著者
神野 由紀
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.9-48, 2016-02-29

明治末,日本に誕生した近代的な百貨店では,都市の新中間層を顧客に取り込むために様々な販売戦略を駆使した。呉服柄など流行の人為的操作を行い,呉服以外にも子ども用品や家具雑貨など新たな市場を開拓し,雛祭りや七五三,婚礼といった消費イベントを積極的に活用していく。新たな消費者である中間層は,自らの社会的な地位を顕示するための良い趣味を,商品を購入するという手軽な手段で獲得しようとし,初期百貨店は彼らに対して「良い趣味」を提供する役割を担った。この時期の三越呉服店の活動において特に注目されるのが,江戸的な趣味の影響力の大きさである。地方から都市に流入した中間層は,自らの趣味の欠如を埋めるため,百貨店の周辺に集まっていた好事家たちの趣味を模倣するという行動をとった。好事家たちの江戸的で風流な趣味が,中間層にとっての憧れとなり,彼らの消費傾向を規定していったのである。こうした事実は,明治末から昭和初期にかけて三越呉服店で販売され,人気を博していた人形玩具と風流道具に,最もよく表れている。本論では三越呉服店のPR誌に掲載されていたこの2種の商品に焦点を当て,一部の好事家の趣味が百貨店という場を介して大衆化されていく過程で,商品デザインがどのように変化していくのかについて,考察を試みた。商品を詳細に見ていくと,好事家の人形玩具収集趣味は,百貨店の雛人形販売の中で大衆向けの商品に置き換えられ,また実業エリート達による茶の湯の風流な趣味は,「風流道具」と称される茶道具やその周辺の家具雑貨類を通して,頒布会などで大衆に広められていったことがわかる。どちらにも共通して見られるのは,江戸的な趣味を継承していた一部の私的なコミュニティの美意識は,大衆化とともに,判り易い定型化された表象に置き換えられ,手軽に購入しやすい「商品」として生産されていくという特徴であった。これらは近代以降の大衆消費デザインを考える上で,重要な一側面であるといえる。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.133-144, 2012-03-30

本稿では目をめぐる民俗事象を取り上げ、感覚の民俗研究の端緒とするとともに、兆・応・禁・呪といった俗信の基盤として考察した。まず最初に、柳田國男の一目小僧論を検討し、さらにその範疇に入らない年中行事における目の力に対する伝承を指摘した。次いで片目の魚の伝承や縁起物のダルマに着目し、片方の目しかない状態を移行や変化の表現としてとらえるべきであることを確認した。さらに左の目を重視する説話的な伝承が確認できること、また片目というのは禁忌の表現でもあることを見出した。最後に「見る」という行為から構成される民俗について、特に「国見」、「岡見」、市川團十郎における「にらみ」、「月見」などを取り上げて分析した。その結果、従来は「見る」行為には鎮魂の意義があるとされてきたが、さらにその内容を詳細に検討する必要があることが判明した。今後はさらに多くの「見る」民俗を分析するとともに五官に関わる民俗を総合的に検討することを目指したい。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.225, pp.351-369, 2021-03-31

漆は日本列島上の生活文化において|きわめて重要な役割を果たしてきた。産業構造の変化によって|漆の位相は前近代とは大きく異なってしまっている。端的に漆の価値と社会的な重要性は大幅に低下したといってよい。その点で漆は過去のものになりつつある。しかし|だからといって民俗的な価値はなく|その追究は不要であるということはない。本稿では|かつての生活の諸場面における漆の様相を民俗学の立場から総合的にとらえていくための予備的な考察をおこなう。そのために|ここではまず|従来の民俗学における漆をめぐる調査|研究の成果をふり返り|そこでの問題意識と具体的な調査内容とを確認する。次に漆をめぐるさまざまな民俗事象が形成される背景となったであろう漆栽培とその樹液をめぐる近世の様相を|北奥羽地方(弘前藩)の史資料をもとに確認する。さらに漆をめぐって伝承されてきた俗信や説話をとりあげ|そこから見出される生活世界における漆の問題を考えてみたい。つまり本稿では|近世期以降の漆をめぐる史資料を概観し|漆の民俗研究を進めるための問題群を確認することを目標とし|課題の解決というよりも漆をめぐる民俗学的な課題の確認とこれからの考察の方向性とを提出することを試みるものである。結論として|漆をめぐる民俗的な研究課題としては|第1に木材としての漆の生態と利用|第2に地域のなかでの漆の生産と技術|第3に遠隔地をむすぶ漆の樹液の流通と人びとの移動|第4に近代化過程における漆の位相|第5に漆をめぐる俗信と説話およびその背景|といったものが挙げられるということが導き出せた。
著者
市 大樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.65-100, 2015-03

