著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.132, pp.287-326, 2006-03-25

本稿の目的は,岩手県中央部における寺院への額の奉納習俗の変遷を取り上げ,死者の絵額や遺影などの表象のあり方について,国民国家形成過程との関連を考慮しつつ近現代における死への意味づけについて考察することである。盛岡市や花巻市など北上川流域と遠野地方にまたがる岩手県中央部では,江戸末期から明治期にかけて,死者の供養のため大型の絵馬状の絵額が盛んに奉納された。絵額は来世の理想の姿を複数の死者とともに描いており,死者を来世に位置づけ安楽を祈るという目的を持ったものであった。しかもその死者は夭折した子供や若者,中年が多く,または一軒の家で連続して死者を出した場合など,不幸な状況ゆえにより供養をし冥福を祈ったものであった。しかし明治後期になると従来の絵額とは異なるモティーフを持つようになり,絵額から肖像画や写真などの遺影に変化していった。こうした変化は特に軍人に関して顕著であり,御真影や元勲の肖像,戦死者の遺影と類似の構図をとるようになる。こうした遺影への変化は,表象のあり方が現世の記憶を基盤にしただけでなく,不幸な死者へのまなざしから顕彰される死者へとその視線は変わることになったのである。一方で,写真それ自体が死者そのものの表象として使われるようになり,人々の遺影への意味づけは多義的になっている。こうして近代の国民国家形成の過程において,とくに戦死者の祭祀との関連から,死者の表象のあり方が大きく変わるととともに,死の意味づけを変えていったことがわかる
著者
宇野 功一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.136, pp.39-113, 2007-03-30

博多祇園山笠は福岡市博多区でおこなわれる伝統的な祭礼で、山笠という作り山を博多で運行させるものである。近世を通じて、この祭礼は永享四(一四三二)年に成立したとされていた。これが近世におけるこの祭礼の唯一の起源伝承であった。ところが明治二四(一八九一)年、博多承天寺の開山である鎌倉時代の禅僧、円爾弁円がこの祭礼を始めたとする起源伝承が創出された。この伝承はその後急速に受容され、また変容されていった。まず〈永享四年祇園山笠成立説〉を検討し、これがかなりの程度史実を反映していることを示した。次に承天寺が祇園山笠と関係をもつに至った理由を次のように推定した。延宝二(一六七四)年に福岡藩を襲った飢謹のさい、承天寺において大量の粥の施与が飢民にたいしてなされ、その謝恩として博多の住民が同寺に山笠を奉納するようになったと。しかしこの史実は江戸後期には忘却されており、理由のわからないまま山笠の奉納が続けられた。そこで明治二四(一八九一)年、円爾が山笠を発明したとする伝承が創出された。さらに、この〈円爾山笠発起説〉がどのように受容・変容されたのかを通時的に記述した。記述において明らかになった事柄のうち、重要な点は以下のとおりである。①伝統的な祭礼にたいして新たに創り出された起源伝承が既存の起源伝承に優越し、祭礼の歴史と祭礼集団の歴史を再構築した。②その時々の「現在の」「実際の」祭礼の様相が起源伝承に次々と投影されて伝承の内容を変容させていき、それによって起源伝承の内容はますます祭礼の現状に近づいていった。その結果、起源伝承を史実とする認識がさらに強まっていった。③起源伝承の文字化にさいしては、先行史料・資料の積極的な読み換えまたは非意図的な誤読が積み重なっている。
著者
松尾 恒一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.119-132, 2012-03-30

伝統的な木造船には一般に「船霊」と呼ばれる、船の航海安全や豊漁を祈願する神霊が祀られているが、琉球地域の木造船(刳り舟・サバニ・板付け舟、等)の船霊信仰には、姉妹を守護神として信仰するヲナリ神信仰の影響を受けている例が少なくない。このことは、すでに知られているが、本稿では、船の用材となる樹木に対する信仰に注目して、船の守護神としての女性神の信仰とのかかわりを考察する。船大工によって行われてきた伝統的な造船は、山中における樹木の伐採から始まり進水式をもって完成するが、その間、樹霊やこれとかかわる山の神に対する祭祀が重要な作法として行われる。これは奄美大島の事例であるが、八重山地域にまで目を広げれば、船の用材となる樹木を女性と認識しているものと認められる口頭伝承(歌謡)もあり、樹木に宿る樹霊と女性神との結びつきの強さが推測されてくる。ところで、船大工による伐木の際の、樹霊や山の神への断りの際には、斧のほか、墨壺・墨差し・曲尺などが重要な役割を果たす。これは、屋普請を行う大工も同様で、建築儀礼の際には山の神や樹霊に対する祭祀が重要視された。船大工や大工は、その職と関わる祭儀において職道具を祭具として用いたのであるが、ときにこれらの道具を用いて呪詛をおこなうなど、シャーマン的な呪力を発揮したりした。結びとして、こうした琉球地方の航海や船体にかかわる女性神や、造船の際の樹霊に対する信仰を、当地域との長い時代にわたる交流のあった大陸や台湾との習俗と比較した。台湾の龍船競争における媽祖信仰や、貴州省の苗族や台湾少数民族の造船儀礼など、松尾の調査した事例を中心にあげたが、今後の比較民俗に向けての視座を定めるための試論である。
著者
李 成市
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.201-219, 2015-03-31

