著者
青木 隆浩
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.321-361, 2016-02-29

本稿では,明治時代から1980年代までの長期にわたり,日本における美容観の変遷とその原因をおもに化粧品産業の動向から明らかにしたものである。そのおもな論点は,明治時代以降の美容観が欧米化の影響を受けながらも,実際に変化するには長い時間がかかっており,欧米化が進んだ後でも揺り戻しがあって,日本独自の美容観が形成されたということであった。まず,明治時代といえば,白粉による白塗りと化粧品の工業製品化による一般家庭への普及がイメージされるが,実際には石鹸や化粧水,クリームといった基礎化粧の方がまず発達していったのであり,メイク方法は白粉をさらっと薄く伸ばす程度のシンプルなものだった。口紅やアイメイクに対する抵抗感は,現在から考えられないほど強かったため,欧米の美容観はなかなか受容されなかった。1930年代に入ってから,クリームや歯磨,香油などの出荷額が伸びていくが,第二次世界大戦による節制と物品税の大増税によって,すぐに化粧をしない時代に戻っていった。その後,1960年前後までの日本の女性は,クリームや化粧水による基礎化粧はするものの,メイクはほとんどしなかった。欧米型のメイク方法は,1959(昭和34)年におけるマックスファクターの「ローマンピンク」キャンペーンと1960(昭和35)年におけるカラーテレビの放送開始を契機として,普及し始めたと考えてよい。とくに1966(昭和41)年からそのキャンペーンにハーフモデルを起用して成功を収めたことが,ハーフモデルの日焼けした肌と大きな目に憧れる結果となって,欧米型のメイクが普及する大きな要因となった。ところが,1970年代の初めにハーフモデルを起用した日焼けの提唱がいったん終わり,その後,日本の美が見直されていくことになる。さらに,1980年代に入ると自然派志向やソフト志向が顕著となり,その中でアイドルタレントが化粧品のプロモーションに起用されるようになると,日本独自の自然でソフトな女性像,つまり1980年代の「かわいらしさ」のイメージが形成されていった。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.245-275, 2015-03-31

本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.1-19[含 英語文要旨], 2010-03

旅の大衆化が進んだ江戸時代の後期、主体的に旅を楽しむ女性が多く存在したことは、近年とくに旅日記や絵画資料などの分析から明らかになってきた。しかしながら、講の代参記録のような普遍化した史料には女性の旅の実態が反映されないことから、江戸時代の女性の旅を体系的に理解することは難しいのが現状である。本稿では、個人的な旅日記を題材に、そこに記された女性の旅の実態を通して、旅を支えたしくみを考える。題材とした旅日記は、❶清河八郎著『西遊草』、❷中村いと著「伊勢詣の日記」、❸松尾多勢子著「旅のなくさ、都のつと」の3点である。❶は幕末の尊攘派志士として知られる清河八郎が、母を伴って無手形の伊勢参宮をした記録である。そこには、非合法な関所抜けがあからさまに行われ、それが一種の街道稼ぎにもなっていた事実が記されており、伊勢参宮を契機とした周遊の旅の普及にともない、女性の抜け参りが慣例化していた実態が示されている。❷は江戸の裕福な商家の妻が知人一家とともに伊勢参宮をした際の日記で、とくに古市遊廓での伊勢音頭見物の記録からは、旅における女性の遊興と、その背景にある確かな経済力を確認することができる。❸は、幕末期に平田国学の門下となった信州伊那の豪農松尾家の妻多勢子が、動乱の最中にあった京都へ旅をし、約半年にわたって滞在した記録である。特異な例ではあるが、身につけた教養をひとつの道具として、旅先の見知らぬ土地で自ら人脈を築き、その人脈を故郷の人々の利用に供したことは注目に値する。女性の旅人の存在は、街道や宿場のあり方にさまざまな影響を及ぼしたと思われる。とくに、後年イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが明記した日本の街道の安全性は、女性の旅とは不可分の関係にあり、江戸時代後期の日本の旅文化を再評価するうえで、今後さらに女性の旅の検証を重ねていくことが必要である。
著者
塚本 學
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.273-295, 1991-11-11

