著者
北條 勝貴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.72, pp.41-80, 1997-03-28

古代最大の規模を有する氏族の1つである秦氏については,現在,各集団における在地的特徴・個別的性格の解明が要請されている。そのための方法として,氏族の有する歴史性――文化全般の蓄積が顕著に反映される,種々の氏神に対する信仰形態の検討が重要視される。山背国葛野郡を本拠とする秦氏の集団は,古来同氏族の族長的地位を保持してきた。その勢力範囲には幾つかの神社が存在するが,中でも松尾大社は隣接する愛宕郡の賀茂社に並ぶ巨大勢力を築いており,その創祀や信仰の展開には注意を要する。同社の祭神には2柱あり,大山咋神と市杵嶋姫命という男女の神とされている。前者は秦氏渡来以前より同地に奉祀されていた農業神らしいが,後者は筑前国宗像郡に鎮座する胸肩君の氏神――宗像三女神の1神で,元来沖ノ島にあって渡来人や海人集団から特別な崇拝を受けた海洋神であった。松尾大社の周辺に立地する葛野坐月読神社や木嶋坐天照御魂神社も,それぞれ玄界灘に由来し,海人系の壱岐氏・対馬氏によって奉祀されていた神格である。その分祀は,渡来人や海人集団の移動に伴うものと考えざるをえない。海岸部から内陸部へ,北九州地域から畿内諸国への海人集団の東遷は,考古学的にもある程度立証されている。それは彼らの主体的行動に基づく場合もあるが,多く5世紀後半以降は,半島との交通権・制海権を掌握・独占しようとするヤマト王権によって促進された。半島よりの秦氏の渡来も,そのような社会状況を背景に移動と停留を繰り返しつつ,海人集団との繋がりを持って行われたものと推測される。松尾大社に鎮座する市杵嶋姫命も,胸肩氏と血縁的・文化的に接触した秦氏の1集団により,玄界灘より分祀されてきたものと想定される。元来松尾山には大山咋神と一対の普遍的女性神(神霊の依代たるタマヨリヒメ)が祀られており,市杵嶋姫命はその神格に重複し限定を加える形で鎮座したものであろう。

4 0 0 0 OA 夢とまじない

著者
花部 英雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.57-67, 2012-03-30

四五〇〇もの俗信を集めた「北安曇郡郷土誌稿」は、日本の俗信研究の先駆けとなる資料集である。その中の「夢合せ」の項に二〇〇ほどの夢にかかわる俗信がある。まずはこの俗信のうち「夢の予兆」にあたる内容を分析し、民俗としての夢の一般的傾向を明らかにする。次に、「夢の呪い」について、夢を見る以前、以後とに分けてその内容を検討し、夢をどのように受けとめ、それに対応しているかを確認する。さらに呪いのうち韻文形式をとる三首の歌を話題にして、全国的事例からその内容、意味を分析する。そして、この呪い歌の流通の背景に専門の呪術者の関与があることを例証し、呪術儀礼の場で行なわれ、やがて民間に降下してきたことを跡づける。続いて、呪文の「悪夢着草木好夢滅珠玉」を話題にする。福島県の山都町史に悪夢を見た朝、北に向かい「悪夢ジャク、ソラムク、コウムジョウ」と三回唱えればよいという。前述の呪文を耳に聞いた形で伝えてきたものと思われる。この呪文が求菩提山修験の符呪集にあり、修験山伏がこの祈祷にかかわってきたことがわかる。同じ呪文が、陰陽道系の呪術を記した南北朝時代の『二中歴』にあり、ここでは人形に悪夢を付着させて水に流したり、焼却したりする作法が記されている。宮廷の陰陽道儀礼の中で、「悪夢は草木に着け」の呪文が唱えられてきたのであろう。平安時代の『簾中抄』や『口遊』では、桑の木に悪夢を語るとある。なぜ桑の木に悪夢を語るのが悪夢祓いになるのか。現行の民俗を見ていくと、奄美のクチタヴェ(呪文)に好い夢は残り悪い夢は草の葉に止まれというのがある。また、南天に夢を語り、揺するという例もある。南天は「難転」の語呂合せであり、さまざまな呪術儀礼に用いられるが、古くは桑が悪夢消滅の草木であった。桑は蚕の食物であり、悪夢を桑の葉に付着させ、蚕に食べてもらうことで悪夢を消滅させるというのがその原義にあったのではないか、というのが本稿の結論となる。
著者
福島 雅儀
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.172, pp.357-414, 2012-03-30

