著者
久留島 典子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.167-180, 2014-01-31

戦功を記録し、それを根拠に恩賞を得ることは、武士にとって最も基本的かつ重要な行為であるとみなされており、それに関わる南北朝期の軍忠状等については研究の蓄積がある。しかし戦国期、さらには戦争がなくなるとされる近世において、それらがどのように変化あるいは消失していくのか、必ずしも明らかにされていない。本稿は、中世と近世における武家文書史料の在り方の相違点、共通点を探るという観点から、戦功を記録する史料に焦点をあてて、その変遷をみていくものである。明治二年、版籍奉還直前の萩藩で、戊辰戦争等の戦功調査が組織的になされた。そのなかで、藩の家臣たちからなる軍団司令官たちは、中世軍忠状の典型的文言をもつ記録を藩からの命令に応じて提出し、藩も中世同様の証判を据えて返している。これを、農兵なども含む有志中心に編成された諸隊提出の戦功記録と比較すると、戦死傷者報告という内容は同一だが、軍忠状という形式自体に示される儀礼的性格の有無が大きな相違点となっている。すなわち幕末の藩や藩士たちは、軍忠状を自己の武士という身分の象徴として位置付けていたと考えられる。ではこの軍忠状とは、どのような歴史的存在なのか。恩賞給与のための軍功認定は、当初、指揮官の面前で口頭によってなされたとされる。しかし、蒙古襲来合戦時、恩賞決定者である幕府中枢部は戦闘地域を遠く離れた鎌倉におり、一方、戦闘が大規模で、戦功認定希望者も多数にのぼったため、初めて文書を介した戦功認定確認作業がおこなわれるようになったという。その後、軍事関係の文書が定式化され、戦功認定に関わる諸手続きが組織化されていった結果が、各地域で長期間にわたって継続的に戦闘が行われた南北朝期の各種軍事関係文書であったとされる。しかし一五世紀後半にもなると、軍事関係文書の中心は戦功を賞する感状となり、軍忠状など戦功記録・申告文書の残存例は全国的にわずかとなる。ところがその後、軍忠状や頸注文は、室町幕府の武家故実として、幕府との強い結びつきを誇示したい西国の大名・武士たちの間で再び用いられ、戦国時代最盛期には、大友氏・毛利氏などの戦国大名領国でさかんに作成されるようになった。さらに豊臣秀吉政権の成立以降、朝鮮への侵略戦争で作成された「鼻請取状」に象徴されるように、戦功報告書とその受理文書という形で軍功認定の方式は一層組織化された。関ヶ原合戦と二度の大坂の陣、また九州の大名家とその家臣の家では、近世初期最後の戦争ともいえる島原の乱に関する、それぞれ膨大な数の戦功記録文書が作成された。この時期の軍忠状自体は、自らの戦闘行動を具体的に記したもので、儀礼的要素は希薄である。しかもそれらは、徳川家へ軍功上申するための基礎資料と、恩賞を家臣たちに配分する際の根拠として、大名の家に留めおかれ管理・保管された。やがてこうした戦功記録は、徳川家との関係を語るきわめて重要な証拠として、現実の戦功認定が終了した後も、多くの武家で、家の由緒を示す家譜等に編纂され、幕府自体も、こうした戦功記録を集成していくようになった。以上のように、戦功記録の系譜を追ってくると、戦功を申請し恩賞に預かるというきわめて現実的な目的のために出現した軍忠状が、その後、二つの方向へと展開していったことが指摘できる。一つは事務的手続き文書としての機能をより純化させ、戦功申告書として、申請する側ではなく、認定する側に保管されていく方向である。そしてもう一つは、「家の記憶」の記録として、家譜や家記に編纂され、一種の由緒書、つまり記念し顕彰するための典拠となっていく方向である。最初に考察した幕末萩藩の軍忠状も、戦功の記録が戦国時代から近世にかけて変化し、島原の乱で、ある到達点に達した、その系譜のなかに位置づけられる。そしてこのことは同時に、近代以降の軍隊が、中世・近世武士のあり方から執拗に継受していった側面をも示唆するといえる。
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.125, pp.119-156, 2006-03-25