文化財ということばは,文化財保護法の制定(1950)以前にもあったが,その普及は,法の制定後であった。はじめその内容は,芸術的価値を中心に理解され,狭義の文化史への歴史研究者の関心の低さも一因となって,歴史研究者の文化財への関心は,一般的には弱かった。だが,考古・民俗資料を中心に,芸術的価値を離れて,過去の人生の痕跡を保存すべき財とみなす感覚が成長し,一方では,経済成長の過程での開発の進行によって失われるものの大きさに対して,その保存を求める運動も伸びてきた。また,文化を,学問・芸術等の狭義の領域のものとだけみるのではなく,生業や衣食住等をふくめた概念として理解する機運も高まった。このなかで,文献以外の史料への重視の姿勢を強めた歴史学の分野でも,民衆の日常生活の歴史への関心とあいまって,文化財保存運動に大きな努力を傾けるうごきが出ている。文化財保護法での文化財定義も,芸術的価値からだけでなく,こうした広義の文化遺産の方向に動いていっている。文化財の概念と,歴史・考古・民俗等の諸学での研究のための素材,すなわち史料の概念とは次第に接近し,そのことが諸学の共同の場を考える上でも役割を演ずるかにみえる。だが,文化財を,継承さるべき文化の産物とだけみなすなら,反省の学としての歴史学とは両立できない。過去の人生は,現代に,よいものだけを残したわけではない。たとえば戦争の痕跡のように,私たちが継承すべきではないが,忘れるべきでないものは少なくない。すぐれた芸術品と理解される作品のなかにも,ある時代の屈辱の歴史が秘められていたり,新しい芸術創造の試みを抑圧する役割を担った例があること等を思いあわせて,継承さるべきでない文化の所産もまた文化財であるというみかたが必要である。歴史博物館の展示でも,この点が考えられねばならない。
著者
出口 顯
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.7-28, 2011-11-30

スカンジナビア諸国では,不妊のカップルが子供をもつ選択肢として国際養子縁組が定着している。養子はアジア・アフリカ,南アメリカの諸国を出生国としており,国際養子は異人種間養子でもあり,親子の間に生物学的・遺伝子的絆がないのは,一目瞭然である。彼らの間では,遺伝子や血縁といった自然のつながりより,日々の生活をともにしたつながりが親子の絆として大切にされている。最近の国際養子縁組においては,養子に受け入れ国の一員としてだけでなく,出生国の文化を担った人間でもあるダブルアイデンティティをもたせようという考え方が浸透している。そのような中,国際養子が不妊になり,実子ではなく養子縁組によって家族を新たに形成するとき,養子の出生国選択の理由は何によるのか,養父母になった国際養子5例の事例を紹介し,生物学的特徴の類似性が決して重要ではないことを浮き彫りにする。
著者
平 雅行
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.159-173, 2010-03-15

中世社会における呪術の問題を考える際、その議論には二つの方向性がある。第一は中世を呪術からの解放という視点で捉える見方であり、第二は中世社会が呪術を構造的に不可欠としたという考えである。前者の視角は、赤松俊秀・石井進氏らによって提起された。しかし、中世社会では呪詛が実体的暴力として機能しており、天皇や将軍の護持僧は莫大な財と膨大な労力をかけて呪詛防御の祈祷を行っていた。その点からすれば、中世では呪詛への恐怖が薄れたとする両氏の考えは成り立たたない。とはいえ、合理的精神が着実に発展している以上、顕密仏教と合理性との関係をどう捉えるかが問題の焦点となる。そこで本稿では『東山往来(とうさんおうらい)』という書物をとりあげ、①そこでの合理性や批判精神が内外の文献を博捜した上で答えを見出そうとする挙証主義によって担保されていたこと、②その挙証主義は顕密仏教における論義や文献学研究を母胎として育まれたことを明らかにした。さらに密教祈祷においても、①僧侶が医療技術を援用しながら治病祈祷を行っていたこと、②一宮で行われた豊作祈願の予祝儀礼も、農業技術の達成を踏まえたものであったことを指摘した。そして、高い合理性を取り込んだ呪術、呪術性を融着させた高度な合理主義が顕密仏教の特質であると論じた。そして、顕密仏教が中世の呪術体系の頂点に君臨できた要因として、①文献的裏づけの豊かさと質の高さ、②祈祷を行う僧侶の日常的な鍛錬、③呪詛を正当化する高度な理論の3点をあげた。最後に、合理性と呪術性の共存、呪術的合理性と合理的呪術性との混在は、顕密仏教だけの特質ではなく、程度の差こそあれ、現代社会をも貫く超歴史的なものと捉えるべきだと結論している。
著者
髙久 智広
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.89-114, 2014-01