平壌楽浪地区貞柏洞364号墳から出土した『論語』竹簡は,1990年に初元4年楽浪県別戸口簿木牘や「公文書抄本」と共に発見されたが,2009年に至るまで,その詳細な学術的な情報がなかったため研究対象になりえなかった。本稿は,まず貞柏洞364号墳出土の『論語』竹簡の基礎的なデータが公表に至る経緯を明らかにし,そのうえで,貞柏洞364号墳の性格や遺物から被葬者の性格を検討し,被葬者が現地出身の楽浪郡属吏であることを裏づけた。また,貞柏洞364号墳に副葬された『論語』竹簡については,発掘当初に撮影された2枚の写真と,さらに発掘に関わった機関の証言に基づきつつ,出土した『論語』竹簡は,写真での確認は先進31枚(557字),顔淵8枚(144字)に止まるが,元来,先進篇・顔淵2篇の全文120枚程度が存在したと推定される。被葬者と関わって重要な『論語』竹簡のテキストとしての特徴は,竹簡への書写は,章句の冒頭に黒点を示したり,章句の末尾を余白にしたりして章句と章句の間を区分させ,『論語』の文章を連続して記述していない点にある。中原の読書人とは異なり章句の冒頭を明示し,章句の末尾を空白にして文章の切れ目を明確にしたのは,そのようなテキストの読者のリテラシーの能力を反映していたと見ることができる。貞柏洞364号墳の被葬者が平壌地域の在地の伝統を継承する人物である事実を踏まえれば,貞柏洞364号墳出土『論語』竹簡は,朝鮮半島における漢字文化の受容を検討する際の重要な定点的な資料になりえる。
著者
山田 厳子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.205-224, 2011-03-31

「障害」をもつ子どもが、家に福をもたらすという、いわゆる「福子」「宝子」の「伝承」は、大野智也・芝正夫によって、民俗学の議論の俎上に載せられた。この「伝承」は、この著作以前には、ほとんど記述されていない「伝承」であった。そのため、一九八一年の国際障害者年を契機として、新たに「語り直された」「民俗」であるという批判があった。筆者は、さきに「民俗と世相―『烏滸なるもの』をめぐって―」と題する小稿の中で、このことばの「読み替え」は、「障害」を持つとされる「子ども」の保護者の間で、一九七〇年頃には既に起こっていたこと、問われるべきは、このようなことばが「伝承」として可視化され、語るに足るものとして捉えられるという、認識上の変化・変質の方ではないか、と論じた。本稿では、この問題の残された課題について検討した。まず、この本の作者の一人、芝正夫という人の研究の背景について示した。東洋大学で民俗学研究会に属し、卒業後、障害者福祉関係の仕事に就いていた芝は、「障害」を持つ子の親の手記から「福子」「宝子」ということばを知り、このことばのマイナスの語義を知りつつも、「障害」を持つ人々が地域に当たり前に暮らすことを可能にすることばとして、再生させようとした。その結果、このことばを「昔の人の知恵」「伝承」として、人々に提示してみせた。次に「障害者」としてラベリングされる以前に、「福子」や「宝子」ということばが、どのような文脈に置かれたことばだったのかを考察した。「障害者」という概念のもとに、集まってきたことばが、「愚か者」「役に立たない者」「家から独立できない者」という語義を持つことばであったことを示し、「障害者」とは別種のカテゴリーであったことを示した。これらのことを明らかにすることで、①「伝承」や「民俗」という枠組みを、目的のために戦略的に使う人物(芝 正夫)が民俗学的「知識」の形成に関与したこと、②「障害者」をめぐる認識のかわりめにあって、過去の別種のカテゴリーにあったことばが、かつての文脈を失って再文脈化したこと、を示した。
著者
植野 弘子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.41, pp.p377-411, 1992-03