大原幽学は、全国を流浪した後、下総国香取郡長部村(千葉県干潟町)に居を定め、産業組合組織による耕地整理・農業技術改良・農作業の計画化・消費物資の共同購入といった方法で、天保期の荒廃した農村を建て直そうとした人物である。利己心を制し勤勉につとめ禁欲的に生活すべしというその主張は、道徳と経済とを統一した実践哲学であり、多くの農民が門人となり教えを奉じた。幽学の思想は、性理学(性学)と呼ばれたが、村を越え広範に広まったその教えは、やがて幕府の嫌疑を受けることとなり、安政五年(一八五八)、幽学は自害する。明治維新をはさみ、性理学は二代目・三代目の教主に引き継がれていった。門人には、大多数を占める下総農民に混ざって、江戸の幕臣、東京・静岡の旧幕臣が加わった。幽学を恩人と慕い、幕府による弾圧の際も支援を惜しまなかった御家人高松家の存在が端緒といえるが、幽学没後同家が性理学から離れていったのに対し、別の幕臣たちの間で性理学が受容されることになった。特に明治十年代、東京在住の旧幕臣男女の間で急速に普及する。彼らの生活ぶりは、丁髷を切らず、肉食はせず、馬車・鉄道には乗らずといった、文明開化の世相に反するものであり、周囲からは隔絶した一種異様なコロニーを形成したようである。反文明・反西洋の態度を取った明治の旧幕臣性理学徒であるが、そのグループの中には、幕末維新期に横浜語学所・沼津兵学校・静岡学問所といった先端的な洋学機関で学び教えた経歴を持つ人物がいた。洋学から性理学へという転向は、彼のいかなる経歴の中に位置づけられるのか。本稿では、主としてその伊藤隼という人物に関する史料を紹介することを通じて、明治の旧幕臣が残した思想遍歴の跡をたどってみたい。
著者
是澤 博昭
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.206, pp.129-162, 2017-03-31

昭和七年三月の満州国建国宣言から同年九月の満州国承認までの、排外熱が一段落した時期に、日本国内で唱えられたのがアジアの融和と平和であった。そこで大きな役割を果たしたのが子供である。子供による日満親善交流を日満両政府や関東軍は、満州侵略の正当性を大衆に宣伝するための効果的なイベントとして認めていた。さらに日本から行状のよくない移民が多数流入した満州国では、反日感情が増幅しており、国民レベルで融和をはかる必要性もあった。そこで日満融和の名のもとに、民間教育団体である全教連と新聞社が共同で主催する日本学童使節に全面的に協力するのである。学童使節は、文相、拓相のメッセージ持参をはじめ、首相など主要閣僚、満州国の執政、国務総理、関東軍司令官等の要人への謁見や満鉄、新聞社、立ち寄り先の国内外の都市の首長や役所、在留邦人団体などの訪問にも重点を置く。そして帰路朝鮮にも立ち寄り内鮮融和をはかるなど、日満融和を唱える日本の宣伝活動の役割を担っていた。さらに派遣日程が、満州事変一周年と満州国承認に重なり、その関連イベントとしての要素を強め、国民的な支持を広げる。それが新聞報道を過熱させ、予想以上の相乗効果を生み出す。日本学童使節は非公式ながら、ある意味では国家的な使命を帯びた使節となり、大衆意識を国家戦略へと誘うイベントにまで成長したといえるだろう。政府や軍は、大人社会の醜さを覆い隠す子供による日満親善交流の政治的な利用価値を認めたのだ。さらに昭和九年初頭、日本学童使節をモデルにした皇太子誕生を祝う二つの学童使節が『大毎』・『東日』と朝鮮総督府の御用新聞『京城日報』の主催で企画実行される。その方法論は、国家への帰属意識を高めるイベントへと応用され、主人公も少女から少年へと交代するのである。
著者
渡邉 一弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.95-118, 2012-03-30

日中戦争中の弾丸除けの御守である千人針や日の丸の寄書きを見ていると、かなり頻繁に出てくる見慣れない漢字のような文字「[扌+合+辛][扌+台][扌+合+辛][扌+包+口](サムハラ)」。その文字は千人針のみならず衣服に書き込まれたり、お守りとして携帯された紙片に書かれたり、戦時中の資料に様々な形で見られサムハラ信仰とも言うべき習俗であることが分かる。戦時中のサムハラ信仰は、弾丸除け信仰の一つに集約されていたと考えられるが、その始まりは少なくとも江戸時代に遡り、その内容は、怪我除け、虫除け、地震除けなど多岐にわたっていた。「耳囊」をはじめとした江戸期の随筆にこの奇妙なる文字、あるいは符字とも呼ばれる特殊な漢字が度々紹介されている。その後、明治時代になり、日清・日露戦争といった他国との戦争に際して、弾丸除けのまじないとして、活躍することとなる。出征する兵士に持たせるお守りとして大量に配られ、その奇妙なる文字は兵士たちの間で弾丸除けの俗信として広がっていった。なかでも田中富三郎という人物の活動がサムハラ信仰を全国的に知らしめるきっかけとなり、戦時中のサムハラ信仰を全国的に普及させ、現在のサムハラ神社に引き継がれている。俗信の研究の重要性は、宗教などに権威化されたお札などと違って、民間信仰のなかから生まれ、少しずつ様々な意味づけがなされ、いつの間にか人々がその奇跡を信じ、成立するものである。戦時中の人々は、弾丸除けの俗信を信じることで、その現実を乗りきろうとした。こうした俗信の由来は、その時代時代に信じやすいように様々な逸話が加えられ、加工されていく。その時代のなかで解釈することと、その俗信の変化を通史的に整理することと、その両面が研究として必要となる。サムハラ信仰の研究は少なからずあるが、断片的であり、通史的に現代までを俯瞰する研究はない。本稿では、江戸期に始まるサムハラ信仰を現代まで俯瞰することを目的とする。
著者
宇田川 洋
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.107, pp.217-249, 2003-03-31