縄文時代中期から後期に移る期間,土器型式で4型式程度である。土器編年の相対的時間からみれば短い時間幅である。ところが炭素年代測定による絶対年代によれば,それは500年以上の時間であるという。これが正しいとすれば,これまでの考古学的解釈は大きく見方を変えなくてはならなくなった。そこで小論では,阿武隈川上流域の柴原A遺跡と越田和遺跡の発掘調査成果をもとに当時の集落変化について考えてみた。縄文時代中期末葉の集落の中心施設は,複式炉をともなう竪穴住居である。このほか水場遺構と土器棺墓が検出される程度である。後期初頭には,石囲炉をともなう4本主柱の竪穴住居が造られ,屋外土器棺墓が増加する。また掘立柱建物も受容される。続いて,掘立建物が増加するとともに,柄鏡形敷石住居・石配墓も導入される。さらに後期前半でも新しい段階の柴原A遺跡では,平地式敷石住居,広場,石列,石配墓群,焼土面による集落に変化した。東北地方に広く分布するとされた複式炉も,上原型に限定するとそれは阿武隈川上流域から最上川上流域,阿賀川流域に特徴的な炉であった。また石囲炉を伴う4本柱穴の住居は,阿武隈川上流域に限定的に分布している。敷石住居においても,柄鏡の柄が大きく発達した平地式敷石住居は,やはり阿武隈川上流域を主な分布圏としている。そして,集合沈線による地域色を持った土器が作られている。阿武隈川上流域は,仙台湾沿岸地域と関東平野を結ぶ通路ではあったが,この時期,南北の両地域とは異なる特異な生活様式を創造していたといえよう。また,この期間土器型式が連続していた遺跡でも,営まれた集落は断続をくり返していた。集落の規模も20名程度であった。大規模に見えた集落も小集落の重複による累重の結果であった。
著者
安室 知
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.181, pp.165-204, 2014-03

人は自然をいかに認識するか。また,その認識のあり方は,人と自然との関係のなかでどのような意味を持つのか。人が自然物を眺めるとき,その眼差しは多様である。そのなかでも分類と命名のあり方は,もっともストレートに人がいかに自然を認識し,また利用してきたかを表すことになろう。本論文は,古くから高い商品価値を持ち続ける貝=アワビに注目して,分類・命名のあり方とその変遷を通して民俗分類の持つ文化的意味を考察し,それが現代生活といかに関わるのかを明らかにすることを目的としている。一言でいえば,生活文化体系における民俗分類の存在意義を問うことである。「学名」や「標準和名」のような生物学的なレベルの命名体系とは別に,「地方名」がある。従来,民俗分類の研究ではこの地方名が分析対象とされてきた。しかし,魚が自然界から人の手に渡って以降,商品として流通する段階でも,実はさまざまに分類・命名がなされている。それが「市場名」と「商品名」である。これまで民俗分類の研究において市場名や商品名が注目されることはなかった。しかし,現代を射程に入れた民俗研究をおこなうとき経済活動の中でどのような論理のもと分類・命名され,消費者の段階に至るのかという問題は避けて通ることはできない。調査地の佐島(神奈川県横須賀市)では,通常,ケー(貝)というとアワビを指す。また,それはナミノコ→ケーという2段階の成長段階名を持つ。さらにケーはクロッケ,マタケェ,マルッケという3種に民俗分類される。この民俗分類は生物学に基づく種の分類と一致する。こうした佐島漁師におけるアワビの分類・命名のあり方は地域の生活文化体系を反映し,かつそれ自体を構成する主な要素でもあった。それに対して,漁業協同組合や市場における分類・命名のあり方は,市場名・商品名として示されることになる。市場名・商品名は伝統的な漁師の分類・命名のあり方を受け継ぎながらも,漁協の販売戦略,流通上の便宜,仲買側の要請また消費者の嗜好といったことを受けて商業性を強く反映したものに変化していく。そのときその変化は,商品として消費者に誤解のないよう,より汎用性のある分類・命名に統一される傾向にあった。しかし,それと同時にブランド化のような差別化を図るなど,分類・命名はより細分化・複雑化される傾向も認められることが分かった。How do people recognize nature? What does the recognition mean in the relationship between nature and man? People have diverse viewpoints when they see natural objects. Especially, how to classify and name them may show in the simplest way how people have recognized and exploited nature.This paper investigates the realities and changes of grouping and naming of natural objects, mainly abalone and a shellfish that has been regarded highly valuable for a long time, to examine the cultural meaning of folk taxonomy. Moreover, this study is aimed at revealing how they are related to the modern life. In one word, the objective of this study is to assess the significance of folk classification in life and cultural systems.In addition to biological names such as scientific names and standard Japanese names, there are regional names, on which the studies of folk taxonomy have focused. On the other hand, there are a variety of classifications and names used in the commercial distribution stage after fish are transferred from nature to man. They are regarded as market names or commercial names. Although the studies of folk taxonomy have paid little attention to them, investigating how fish are classified and named through economic activities by the time they are delivered to consumers is essential for the folklore studies that also cover modern times.In the research target area, Sajima (Yokosuka City, Kanagawa Prefecture), "kê (kai)" usually means abalone. It has two different names, naminoko and kê, according to its stage of growth. Moreover, according to folk taxonomy, kê is further classified into three types: kurokke, matakê, and marukke. This classification agrees with biological taxonomy.The grouping and naming of abalone by Sajima fishermen reflect their life and cultural systems as well as constitute them. On the other hand, the classification and naming by fisheries cooperatives and markets are used for market or commercial names. While following traditional classifications and names by fishermen, market and commercial names have been established after changes that clearly reflect commerciality such as sales strategies of fisheries cooperatives, convenience in the distribution system, needs of brokers, and preference of consumers. There has been a tendency that more versatile grouping and naming methods that are easy for consumers to understand can survive the changes. It is discovered, however, that at the same time, they also tend to become more fractionated and complicated for differentiation and branding purposes.
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.157-185, 2008-03