日本最古級の木簡の再検討、法隆寺金堂釈迦三尊像台座墨書銘の再釈読、百済木簡との比較研究などを通じて、日本列島における木簡使用の開始および展開について検討を加え、次のような結論を得た。①日本列島における木簡使用は、王仁や王辰爾の伝承が示唆するように、百済を中心とする朝鮮半島から渡来した人々を通じて、早ければ五世紀代に、遅くとも六世紀後半には開始された。具体的な証拠物によっては裏づけられないが、『日本書紀』の記事やその後の状況などを総合すると、王都とその周辺部、屯倉を中心とした地方拠点で、限定的に使用されるにとどまったと推定される。当該期には、主として物や人の管理に関わって、音声では代用できない事項を中心に、記録木簡が先行する形で使用されと推測される。②六四〇年代頃になると、ある程度木簡が普及するようになり、発掘調査によって木簡の存在を確かめることができるようになる。しかし、木簡が出土している場所は、基本的に飛鳥・難波といった王都とその周辺部にとどまり、依然として大きな広がりは認められない。出土点数も微々たるものにとどまっている。とはいえ、文書・記録・荷札・付札・習書・その他の木簡が存在しており、その後につながる木簡使用が認められる点は重要である。ただし、木簡の内容を具体的にみると、その後の木簡と比べて、典型的な書式にもとづいて記載されたものが少なく、やや特殊な場面で使用された木簡の比率が高い。これらのことは、日常的な行政の場で木簡を使用する機会が、のちの時代よりも少なかったことを意味している。③天武朝(六七二-八六)になると、木簡の出土点数が爆発的に増大し、紀年銘木簡も天武四年(六七五)以後連続して現れるようになる。木簡が出土する遺跡も、王都とその周辺部に限られなくなり、地方への広がりも顕著に認められる。木簡の種類・内容に注目すると、荷札木簡が目立つようになり、前白木簡など上申の文書木簡も多く使用されている。また、記録木簡や習書木簡も頻用された。ただし、下達の文書木簡はあまり使われなかった。こうした木簡文化の飛躍的発展をもたらした背景として、日本律令国家の建設にともなう地方支配の進展・文書行政の展開があった。天武朝とそれに続く持統朝(六八七-九七)には、日本と中国(唐)との間に国交はなく、新羅との直接交渉を通じて、さらに渡来人の子孫や亡命百済人などの知識を総動員しながら、国づくりが進められた。そのため、当該期の木簡には、韓国木簡の影響が色濃い。④大宝元年(七〇一)になると、約三〇年ぶりとなる遣唐使の任命(天候不順のため、派遣は翌年に延期)、大宝律令の制定・施行、独自年号(大宝)の使用などがおこなわれ、従来のような朝鮮半島を経由して中国の古い制度を学ぶのではなく、同時代の最新の中国制度を直接摂取しようとする志向が強くなっていく。これにともなって、木簡の表記・書式・書風などの面で、同時代の唐を模倣する動きが現れ、かつての朝鮮半島からの直接的な影響がやわらぐ。Through a reexamination of some of Japan's oldest wooden tablets, a reinterpretation of the writing in sumi ink on the supplementary material of the pedestal of the Shaka Triad enshrined in the Kon-do (Main Hall) of Horyu-ji Temple, and a comparison with Baekje wooden tablets, this study examines the start and development of use of wooden tablets in the Japanese Islands and draws the following conclusions. (1) As suggested by the legends of Wani (Wang In) and Oh Jin-ni , wooden tablets were introduced to the Japanese Islands at earliest in the fifth century or at latest in the latter half of the sixth century by immigrants from Baekje and other parts of the Korean Peninsula. Though there is no supporting evidence, putting all accounts together, including the articles of Nihon Shoki ( the Chronicle of Japan) , it can be deduced that the use of wooden tablets was limited to the area in and around the imperial capital, miyake (imperial-controlled territories) , and regional hubs. It is considered that at that time, wooden tablets for record purposes were adopted ahead of others. They were used mainly for management of people and goods, in particular when verbal communication was unavailable. (2) Around in the 640s, the use of wooden tablets spread to some degree. Their existence is corroborated by excavation research. Still, as a rule, the use was limited to the imperial capital and its surroundings, such as Asuka and Naniwa. Not only was the use geographically confined but also the number of wooden tablets excavated from that time is limited. Nevertheless, there is an important finding that various kinds of wooden tablets were used in their early stages, such as document, record, shipping label, tag, writing practice, and other wooden tablets. A close examination into the content of wooden tablets reveals that compared to later use, many wooden tablets were free from typical document styles and used in rather special circumstances. This means that there were fewer occasions to use wooden tablets in everyday administration at that time than later. (3) The Tenmu period (672-686) saw an explosive increase in the use of wooden tablets. Especially, wooden tablets dated using imperial year names appeared consecutively after 675 (Tenmu 4) . Moreover, wooden tablets were excavated not only from sites in and around the imperial capital but also in other provinces. With regard to the type and content of wooden tablets, the use of shipping labels multiplied dramatically, and document wooden tablets to report to higher officials, such as zenpaku mokkan, were often used. In addition, wooden tablets were also frequently used for record and writing practice purposes. In contrast, document wooden tablets to give directions to subordinates were rarely produced. There was a historical background behind this remarkable development of the wooden tablet culture; with the establishment of the ritsuryo nation of Japan, the imperial government expanded its territory and document administration system to rural areas. From the Tenmu period to the Jito period (687-697) , when it had no diplomatic relationship with China (the Tang Dynasty) , Japan promoted nation building through direct interchanges with Silla and full use of knowledge of migrant descendants and Baekje exiles. Therefore, the wooden tablets produced at that time were significantly affected by Korean wooden tablets. (4) In 701 (Taiho 1) , a mission to the Tang Dynasty was arranged for the first time in the past three decades (the dispatch was postponed one year due to bad weather) , Taiho Ritsuryo (the Code of Taiho) was formulated and put in effect, and the use of the original era name, Taiho, started. Japan was more inclined to learn the latest system at that time directly from China rather than learn old Chinese systems through the Korean Peninsula. At the same time, Japan started to imitate the description, document style, and calligraphy manner of wooden tablets of the Tang Dynasty, and the influence of the Korean Peninsula was weakening.一部非公開情報あり
著者
幡鎌 一弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.331-356, 2008-12-25