H. WATANABE (1992) reported that if it can put the history of chashi upon the history of treasure, it will be enlightend a way to understand the social meaning of chashi through the relation of the social structure between the chashi and the treasure. And he considerd so that the treasures are inducements or a purpose of the struggle, both the treasures and chashi are the constructed element of “battle complex” in aynu.In this paper, I consider the prestige goods or the ikor such as treasures that are the sword, the lacquer ware and the tamasay (the necklace consisting of glass balls) and so on, from Satsumon period to Modern Age.K. YAMAURA (2000) introduced the trade as action at a distance by C. Renfrew. It is from Mode 1, the direct approach, to Mode 10, the trade at the barter port. And he arrived at the conclusion that there is Mode 4 in Epi-Jomon period and Mode 8 or 9 in Satsumon period. At present, this study of the prestige goods or the ikor such as treasures will give the data for searching the trade as action at a distance in aynu society.The materials of Satsumon Culture (Fig.3)There are some bronze bowls excavated at Biratori Town, Eniwa City and Kushiro City in Hokkaido from about 10th century to 12th century. In these materials, Sahari-bowls from so-called Korea Peninsula are including. And a bronze mirror, Koshu(Hu-zhou)-kyo, found at Zaimokucho 5 site in Kushiro City from Sekko-sho (Chekiang) in China, it may be 12th century. These kind of remains are of Continental origin. Another special material is laquered bowls from Honshu found in Sapporo City and Kushsiro City from 10th century to 13th century. In Yoichi Town, two bronze bells (taku) produced from China are found in a grave pit. And so two bronze portions of belt (katai-kanagu) are found in same Yoichi Town, these goods may be from Honshu.The materials of Okhotsk Culture (Fig.4)It is a well-known fact that the iron and bronze artifacts from Mohe or Tongren Culture and Jurchen Culture in the basin of the Amur River and the Maritime Province of Siberia are found in Okhotsk Culture. There are the bronze portions of belt, the bronze, copper and tin bells (taku and suzu) and iron halberds and so on found in Eshashi Town, Tokoro Town, Abashiri City, Nakashibetsu Town and Nemuro City.The peoples of Okhotsk Culture obtained some remains from Honshu as well as many metal artifacts from of Continental origin. For example, the Warabite-tou which is the sword with bracken like handle, are found in Esashi Town, Abashiri City, Tokoro Town and Rausu Town.The materials of so-called Middle Age and Modern Age (Fig.6~12)Figs.6 and 7 are the Japanese helmets made of iron and bronze found in Rumoi City, Fukagawa City, Biratori Town, Sapporo City, Kushiro City, Rikubetsu Town, Shizunai Town and Atsuma Town. The end of hoe-like materials (kuwasaki) made of iron and copper are Figs.8 and 9 found in Kuriyama Town, Shakotan Town, Yakumo Town, Sapporo City, Shizunai Town and Biratori Town and so on. It was recorded in the old documents of Edo era that these artifacts were the treasure named kira-us tomikamui, the god of treasure with horn, in aynu society.Another archaeological remains are the bronze mirrors showed Figs.10 and 11. Most of the mirrors are excavated from the grave pits of the Middle Age, and the greater part of the mirrors are made of Japan origin. Whenever the dress up time, aynu women wear the tamasay, the necklace consisting of glass balls, and the sitoki, the mirror or the disk made of metal hanging down the lower end of the tamasay. That is a matter of cource the tamasay and the sitoki are the treasures in aynu society. In referred to the Fig.11-16~18, the brass or bronze disks like the sitoki are found from the aynu grave pits in Akan Town, Setana Town and Nemuro City.Besides, the special artifacts at least I regard them as the prestige goods are found. For example, Fig.11-20~31 found in Tokoro Town, Biratori Town and Chitose City are the iron coil-like remains which are probably from of northern peoples origin like as shaman's belt. Fig.11-32~34 found in Biratori and Tokoro Town are the small bronze portions and the origin may be Mohe and Jurchen Culture in Siberia. In these bronze portions, a example of Fig.11-34 found in Tokoro Town belongs to Okhotsk Culture.Fig.12 is the white porcelains of Honshu origin which were excavated at Katsuyama-date site in Kaminokuni Town. The symbolic mark is notched out of the bottom of these plates that resemble closely the mark of itokpa, the mark of ancestor, or the mark of sirosi, the sign of owner, in aynu society. The aynu peoples have been living in the Katsuyama-date may think these porcelains as the prestige goods.Concerning the trade of archaeological materials, a lot of the prestige goods or the ikor such as treasures excavated at Menashidomari site in Eshashi Town of Okhotsk Culture, Moyoro site in Abashiri City of Okhotsk Culture and Ohkawa site in Yoichi Town of Satsumon Culture, Middle Age and Modern Age. So these three archaeological sites may be main barter ports of trade from Satsumon period to Modern Age.In this connection, we can find that the prestige goods are placed on chashi in the old documents of Edo era, and around the ikor many plunderer exist in aynu legends. For example, the name of topattumi (a thief), ikasitumi (a group robbers) and ikkatumi (a ruffian) appear at the main area of Hidaka, Tokachi, Kushiro and Nemuro district. Thus, it can be said that there is a possibility that a study of the prestige goods or the ikor make clear the process of a formation of the Aynu culture. We should treat these archaeological remains more carefully.
著者
平井 一臣
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.11-37, 2019-03