本稿は、台湾漢民族における死霊と土地の超自然的存在との関連についての一試論である。漢民族においては、祖霊と死霊は明確に区別されている。死霊―「鬼」は、子孫をもたず、あるいはこの世に恨みを残して死んだものであり、冥界で不幸な境遇にあるとされる。こうした「鬼」はこの世にさまよい出で人々に不幸を振りまくことになる。しかし、「鬼」は可変的性格をもち、祖先にも神にも変化する存在である。これまでの研究においては、「鬼」は霊的世界のアウトサイダーであり、「鬼」を無体系なものとみなしてきた。しかし、「鬼」はけっして混沌たる世界を漂漾しているのではない。人と「鬼」との交信には「鬼」を統轄する神々が登場する。この神々は陰陽両界に関わるとともに「地」に関わる神であり、「鬼」が昇化して神になったものもいる。落成儀礼〈謝土〉において、人は建造物を建てた土地から邪悪なものを払い、その土地を「陰」の世界の土地の持ち主〈地基主〉から買い取らねばならない。〈地基主〉とは、かつての土地の持ち主で死後その霊がその土地に残ったものとされている。つまり「鬼」であり、「鬼」が土地の主となるのである。土地は「陰」から「陽」の世界のものとなって初めて人が住むのにふさわしいものとなる。土地は陰陽の両界をつなぐ場である。人と死霊は「地」に関わる超自然的存在によって媒介され、人はその住む地によって冥界と切り放せない現世を知るのである。漢民族は冥界をこの世と同様にリアルに描いている。そして、冥界と地とを結び付けることによって、また「鬼」という浮遊性をもつ超自然的存在に一定の秩序を与えることによって、人が他界を生活の中に感じ、また解釈を与えているのである。This paper is a hypothesis on the relationship between the ghosts and the supernaturals of the earth in Taiwan Chinese society.In Chinese society the spirits of ancestors and ghosts are clearly distinguished. Ghost-"Gui" ("kui") are considered to be spirits of those who died without descendants, or, those who died leaving a bitter grudge in this world. They are seen as being in an unhappy state in the otherworld. So such ghosts haunt this world spread disaster. However, the ghost has a changeable character, he can change into either an ancestor or a god. In preceding studies a ghost is regarded as an outsider of the spiritual world, those who has no systematic structure. But in this paper it is clear that the ghost is never wander in a chaotic world.Gods who control ghosts appear in communications between men and ghosts. These gods are not only concerned with the otherworld and this world (yin-yang worlds) but also with the earth world. Some ghosts have risen to become such gods, but the gods still have ghost's characters.In the completion ritual called "Xiedu" ("Siatho"), or thanks to the earth, the man who builds the construction has to clear off the evil from the site, and purchases the site from the site-owner spirit "Dijizhu" ("Tekico"), or foundation spirit. The Dijizhu is considered to be the former site-owner, whose spirit remained on the site after his death. In other words, Dijizhu is originally a ghost, and the ghost becomes the owner of the site in yin world. Dijizhu is an ambivalent category of spirit, he has two kinds characters of god and ghost.A site becomes fit for human habitation only after it shifted from yin world to yang world. The earth has the function which links yin and yang worlds. Men and ghosts are intermediated by the supernaturals of the earth. Through the earth on which they live men can understand that this world cannot cut away from the other world. In Chinese society yin world is recognized having same systems of this world. By connecting yin world and the earth, and by giving a certain structural order to the ghosts who have a drifting character, man can feel and interpretate the supernatural world in his everyday life.
著者
藤本 誉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.204, pp.11-30, 2017-02

本稿は、室町後期(一五世紀後期)から織田権力期(一六世紀後期)までを対象として、堺における自治および支配の構造とその変容過程を検討したものである。当該期は中近世移行期として「荘園制から村町制へ」というシェーマが示されているように社会構造が大きく変容する時期である。堺においても堺南北荘の存在や、近世都市の基礎単位になる町共同体の成立が確認されており、これらの総体としての都市構造の変容の追究が必要であった。検討の結果、堺南北荘を枠組みとする荘園制的社会構造から町共同体を基盤とした地縁的自治構造が主体となる社会構造への移行が確認され、その分水嶺は地縁的自治構造が都市全体に展開した一六世紀中期であった。そしてこの時期に、そのような社会構造の変容と連動して支配権力の交代、有力商人層(会合衆)の交代といった大きな変化が生じ、イエズス会宣教師が記した堺の「平和領域性」や自治の象徴とされる環濠の形成は、当該期の地縁的自治構造(都市共同体)の展開が生み出したものであると考えられた。そして、様々な部位で変化を遂げながら形成された一六世紀中期の都市構造が、近世的都市構造として一六世紀後期以降に継承されていくと見通した。This paper examines the feudal and autonomous regimes and their shifts in Sakai from the late Muromachi period (the late 15th century) to the period of the ascendancy of Oda Nobunaga (the late 16th century). This century was a transitional period from medieval to early modern, when the social regime changed drastically, as represented by the shift from the manorial system to the township system. Likewise, in Sakai, it has been observed that after Sakaikita-shō and Sakaiminami-shō (Northern and Southern Sakai Manors) were established, township communities emerged as the basis of the early modern city. Thus, it is important to inquire into the process of changes in the municipal regime to reveal how these basic units were integrated and developed into a new municipal regime.The results of the analysis indicate a shift from a feudal regime based on the manorial system developed under the framework of Sakaikita-shō and Sakaiminami-shō to a society characterized by territorial autonomy based on township. The watershed in this shift was the spread of the autonomous territorial regime around the city in the mid-16th century. This shift in the social regime was accompanied by major changes, such as the change of authorities and the replacement of dominant merchants (egōshū). The development of the autonomous territorial units (town authorities) at that time also seems to have contributed to the construction of moats as a symbol of autonomy as well as the development of Sakai into a "place of peace," as a missionary of the Society of Jesus described it. Moreover, this analysis suggests that the municipal regime which had been established and changed in different ways in the mid-16th century formed the basis of the early modern municipal regime in the late 16th century and thereafter.
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.199-223, 2005-03