鎌倉前期の諏訪神社史料群は、『吾妻鏡』や『金沢文庫文書』などが中核になっており、鎌倉後期には『陬波御記文』『陬波私注』『隆弁私記』『仲範朝臣記』『諏訪効験』『広疑瑞決集』など諏訪信仰に関する史料群が数多くつくられた。これらは、いずれも鎌倉諏訪氏と金澤称名寺の関係僧侶の結合によって集積されたものを基礎資料にしてつくられたものという点で共通している。鎌倉期には、中央の国史や諸記録には知りえない知の体系として諏訪縁起が編纂され、関東で仰信される信仰圏が成立していた。鎌倉期においては、神の誓願・口筆を御記文とし、その聴聞を神の神託として重視する思想が流布した。その中で、諏訪大祝の現人神説や祝の神壇居所説、諏訪明神は「生替之儀」があるとする再生信仰など諏訪信仰独自の神道思想が形成されていた。仏教における念仏思想が諏訪神官層にも浸透して、仏道における神職は死後蛇道におちるという社会通念の存在する中で、仏道との葛藤の中から、諏訪神道という独自の思想が形つくられた。諏訪「神道」思想が、伊勢神道や吉田神道が成立する以前のものとして言説化していたこと、などを主張した。Documents such as "Azuma Kagami" and "Kanazawa Bunko Bunsho" comprise the core of archival material dating from the early Kamakura period on the history of the Suwa shrine, while numerous collections of materials were written on Suwa religious beliefs during the late Kamakura period, including "Suwa Kimon", "Suwa Shichu", "Ryuben Shiki", "Nakanori Asonki", and "Suwa Kogen, Kogisuiketu-shu". A common feature of these materials is that each constitutes a basic corpus of materials collected as a result of the union between the Kamakura Suwa clan and Buddhist priests associated with Kanezawa Shomyo-ji temple. During the Kamakura period, Suwa religious beliefs took hold in the Kanto region following the compilation of Suwa Engi to form a body of knowledge that could not be acquired from national histories and the various records of the central government. The vows, utterances, and writings of deities were recorded, and a belief setting great store in these as divine messages from deities became popular. Shinto beliefs unique to this Suwa religion were created, including beliefs that the Suwa Ohori (head priest) was a living deity and that this deity resided in the shrine altar. Another was the belief in rebirth based on the "rebirth ceremony" of the deity Suwa Myojin. Suwa priests were familiar with the nembutsu belief (in the after-life) in Buddhism and at a time when it was commonly believed that Buddhist priests would be reborn as serpents, Suwa Shinto emerged as a separate religion as a result of tension with Buddhism. This paper argues that Suwa Shinto came into being as a set of beliefs before Ise Shinto or Yoshida Shinto.
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.293-303, 2015-02