1965年4月に発足したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は,戦後日本における市民運動としての反戦平和運動の展開のなかで大きな役割を果たした。このベ平連の運動を牽引した知識人が,ベ平連の「代表」となった小田実だった。これまでのベ平連研究のなかでも小田の思想と行動はしばしばとり上げられてきたものの,彼がベ平連に参入した経緯や,難死の思想や加害の論理という小田の思想の形成のプロセスについては,依然として未検討の部分が残されている。本稿では,企画展「『1968年』無数の問いの噴出の時代」に提供された資料のなかのいくつかも利用して,ベ平連に参入するまでの小田の行動の軌跡,ベ平連発足時の小田起用の背景,難死の思想と加害の論理の形成のプロセスや両者の関係といった問題を検討する。このような問題意識の下に,本稿ではまず小田の世代的な特徴(「満州事変の頃」に生まれた世代)に着目したうえで,この世代特有の経験と結びつきながら難死の思想がどのように形成されたのか,その軌跡を明らかにする。次に,ベ平連発足に際しての小田の起用について,小熊英二や竹内洋に代表される従来の説明を検討し,ベ平連の代表として「小田実か石原慎太郎か」という選択肢は存在しなかったこと,60年代前半の小田の言論活動の軌跡は戦闘的リベラルに近づく軌跡であり,ベ平連に結集した知識人のなかでの小田に対する一定の評価が存在していたこと,などを明らかにする。さらに,これまで1966年の日米市民会議と結びつけて説明されてきた小田の加害の論理について検討する。実は,加害の論理はベ平連参加以前の段階で小田の問題意識のなかに存在していたが,むしろ回答困難な課題と小田は捉えていたこと,この問題に小田が積極的に向き合うきっかけとなったのが沖縄訪問での経験であったこと,そして加害の論理は当時の小田特有の考え方というよりも,当時の運動のなかで練り上げられていったものであったこと,などを明らかにする。
著者
上野 和男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.241-270, 1991-11-11

本稿は最近における日本の社会文化の地域性研究の学史的考察である。日本の地域性研究を時期的に区分して,1950年代から1960年代にかけて各分野で地域性研究が活発に行われた時期を第1期とすれば,最近の地域性研究は第2期を形成しているといえる。第2期における地域性研究の特徴は,第1期に展開された地域性論の精緻化にくわえて,新たな地域性論としての「文化領域論」の登場と,考古学,歴史学などにおける地域性研究の活発化である。1980年以降の地域性研究の展開にあらわれた変化は次の3点に要約することができる。まず第一は,従来の地域性研究が家族・村落などの社会組織を中心としていたのに対して,幅広い文化項目を視野にいれて地域性研究がおこなわれるようになったことである。地域性研究は「日本社会の地域性」の研究から「日本文化の地域性」の研究へと展開したのである。第二は,これまでの地域性研究が現代日本の社会構造の理解に中心があったのに対して,日本文化の起源や動態を理解するための地域性研究が登場したことである。とくに文化人類学や歴史学・考古学のあらたな地域性論は,このことがとりわけ強調されているものが多い。第三は,これまでの地域性研究が社会組織のさまざまな類型をまず設定し,その地帯的構造を明らかにしてきたのに対して,1980年以降の地域性論では,文化要素の分布状況から東と西,南と北,沿岸と内陸などの地域区分を設定することに関心が集中するようになったことである。つまり「類型論」にくわえて「領域論」があらたな地域性論として登場したことである。本稿では地域性研究における類型論と領域論の差異に注目しながら,これまでの地域性研究を整理し,その問題点と今後の課題,とくに学際的な地域性研究の必要性と可能性について考察した。
著者
根津 朝彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.63-89, 2011-03-31