徳川幕府の後身たる静岡藩が明治初年に設立した沼津兵学校が、士官養成機関としての進化という、きわめて限定された範囲において、幕末に幕府によって推し進められた軍制改革の最終到達点であるとする評価に誤りはない。しかし、一地方政権である静岡藩と中央政府である幕府との根本的な違いにより、軍制全般においては決して直線的な継承関係をなしていなかった。脱走・壊滅し自然に消え去った海軍は別として、陸軍については、幕府時代に生み出された膨大な兵力は静岡藩では不要とされ、大規模なリストラが実施された。幕府の軍備増強政策は、静岡藩では一転して軍縮路線へと変更されたのである。量的な問題のみならず、質的にも継承されなかったものが少なくない。本稿では、まず、沼津兵学校と、幕府が幕末段階で設立した三兵士官学校との継承関係の有無について検討する。そして、前者が、フランス軍事顧問団の指導により生まれた後者とは、人的にも組織的にも継続性がないことを明らかにする。次に、慶応四年(一八六八)五月・六月以降に始まった旧幕府陸軍の解体と再編の過程=静岡藩軍制の成立過程を点検する。幕府瓦解後、とりわけ慶応四年五月以降の陸軍組織の変遷については、『続徳川実紀』、『柳営補任』、『陸軍歴史』といった既存の諸文献には記載がない。つまり、旧幕府陸軍が静岡藩軍制へ接続する途中経過については、文献上空白であったといえるが、本稿ではその時期の実態を明らかにする。また、生育方・勤番組という不勤・無役者集団を維持しながら常備兵を擁さないという特殊な軍事体制を採用した静岡藩の特徴を、沼津兵学校との関わりの中で考察する。明治三年(一八七〇)沼津兵学校に付置された修行兵という存在が検討対象である。これは、政府の命令によって設置することとされた常備兵三〇〇〇人に相当するものと思われるが、その実態は、定数にはるかに足りなかったばかりでなく、単なる兵卒ではなく下士官候補者であった。静岡藩は、幕府陸軍時代の多くの遺産を切り捨てざるをえなかったが、一部の良質な部分については的確に引き継いだ。また、旧幕府陸軍にはなかった新たな人脈と発想を付け加え、したたかに明治政府に対した。それが、沼津兵学校であり、修行兵の制度であった。徴兵という形で庶民を軍事に取り込めたか否かという点においては、政府・他藩に遅れをとった静岡藩であるが、士官教育、さらには普通初等・中等教育という非軍事面において、全国をリードする先進性を示したのである。つまり、軍事部門よりも教育部門において近代化が先行したのであり、沼津兵学校は、「兵」学校であるよりも、兵「学校」であることを象徴する存在であった。
著者
岩淵 令治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.49-104, 2016-02-29

国民国家としての「日本」成立以降,今日に到るまで,さまざまな立場で共有する物語を形成する際に「参照」され,「発見」される「伝統」の多くは,「基層文化」としての原始・古代と,都市江戸を主な舞台とした「江戸」である。明治20年代から関東大震災前までの時期は,「江戸」が「発見」された嚆矢であり,時間差を生じながら,政治的位相と商品化の位相で進行した。前者は,欧化政策への反撥,国粋保存主義として明治20年代に表出してくるもので,「日本」固有の伝統の創造という日本型国民国家論の中で,「江戸」の国民国家への接合として,注目されてきた。しかし後者の商品化の位相についてはいまだ検討が不十分である。そこで本稿では,明治末より大正期において三越がすすめた「江戸」の商品化,具体的には,日露戦後の元禄模様,および大正期の生活・文化の位相での「江戸趣味」の流行をとりあげ,「江戸」の商品化のしくみと影響を検討した。明らかになったのは以下の点である。①元禄模様,元禄ブームは三越が起こしたもので,これに関係したのが,茶話会と実物の展示という文人的世界を引き継いだ元禄会である。同会では対象を元禄期に限定して,さまざまな事象や,時代の評価をめぐる議論,そして模様の転用の是非が問われた。ただし,元禄会は旧幕臣戸川残花の私的なネットワークで成立したもので,三越が創出したわけではなかった。残花の白木屋顧問就任や,三越直営の流行会が機能したこともあって,残花との関係は疎遠になる。元禄会自体は,最後は文芸協会との聯合研究会で終焉する。また,元禄ブーム自体も凋落した。②大正期の「江戸」の商品化に際しては,三越の諮問会である流行会からの発案で分科会たる江戸趣味研究会が誕生する。彼らは対象を天明期に絞り,資料編纂の上で研究をすすめ,「天明振」の提案を目指した。しかし,研究成果は生かされず,元禄を併存した形で時期・階層の無限定な江戸趣味の展覧会が行われる。そして,イメージとしての「江戸趣味」が江戸を生きたことの無い人々の中に定位することを助長した。「江戸」は商品化の中で,関東大震災を迎える前に,現実逃避の永井荷風の「江戸」ともまた異なった,漠然としたイメージになったのである。その後,「江戸趣味研究会」の研究の方向性は,国文学や,三田村鳶魚の江戸研究へと引き継がれていくことになった。
著者
山本 光正
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.82, pp.23-58, 1999-03-31