地域の開発に際して文化をどのように位置づけ、利用するか、という問題は実は言語戦略の問題でもある。本稿はそうした地域開発のキャッチフレーズとも標語ともとれる術語についての予備的考察である。ここでとりあげる術語とは〈民話〉である。〈民話〉はしばしば、民俗学の領域に属する語のように思われるが実はそうではない。〈民話〉は民俗研究のなかでは常に一定の留保とともに用いられる術語であり、またそれゆえに広がりを持つ言葉であった。一九五〇年代の日本民俗学において〈民話〉は学術用語としては忌避されていた。それは戦後歴史学のなかで、民話が検討対象となり、民衆の闘いや創造性を示す語として扱われていたことと関連し、民俗学の独立の機運とは裏腹のものであった。そうした留保によって〈民話〉はかえって多くの含意が可能になり、地域社会とも結びつく可能性が残されていった。特に「民話のふるさと」岩手県遠野市では口承文芸というジャンル成立以前の『遠野物語』と重ね合わされることによって〈民話〉が機能した。その結果として、遠野は「〈民話〉のふるさと」となったのである。How to evaluate and utilize culture in community development is also considered as a matter of linguistic strategies. This article provides a preliminary consideration of the terminology used as a catchphrase or slogan for community development. More specifically, this study focuses on folktales. The word "folktale (Minwa)" is often mistaken as a technical term of folklore studies. In reality, folklorists always use the term in a reserved way, which gives it a wide range of meanings. In the 1950s, Japanese folklorists rarely used "folktale" as an academic term. This was partially because after World War II, historians studied folktales using the term to represent creativity or a struggle of people, which was contrary to the trend of independence of folklore studies. Due to the reserved attitude of folklorists, however, the term could have many connotations, leaving the possibility to be linked with local communities. In particular, in Tōno, Iwate Prefecture, a city also known as the Home of Folktales, folktales played a role in relation to "the Legends of Tōno (Tōno Monogatari)" years before the establishment of oral literature as a genre. This is the very reason why the city has become the Home of Folktales.
著者
義江 明子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.35-65, 1992-03-31

日本の伝統的「家」は、一筋の継承ラインにそう永続性を第一義とし、血縁のつながりを必ずしも重視しない。また、非血縁の従属者も「家の子」として包摂される。こうした「家」の非血縁原理は、古代の氏、及び氏形成の基盤となった共同体の構成原理にまでその淵源をたどることができる。古代には「祖の子」(OyanoKo)という非血縁の「オヤ―コ」(Oya-Ko)観念が広く存在し、血縁の親子関係はそれと区別して敢えて「生の子」(UminoKo)といわれた。七世紀末までは、両者はそれぞれ異なる類型の系譜に表されている。氏は、本来、「祖の子」の観念を骨格とする非出自集団である。「祖の子」の「祖」(Oya)は集団の統合の象徴である英雄的首長(始祖)、「子」(Ko)は成員(氏人)を意味し、代々の首長(氏上)は血縁関係と関わりなく前首長の「子」とみなされ、儀礼を通じて霊力(集団を統合する力)を始祖と一体化した前首長から更新=継承した。一方の「生の子」は、親子関係の連鎖による双方的親族関係を表すだけで、集団の構成原理とはなっていない。八~九世紀以降、氏の出自集団化に伴って、二つの類型の系譜は次第に一つに重ね合わされ父系の出自系譜が成立していく。しかし、集団の構成員全体が統率者(Oya)のもとに「子」(Ko)として包摂されるというあり方は、氏の中から形成された「家」の構成原理の中にも受け継がれていった。「家の御先祖様」は、生物的血縁関係ではなく家筋観念にそって、「家」を起こした初代のみ、あるいは代々の当主夫妻が集合的に祀られ、田の神=山の神とも融合する。その底流には、出自原理以前の、地域(共同体)に根ざした融合的祖霊観が一貫して生き続けていたのである。現在、家筋観念の急速な消滅によって、旧来の祖先祭祀は大きく揺らぎはじめている。基層に存在した血縁観念の希薄さにもう一度目を据え、血縁を超える共同性として再生することによって、「家」の枠組みにとらわれない新たな祖先祭祀のあり方もみえてくるのではないだろうか。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.1-19, 2010-03-15