荒瀬豊(1930年生まれ)の思想をジャーナリズム概念とジャーナリズム史の観点から考察する。そこにはジャーナリズム・ジャーナリズム史を研究する意味はどこにあるのかという問いが含まれる。本研究は,初めてジャーナリズム史研究者である荒瀬豊の思想に焦点をあてたものである。具体的には荒瀬の思想形成,ジャーナリズム論,ジャーナリズム批判を通して検討する。「❶思想形成」では,荒瀬が東京大学新聞研究所において研究者生活を過ごす前史にあたる学生時代と新潟支局の朝日新聞記者時代に彼が「現実と学問をつなぐ」意識をいかに培ってきたのかをたどる。新潟の民謡を論じた「おけさ哲学」の分析とともに荒瀬の問題意識の所在を位置づけた。「❷ジャーナリズム論」では,主に戸坂潤と林香里のジャーナリズム論を参照しながら,荒瀬がジャーナリズムを単にマス・メディアの下位概念として理解するのではなく,両者にある緊張関係を考察したことを重視した。荒瀬がとらえたジャーナリズム概念とは,現実の状況に批判的に向き合う思想性を意味し,ジャーナリズムに固有の批評的役割を掘り下げたことを明らかにした。「❸ジャーナリズム批判」では,荒瀬の歴史上におけるジャーナリズム批判を具体的に検討した。米騒動において「解放のための運動」と新聞人の求める「言論の自由」が切り離さる過程を荒瀬は読み込み,新聞の戦争責任と絡めて「一貫性ある言論の放棄」を見出した。荒瀬の敗戦直後の新聞言説の分析をとらえ返すことで彼のジャーナリズム批判の方法が論理の徹底性にあることを明示した。最後に課題を挙げた上で,民衆思想を潜り抜け,知識人との距離感と諷刺・頓智への感度を有する荒瀬の実践的な批判性が,自己の知識人像とジャーナリズム思想を結びつける原理であったことを提起した。
著者
板橋 春夫
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.81-155, 2017-03-31

産屋が利用されなくなって久しい。産屋が遅くまで残った地域でも昭和三〇年代がおおむね終焉時期となっている。産屋習俗の終焉の要因は一様ではない。本研究のテーマは、なぜ産屋習俗は終焉を迎えたのかという根源的な問いである。私たちは、産屋とは主屋と別に小さな建物を建て、そこに産婦が血の穢れのために家族と隔離されて食事も別にする施設であると学び、産屋を穢れからの隔離・別火というステレオタイプ化された視点で認識してきた。しかし出産の穢れからの隔離・別火が所与のものでないとすれば、産屋の本質はいったいどこにあるのであろうか。本論文が産屋習俗の終焉過程に注目する理由の第一点は、現在(=平成二〇年代)が産屋体験者から直接話を聞ける最後の機会であること。産屋体験者からの聞き書きは緊急性を有し詳細な記録化が望まれる。第二点は産屋の終焉から過去に遡れば当該地域における産屋の変遷過程を明らかにできると考えた。現時点で伝承者からきちんと聞き書きを行うことは重要であり、産屋習俗の終焉過程の研究にも資するのである。先行研究では、産屋の発生は神の加護を得る籠もりにあるとされる。牧田茂・高取正男・谷川健一の所説は、産屋の原初的形態に視点を置いた論理である。実際に原初的形態を彷彿とさせる民俗事例が各地に伝承されているが、それをもって現行習俗を古代へ飛躍させるのは論理的に危険が伴うであろう。事例で取り上げた山形県小国町大宮のコヤバは、明治二二年以前は出産の都度小屋を建てていたが、警察署長の意見で常設のコヤバになったとされる。仮設から常設へ変化する傾向は、福井県敦賀市池河内の事例からも明らかである。福井県敦賀市白木のサンゴヤは、昭和五〇年代まで使用されており全国で最も遅くまで利用されていた。常設化の産屋は伝統を守りながらも、滞在期間の短縮化、休養の場の拡大化など、地域に応じた多様なあり方をみせている。
著者
佐藤 健二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.13-45[含 英語文要旨], 2011-03