本稿は、十七世紀中葉における吉田家の活動を、執奏、神道裁許状、行法、勧請・祈祷、神学の五つに分類し、それぞれの実態と相互の関係を検討しながら、神社条目によって吉田家の神職支配が確立していった際の問題点を明らかにしたものである。以下、三点を指摘した。第一に、幕府が寛文五年に神社条目を発布したとき、吉田家の地方神職への支配は確実に広がりをみせていたが、吉田家は幕府が想定するほど朝廷内での地位を持ち合わせていなかった。そのため、従来の研究史では、吉田家の地位を過大評価することになり、執奏をめぐる争論の理解を不十分なものにしていた。第二に、従来の研究では、吉田家と地方との関係について、執奏や神道裁許状の発給による支配関係、身分編成に眼を奪われ、吉田神道の行法の広がりについて、十分理解できていなかった。このため、吉田家と地方大社の複雑な関係について、分析する視点を持ち得なかった。第三に、吉田家の神学の停滞があらわになり、神社祭祀(裁許状・行法の伝受)への特化を決定付けたのは、神社条目が発布された直後に神学への欲求の高まったことと、その発布に力を尽した吉川惟足の活動(講釈という手法)が大きく影響していた。
著者
崔 吉城
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.70, pp.161-183〔含 図4p〕, 1997-01

戦後韓国社会の高度成長は朴正煕大統領の経済開発計画とセマウル運動によるものといわれている。特に農村の精神革命とも言われているセマウル運動は朴大統領自ら信念をもって一貫的に推進して成功させたという。それは彼自身農村出身であり農村近代化を推進したことであり,農民層に政治的基盤を置き,国民総和をもって長期執権のために維新憲法を発布してしまったのでセマウル運動の評価は必ずしも肯定的なものだけではない。しかし,とにかく朴大統領の政策や戦後韓国経済の高度成長を理解するためにセマウル運動の研究は必要と思う。その運動の契機や起源はまだ不明である。北朝鮮の千里馬運動とかトルコのケマルパシャ革命などと言われているが寡聞かも知れないが分析的な研究はまだない。私は朴大統領時代を経験したものの一人としてセマウル運動は戦前の日本における農村開発運動と似ていると思った。最近セマウル運動が日本植民地時代の農村振興運動と似ているという言及があったので,私はその実証的な研究をしようと考え,資料を収集した。その過程において,朴大統領が三年間小学校の教師をした学校が農村振興運動の指定学校であったことがわかった。その学校を現地調査をしたところ,老人たちによって朴氏が農村振興運動指定学校で指導していたことを確認した。一方では朝鮮総督府の宇垣一成総督の時嘱託として農村振興運動を指導した山崎延吉を知るために安城市の『山崎文庫』を尋ねて調査をした。私は本稿で植民地に因んでいる反日的な枠を無視して脱価値論的に文献研究と現地調査を合わせて日本植民地時代の農村振興運動は朴大統領のセマウル運動のモデルになっているということを明らかにしたい。Post-war Korea's progress is said to have resulted from President Park Ch'ung-hee's economic plan, and also from the Saemaul movement. In particular the latter movement ― hailed as a spiritual revolution among agricultural communities ― is said to have succeeded thanks to the efforts of President Park, who was an enthusiastic supporter. He himself had come from an agricultural village, and had urged the modernization of such communities. He had built a political base among farmers, and had promulgated a forward-looking peace-time constitution, so his interest in the Saemaul movement was more than merely perfunctory. To attain an understanding of President Park's policy and South Korea's post-war economic development it is essential, I believe, to study the Saemaul movement. Its nature and origins are still obscure. It has been compared, perhaps superficially, to North Korea's Ch'onrima movement, and to the revolution carried out by Kemal Pasha in Turkey, but thus far it has received little analysis. As one who lived through this period, it seems to me that the Saemaul movement resembled pre-war Japan's Movement to Develop Agricultural Villages. I have been gathering materials for an empirical study of the Saemaul movement, spurred on by recent claims that it shares similarities with the Movement to Encourage Agricultural Villages which was launched in Korea under Japanese colonial rule. While doing so I discovered that the primary school in which President Park had taught for three years as a young man was one which had been designated as a unit in the Movement to Encourage Agricultural Villages. On paying a visit to the area in which this school was located I was informed by elderly people that Park had led the school's participation in the movement. I also visited the Yamazaki Archives in Anjou City to learn more about Yamazaki Nobuyoshi, whom Ugaki Kazushige, then Governor-General of Korea, had placed in charge of the Movement to Encourage Agricultural Villages. In this paper, ignoring any hostility to Japan because of the history colonial occupation, I demonstrate through a combination of objective research and field work that President Park's Saemaul movement was modelled on the Movement to Encourage Agricultural Villages promoted by Japan in colonialKorea.
著者
榎原 雅治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.130, pp.219-237, 2006-03