明治二二年に東海道線が開通すると、ほとんど同時にといってよいほど、人々は鉄道を利用するようになったと思われる。鉄道の出現により東海道の旅行も風情がなくなったという声が聞かれるようになるが、一方では鉄道は新しい風景を作り出したと評価する声もあった。しかし鉄道の是非とは関係なく、徒歩による長期の旅行を容認する社会ではなくなってしまった。鉄道旅行が当然のことになると、旧道特に東海道への回帰がみられるようになった。東海道旅行者には身体鍛錬を主とした徒歩旅行と、東海道の風景や文化を見聞しようとするものがおり、東海道を〝宣伝の場〟としても利用している。身体鍛錬の徒歩旅行は無銭旅行とも結びつくが、これは明治期における福島安正のシベリア横断や白瀬矗の千島・南極探検に代表される探検の流行と関連するものであろう。探検や無銭徒歩旅行の手引書すら出版されている。見聞調査は特に画家や漫画家を中心に行われた東海道旅行で、大正期に集中している。大正四年に横山大観・下村観山・小杉未醒・今村紫紅・同じ年に米国の人類学者フレデリック・スタール、年代不詳だが四~五年頃に近藤浩一路、七年に水島爾保布、七~八年頃に大谷尊由と井口華秋そして大正一〇年に行われた岡本一平を中心とする「東京漫画会」同人一八名の東海道旅行で一段落する。昭和に至り岡本かの子は短編『東海道五十三次』を発表するが、これは大正期における東海道旅行を総括するものとして位置付けられる。失われていくもの、大きく変りゆくものに対しては記念碑の如く回顧談的著作物が多く出版される。東海道線開通後旧東海道を歩くことが行われたのもこうした流れの中に位置付けることができるが、それだけでは理解しきれないものを含んでいた。さらに東海道旅行は昭和一〇年代の国威宣揚を意識した研究につながっていく。
著者
岩淵 令治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.249-292, 2015-02

近世後期には、公家の経済的困窮と需要層としての地方文人の展開による需給関係の成立、そしてその結果としてもたらされる「伝統」としての朝廷権威の浮上という重要な展開があった。雅楽についても、楽人組織が再興され、やがて上記の状況の中で、地方に雅楽が浸透していく。今日、無形文化財に指定された各地の神社の神事における舞楽についても、その維持や伝承過程を考える上で、近世の状況は看過することはできないであろう。こうしたいわば雅楽の普及において、楽人と人々をつなぐ重要な役割を果たしたものとして、本稿では楽器師に注目した。具体的には、京都の楽器師神田家をとりあげ、楽人の日記や地方文人の史料より、以下の点を明らかにした。①神田家は、楽人に職人・商人として出入し、これを基盤として公家、さらに一八世紀後半以降は恒常的に朝廷の保管する舞楽の道具の修理・新調を請け負った。さらに、近代に入ると、正倉院宝物の複製のほか、博覧会での雅楽器の展示など、明治の国民国家形成における国楽としての雅楽の再編や、「伝統」の再発見・輸出にかかわっていった。②こうした公家・朝廷への出入・御用関係を信用の源泉としながら、武家に出入するようになり、楽器の修理・購入や、楽人への入門を仲介した。さらに、神田家の顧客は地域を越えて各地の文人層におよび、彼らの楽人への入門の取次、楽器の供給と維持に大きな役割を果たした。なお、雅楽に限らず、公家の家職とその波及を考える際には、こうした道具にかかわる商人・職人が重要な存在だったと考える。③楽器の供給においては、とくに大名家を中心とする〝古楽器〟購入の仲介が注目される。その価格や鑑定について神田家の判断が大きく作用した。今日「伝統」を体現する〝古楽器〟は、江戸時代の楽器師によって「発見」されたものが少なくないといえる。In the late early modern era, there was a significant development in Japanese culture; the financial difficulties of Court nobles and the rise of provincial literati as consumers formed supply-demand relationships, leading to the restoration of the authority of the Imperial Court as a "tradition." The same went for Imperial Court music (gagaku), which spread to provinces as musician organizations were reviving. These movements in the early modern era are too important to ignore when examining the maintenance and transmission processes of Imperial Court music and dance performances (bugaku), which has now been designated as an intangible cultural asset and delivered in shrine ceremonies all over Japan.This article pays particular attention to musical instrument dealers, who played a critical role in the spread of Imperial Court music by connecting gagaku performers and other people. More specifically, this study focuses on the Kanda family, a musical instrument maker and dealer in Kyoto, and reveals the following three points by examining diaries of gagaku performers and documents of provincial literati.1. As craftsmen and merchants, the Kanda family often visited performers. Based on the relationships, the family expanded their customer base to include Court nobles, and by the late 18th century, they had become a regular trader to repair and replace the musical and dancing instruments held by the Imperial Court. In the modern era, they became involved in the reorganization of Imperial Court music as national music and the rediscovery and export of "tradition" during the nation state building process by the Meiji government, such as reproducing Shosoin treasures and displaying Imperial Court musical instruments at exhibitions.2. Then, based on the trust built through business relationships with the Imperial Court and Court nobles, the family established connections with samurai families to sell and repair musical instruments while acting as an intermediary to help their customers hire musicians as trainers. The family's customer base even included the literati class, throughout Japan regardless of location, for whom they played an important role. The family not only supplied and maintained musical instruments but also helped literati find musicians to learn from. This study considers that instrument craftsmen and merchants were essential for Court nobles to operate and expand their family businesses, which did not apply only to Imperial Court music.3. In relation to the supply of musical instruments, it is worth paying attention to the brokerage of period instruments, which were mainly sold to daimyo families. The appraisals and prices of such antiques were influenced by the opinions of the Kanda family. Many of period instruments that embody "tradition" in today's world were "discovered" by musical instrument dealers in the Edo period.
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.163-183, 1991-11-11

