った。その結果,指摘し得た諸行為は,オホーツク文化のヒグマ儀礼よりも,むしろ北海道アイヌの「クマ送り」,特に狩猟先で行う「狩猟グマ送り」に共通するものであることが明らかとなった。このことは,擦文文化のヒグマ儀礼が,系統上,オホーツク文化のヒグマ儀礼に比べ,アイヌの「クマ送り」により近い関係にあったことを示唆する。発生に際し,オホーツク文化のヒグマ儀礼からいくらかの影響を受けたにせよ,今日民族誌に知られる北海道アイヌの「クマ送り」は,あくまでも北海道在地文化の担い手である擦文文化の人々によってその基本形態が形成されたと考えるべきである。
著者
坂井 久能
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.315-374, 2008-12-25

旧軍が軍用地または艦艇内に設けた神社を、営内神社・校内神社・艦内神社などと称した(以下、営内神社等と総称する)。営内神社等は、今まで殆ど顧みられず、研究もされてこなかった。それは何故なのか、という記録と記憶の問題ととともに、収集したデータから営内神社等とは何なのかという基本的・概略的な大枠を捉えようとしたものである。営内神社等は、法令上は神祠として扱われ、広義には軍施設内に設けられた神祠と定義することができる。稲荷神などを祀る事例が初期に散見することから、邸内神祠・屋敷神の性格を持つもので、艦内神社の船霊がそれに相当するであろう。しかし、やがてこの稲荷祠を天照大神などを祀る神祠に変えた事例が示すように、いわゆる国家神道下に天照大神や靖國神社祭神、軍神や殉職者などを祀る神祠に大きく変貌を見せるようになり、このような神祠が昭和に入ると盛んに創建された。後者を狭義の営内神社等とみることができる。その性格は多様である。戦死病歿者を祀った場合は、靖国神社・護國神社と共通する招魂社的性格をもちながらも、特に顕彰において役割の違いがあったと思われる。殉職者を祀った場合は、靖國神社と異なる招魂社的性格をもったものといえよう。神祇を祀り武運長久等を祈る守護神的な性格、敬神崇祖の精神を涵養し、神明に誓い人格を陶冶するいう精神教育の機能なども見られた。招魂社的な神祠も、慰霊・顕彰とともに、尽忠報国を誓う精神教育の役割を備えていた。また、営内神社等は近代の創建神社の範疇に入るべき性格や、海外の駐屯地に営内神社を遷座・創祀したことからは、海外神社に含めるべき性格ももっている。このように多様な性格を持つ営内神社は、軍が管理した神社として、近代の戦争と宗教を理解する上で極めて重要な神社であるといえる。今や数少なくなった軍の経験者の記憶の中から、また僅かに残された資料から、営内神社等とは何なのかを探る。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.133-144, 2012-03

本稿では目をめぐる民俗事象を取り上げ、感覚の民俗研究の端緒とするとともに、兆・応・禁・呪といった俗信の基盤として考察した。まず最初に、柳田國男の一目小僧論を検討し、さらにその範疇に入らない年中行事における目の力に対する伝承を指摘した。次いで片目の魚の伝承や縁起物のダルマに着目し、片方の目しかない状態を移行や変化の表現としてとらえるべきであることを確認した。さらに左の目を重視する説話的な伝承が確認できること、また片目というのは禁忌の表現でもあることを見出した。最後に「見る」という行為から構成される民俗について、特に「国見」、「岡見」、市川團十郎における「にらみ」、「月見」などを取り上げて分析した。その結果、従来は「見る」行為には鎮魂の意義があるとされてきたが、さらにその内容を詳細に検討する必要があることが判明した。今後はさらに多くの「見る」民俗を分析するとともに五官に関わる民俗を総合的に検討することを目指したい。This article deals with folkloric events over the eye, marking the start of the study of folklore of the senses, which are studied as the basis of folk beliefs e.g. in the form of omens, knowledge, taboos and Magic. The article first examines the theory of the Hitotsume-kozo (one-eyed boy) of Kunio Yanagita and also indicates traditions for the power of the eye in annual events outside the above categories. Subsequently, it focuses on the tradition of the oneeyed fish and daruma dolls as auspicious and confirms that a one-eyed status should be understood as an expression of transition and transformation. Furthermore, it indicates a narrative tradition that prioritizes the left eye and finds that one-eye is also a taboo expression. Finally, this article analyzes the folklore composed of the actions of "seeing" by dealing, especially with "kunimi," "okami," "nirami ( glare) " in Ichikawa Danjuro, "tsukimi ( moon viewing) ," etc. As a result, the need for further detailed examination of the contents is clarified, although actions of "seeing" were conventionally thought to mean soothing someone's soul. In future, the author of this article would like to analyze more "seeing" folklore and comprehensively examine the folklore of five senses.
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-17, 2003-10-31