中世社会では徳政の実行が統治者の統治者たりうる条件とされ、代替わりや天災・戦乱などを契機にしばしば徳政の実行が宣言されたことは、中世史ではすでに常識となっている。笠松宏至氏は、鎌倉後期に公武両権力によって行われた徳政の篇目は仏神領の興行と雑訴の興行(公平な裁判)にあることを明らかにしたが、その後、五味文彦氏によって平安末期の荘園整理令がすでに代替わり徳政としての性格をもっていたことを明らかにされ、応安の半済令についても、笠松氏や村井章介氏によって将軍代始めの仏神領興行の徳政としての性格をもつものであることが明らかにされた。これによって統治者の代替わりに徳政が実施されることは、中世の成立期から南北朝期まで一貫して認められる現象であったことが明らかになっている。さらに海津一朗氏は、鎌倉後期の仏神領の興行が荘園制の再編を促し、その結果、「寺社本所一円領」と「武家領」からなる中世後期荘園制が成立していくことを明らかにしている。中世後期荘園制は鎌倉後期〜南北朝期の徳政を論理的根拠として存立していたことが提起されたわけであるが、中世後期研究の側でこの提起を受けとめた議論はまだ展開されていない。本稿では、足利義持、義教、義政という義満を後継する室町殿の代始めの土地政策に注目し、沽却された土地の返付訴訟、およびそれに対する幕府の態度について検討した。そして室町期においてもなお、代始めにあたって寺社領興行(沽却地の返付)を求める社会動向があり、またそれに応じることを徳政であると考える為政者側の考え方と施策が存在していたことを明らかにした。In medieval society the implementation of "tokusei" (lit:"virtuous government") was a provision that could be exercised by rulers. It has become commonly accepted within medieval history that declarations of the implementation of tokusei were frequently made at times of succession, disasters and war. Hiroshi Kasamatsu has said that decisions to implement tokusei under the dual authority of the imperial court and shogunate during the late Kamakura period are to be found in connection with the policy of protction temple and shrine land and legal action (impartial courts). Later on, Fumihiko Gomi showed that edicts establishing the shoen system at the end of the Heian period already contained provisions for tokusei at the time of succession. Kasamatsu and Shosuke Murai have said that the edict halving the taxes paid to rulers during the Oan era (1368-1375) contains what amounts to the first tokusei for temple and shrine land at the start of the reign of new shogun. This shows that the implementation of tokusei upon the succession of a ruler was a recognized phenomenon throughout the time starting at the beginning of the medieval period through to the period of the Southern and Northern Courts. Furthermore, Ichiro Kaizu says that the policy protection temple and shrine land at the late Kamakura period encouraged a reorganization of the shoen system, resulting in the establishment of the late medieval shoen system, which consisted of the "Jisha honjo ichien ryo" and the "Buke ryo". It has been asserted that the shoen system of the late medieval period was logically underpinned by tokusei from the late Kamakura through to the period of the Southern and Northern Courts. However, discussion accepting this assertion has yet to take place within research on the late medieval period.This paper focuses on the land policies at times of succession by Ashikaga Yoshimochi, Yoshinori and Yoshimasa, the rulers who succeeded Ashikaga Yoshimitsu and lived in the Muromachi palace in Kyoto. It discusses legal action for the return of land that had been sold and the attitude of the bakufu toward such action. It also shows that for the Muromachi period as well there was a social movement at the beginning of the period that demanded the taking of temple and shrine land (the return of sold land). Further, it explicates the existence of measures and the attitude of the ruling class, which believed that acceding to such demands was tokusei.
著者
関 周一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.210, pp.237-259, 2018-03-30