中世城館の調査はようやく近年,文献史学,歴史地理学,考古学など,さまざまな方法からおこなわれるようになった。こうした中でも,城館遺跡の概要をすばやく,簡易に把握する方法として縄張り調査は広く進められている。縄張り調査とは地表面観察によって,城館の堀・土塁・虎口などの防御遺構を把握することを主眼とする調査をいう。そしてその成果は「縄張り図」にまとめられる。このような縄張り調査は,長らく在野の愛好家によって支えられてきたため,調査の基準が不統一である。そこで本稿では,縄張り調査の意義と方法を具体的に検討した。その結果,縄張り調査は測量調査や発掘調査がおこなわれる前の,仮説的な作業としてすべきであることを示した。縄張り調査と測量・発掘調査はそれぞれ段階の違う,補い合う調査だと位置づけられる。つぎに,基準となり得る縄張り調査の方法を提示した。ここでは正確な地形図をベースに作図すること,簡易測量器や歩測などで測距を必ずすること,遺構理解のポイントになる虎口などを詳細に観察することを述べた。また成果図面の浄書など作業は,考古学の手法に従ってすべきことを述べた。そして縄張り図を地域史解明の史料として活用する方法として,織豊系城郭の虎口を中心にした編年を事例に,考え方と作成のプロセスを示した。これからの縄張り研究は,城館研究を推進するさまざまな他の研究方法との協業を,一層推進しなくてはならない。その中で縄張り調査は,城館の防御性から中世社会を解明するという視点を,より鮮明にして研究を深化させるべきである。それがはじまりつつある,総合的な城館研究の中で,縄張り研究が果たすべき役割である。それぞれの研究分野から,異なる城館像を出し合い,討議することで,多様な面をもつ中世城館は,はじめてその姿を現わすであろう。
著者
吉川 昌伸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.267-287, 1999-03-31

約12,000万年前以降の関東平野の層序と環境変遷史を検討し,変化期について考察した。完新世の有楽町層は,下部層は主に縄文海進期の海成層から,上部層は河成ないし三角州成堆積物から構成されるが,台地の開析谷内では上部層形成期にはふつう木本泥炭層が形成され,弥生時代以降に主に草本泥炭層に変化した。沖積低地では約4,000年前と約2,000年前には海水準の低下により浅谷が形成された。約12,000年前,冷温帯ないし亜寒帯性の針葉樹と落葉広葉樹からなる森林が,コナラ亜属を主とする落葉広葉樹林に変化した。クリは,約10,500年前以降に自然植生として普通に分布し,縄文中期から晩期(約5,000~2,150年前)には各地で優勢になった。クリ林の拡大が海退と関係することから,環境変化に起因して起こった人為的な変化と推定した。照葉樹林は,房総半島南端では約7,000年前に既に自生し,奥東京湾岸で約7,500年前に,東京湾岸地域の台地で約3,000年前に拡大したが,内陸部では落葉広葉樹林が卓越した。照葉樹林の拡大が関東平野南部から北部,沿岸域から内陸部へと認められたことから,海進による内陸部の湿潤化が関係すると考えた。スギ林は南関東では約3,000年前までに拡大し,その後北部に広がった。照葉樹林やスギ林は,弥生時代以降には内陸部の武蔵野台地や大宮台地,北関東でも拡大が認められたが,これら森林の拡大には生態系への人間の干渉も関係した。また,丘陵を主とするモミ林の拡大は古墳時代頃の湿潤化に起因して,マツ林は特殊な地域を除いては14~15世紀以降に漸増し18世紀初頭以降に卓越した。こうした関東平野の沖積低地の層序や植物化石群に基づき,約12,000年前以降にPE,HE1,HE2,HE3,HE4,HE5各期の6つの変化期を設定した。各変化期は,陸と沖積低地の双方で起こった変化であることを明らかにした。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.167, pp.127-142, 2012-01-31