本稿は近代日本における「民俗学史」を構築するための基礎作業である。学史の構築は、それ自体が「比較」の実践であり、その学問の現在のありようを相対化して再考し、いわば「総体化」ともいうべき立場を模索する契機となる。先行するいくつかの学史記述の歴史認識を対象に、雑誌を含む「刊行物・著作物」や、研究団体への注目が、理念的・実証的にどのように押さえられてきたかを批判的に検討し、「柳田国男中心主義」からの脱却を掲げる試みにおいてもまた、地方雑誌の果たした固有の役割がじつは軽視され、抽象的な「日本民俗学史」に止められてきた事実を明らかにする。そこから、近代日本のそれぞれの地域における、いわゆる「民俗学」「郷土研究」「郷土教育」の受容や成長のしかたの違いという主題を取り出す。糸魚川の郷土研究の歴史は、相馬御風のような文学者の関与を改めて考察すべき論点として加え、また『青木重孝著作集』(現在一五冊刊行)のような、地方で活躍した民俗学者のテクスト共有の地道で貴重な試みがもつ可能性を浮かびあがらせる。また、澤田四郎作を中心とした「大阪民俗談話会」の活動記録は、「場としての民俗学」の分析が、近代日本の民俗学史の研究において必要であることを暗示する。民俗学に対する複数の興味関心が交錯し、多様な特質をもつ研究主体が交流した「場」の分析はまた、理論史としての学史とは異なる、方法史・実践史としての学史認識の重要性という理論的課題をも開くだろう。最後に、歴史記述の一般的な技術としての「年表」の功罪の自覚から、柳田と同時代の歴史家でもあったマルク・ブロックの「起源の問題」をとりあげて、安易な「比較民俗学」への同調のもつ危うさとともに、探索・博捜・蓄積につとめる「博物学」的なアプローチと相補いあう、変数としてのカテゴリーの構成を追究する「代数学」的なアプローチが、民俗学史の研究において求められているという現状認識を掲げる。This essay represents a preliminary attempt at constructing a "history of folklore studies" in the context of modern Japan. Because of the overwhelming number and range of studies documenting aspects of the Japanese folklore movement, it is necessary to engage in a process of "comparison," as Émile Durkheim advocated. By reconsidering the current state of the field, we can investigate alternative ways of studying the subject from a "relativistic" or "holistic" perspective. This essay takes into account how previous historical studies took into account publications issued in local areas or by local research groups, and attempts to rectify the scholarly neglect of such contributions. Historical studies to date as a rule do not fully take into account concrete evidence provided by local folklore studies, even if they try to avoid so-called "Yanagita Kunio centricity." By shifting our stance, we can take up issues concerning approaches taken up by researchers involving minzokugaku (folklore studies) on a localized level, kyōdo kenkyū (research on local history and culture), or kyōdo kyōiku (methods of teaching local history and culture).For instance, through the investigation of the local history of folklore studies in Itoigawa, I have stressed the importance studying the work of a literary figure such as Sôma Gyofû. I have also taken into account the painstaking efforts involved in the publication of the discoveries of local researchers such as The Collected Works of Aoki Shigetaka (15 volumes published to date). Similarly, the research and compilation of proceedings of the Ōsaka Minzoku Danwa Kai (Osaka Folklore Discussion Society), led by Sawada Shirosaku, suggests that consideration of the "place," where the local folklore studies were born plays an crucial role in the subsequent construction of a history of folklore in modern times. The investigation of the "place," where multiple interests were exchanged and diverse persons interacted with each other can open the way to a revised history of "practice" and "method," which differs greatly from a history according to "paradigm" and "theory." In this essay, I evaluate the advantages and disadvantages of the use of "chronological tables." The "problem of origin," as proposed by Marc Bloch, who was a close contemporary of Yanagita, is also raised. Furthermore, I propose that an "algebraic" approach, which treats the composition of categories as variables or values and analyses the relation of variables. Such a methodology, while contributing the construction of a revised history of modern Japanese folklore studies, also incorporates what might be called "ecological" or "natural historical" approaches, which focus on searching for research material on a widespread basis and acquiring material objects that are required for study.
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.90, pp.1-52, 2001-03
被引用文献数
1