旅の大衆化が進んだ江戸時代の後期、主体的に旅を楽しむ女性が多く存在したことは、近年とくに旅日記や絵画資料などの分析から明らかになってきた。しかしながら、講の代参記録のような普遍化した史料には女性の旅の実態が反映されないことから、江戸時代の女性の旅を体系的に理解することは難しいのが現状である。本稿では、個人的な旅日記を題材に、そこに記された女性の旅の実態を通して、旅を支えたしくみを考える。題材とした旅日記は、❶清河八郎著『西遊草』、❷中村いと著「伊勢詣の日記」、❸松尾多勢子著「旅のなくさ、都のつと」の3点である。❶は幕末の尊攘派志士として知られる清河八郎が、母を伴って無手形の伊勢参宮をした記録である。そこには、非合法な関所抜けがあからさまに行われ、それが一種の街道稼ぎにもなっていた事実が記されており、伊勢参宮を契機とした周遊の旅の普及にともない、女性の抜け参りが慣例化していた実態が示されている。❷は江戸の裕福な商家の妻が知人一家とともに伊勢参宮をした際の日記で、とくに古市遊廓での伊勢音頭見物の記録からは、旅における女性の遊興と、その背景にある確かな経済力を確認することができる。❸は、幕末期に平田国学の門下となった信州伊那の豪農松尾家の妻多勢子が、動乱の最中にあった京都へ旅をし、約半年にわたって滞在した記録である。特異な例ではあるが、身につけた教養をひとつの道具として、旅先の見知らぬ土地で自ら人脈を築き、その人脈を故郷の人々の利用に供したことは注目に値する。女性の旅人の存在は、街道や宿場のあり方にさまざまな影響を及ぼしたと思われる。とくに、後年イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが明記した日本の街道の安全性は、女性の旅とは不可分の関係にあり、江戸時代後期の日本の旅文化を再評価するうえで、今後さらに女性の旅の検証を重ねていくことが必要である。
著者
柴田 純
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.109-139[含 英語文要旨], 2008-03

柳田国男の〝七つ前は神のうち〟という主張は、後に、幼児の生まれ直り説と結びついて民俗学の通説となり、現在では、さまざまな分野で、古代からそうした観念が存在していたかのように語られている。しかし、右の表現は、近代になってごく一部地域でいわれた俗説にすぎない。本稿では、右のことを実証するため、幼児へのまなざしが古代以降どのように変化したかを、歴史学の立場から社会意識の問題として試論的に考察する。一章では、律令にある、七歳以下の幼児は絶対責任無能力者だとする規定と、幼児の死去時、親は服喪の必要なしという規定が、十世紀前半の明法家による新たな法解釈の提示によって結合され、幼児は親の死去や自身の死去いずれの場合にも「無服」として、服忌の対象から疎外されたこと、それは、神事の挙行という貴族社会にとって最重要な儀礼が円滑に実施できることを期待した措置であったことを明らかにする。二章では、古代・中世では、社会の維持にとって不可欠であった神事の挙行が、近世では、その役割を相対的に低下させることで、幼児に対する意識をも変化させ、「無服」であることがある種の特権視を生じさせたこと、武家の服忌令が本来は武士を対象にしながら、庶民にも受容されていったこと、および、幼児が近世社会でどのようにみられていたかを具体的に検証する。そのうえで、庶民の家が確立し、「子宝」意識が一般化するなかで、幼児保護の観念が地域社会に成立したことを指摘し、そうした保護観念は、一般の幼児だけでなく、捨子に対してもみられたことを、捨子禁令が整備されていく過程を検討することで具体的に明らかにする。右の考察をふまえて、最後に、〝七つ前は神のうち〟の四つの具体例を検討し、そのいずれもが、右の歴史過程をふまえたうえで、近代になってから成立した俗説にすぎないことを明らかにする。
著者
広瀬 和雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.150, pp.33-147[含 英語文要旨], 2009-03

西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。北海道・北東北と沖縄諸島を除いた日本列島では,3世紀中ごろから7世紀初めごろに約5200基の前方後円(方)墳が造営された。墳長超200mの前方後円墳32/35基,超100mの前方後円(方)墳140/302基が,畿内地域に集中していた。そこには中央―地方の関係があったが,その政治秩序は首長と首長の人的な結合で維持されていた。いっぽう,『記紀』が表す国造・ミヤケ・部民の地方統治システムも,中央と地方の人的関係にもとづく政治制度だった。つまり,複数の畿内有力首長が,各々中小首長層を統率して中央政権を共同統治した<人的統治システム>の古墳時代と,国家的土地所有にもとづく<領域的統治システム>を理念とした律令国家の統治原理は異質であった。律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と,考古学・古代史研究者を規制してきた発展史観から,みずからの観念を解き放たねばならない。そして,膨大な考古資料をもとに,墳墓に政治が表象された古墳時代の350年間を,一個のまとまった時代として,先見主義に陥らずにその特質を解明していかねばならない。The alliance of chiefs from western Japan expanded rapidly toward eastern Japan and while subduing "insurgencies" around the country the rulers from among the powerful elite in Kinki eventually became stronger, and thus began to form a centralized power. The general understanding of the Kofun period is that the alliance broke up as these regional chiefs became subsumed as vassals and society evolved into the ritsuryo state. The prevailing theory that underpins this understanding is that the Kofun period was no more than the process of the formation of an ancient state that preceded the ritsuryo state, whose gradual development led to the establishment of the ritsuryo state. At play here is the historical view of the development of a society from a barbarian to a civilized society where the ritsuryo state represents civilization and the Kofun period a society with an immature political system.In the period from around the middle of the 3rd century to the beginning of the 7th century approximately 5,200 round or square keyhole tombs were built in the Japanese archipelago, excluding Hokkaido, northern Tohoku and the Okinawa islands. There are 35 tombs with mounds of more than 200 meters, with 32 of them concentrated in a single region. There are a further 302 tombs with mounds of more than 100 meters, of which 140 are concentrated in a single region. Representing a center-region relationship, this political order was maintained by chiefs and their personal ties. The kuni no miyatsuko, miyake and bemin system of regional government involving the establishment of a state, as described in the Kojiki and Nihon Shoki, was also a political system based on the personal relationships of those in the center and those in the regions. That is to say, the Kofun period with its "system of personal rule" where several powerful chiefs in Kinai jointly ruled the central government by leading their own groups of medium- to low-ranking chiefs is different from the principle of rule of the ritsuryo state which was based on the principle of a "system of territorial rule" underpinned by state ownership of land.We must free our ideas from the systematic depictions in the Nihon Shoki of the legitimacy of the ritsuryo state and the developmental view of history that has restrained researchers engaged in archaeology and ancient history. In addition, using the massive quantity of archaeological data as a foundation, we must shed light on the 350-year Kofun period when politics was symbolized by mounded tombs as a single cohesive period without succumbing to doctrine centered on what came next.
著者
鈴木 正崇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.186, pp.1-29, 2014-03-26