これまで幕藩制社会における官僚制の問題は、将軍や幕閣といった政権担当者の交代や改革に伴う幕府の機構改革の側面から論じられることがほとんどであった。しかしそうした改革や政権交代には必然的に積極的な人材登用とともに前政権が行った政策の批判的継承と前政権の諸政策を担った諸役人の処分や否定も付随する。このように考えると、幕府の官僚組織を編成する側の論理もさることながら、その構成員たる幕臣たちが、組織内での地位の上昇・下降をどのように捉えていたのかを明らかにすることが、組織の実態を明らかにするうえでは欠かせない作業となってくる。そこで本稿では武士の立身出世を題材にした出世双六のうち、「江戸幕臣出世双六」「御大名出世双六」「御役替双六」の三点を検討素材として、史料としての有効性を測りつつ、幕府の官僚組織における出世を、幕臣たちがどのように捉えていたのかを考察した。本稿では、まず第一節において、「江戸幕臣出世双六」と「御大名出世双六」の比較からこれらの双六には、職制上の階梯を昇っていくことだけではなく、それに伴う禄高の上昇や御目見以下から以上、あるいは旗本から大名への家格の上昇、また殿席や官位・官職の上昇、さらには武家としての継承・繁栄までを組み込んだ出世観が示されていると位置づけた。また、この二つの双六の特徴として、まずそれぞれの場に応じた上役や関係諸職との間で交わされる付届けの贈答関係、即ち交際のあり様がより重視されており、それは出世・昇進とは不可分の関係にあったこと、またその結びつきの強弱はこれらの双六では付届けの数によって示されているが、その多少は職階の上下以上に、それぞれの職務内容や権限がより大きく作用する構成となっていることを指摘した。またこれら二つの双六は「振出シ」や「家督」のマスにおいては、サイコロの出目というある種の運命によって振り分けられる武家としての身分的階層が、現実世界と同様に御目見以下の最下層に位置する中間から、最も上層の万石以上まで大きな幅をもって設定されており、そうした各家に歴史的に備わった家格=身分的階層が出世・昇進と密接な関わりを持っていることがゲームを通じて実感される構成となっている。その一方で、佐渡奉行が側用人や伏見奉行に飛躍するような実際にはあり得ない抜擢人事の要素をも組み込んでいて、しかもそれが両双六において採用されていることから、これらの双六にみられる特徴は、幕臣の出世に関し、当時共有されていた認識を示すものではないかと本稿では位置づけている。また、本稿で検討した三つの双六では、サイコロを振るごとに単純に地位が上昇していく仕組みではなく、降格や処分を意味する設定が実態に即した内容で組み込まれている点が重要ではないかと考えた。そのことにより、どの役職や場に、どのようなリスクがあるのかということも知ることができるからである。なかでも第二節においては「御役替双六」に設定された「振出シ小普請」と「一生小普請」に注目した。これは三〇〇〇石以下の無役を意味する一般的な小普請と、処分や粛正によって貶される咎小普請という、幕府の官僚組織の特色の一つである小普請の両義性を明確に提示するものである。特に「一生小普請」については、当該双六の作成時期として比定される享保期から天明期にかけての勘定奉行・勘定吟味役、大坂町奉行の動向を追い、「御役替双六」における「一生小普請」の設定が、一八世紀半ばにおける上記三職就任者の処分・粛正と小普請入りの実態を反映したものであることを指摘した。同時代に生きた幕臣やその子弟たちは、「御役替双六」の「一生小普請」と諸職の対応関係をみただけで、現実にあった政権担当者の交代やそれに伴う政策方針の転換、前政権担当者や関連諸役の粛正などを想起したであろう。こうした出世双六は、本来、幕府の官僚組織のあり方を論じる上では二次的・三次的史料に分類されるものではある。また、概ね実態を反映する形で構成されてはいるものの、それぞれの双六には製作者の意図や認識が組み込まれている。しかし、これらの双六において再現される立身出世のプロセスは、現実世界を強く照射するものでもあり、一次的史料に即して批判的に検証したことで、有効な研究素材になりうることを明らかにできたのではないかと考える。Most of conventional research on the bureaucracy in the shogunate-and-domain-system society has focused on organizational reforms of the Tokugawa shogunate accompanied by changes of people in power such as shoguns and high-ranking officials. These organizational reforms and administrative changeovers, however, always trigger the aggressive appointment of new officials, combined with the criticism of the previous administration on its policies and the dismissal of former officials responsible for these policies. Therefore, in addition to the study of views of top-ranking officials organizing the shogunate bureaucracy, the study of views of vassals composing it about their promotions and demotions in the government is crucial in clarifying the real situation of the organization. This article examines vassals' views on promotion in the shogunate bureaucracy by using three games of sugoroku (Japanese backgammon) on the theme of samurai's advancement in life and career, Edo Bakushin Shusse Sugoroku, Odaimyo Shusse Sugoroku, and Oyakugae Sugoroku, as research materials while evaluating their validity as historical sources.In the first chapter, by comparing Edo Bakushin Shusse Sugoroku and Odaimyo Shusse Sugoroku, this article reveals their outlook on promotion; it not only means climbing up the bureaucratic ladder but also includes the fruits of promotion such as an increase in stipends, advancement in family status from omemie-ika (the unprivileged who were barred from seeing a shogun) to omemie-ijo (the privileged who were allowed to do so) or from hatamoto (vassal) to daimyo (feudal lord) , and upgrading of the class of anteroom and official rank and post. Promotion seems even associated with the inheritance and prosperity of samurai family. Another attribution of the two games is to attach importance to relationships of gift-exchange, socializing, with superiors and other relevant officials. The connection is described to be inseparably linked with promotion and upgrading. In the game, the strength of relationship is indicated by the number of gifts, which seems to depend more on the functional role and authority than on the hierarchy of officers. Moreover, like in the real world, both sugoroku games provide a wide range of status levels from the lowest (footman, the bottom of the omemie-ika servants) to the highest (feudal load with a stipend of ten thousand koku or over) , and the throw of dice, a kind of destiny, determines the class of players when starting or arriving at the cell of "inheritance." Thus, the games are designed to make players realize that the historical family rank, status hierarchy, is closely connected with advancement in life and career. On the other hand, the games include exceptional promotions such as from Sado magistrate to grand chamberlain or Fushimi magistrate. Though such upgrading seems unlikely, it can be considered as a common view of promotion of shogunate vassals at that time because both sugoroku games include these kinds of promotion.The three games of sugoroku covered by this article do not simply allow players to get promoted by throwing a dice but provide a realistic view of demotion and punishment. This is considered to be important because players can understand what kind of risks each rank or position has. In the second chapter, this article focuses on the rules of starting kobushin and lifetime kobushin in Oyakugae Sugoroku. Kobushin (vassals holding no post in the government) is one of distinctive human resource cultivation systems of the Tokugawa shogunate, and the sugoroku clearly indicates the two meanings of it: general kobushin holding a stipend of less than 3,000 koku but no post and punished kobushin forfeiting his post due to a penalty or purge.By examining the primary historical materials written by Honda Naritaka, who managed kobushin from the end of the Kansei period to the Kyowa period (from 1800 to 1803 ) , this article studies how general kobushin got recommended for and promoted to posts. It is discovered that, despite conditions that they had to have both literary and military accomplishments, in practice vassals were judged for recommendation or promotion based on the different criteria depending on respective posts such as guard, housekeeper, and treasurer.With regard to the lifetime kobushin, this article examines the changes of chief financial officials, comptrollers, and Osaka magistrates from the Kyoho period to the Tenmei period (from 1716 to 1789 ) , which is estimated to be when Oyakugae Sugoroku was created. As a result, it is discovered that the profile of lifetime kobushin in Oyakugae Sugoroku reflects the actual penalties, purges, and forfeitures of officers in the above-mentioned three ranks at the middle of the 18th century. The relations between lifetime kobushin and other posts described in Oyakugae Sugoroku could have reminded contemporary vassals and their children of the actual changes of people in power and the subsequent shifts of policies and purges of officers and officials of the previous regime. In the study of the bureaucracy of the Tokugawa shogunate, these games of shusse sugorokuhave fallen under the secondary or tertiary historical sources. Each of the games includes opinions and views of its producer. However, they are designed to generally reflect the reality. The processes of advancement in life and career described in those games strongly reflect the real world. Examining their validity based on the primary historical sources, therefore, this article concludes that those games can serve as effective research materials.
著者
清水 靖久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.39-70, 2019-03-29