漁村から町場や農村への魚行商は、交易の原初的形態のひとつとして調査研究の対象となってきた。しかし、それらの先行研究は、近代的な交通機関発達以前の徒歩や牛馬による移動が中心であり、第二次世界大戦後に全国的に一般化した鉄道利用の魚行商については、これまでほとんど報告されていない。本論文では、現在ほぼ唯一残された鉄道による集団的な魚行商の事例として、伊勢志摩地方における魚行商に注目し、関係者への聞き取りからその具体像と変遷を明らかにすると同時に、行商が果たしてきた役割について考察を試みた。三重県の伊勢志摩地方では、一九五〇年代後半から近畿日本鉄道(以下、近鉄)を利用した大阪方面への魚行商が行われるようになった。行商が盛んになるに従って、一般乗客との間で問題が生じるようになり、一九六三年に伊勢志摩魚行商組合連合会を結成、会員専用の鮮魚列車の運行が開始される。会員は、伊勢湾沿岸の漁村に居住し、最盛期には三〇〇人を数えるほどであった。会員の大半を占めるのは、松阪市猟師町周辺に居住する行商人である。この地域は、古くから漁業従事者が集住し、戦前から徒歩や自転車による近隣への魚行商が行われていた。戦後、近鉄を使って奈良方面へアサリやシオサバなどを売りに行き始め、次第にカレイやボラなどの鮮魚も持参して大阪へと足を伸ばすようになった。それに伴い、竹製の籠からブリキ製のカンへと使用道具も変化した。また、この地区の会員の多くは、大阪市内に露店から始めた店舗を構え、「伊勢屋」を名乗っている。瀬戸内海の高級魚を中心とした魚食文化の伝統をもつ大阪の中で、「伊勢」という新たなブランドと、当時まだ一般的でなかった産地直送を看板に、顧客の確保に成功した。そして、より庶民的な商店街を活動の場としたことにより、大阪の魚食文化に大衆化という裾野を広げる役割をも果たしたのではないかと考えられる。
著者
倉石 忠彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.52, pp.p161-183, 1993-11

地域とは何らかの同質性をもった地表に画された空間である。それは多様な性格に基づくものであって、単一なものによるのではない。しかもそれは往々にして主観によって左右される側面をもっている。しかしそうした地域のなかで人々は生活し、自己を認識している。一体日本人はどのような文化を育み、生活を営んできたのかということは、こうした地域を設定することによっても見出すことができるのではないかと思われる。それは生活している人々が必ずしも認識はしていないかもしれない。しかし、そうした地域を見出すことができるならば、日本の伝承文化のあり方を明らかにする上に、一定の価値を見出すことができるであろう。そうした観点からタナバタ伝承の一つである、タナバタの日(七月七日或は八月七日)に畑に立ち入ることを禁忌とする伝承を取り上げることにする。これはもしこの日に畑に立ち入ると何か災難が及ぶと伝えるもので、その理由はタナバタ様などと呼ぶ神霊的な存在がそこにいるからであるとするのである。これは従来物忌み的性格を示す伝承とされてきたが、それが何故に畑を対象とするかという点は明確ではなかった。しかし、その習俗が行われている地域が、タナバタに初物を供える地域と、この日にまこも等で馬を作って供える地域の接点であることからすると、畑作の収穫儀礼と、来訪神の信仰儀礼とにかかわっていることが推測される。また、この伝承は独特の分布状態を示し、対象となる豆畑と瓜畑との組み合わせにより、共通の地域性を持つものと考えることもできる。半夏生(夏至から数えて十一日目)の日にねぎ畑に立ち入ることを禁忌とする地域も同じ地域であり、民俗文化の上で独自の地域性をもっている。ここには特有な文化の存在が考えられる。こうした地域は他にも想定することができる。A region is a space marked off on the ground surface to give a certain homogeneity. The division is based on a variety of characters, not on any single one; and this tends to be affected by subjectivity. However, people live and recognize themselves within such a region. The author wonders whether we can discover, by setting out these regions, what kind of culture the Japanese developed and what kind of life they have lived. People living in a region may not necessarily have such awareness; however, if we can discover these regions, we may be able to find it of some value in clarifying what Japanese traditional culture should be.From this point of view, the author decided to deal with the traditional taboo prohibiting people from going into the fields on the day of Tanabata (Star Festival) (July 7). This taboo warns that entering the fields on this day will lead to disaster, because a divine, spiritual existence, called the "Tanabata-sama" or something similar, is there. This has been looked on as a tradition showing the feature of abstinence, but, it has not been clear why the taboo applied to the fields. From the fact that the areas observing this custom are located at the contact point of a region where people offer the first products of the season on the Tanabata day and a region where people offer a horse made with wild rice, etc, it is supposed that the taboo is related to a harvest ceremony of dry-field farming and a religious ceremony devoted to the visiting god.These areas are also distributed in a special manner, and it can be considered that they possess a common regionality from the combination of bean fields and melon fields. The areas correspond to those where it is taboo to go into spring onion fields on the Hangesyō (eleventh day from mid-summer), and these areas have a unique regionality with regard to folk culture. It may be thought that a unique culture exists in these regions. Other areas like this can be supposed.
著者
義江 明子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.41, pp.p35-65, 1992-03