本稿は、中世日本における外来技術の伝来に関して、それを可能にするための条件ないし背景や、伝来技術の移転についての試論である。第一に、国家や地域権力といった公権力が、技術の伝来に果たした役割を考察した。古代においては、律令国家が遣唐使を派遣して、選択的に技術を導入した。中世においては、国家が技術導入を主導することは少なかった。中国人海商が博多に結桶をもたらした事例のように、民間交流によって技術が伝来し、博多という都市の住民の需要に応じて、技術が受容された。一六世紀前半、戦国大名による職人の編成が進んだ。小田原北条氏が奈良や京都の職人を招き、豊後府内の大友館の周辺には職人が居住した。種子島時尭は、配下の刀鍛冶に鉄砲の製造を命じた。第二に、伝来した技術の移転について、鉄砲の事例から考察した。文之玄昌『鉄炮記』では、種子島から畿内への鉄砲伝来の経緯について、(1)鉄砲と火薬の製法・発射方法が、根来寺に伝わった段階、(2)鉄砲の生産技術が、堺に伝わった段階という二段階が描かれていた。「南蛮鉄砲」を将軍に献上した豊後府内の大友義鎮は、将軍足利義輝の所持品である鉄砲を模倣製造することを命じられ、鉄砲の生産を開始した。第三に、種子島に鉄砲生産の技術が伝来した背景となる海上交通や貿易について考察した。一六世紀前半、日向国〜種子島〜琉球との間には、活発な交流があった。種子島と琉球との貿易は、一五一〇年代ころから始まっていた。種子島忠時は、琉球国王尚真から、船一艘の荷物への課税を免除された。日向国では、島津忠朝(島津豊州家)が遣明船の警固や造船を行い、琉球と頻繁に交渉していた。油津にある臨江寺の玄永侍者は、琉球出身であった。遣明使鸞岡省佐は、琉球国の人が明で自分のことを聞いたという話を、日向国で聞いている。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.167, pp.127-142, 2012-01

漁村から町場や農村への魚行商は、交易の原初的形態のひとつとして調査研究の対象となってきた。しかし、それらの先行研究は、近代的な交通機関発達以前の徒歩や牛馬による移動が中心であり、第二次世界大戦後に全国的に一般化した鉄道利用の魚行商については、これまでほとんど報告されていない。本論文では、現在ほぼ唯一残された鉄道による集団的な魚行商の事例として、伊勢志摩地方における魚行商に注目し、関係者への聞き取りからその具体像と変遷を明らかにすると同時に、行商が果たしてきた役割について考察を試みた。三重県の伊勢志摩地方では、一九五〇年代後半から近畿日本鉄道(以下、近鉄)を利用した大阪方面への魚行商が行われるようになった。行商が盛んになるに従って、一般乗客との間で問題が生じるようになり、一九六三年に伊勢志摩魚行商組合連合会を結成、会員専用の鮮魚列車の運行が開始される。会員は、伊勢湾沿岸の漁村に居住し、最盛期には三〇〇人を数えるほどであった。会員の大半を占めるのは、松阪市猟師町周辺に居住する行商人である。この地域は、古くから漁業従事者が集住し、戦前から徒歩や自転車による近隣への魚行商が行われていた。戦後、近鉄を使って奈良方面へアサリやシオサバなどを売りに行き始め、次第にカレイやボラなどの鮮魚も持参して大阪へと足を伸ばすようになった。それに伴い、竹製の籠からブリキ製のカンへと使用道具も変化した。また、この地区の会員の多くは、大阪市内に露店から始めた店舗を構え、「伊勢屋」を名乗っている。瀬戸内海の高級魚を中心とした魚食文化の伝統をもつ大阪の中で、「伊勢」という新たなブランドと、当時まだ一般的でなかった産地直送を看板に、顧客の確保に成功した。そして、より庶民的な商店街を活動の場としたことにより、大阪の魚食文化に大衆化という裾野を広げる役割をも果たしたのではないかと考えられる。
著者
浮ヶ谷 幸代
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.53-80, 2017-03