伝承という概念は日本民俗学の中核にあって,学問の成立の根拠になってきた。本論文は,広島県の比婆荒神神楽を事例として伝承の在り方を考察し,「伝承を持続させるものとは何か」について検討する。この神楽は,荒神を主神として,数戸から数十戸の「名」を単位として行われ,13年や33年に1度,「大神楽」を奉納する。「大神楽」は古くは4日にわたって行われ,最後に神がかりがあった。外部者を排除して地元の人々の願いを叶えることを目的とする神楽で秘儀性が強かった。本論文は,筆者が1977年から現在に至るまで,断続的に関わってきた東城町と西城町(現在は庄原市)での大神楽の変遷を考察し,長いサイクルの神楽の伝承の持続がなぜ可能になったのかを,連続性と非連続性,変化の過程を追いつつ,伝承の実態に迫る。神楽が大きく変化する契機となったのは,1960年代に始まった文化財指定であった。今まで何気なく演じていた神楽が,外部の評価を受けることで,次第に「見られる」ことを意識し始めるようになり,民俗学者の調査や研究の成果が地域に還元されるようになった。荒神神楽は秘儀性の高いものであったが,ひとたび外部からの拝観を許すと,記念行事,記録作成,保存事業などの外部の介入を容易にさせ,行政や公益財団の主催による記録化や現地公開の動きが加速する。かくして口頭伝承や身体技法が,文字で記録されてテクスト化され,映像にとられて固定化される。資料は「資源」として流用されて新たな解釈を生み出し,映像では新たな作品に変貌し,誤解を生じる事態も起こってきた。特に神楽の場合は,文字記録と写真と映像が意味づけと加工を加えていく傾向が強く,文脈から離れて舞台化され,行政や教育などに利用される頻度も高い。しかし,そのことが伝承を持続させる原動力になる場合もある。伝承をめぐる複雑な動きを,民俗学者の介在と文化財指定,映像の流用に関連付けて検討し理論化を目指す。
著者
山田 康弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.214, pp.285-302, 2019-03-15

本稿では博物館の展示において,ヒトの遺体,特に縄文時代の人骨(以下,縄文人骨)を展示するにあたって,それはどのような場合に「許される」と考え得るのか,そしてその場合どのような配慮が行われるべきか,考察を加えた。はじめに各地の博物館における人骨資料の展示状況を概観し,人骨展示がセンシティヴなものであることを指摘した。その後,死体を直接的に展示した『人体の不思議展』についての議論を踏まえて,考古学的資料としての人骨の取り扱い方,展示の際の原則を取り決めたヴァーミリオン協定とタマキ・マカウ・ラウ協定について概観し,縄文時代の人骨を展示するにあたって,それはどのような場合に「許される」と考え得るのか,そしてその場合どのような配慮が行われるべきか,という点について検討を行った。結論として,縄文人骨の場合,1)その直接的な血縁関係者,子孫をたどることは不可能であること。2)千年以上も昔の事例であり,すでにパーソナルメモリーやソーシャルペルソナが消失しているとみて良いこと。3)長きにわたって研究資料として利用されてきていること,などの点から,特別な事情が無い限り,これを展示資料として取り扱うことは許されると判断した。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.145-158, 2016-02-29