日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。八~九世紀以降、氏の出自集団化に伴って、二つの類型の系譜は次第に一つに重ね合わされ父系の出自系譜が成立していく。しかし、集団の構成員全体が統率者(Oya)のもとに「子」(Ko)として包摂されるというあり方は、氏の中から形成された「家」の構成原理の中にも受け継がれていった。「家の御先祖様」は、生物的血縁関係ではなく家筋観念にそって、「家」を起こした初代のみ、あるいは代々の当主夫妻が集合的に祀られ、田の神=山の神とも融合する。その底流には、出自原理以前の、地域(共同体)に根ざした融合的祖霊観が一貫して生き続けていたのである。現在、家筋観念の急速な消滅によって、旧来の祖先祭祀は大きく揺らぎはじめている。基層に存在した血縁観念の希薄さにもう一度目を据え、血縁を超える共同性として再生することによって、「家」の枠組みにとらわれない新たな祖先祭祀のあり方もみえてくるのではないだろうか。The first axiom of the traditional Japanese "Ie" (family) is the continuity of a successive line, and blood relationship is not necessarily regarded as important. A subordinate not related by blood is included in the family as "Ie-no-Ko" (child in family). The origin of the principle of non-blood relationship in the "Ie" traces back to the ancient Uji (Clan) and structural principles of the community on which was based the formation of the Uji. In ancient times, there extensively existed the concept of Oya-noko (child in lineage) in a non-blood parent-child relationship. A child related by blood was distinguished from the above, and was called "Umi-no-Ko" (child of birth). Before the end of the 7th century, each was described in different types of genealogy. Uji was originally a non-descent group, based on the concept of "Oya-no-Ko". The "Oya" of the "Oya-no-Ko" indicated the heroic chief (ancestor), who was the symbol of the unification of the group; the "Ko" indicated a member of the group (Ujibito). Successive chiefs (Uji-no-kami) were considered as "Ko" of the previous chief, regardless of their blood relationship. Through a ceremony they renewed, that is, succeeded to, their spiritual power (the power to unify the group) from the previous chief, who was incorporated into the ancestors. "Umi-no-Ko", on the other hand, only indicated a bilateral kinrelationship in the chain of parent-child relationships, and wat the not structural principle of the group.After the 8th or 9th century, the two types of genealogies gradually overlapped to establish a paternal genealogy, along with the transition of the "Uji" into a descent group. However, the inclusion of all group members as "Ko" under the control of the leader (Oya) was continued to the structural principle of the "Ie", which was derived from the "Uji". The "family ancestors", meaning either only the first generation who established the "Ie", or successive chiefs and their wives, are worshiped in line with the concept of the family line, not the biological blood relationship, and they are fused with Ta-no-Kami (God of the rice fields) = Yame-no-Kami (God of the mountains). Underlying this is a consistent view of the inpersonalized ancestors rooted in unity in the region (community), which existed before the appearance of the principle of kin. These days, due to the rapid disappearance of the concept of family lineage, the foundation of conventional ancestral worship are being rocked. By reviewing the underlying concept of the weakness of the blood relationship, and by regenerating it as a sense of community over and above the blood relationship, there may be found a new way of ancestral worship free from the framework of the "Ie".
著者
宮田 公佳 竹内 有理 安達 文夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.321-352, 2003-10-31

今日,わが国においても観客の視点に立った博物館運営の重要性が認識されつつある。それを実現するには,観客の側からみた博物館の評価が欠かせないものとなる。これまで以上に観客について知ること,来館者の博物館体験について知ることが求められており,国立歴史民俗博物館においても,観客調査を試み始めている。本論文では,当館で実施している様々な観客調査の中から来館者の観覧行動を分析した調査を取り上げ,その結果について報告する。観覧行動の具体的な調査方法と分析方法について検討を行い,来館者の見学順路,各展示室の在室時間および在館時間,そして展示室別入室者数の時間的推移を定量的に分析することによって,博物館の建物の構造や展示室の配置が来館者の観覧行動に与える影響などを明らかにした。