東大紛争大詰めの1968年12月23日,加藤一郎総長代行が全学共闘会議に最後の話し合いを申入れ,懸案の文学部処分の「白紙還元」を提案したのに,全共闘は話し合いを拒否したという説がある。事実ではないが,その当否を検討するためにも,文学部の学生がなぜ処分されたのか,その「白紙撤回」を全共闘はなぜ要求しつづけたのか,1969年1月18,19日の機動隊導入による安田講堂の攻防は避けられなかったか,1969年12月まで文学部だけ紛争が長引いたのはなぜかを考察する。東大紛争における文学部処分とは,1967年10月4日の文学部協議会の閉会後,文学部学生仲野雅(ただし)が築島裕(ひろし)助教授と揉みあいになり,ネクタイをつかんで暴言を吐いたとして無期停学処分を受けたことである。当時の山本達郎文学部長は,12月19日の評議会で,仲野の行為を複数教官に対する「学生にあるまじき暴言」として誇大に説明して処分を決定し,一か月後に事実を修正したが伏せた。1968年11月就任の林健太郎文学部長は,同月上旬の軟禁時以外は,仲野と築島の行為の事実を議論せず,教師への「非礼な行為」という説明を維持した。1969年8月就任の堀米庸三文学部長は,9月5日,仲野処分を消去するとしたが,処分は適法だったと主張しつづけ,築島の先手の暴力という事実を指摘されても軽視した。この文学部処分は,不在学生が処分された点で事実誤認が明らかになった医学部処分とともに東大紛争の二大争点であり,後者が1968年11月に取消されたのちは,最大の争点だった。加藤執行部は,12月23日,文学部処分について「処分制度の変更の上に立って再検討する用意がある」と共闘会議に申入れたが,林文学部長らが承認する見込みはなかったし,共闘会議から拒否された。「白紙還元」の提案と言えるものではなかった。
著者
中島 丈晴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.107-128, 2010-03-15