本稿は筆記環境の近代化と消費文化の様相を万年筆を通して考えようとするものである。ここではまず,明治の日本において万年筆が販売に際してどのような位置づけであったか,について,丸善における広告宣伝を確認し,特に夏目漱石が書いた「余と万年筆」(1912)をはじめとする万年筆関係の文章を分析した。さらに三越百貨店における万年筆の販売の様相を『三越』『三越タイムス』からうかがい,その特徴について考察した。その結果として,万年筆は筆記の近代化のシンボルとして,明治末から大正の初めにはかなり普及したが,特に三越では舶来品としての万年筆の販売に尽力し,さらに関連する商品も視野にいれ,商品そのものばかりではなく,関連する知識や使用法の啓蒙にも努めていたことが明らかになった。日本における万年筆の歴史,筆記文化の近代を考えるためには,ここで論じた以外にも国産化の過程をはじめとする複眼的な考究が必要であろう。
著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.73-86, 1995-01
被引用文献数
1

縄文時代は狩猟・漁撈・採集活動を生業とし,弥生時代は狩猟・漁撈・採集活動も行うが,稲作農耕が生業活動のかなり大きな割合を占めていた。その生業活動の違いを反映して,それぞれの時代の人々の動物に対する価値観も異なっていたはずである。その違いについて,動物骨の研究を通して考えた。まず第1に,縄文時代の家畜はイヌだけであり,そのイヌは狩猟用であった。弥生時代では,イヌの他にブタとニワトリを飼育していた。イヌは,狩猟用だけではなく,食用にされた。そのため,縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されなかった。第2に,動物儀礼に関しては,縄文時代では動物を儀礼的に取り扱った例が少ないことである。それに対して弥生時代は,農耕儀礼の一部にブタを用いており,ブタを食べるだけではなく,犠牲獣として利用したことである。ブタは,すべて儀礼的に取り扱われたわけではないが,下顎骨の枝部に穴を開けられたものが多く出土しており,その穴に木の棒が通された状態で出土した例もある。縄文時代のイノシシでは,下顎骨に穴を開けられたものは全くなく,この骨の取り扱い方法は弥生時代に新たに始まったものである。第3に,縄文時代では,イノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶はない。シカとイノシシは,縄文時代の主要な狩猟獣であり,ほぼ同程度に捕獲されている。それにも関わらず,土偶の出土状況には大きな差異が見られる。弥生時代になると,土偶そのものもなくなるためかもしれないが,イノシシ土偶はなくなる。土器や銅鐸に描かれる図では,シカが多くなりイノシシは少ない。このように,造形品や図柄に関しても,縄文時代と弥生時代はかなり異なっている。以上,3つの点で縄文時代と弥生時代の動物に対する扱い方の違いを見てきた。これらの違いを見ると,縄文時代と弥生時代は動物観だけではなく,考え方全体の価値観が違うのではないかと推測される。これは,狩猟・漁撈・採集から農耕へという変化だけではなく,社会全体の大きな変化を示していると言える。弥生時代は,縄文時代とは全く異なった価値観をもった農耕民が,朝鮮半島から多量に渡来した結果成立した社会であったと言える。In the Jōmon Period, people subsisted on hunting, fishing and gathering activities; and in the Yayoi Period, also they practiced hunting, fishing and gathering. However, rice-crop agriculture occupied large share of all their subsistence. Their sense of the value of animals must have been different in each period, reflecting the difference in their subsistence. I will consider these differences by the study of animal bones.At first, they had only dogs as domestic animals in the Jōmon Period, and these dogs were for hunting purpose. In the Yayoi Period, they kept pigs and fowls as well as dogs. In this period, dogs were not only for hunting, but also used for food. Because of this, the dogs in the Jōmon Period were buried, but they were scarcely buried in the Yayoi Period.Secondly, regarding the ceremonial use of animals, there is little evidence left that they used animals in such ceremonial events in the Jōmon Period. On the other hand, in the Yayoi Period, they used pigs in some of the agricultural ceremonies. They used pigs not only for food, but also for animal sacrifice. Although the pigs were not always handled in ceremonial ways, a lot of mandibles drilled with a hole in the ramus have been excavated, and there were some instances where they were excavated in such condition that a wooden rod was sticking in the hole. Regarding the boars in the Jōmon Period, there is no instance where their mandibles had a hole. This way of treating the bones started in the Yayoi Period.Thirdly, some dozen instances of wild boar-shaped clay figurines of the Jōmon Period have been excavated, but there were no deer-shaped clay figurines. Deer and wild boars were mainly hunted in the Jōmon Period and almost the same number of them were captured. However, the condition of excavated clay figurines shows a great difference. In the Yayoi Period, there are no wild boar-shaped clay figurines left, perhaps because the tradition of clay figurines itself disappeared. However, regarding the drawings on the pottery and Doutaku (big ceremonial bronze bell), deer are more usual than wild boars. In such ways, the craft works and design in the Jōmon Period and the Yayoi Period are very different.Above all, I considered the differences in handling animals at three aspects between the Jōmon Period and Yayoi Period. When I note these differences, I conclude that not only the concept of an animal but also the value-judgment about how to deal with animals were different in the Jōmon Period from what they were in the Yayoi Period. It is reasonable to say that these differences show not only a change of subsistence from hunting, fishing and gathering to that of agriculture, but also great changes in the whole society. It is not too much to say that the Yayoi society was the result of many agricultural people with totally different senses of value coming over to Japan from the Korean peninsula.
著者
市 大樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.65-99, 2015-03-31