「日本の旧石器人」は,ナウマンゾウ・ヤベオオツノジカ・ステップバイソン(野牛)などを狩りの対象にしていた。しかし,これらの大形獣は自然環境の変化によって,あるいは,人によるオーバーキル(殺し過ぎ)の結果,更新世の終わりごろに相ついで絶滅した。完新世になると,代わってニホンジカとイノシシが繁殖したので,縄文人はこれらの中形獣を弓矢で狩りした。長野県野尻湖の発掘の成果を総括する形で現在,このような考え方が学界で広く受け入れられようとしている。しかし,この考え方に関する資料や検討はまだ十分でなく,一つの仮説にとどまる。ナイフ形石器・剥片などが集中的に分布するブロック(径4~6m)がいくつも環状(径20~50m)にめぐる規模の大きな旧石器時代後期の遺跡があり,大形獣を狩猟するために人々が一時的にたくさん集まった跡と解釈されている。このような遺跡は約33,000~28,000年前に限ってみられる。また,大形動物の解体具と推定される刃部磨製石斧もこの時期に多い。ナウマンゾウやオオツノジカを狩っていたのは,28,000年前ごろまでで,以後もそれらの大形獣は生存していたとしても,その数は著しく減少しており,寒冷期がまだつづいている15,000年前ごろにはこれらの大形獣はほぼ絶滅してしまったようである。それをオーバーキルの結果だと主張するためには,狩猟の対象とは考えにくい猛獣のトラ・ヒョウなどや,大量にいた食虫類のニホンモグラジネズミや齧歯類のニホンムカシハタネズミ・ブラントハタネズミなどが,同じころに絶滅している事実との違いを適切に説明しなければならない。大形獣の絶滅問題に関しては,オーバーキルだけでなく,更新世後期の気候の細かな変化や火山灰の降下に起因する自然環境の変化との関連をいっそう追究する必要がある。The Palaeolithic hunters of Japan hunted animals such as Palaeoloxodon naumanni (Nauman's Elephant), Sinomegacerus yabei (Yabe's Giant Fallow Deer) and Bison priscus (Steppe Bison). However, these big game became extinct one after another in the late Late Pleistocene epoch because of the change of natural environment and the over-kill by humans. In the Holocene, animals such as Cervus nippon (Japanese Deer) and Sus scrofa (wild boar) took the place of big game and the Jomon people hunted these middle sized animals with the bow and arrow. The above view is at present widely acknowledged academically after the excavation of Nojiri Lake in Nagano Prefecture. However, it needs more research and investigation.The circular site (20~50 m in diameter) of blocks (3~5m in diameter) which intensively contain knife blades and flakes made of stone are considered to have been places where Palaeolithic hunters gathered together temporarily in order to hunt big game. This kind of site is unique to the early Late Palaeolithic epoch (about 33,000 to 28,000 B.R). Moreover, many stone axes with ground blades, which are supposed to have been used for butchering big game, are also found from this period. The hunting of Palaeoloxodon naumanni or Sinomegaceros yabei was presumably done until around 28,000 B.P. After that, these animals considerably decreased in number, and seem to have become extinct around 15,000 B.P. In order to affirm their extinction because of over-killing, we must prepare an adequate explanation about the fact that at around the same time, carnivorous and ferocious animals such as the Panthera tigris (tiger), Panthera pardus (leopard) or insectivorous animals like Anourosorex japonicus (a kind of shrew), rodents like the Microtus epiratticepoides (a kind of field voles), Microtus brandtiodes (ditto), became extinct also. These animals are hard to be considered as targets of over-killing. Beside the over-kill, we must search harder for the relationship between the detailed climate change in the Late Pleistocene epoch, the change of natural environment caused by the fall of volcanic ash and the extinctions of the big mammals. Furthermore, according to a palaeontological study, as early as the Middle Pleistocene, Cervus grayi (or Cervus grayi katokiyomasai), the ancestor of the Cervus nippon, Sus scrofa and Sus lydekkeri had crossed over to Japan; at least C. grayi katokiyomasai was already increasing. The Palaeolithic people in Japan made many trap pits and their targets may well have been wild boar. In fact we should suppose that the Palaeolithic people hunted extensively both deer and wild boar.
著者
山本 理佳
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.187-219, 2015-02-27

本稿で取り上げる大和ミュージアム(広島県呉市)は,正式名称が「呉市海事歴史科学館」であり,呉市を設立主体とする博物館である。呉における戦前から戦後に至る船舶製造技術を主たる展示内容としているが,愛称の「大和ミュージアム」が示すように,旧日本海軍の超大型軍艦「大和」の建造およびその軍事活動が展示の中心となっている。こうした特徴から,大和ミュージアムは少なからぬ物議を醸しつつ,2005(平成17)年4月23日に開館した。ただし,多くの関係者の予想を大きく裏切り,大和ミュージアムは極めて多くの入館者を集め,開館後約8年を迎えた2013(平成25)年3月17日,累計入館者数が800万人に達した。通常の地方の歴史博物館の年間入館者数が数万人という規模であることからも,その極度の人気ぶりがうかがえる。この博物館は,その人気ぶりから呉市やその周辺の観光・地域戦略を大きく変化させている。本稿では,そうした大和ミュージアム開館を契機とする呉市周辺の観光・地域戦略の変化について明らかにするものである。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.157-185, 2008-03-31