伊勢湾・知多湾・三河湾・渥美湾を伊勢湾内海として広域的にとらえると、交通の要衝が室町将軍権力によって掌握されていたことが知られる。本論では残存史料が豊富で、伊勢湾内海とも関わりを持った将軍側近・政所執事の伊勢氏を通して、その権力編成が伊勢湾内海地域に与えた歴史的影響を探った。そのために本論では、十五世紀中葉における伊勢氏と被官衆との結合関係の分析を通して、被官衆の組織形態の全体像を把握し、その編成原理を明らかにするとともに、伊勢氏権力構造の特質についても検討することを課題とした。伊勢氏の家政職員である在京被官は、将軍家御物奉行として室町殿に供奉するとともに、在国して各地の「住人」を自身の寄子とし、伊勢氏被官化形成の重要な役割を担っていた。在京被官による、在国被官から伊勢氏への「御対面始」、「代始出仕」、進物の取り次ぎは個別的なものではなく一般的に定着しており、在京被官と在国被官は「申次―寄子」関係による編成であったといえる。伊勢氏の軍事基盤と評価される在国被官は、それに対する奉仕として在京被官に武力協力をしたと推測される。料所代官として在国し、自身の領国的基盤をもたない在京被官が、しばしば伊勢氏から守護譴責に対する幕府御家人への合力を命じられているのはそれゆえと考えられる。つまり両者は権力編成上におけるギブアンドテイク関係にあったといえる。しかし、在国被官は農業経営から分離しておらず、在地で直面する諸問題にさいし自力救済の「弓矢」に及ぶなど分裂・対立することがあり、軍事基盤としては不安定であった。在京被官と在国被官の「申次―寄子」関係に対し、伊勢氏と在京被官は、相続安堵過程の分析から、家同士の結びつき、「奉行」、「預所」など家産経営権の安堵といった点が確認され、家政職員としての活動とあわせ、まさに家産官僚制による編成であったといえる。つまり伊勢氏権力は、家産官僚制と「申次―寄子」関係の二重の編成原理によって構成されていた。権勢を誇った伊勢貞親が没落した文正の政変における被官衆の動向の違いは、編成原理の相違による伊勢氏権力の構造的問題であったと考えられる。こうした伊勢氏権力構造の特質にもとづく権力編成こそ、戦国期にいたるまで伊勢湾内海地域において伊勢氏被官の系譜を引く国人たちが活躍しえた背景であったと考えられる。
著者
鯨井 千佐登
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.145-182, 2012-03