本稿では、まず日本の近代化のなかで「精神病」という病がいかに「医療化」されてきたのか、そして精神病者をいかに「病院収容化(施設化)」してきたか、その要因について明らかにする。諸外国の「脱施設化」に向かう取り組みに対して、日本の精神医療はいまだ精神科病院数(病床数)の圧倒的な多さと在院日数の顕著な長さを示している。世界的に特殊な状況下で日本の精神科病院数の減少が進まない要因について探る。精神医療の「脱施設化」が進まない中、北海道浦河赤十字病院(浦河日赤)では日本の精神医療の先陣を切って「地域で暮らすこと(脱施設化)」に成功した。浦河日赤の「脱施設化」のプロセスには二度の画期がある。第一は、精神科病棟のうち開放病棟が閉鎖となったプロセスであり、それを第一次減床化とする。第一次減床化のプロセスについて詳細に描き出し、減床化に成功した要因について明らかにする。第二は、精神科病棟全体の廃止に至ったプロセスであり、それを第二次減床化とする。そのプロセスに起こった政治的なできごとや浦河町が抱える問題をもとに、第二次減床化に進まざるを得なかった浦河日赤の置かれた状況について描き出す。この二度にわたる「脱施設化」のプロセスを描き出すために、エスノグラフィック・アプローチとして、医師や看護師、ソーシャルワーカーなどの病院関係者、社会福祉法人〈浦河べてるの家〉の職員、そして地域住民へのインタビュー調査を行った。精神科病棟廃止に対するさまざまな立場の人が示す異なる態度や見解について分析し、浦河日赤精神科の二回にわたる「脱施設化」のプロセスを描き出す。第二次減床化の病棟廃止と並行して、浦河ひがし町診療所という地域精神医療を展開するための新たな拠点が設立される。診療所が目指す今後の地域ケアの方向性を探る。そのうえで、診療所が目指す地域精神医療のあり方と海外の精神医療の方向性とを比較し、浦河町の地域精神医療の特徴と今後の課題について考察する。最後に、今後のアプローチとして、精神障がいをもちながら地域で暮らす当事者を支えるための地域精神医療を模索するために、「医療の生活化」という新たな視点を提示する。This paper first examines how psychiatric disorders have become medicalized in the process of modernization in Japan. It then analyzes how and why mental patients have become institutionalized. While there has been a growing trend in many countries to deinstitutionalize mental patients, Japan's mental health sector is characterized by its great number of asylums (beds) and extremely long hospitalization period. In light of these particularities, this study explores reasons why the number of asylums (beds) has not decreased in Japan. While deinstitutionalization has not progressed much in Japan's psychiatric medicine, Urakawa Red Cross Hospital (hereinafter "Urakawa Hospital") in Hokkaido, Japan, has led Japanese psychiatric facilities in shifting to community treatment (deinstitutionalization). There were two milestones in this process. The first one was the closedown of the open ward in the psychiatric ward, which is called the "first reduction of institutionalization" in this paper. This step is examined in detail to reveal factors that can be attributed with having promoted deinstitutionalization. The second milestone was the shutdown of the entire psychiatric ward, which is called the "second reduction of institutionalization" here. By examining the political developments and problems faced by Urakawa town during the second step, this paper reveals the situation that forced Urakawa Hospital to shut down the psychiatric ward. In order to illustrate this two-stepped process of deinstitutionalization, this study takes an ethnographic approach by conducting interviews with hospital staff, such as psychiatrists, nurses, and social workers, staff of the social welfare corporation Urakawa Bethel's House, and local residents. The various ideas and opinions of different people about the shutdown of the psychiatric ward are analyzed to describe the two-stepped process of deinstitutionalization at Urakawa Hospital. In parallel with the second reduction of institutionalization (the closedown of the entire ward), a new medical facility, Higashi-machi Clinic, was established to provide community psychiatric treatment. This paper explores the direction the Clinic should take to provide effective community care. It then compares the Clinic's ideal form of community psychiatric medicine with the direction being taken by overseas psychiatric medicine to analyze the current features and future problems of the community psychiatric medicine of Urakawa town. In conclusion, this paper proposes a new, final approach of "Life-style priority Treatment" (to maintain one's lifestyle while receiving treatment) as a way to find a community psychiatric treatment able to support psychiatric patients living in the community.
著者
鈴木 正崇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.247-269, 2012-03

長野県飯田市の遠山霜月祭を事例として、湯立神楽の意味と機能、変容と展開について考察を加え、コスモロジーの動態を明らかにした。湯立神楽は密教・陰陽道・修験道の影響を受けて、修験や巫覡を担い手として、神仏への祈願から死者供養、祖先祭祀を含む地元の祭と習合して定着する歴史的経緯を辿った。五大尊の修法には、湯釜を護摩壇に見立てたり、火と水を統御する禰宜が不動明王と一体になるなど、修験道儀礼や民間の禁忌意識の影響がある。また、大地や土を重視し竈に宿る土公神を祀り、「山」をコスモロジーの中核に据え、死霊供養を保持しつつ、「法」概念を読み替えるなど地域的特色がある。その特徴は、年中行事と通過儀礼と共に、個人の立願や共同体の危機に対応する臨時の危機儀礼を兼ねることである。中核には湯への信仰があり、神意の兆候を様々に読み取り、湯に託して生命力を更新し蘇りを願う。火を介して水をたぎらす湯立は、人間の自然への過剰な働きかけであり、世界に亀裂を入れて、人間と自然の狭間に生じる動態的な現象を読み解く儀礼で、湯の動き、湯の気配、湯の音や匂いに多様な意味を籠めて、独自の世界を幻視した。そこには「信頼」に満ちた人々と神霊と自然の微妙な均衡と動態があった。Yudate is the boiling water ritual dedicated to Kami ( deities) and Hotoke ( Buddhas) based upon the combination of sacred water and fire. This paper analyses the meaning and function of Yudate Kagura consisting of dance, music and Yudate, held at Tōyama valley in November by lunar calendar. Tōyama is located on the mountain area in the southern part of Nagano prefecture of Japan. Shinto priests or Shugenja ( mountain ascetics) has conducted these rituals on the occasion of annual cerebration called Shimotsuki Matsuri ( November festival) to activate the diminishing power of the sun and human body in the winter solstice. The topics to be discussed in this paper are local history, origin myth, syncretism of Shintōism & Buddhism, ritual process and status of religious practitioners. The main purpose is to make an interpretation of folk religion under the historical perspective. Yudate Kagura is conducted to express the gratitude for Kami and Hotoke to get the good harvest and make sure the future in next year. The villagers want to fulfill the vows of curing the disease, solution of unfortunate troubles and big accidents. Yudate Kagura is the spectacle to become into rebirth through the purification of the body by boiling water based upon the folk knowledge to live with the severe nature.
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.131, pp.51-84, 2006-03