本稿の目的は、近現代における女帝否認論の主要な根拠とされている「男系主義は日本古来の伝統」あるいは「日本における女帝の即位は特殊」という通説を古代史の立場から再検討することにある。女帝即位の要件として、即位年齢・資質・宮経営・経済的基盤・大王の嫡妻=大后制などの要素を再検討したうえで、性差や王権構造を組み込んだ女帝論が現在求められている。令制以前には現キサキと元キサキの区別が存在せず、そのうちで最上位の者を示す称号が「大后(オオキサキ)」であった。現大王即位による生母への追号が例外なく「皇太后(オオキサキ)」とされるのは、単なる令制の『日本書紀』への反映ではなく、実子の即位が最有力化の大きな条件であったからである。実子の即位により尊号は変化するものであり、『古事記伝』以来の嫡妻=大后から大御母への拡大という通説は疑問となる。ただし、大王と同じく大后の身分は終身であり、その死により入れ替わるので、元キサキが死没すれば現キサキのなかから大后(嫡妻)が二次的に出現する可能性は存在した。実子の即位という結果を重視して嫡妻の地位が遡って明確にされたのであり、欽明朝以降、生母・嫡子の関係が一つの血筋に限定化することによって王族の観念が歴史的に発生した。大后(現大王の実母)または皇祖母(皇統譜上の母)という王族内部における女性尊長としての立場と、キサキ宮経営の実績により、執政能力が群臣に承認されれば、次期大王の指名や一時的な大王代行を経ることにより、女帝の即位は、有力な王族たる大兄・皇弟が若年の場合より優先された。結論として「女帝中継ぎ説」の根拠は薄弱であり、「皇位継承上困難な事情」とは男性による即位ができないという以上の説明しかなされていない。性差や王権構造を組み込んだ女帝論ではなかった。草壁-文武-聖武と持統-元明-元正の即位は宣命や律令により同じレベルで正統化されており、父子継承のみを強調するのは一面的な評価と考えられる。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-15, 2003-10

これまで,一般的に縄文時代の家畜はイヌのみであり,ブタなどの家畜はいないと言われてきた。しかし,イノシシ形土製品やイノシシの埋葬,離島でのイノシシ出土例から縄文時代のイノシシ飼育が議論されてきた。イノシシ飼育の主張でもっとも大きな問題点は,縄文時代のイノシシ骨に家畜化現象が見られなかったことである。ところが縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象と疑われる例があることが分かった。また,イノシシがヒトやイヌと共に埋葬されている例が知られるようになり,改めてイノシシについてヒトやイヌとの共通性を議論する必要が出てきた。そこで,本論では千葉県茂原市下太田貝塚出土資料を紹介するとともに,イノシシ形土製品・イノシシ埋葬・離島のイノシシ・骨格の家畜化現象の4項目について再検討した。その結果,文化的要素からみれば,縄文時代中期以降にブタが飼育されていたことはほぼ確実である。また,離島への持ち込みという文化的項目と骨格の家畜化現象の点から見ると,縄文前期からすでにブタが飼育されていた可能性が大きいことが分かった。しかし,縄文時代のブタは,骨格的変化が小さいことから,野生イノシシと家畜のブタが交雑可能な程度のかなり粗放的な飼育であったと推測された。ブタの存在がほぼ確実になったことは,縄文時代が単純な狩猟・漁労・採集経済ではなく,イヌとブタを飼育し,ある程度の栽培植物を利用する新石器文化であったことを意味するものである。