日本中世・近世「賤民」の権利のなかでも、①斃牛馬の皮を剥いで取得する権利、②埋葬する死体の衣類を剥いで取得する権利、③「癩者」の身柄を引き取る権利がとくに注目される。中世史家の三浦圭一は「牛馬にとって衣裳にあたるのが皮革に他ならない」とのべて、①と②を「同じレベル」で見ようとした。横井清も「皮を剥いでそれを取得することと死体の衣類を受け取ることが無縁なものとは私も思えない」といい、「身に付けている表皮を剥ぎとる権利と行為」をどのように考えるべきかという問題を提起している。一方、③は中世的な権利で、引き取られた「癩者」は「賤民」集団の一員となった。「癩」は「表皮」に症状のあらわれる皮膚の病であるから、③も含めて、「賤民」の権利は身を覆っている「表皮」にかかわるものとして一括して把握すべきかもしれない。こうした斃牛馬や死体の「身に付けている表皮を剥ぎとる権利」や「癩者」に対する監督権の宗教的源泉が、古くは境界の神にあると信じられていた可能性が高い。境界の神とは地境などに祀られていた神々のことで、「賤民」の信仰対象でもあった。本稿の課題は、そうした境界の神の本来の姿を見極めることである。本稿では、古くは境界の神に対する信仰が母子神信仰、とくに胎内神=御子神への信仰を骨子としていたことや、境界の神が月神としての性格を備え、人間の身の皮や獣皮、衣類、片袖を剥いで取得すると信じられていたこと、それゆえ境界の神に獣皮や衣類、片袖を捧げる習俗が生まれたこと、境界の神が皮膚の病の平癒という心願をかなえるだけでなく、それを発症させるとも信じられていたことなどを推定した。つまり、境界の神と「身に付けている表皮」との密接な関係を推定し、また、「賤民」の有した境界の神の代理人としての性格の検証という今後の課題を提示した。
著者
熊谷 公男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.229-268, 2013-11-15

最北の城柵秋田城は,古代城柵のなかでも特異な存在であり,また歴史的にも大きく性格が変化する点で興味深い存在である。本稿は,秋田の歴史への登場から元慶の乱まで秋田城の歴史をたどり,秋田城の歴史的特質を明らかにしようとするものである。秋田城の起源は天平五年(733)に出羽郡から秋田村に移転した出羽柵である。この秋田出羽柵は,律令国家の版図のなかで北に突出した場所に位置し,北方交流の拠点であったが,通常の城柵とちがい領域支配は著しく未熟であった。その後,仲麻呂政権の城柵再編策によって桃生城・雄勝城が造営されると,出羽柵は秋田城と改称され,陸奥国と駅路で結ばれて,孤立した立地はある程度改善されるが,領域支配の強化が蝦夷との対立をまねいて防備が困難となり,宝亀初年には出羽国から秋田城の停廃が要請される。中央政府もそれを承認するが,まもなく三十八年戦争が勃発し,城下住民が南の河辺郡への移住を拒んだために廃城は先送りされる。山道蝦夷の制圧を前提とした桓武朝の城柵再編が秋田城の歴史の大きな転機となる。胆沢城・志波城の造営によって陸奥国の疆域がようやく秋田城と同じラインまで北進し,また払田柵(第二次雄勝城)が造営されたことで,秋田城の孤立した立地が解消される。さらに秋田郡が建置されて,通常の城柵のように城司―郡司の二段階の城柵支配が行われるようになる。その後,城司の支配がおよぶ「城下」が米代川流域にまで拡大され,秋田城の支配体制が飛躍的に強化される。その結果,百姓の「奥地」への逃亡や,城下の蝦夷村の収奪強化などの新たな矛盾が生まれる。これは一方で「奥地」(米代川流域・津軽地方)の社会の発展を生み出すが,もう一方で城下の蝦夷村の俘囚たちの反発をまねき,やがて元慶の乱が勃発する。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.47-62, 2011-03

本稿は雑誌を通して日本の民俗研究の形成過程の特徴をとらえる視角を追求しようとするものである。雑誌は、長く大学に講座を持たなかった日本の民俗研究にとって重要なメディアであり、研究の対象を登録し、資料を蒐集するだけではなく、課題を共有し、議論を深めていくためにも活用されてきたことがこれまでも指摘されている。ここでは具体的に一九一三年に石橋臥波を中心に発刊された『民俗』という雑誌が大正のはじめに「民俗」研究の重要性を主張し、国文学や歴史学、人類学の研究者を軸に運営されていたことを明らかにした。さらに同時期の高木敏雄・柳田国男による『郷土研究』との差異が「民俗」を把握する方法意識の差にある点について考察した。さらに一九三二年に発刊された『民間伝承』という雑誌を取り上げ、編集発行にあたった佐々木喜善が置かれていた状況や研究上の課題、雑誌刊行を支えた人脈について考察した。ここからは掲載された論考ばかりではなく、問答や資料報告を含む誌面の構成から、口承文芸を軸に東北を基盤としつつ事例の集積と論考とを共有しようとする姿勢を読みとることができた。雑誌にはその編集発行に携わった人々の研究への構想力が結晶しており、それはこれら二つの雑誌も例外ではない。そしてこのことは、民俗研究の史的展開を考える上で重要である。これまでは長期的に成功を遂げた雑誌に注目する傾向があったが、どちらの雑誌も短命に終わったもののこれらからも汲みあげるべき問題があることが判明した。今後は雑誌を支えた読者とのコミュニケーションの近代的な特色や謄写版といったメディアを生み出す技術との関係も考慮に入れて、雑誌を民俗学史の中に位置づけていく必要があろう。
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.47-93, 2004-03