戦場における佐倉歩兵第五七連隊の行動は、いくつかの連隊史や回想録で比較的よく知られている。しかし、兵士たちの平時の日常生活、意識については不明な点も多いように思われる。本稿は一九三四(昭和九)年に連隊のある上等兵がほぼ毎日書いていた日記帳の内容を分析して、連隊の兵士が毎日どのような訓練・生活を送っていたのかを再構成することを目的とする。日記の筆者は(おそらく)三三年一月現役入営し、翌三四年七月一九日除隊している。日記帳にはこのうち三四年一月一日から除隊後の同年八月一八日までの記述がある。具体的に千葉での演習・勤務、富士山麓での演習、対抗競技と連隊への帰属意識、日常の衣食住、私的制裁、連隊と地域社会との関わり、といった諸テーマを設定して、兵士たちの〈日常〉の再構成に努めるとともに、彼らが自己の所属する軍隊をどうみていたのか、それは帝国軍隊の支持基盤たりえたのか、といった問題にも展望を示したい。なお、参考資料として、本日記の全文を連隊生活とは直接関係のない除隊後のものを除き、翻刻した。The activities of the 57th Sakura Infantry Regiment on the battlefield are relatively well known from a number of regimental histories and memoirs. However, little is known about the daily life and thoughts of soldiers during peacetime. The aim of this paper is to reconstruct the daily training and life of soldiers in the regiment from the study of a diary written virtually everyday by a private first class in the regiment in 1934. The diarist most likely took up his position in January 1933 and then left the regiment on July 19, 1934. The diary contains entries from January 1 through August 18, 1934, by which time he had been discharged from the regiment.This paper attempts to reconstruct the daily lives of soldiers and covers the topics of exercises and duties in Chiba, exercises at the foot of Mt. Fuji, competitive sports and loyalty to the regiment, everyday clothing, food and shelter, un-offirial forms of punishment, and the relationship between the regiment and the local community. It also takes a look at how the soldiers regarded the regiment they were attached to and whether this constituted support for the Imperial Army. It may be noted that this diary, with the exception of the part following the writer's discharge from the regiment which is not directly related to the daily activities of the regiment, has been republished in full to provide background information.
著者
原 淳一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.87-107, 2010-03-15

往来物研究は、岡村金太郎編『往来物分類目録』、石川謙・石川松太郎編『日本教科書大系・往来編』、石川松太郎『往来物の成立と展開』といった先駆的な業績によって先鞭がつけられたが、その成立過程および系譜の考察が主であった。二千年代に入ってから相次いだ研究書の刊行によって、ようやくその社会的役割の検討にも目が向けられるに至った。しかし依然として教育史の観点すなわち「庶民教育のテキストである」という固定観念から逸脱することはなかった。そのため本稿で検討をおこなう「参詣型」往来についても、「『道中膝栗毛』が流行するような旅行ブームに乗っかった一時的なもの」という評価しか与えられてこなかった。この意味で、往来物の社会的役割への考察は未だ多くの可能性を秘めたものであると考える。そこで本論では、おもに江戸で出版された往来物に焦点を当て、次の通り時代区分を行った。第一期(明和~寛政期)、第二期(寛政六年~文化十年)、第三期(文政四年~)、第四期(文政五年~)、第五期(天保三年~)がそれである。第一期は上方で出版されていた定番往来物の出版、第二期・第四期はオリジナルな出版が行われた時期、第三期・第五期はそれぞれ前の時期の焼き直しをしていた時期と言える。ただし第二期は比較的自由な発想のもと刊行が行えていたが、すでに巷に名所案内や地誌が溢れつつあった第四期は他作品との差別化を図る必要性に迫られた。また十返一九のように他作品から転用するなど安易な刊行も目立ち、内容よりもむしろ作者の知名度による販売戦略が特徴であった。参詣型往来が登場した寛政期は、三都などわずかな場所をのぞいて「旅の大衆化」に対応しえる作品はほとんど皆無であった。そのため旅に際しての実用書として利用され、「参詣型」往来そのものも、本文のほかに縁起、街道図といった実践的な情報を加えて実用性を高めていった。それだけではない。多くの地域にとって「参詣型」往来ははじめて経験するその地域の「地誌」的存在でもあった。そのため地域の地理教育にも一役買い、その後の地域住人の手による地誌編纂という大きな歴史的潮流をも生み出す一助となった。
著者
平井 一臣
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.11-37, 2019-03-29