鎌倉前期の諏訪神社史料群は、『吾妻鏡』や『金沢文庫文書』などが中核になっており、鎌倉後期には『陬波御記文』『陬波私注』『隆弁私記』『仲範朝臣記』『諏訪効験』『広疑瑞決集』など諏訪信仰に関する史料群が数多くつくられた。これらは、いずれも鎌倉諏訪氏と金澤称名寺の関係僧侶の結合によって集積されたものを基礎資料にしてつくられたものという点で共通している。鎌倉期には、中央の国史や諸記録には知りえない知の体系として諏訪縁起が編纂され、関東で仰信される信仰圏が成立していた。鎌倉期においては、神の誓願・口筆を御記文とし、その聴聞を神の神託として重視する思想が流布した。その中で、諏訪大祝の現人神説や祝の神壇居所説、諏訪明神は「生替之儀」があるとする再生信仰など諏訪信仰独自の神道思想が形成されていた。仏教における念仏思想が諏訪神官層にも浸透して、仏道における神職は死後蛇道におちるという社会通念の存在する中で、仏道との葛藤の中から、諏訪神道という独自の思想が形つくられた。諏訪「神道」思想が、伊勢神道や吉田神道が成立する以前のものとして言説化していたこと、などを主張した。
著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.173-223, 2008-03

本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。This paper explores the birth ceremony, the raising ceremony, and the coming-of-age ceremony of the children of The Satake Family in Akita Han in the first half of the early modern period, and it compares the ceremonies to those of the Tokugawa family. First, this study considers how a son of Daimyo family was socialized and became a political being through several kinds of initiation ceremonies. The family was integrated in the Baku-han system and was placed, as a family of kougi, with the delegated public authority to rule its fief from the Shogunate. The main characteristics of this process can be extracted by focusing on the differences between a legitimate son and an illegitimate son, including the problem of naming, and this is compared to the cases of the Tokugawa family. Second, this paper considers initiation ceremonies and naming of daughters to analyze gender differences in early modern Japan.In previous studies, life ceremonies were examined separately. This paper attempts to consider systemically those ceremonies as a whole, placing and focusing the meaning of each ceremony, including the problem of naming. This study shows, first, how ceremonies of sons of the Tokugawa and the Satake, both families of kogi, were scheduled by political intention, while daughters' ceremonies were not. Second, a son's attaining of manhood was divided into political, social and physical categories. A legitimate son was supposed to attain political and social manhood in haste, but he could only move from oku to omote and enter his fief after he had grown up physically and mentally at his Han's house in Edo. Third, the coming-of-age ceremony for a daughter was only limited physically, not politically, nor did she need a name changing ceremony. Finally, a son's name indicated his membership and genealogical relationship in the family and the clan, his life cycle, and his position (class) in the family, society and state, while a daughter's name did not.
著者
小峯 和明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.81-96, 2008-03-31

十二世紀(院政期)における天皇の生と死をめぐる儀礼とその記録や仏事儀礼に供された唱導資料(願文・表白)を中心に検証する。死に関しては堀河院をめぐって、関白忠実の日記や女官の日記、大江匡房の願文などから取り出し、とりわけ追善法会における願文表現の意義を追究した。生に関しては安徳天皇の誕生を例に、中山忠親の日記、『平家物語』諸本、安居院澄憲の表白、密教の事相書、御産記録等々から検討した。
著者
川森 博司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.385-406, 1993-02-26

本稿は,日本と韓国の事例の比較の視点から,異類婚姻譚の類型を整理し,日本の異類婚姻譚を東アジアという視野の広がりの中で考察していくための足がかりを作ることをめざしたものである。類型の分類においては,人間と異類の婚姻が成立するか,成立しないか,ということを第一の基準とし,次に「異類聟譚」と「異類女房譚」に分けて,諸類型の記述をおこなった。婚姻が成立する類型の主なものは,異類が人間に変身して人間との結婚を成就するという形をとるもので,日本においては「田螺息子」の話型があるが,それ以外にはあまり見られない。韓国においては,異類聟譚,異類女房譚ともに,この類型のものが相当数伝承されている。一方,婚姻が成立しない類型は,異類聟譚においても,異類女房譚においても,日本の異類婚姻譚の主要な部分をなしている。日本の異類聟譚においては,人間の女が計略を用いて異類の男を殺害して,婚姻を解消する「猿聟入」や「蛇聟入・水乞型」の伝承がきわめて数多く伝えられている。この形の伝承は韓国には見られないようである。また,日本の異類女房譚では,異類の女の正体が露見したために結婚が解消される形の「鶴女房」や「蛇女房」などが幅広く伝承されている。この類型は韓国にも存在するが,日本の場合ほど顕著にはあらわれない。韓国では,婚姻が成立しない類型においても,一時的な異類との交渉の結果,非凡な能力をもった子どもが生まれる形のものが多く見られる。ただし,これらの点について比較をおこなうとき,『韓国口碑文学大系』においては,昔話と伝説を一括して収録しているのに対し,日本の昔話の資料集は,伝説と区別して,昔話を収集していることを考慮しなければならない。本稿でおこなった類型の整理は,個々の話型についての分析をおこなっていくための土台となるものであり,また,「説話を通して文化を読む」ための基礎作業である。