維新後、旧幕臣は、徳川家に従い静岡へ移住するか、新政府に仕え朝臣となるか、帰農・帰商するかという選択を迫られた。一方、脱走・抗戦という第四の選択肢を選んだ者もいた。箱館五稜郭で官軍に降伏するまで戦った彼らの中には、洋学系の人材が豊富に含まれていた。榎本武揚ら幹部数名を除き、大多数の箱館戦争降伏人は明治三年(一八七〇)までには謹慎処分を解かれ、静岡藩に帰参する。一部の有能な降伏人は静岡・沼津の藩校等に採用されたが、「人減らし」を余儀なくされていた藩の内情では、ほとんどの者は一代限りの藩士身分と三人扶持という最低の扶持米を保障されることが精一杯であった。勝海舟は、箱館降伏人のうち優れた人物を選び、明治政府へ出仕させたり、他藩へ派遣したりといった方法で、藩外で活用しようとした。降伏人が他藩の教育・軍事の指導者として派遣された事例として、和歌山・津山・名古屋・福井等の諸藩への「御貸人」が知られる。なお、御貸人には、帰参した降伏人を静岡藩が直接派遣した場合と、諸藩に預けられ謹慎生活を送っていた降伏人がそのまま現地で採用された場合とがあった。一方、剣客・志士的資質を有した降伏人の中には、敵として戦った鹿児島藩に率先遊学し、同藩の質実剛健な士風に感化され、静岡藩で新たな教育機関の設立を発起する動きも現れた。人見寧が静岡に設立した集学所がそれで、士風刷新を目指し、文武両道を教えるとともに、他藩士との交遊も重視した。鹿児島藩遊学とそれがもたらした集学所は、藩内と藩内外での横の交流や自己修養を意図したものであり、洋学を通じ藩や国家に役立つ人材を下から上へ吸い上げるべく創られた静岡学問所・沼津兵学校とは全く違う意義をもつものだった。After the restoration of Emperor Meiji, vassals of the former Bakufu were faced with the option of moving to Shizuoka with the Tokugawa family, becoming court nobles who entered the service of the new government, or returning to farming or commerce. There were also those who chose the fourth option of escaping and taking part in the resistane. Many of the vassals who fought at the Goryokaku in Hakodate until they surrendered to the government forces had undertaken Western studies. With the exception of Enomoto Takeaki and several other high-ranking officials, most of the men who surrendered during the Battle of Hakodate were able to avoid confinement and returned to the Shizuoka feudal domain before 1870. Some of the competent among them were employed by domain schools in Shizuoka and Numazu. However, the situation inside the Shizuoka domain was such that they were forced to "reduce numbers" as the domain was finding it difficult enough to guarantee a minimum rice allowance so that in most cases the status of warrior was restricted to one generation and the allowance covered just three persons.Katsu Kaishu sought to make use of vassals outside of the domain and adopted a method whereby he selected the most talented among those who had surrendered at Hakodate and either sent them to serve under the Meiji government or dispatched them to other feudal domains. Examples of these men who were dispatched to other domains to provide instruction in education and military affairs are to be found in the well-known "Okashinin", or "loaned persons" who went to work in the various domains, including Wakayama, Tsuyama, Nagoya and Fukui. These Okashinin took up their new roles by either one of two methods: they were either sent to domains directly by the Shizuoka domain upon their return home, or they had been sent to the various domains to serve their period of confinement and were subsequently employed locally.Some of the vassals who surrendered that were skilled at sword fighting and very patriotic were the first to be sent to study under the Kagoshima domain, who had been their enemy in battle, where they came under the influence of the Kagoshima domain's simple and robust warrior spirit. This also motivated the establishment of new educational institutions within the Shizuoka feudal domain. One of these was the Shugakujo established in Shizuoka by Hitomi Yasushi, which aimed to enforce discipline among warriors and to provide education based on learning and martial arts, and also attached great importance to conducting exchanges with warriors from other domains. The intention behind sending these vassals to study in the Kagoshima domain and the Shugakujo that were established as a result, was the promotion of horizontal interaction within the domain and between the domain and outside, as well as self-cultivation. As such, their significance is totally different from that of the Shizuoka Gakumonjo and the Numazu Military Academy, which were established for the purpose of raising people through the ranks to serve the domain or the state by means of Western studies.
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.217, pp.29-45, 2019-09-20