1965年4月に発足したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は,戦後日本における市民運動としての反戦平和運動の展開のなかで大きな役割を果たした。このベ平連の運動を牽引した知識人が,ベ平連の「代表」となった小田実だった。これまでのベ平連研究のなかでも小田の思想と行動はしばしばとり上げられてきたものの,彼がベ平連に参入した経緯や,難死の思想や加害の論理という小田の思想の形成のプロセスについては,依然として未検討の部分が残されている。本稿では,企画展「『1968年』無数の問いの噴出の時代」に提供された資料のなかのいくつかも利用して,ベ平連に参入するまでの小田の行動の軌跡,ベ平連発足時の小田起用の背景,難死の思想と加害の論理の形成のプロセスや両者の関係といった問題を検討する。このような問題意識の下に,本稿ではまず小田の世代的な特徴(「満州事変の頃」に生まれた世代)に着目したうえで,この世代特有の経験と結びつきながら難死の思想がどのように形成されたのか,その軌跡を明らかにする。次に,ベ平連発足に際しての小田の起用について,小熊英二や竹内洋に代表される従来の説明を検討し,ベ平連の代表として「小田実か石原慎太郎か」という選択肢は存在しなかったこと,60年代前半の小田の言論活動の軌跡は戦闘的リベラルに近づく軌跡であり,ベ平連に結集した知識人のなかでの小田に対する一定の評価が存在していたこと,などを明らかにする。さらに,これまで1966年の日米市民会議と結びつけて説明されてきた小田の加害の論理について検討する。実は,加害の論理はベ平連参加以前の段階で小田の問題意識のなかに存在していたが,むしろ回答困難な課題と小田は捉えていたこと,この問題に小田が積極的に向き合うきっかけとなったのが沖縄訪問での経験であったこと,そして加害の論理は当時の小田特有の考え方というよりも,当時の運動のなかで練り上げられていったものであったこと,などを明らかにする。
著者
榎村 寛之
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.27-46, 2007-03-30

宝亀三年(七七二)、光仁天皇の皇后井上内親王が天皇を呪誼した罪で廃された。この事件は有名ではあるが、これまでは単なる政治闘争の一形態として理解されてきた。先帝で、井上の姉妹の称徳天皇は、女帝であることを除けば、最も律令制的な手続きを踏んで即位した天皇であった。しかも皇后的な権威をも有し、武力で復位しており、さらに出家者であったため仏法主導の元で神々が王権を守護するというイデオロギーで支えられていた。彼女は権力そのものの象徴であり、男女を超え、律令体制下で天皇権力の専制性を究極にまで押し進めたと理解できる。光仁天皇・井上皇后段階の政治課題は、天皇を、どのように律令体制下に位置づけなおすか、ということであった。しかし光仁天皇は、聖武天皇の娘である井上の婿として即位しており、その没後には、井上が皇太后臨朝、または即位する可能性があった。そして井上には、元・斎王という経歴があり、伊勢神宮と深い関係を持っていた。井上の皇后在位期に、斎王が未定のままで称徳朝に途絶していた斎宮が造営されたが、この斎宮の、斎王の住む内院は、一つの区画の中で塀によって区分された生活空間と儀礼空間で構成されており、周辺に未整理の付属施設を伴った宮殿的な施設であった。続く桓武天皇段階の斎宮では、官衙区画を構成する方格地割の設計が優先され、内院は区画の中に組み込まれる。この改造では、長岡京の造営を意識しつつ、儀礼環境の整備、確立と継承など、斎王の権威より斎宮の都市化、定型化を押し進めたもので、「システムとして受け継がれるべき斎宮と斎王」へと転換したと考えられる。このように井上は「元・斎王」の皇后として、伊勢神宮を背景に特殊な権力を有しており、もし即位することがあれば、再び聖俗混交した専制王権が復活する可能性が高かった。井上廃后事件は、こうした「皇后」「女帝」「斎王」の権力を無化するために行われたイデオロギー闘争だったのである。
著者
井上 智勝
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.269-287, 2008-12-25

本稿は、近世における神社の歴史的展開に関する通史的叙述の試みである。それは、兵農分離・検地・村切り・農業生産力の向上と商品経済の進展など中世的在り方の断絶面、領主による「神事」遂行の責務認識・神仏習合など中世からの継承面の総和として展開する。一七世紀前半期には、近世統一権力による社領の没収と再付与、東照宮の創設による新たな宗教秩序の構築などが進められ、神社・神職の統制機構が設置され始めた。兵農分離による在地領主の離脱は、在地の氏子・宗教者による神社運営を余儀なくさせ、山伏など巡国の宗教者の定着傾向は神職の職分を明確化し、神職としての自意識を涵養する起点となった。一七世紀後半期には、旧社復興・「淫祠」破却を伴う神社および神職の整理・序列化が進行し、神祇管領長上を名乗る公家吉田家が本所として江戸幕府から公認された。また、平和で安定した時代の自己正当化を図る江戸幕府は、国家祭祀対象社や源氏祖先神の崇敬を誇示した。一八世紀前半期には、商品経済が全国を巻き込んで展開し、神社境内や附属の山林の価値が上昇、神社支配権の争奪が激化し始める。村切りによって、荘郷を解体して析出された村ではそれぞれ氏神社が成長した。また、財政難を顕在化させた江戸幕府は、御免勧化によって「神事」遂行の責務を形骸化させた。一八世紀後半期には、百姓身分でありながら神社の管理に当たる百姓神主が顕在化した。彼らを配下に取り込むことで神職本所として勢力を伸ばした神祇官長官白川家が、吉田家と対抗しながら配下獲得競争を展開し、復古反正の動向が高まる中、各地の神社は朝廷権威と結節されていった。また、神社は様々な行動文化や在村文化の拠点となっていた。明治維新に至るまでの一九世紀、これらの動向は質的・量的・空間的に深化・増大・拡大してゆく。近代国家は、近世までの神社の在り方を否定してゆくが、それは近世が準備した前提の上に展開したものであった。