倭と栄山江流域の交流史を考える場合,文献的に問題となるのは,まず全羅南道および耽羅の百済への服属時期を確定することが必要と思われる。そのうえで北九州系および畿内系などに細分化される倭人の移住集団の活動内容の分析が必要となる。さらには加耶地域への移住集団との対比も必要となる。以下ではこの問題を考える素材として『日本書紀』欽明紀に散見する倭系百済官僚を中心に検討した。現在,栄山江流域の前方後円墳被葬者についての諸説は,大きくは在地首長あるいは土着勢力とする説,倭人あるいは倭系の人物を被葬者とする説に分かれている。本稿では在地的な首長系列とは異なる地点に突如出現する点を重視して,後者の可能性を指摘した。結論として,憶測を述べるならば五世紀後半以降の一時期に限定される栄山江流域の前方後円墳被葬者像として,百済王族たる地名王・侯の配下で,県城以下クラスの支配を任された,北九州を含む倭系豪族と想定した。彼らはやがて,百済の都に集められて官僚化し,倭国との外交折衝などに重用されたために,一時的な現象として古墳は消滅したのではないか。栄山江流域にのみ前方後円墳が集中する理由や,移住の詳細なプロセスなどについては不明であり,今後も検討する必要がある。
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.199-222, 2005-03-25

徳川幕府の後身たる静岡藩が明治初年に設立した沼津兵学校が、士官養成機関としての進化という、きわめて限定された範囲において、幕末に幕府によって推し進められた軍制改革の最終到達点であるとする評価に誤りはない。しかし、一地方政権である静岡藩と中央政府である幕府との根本的な違いにより、軍制全般においては決して直線的な継承関係をなしていなかった。脱走・壊滅し自然に消え去った海軍は別として、陸軍については、幕府時代に生み出された膨大な兵力は静岡藩では不要とされ、大規模なリストラが実施された。幕府の軍備増強政策は、静岡藩では一転して軍縮路線へと変更されたのである。量的な問題のみならず、質的にも継承されなかったものが少なくない。本稿では、まず、沼津兵学校と、幕府が幕末段階で設立した三兵士官学校との継承関係の有無について検討する。そして、前者が、フランス軍事顧問団の指導により生まれた後者とは、人的にも組織的にも継続性がないことを明らかにする。次に、慶応四年(一八六八)五月・六月以降に始まった旧幕府陸軍の解体と再編の過程=静岡藩軍制の成立過程を点検する。幕府瓦解後、とりわけ慶応四年五月以降の陸軍組織の変遷については、『続徳川実紀』、『柳営補任』、『陸軍歴史』といった既存の諸文献には記載がない。つまり、旧幕府陸軍が静岡藩軍制へ接続する途中経過については、文献上空白であったといえるが、本稿ではその時期の実態を明らかにする。また、生育方・勤番組という不勤・無役者集団を維持しながら常備兵を擁さないという特殊な軍事体制を採用した静岡藩の特徴を、沼津兵学校との関わりの中で考察する。明治三年(一八七〇)沼津兵学校に付置された修行兵という存在が検討対象である。これは、政府の命令によって設置することとされた常備兵三〇〇〇人に相当するものと思われるが、その実態は、定数にはるかに足りなかったばかりでなく、単なる兵卒ではなく下士官候補者であった。静岡藩は、幕府陸軍時代の多くの遺産を切り捨てざるをえなかったが、一部の良質な部分については的確に引き継いだ。また、旧幕府陸軍にはなかった新たな人脈と発想を付け加え、したたかに明治政府に対した。それが、沼津兵学校であり、修行兵の制度であった。徴兵という形で庶民を軍事に取り込めたか否かという点においては、政府・他藩に遅れをとった静岡藩であるが、士官教育、さらには普通初等・中等教育という非軍事面において、全国をリードする先進性を示したのである。つまり、軍事部門よりも教育部門において近代化が先行したのであり、沼津兵学校は、「兵」学校であるよりも、兵「学校」であることを象徴する存在であった。