日本最古級の木簡の再検討、法隆寺金堂釈迦三尊像台座墨書銘の再釈読、百済木簡との比較研究などを通じて、日本列島における木簡使用の開始および展開について検討を加え、次のような結論を得た。①日本列島における木簡使用は、王仁や王辰爾の伝承が示唆するように、百済を中心とする朝鮮半島から渡来した人々を通じて、早ければ五世紀代に、遅くとも六世紀後半には開始された。具体的な証拠物によっては裏づけられないが、『日本書紀』の記事やその後の状況などを総合すると、王都とその周辺部、屯倉を中心とした地方拠点で、限定的に使用されるにとどまったと推定される。当該期には、主として物や人の管理に関わって、音声では代用できない事項を中心に、記録木簡が先行する形で使用されと推測される。②六四〇年代頃になると、ある程度木簡が普及するようになり、発掘調査によって木簡の存在を確かめることができるようになる。しかし、木簡が出土している場所は、基本的に飛鳥・難波といった王都とその周辺部にとどまり、依然として大きな広がりは認められない。出土点数も微々たるものにとどまっている。とはいえ、文書・記録・荷札・付札・習書・その他の木簡が存在しており、その後につながる木簡使用が認められる点は重要である。ただし、木簡の内容を具体的にみると、その後の木簡と比べて、典型的な書式にもとづいて記載されたものが少なく、やや特殊な場面で使用された木簡の比率が高い。これらのことは、日常的な行政の場で木簡を使用する機会が、のちの時代よりも少なかったことを意味している。③天武朝(六七二-八六)になると、木簡の出土点数が爆発的に増大し、紀年銘木簡も天武四年(六七五)以後連続して現れるようになる。木簡が出土する遺跡も、王都とその周辺部に限られなくなり、地方への広がりも顕著に認められる。木簡の種類・内容に注目すると、荷札木簡が目立つようになり、前白木簡など上申の文書木簡も多く使用されている。また、記録木簡や習書木簡も頻用された。ただし、下達の文書木簡はあまり使われなかった。こうした木簡文化の飛躍的発展をもたらした背景として、日本律令国家の建設にともなう地方支配の進展・文書行政の展開があった。天武朝とそれに続く持統朝(六八七-九七)には、日本と中国(唐)との間に国交はなく、新羅との直接交渉を通じて、さらに渡来人の子孫や亡命百済人などの知識を総動員しながら、国づくりが進められた。そのため、当該期の木簡には、韓国木簡の影響が色濃い。④大宝元年(七〇一)になると、約三〇年ぶりとなる遣唐使の任命(天候不順のため、派遣は翌年に延期)、大宝律令の制定・施行、独自年号(大宝)の使用などがおこなわれ、従来のような朝鮮半島を経由して中国の古い制度を学ぶのではなく、同時代の最新の中国制度を直接摂取しようとする志向が強くなっていく。これにともなって、木簡の表記・書式・書風などの面で、同時代の唐を模倣する動きが現れ、かつての朝鮮半島からの直接的な影響がやわらぐ。
著者
吉良 芳恵
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.285-305, 2003-03-31

本論考は、満州事変・日中戦争、アジア太平洋戦争期をとおして、国家、特に軍が、兵士の見送りと帰還にどのような方針で臨んだのか、また兵士はどのようにして戦場へ送り出され、あるいは帰還したのかという点について、徴兵・兵事史料等を用いて考察したものである。満州事変期、軍は入営兵への餞別や除隊兵の返礼等旧習の打破、冗費の節約に力を入れた。その後日中戦争が勃発し、多くの兵士が動員されるようになると、応召兵の出征を祝す壮行会や歓送会、激励会、武運長久を祈る祈願祭等が盛大に行われ、「赤紙の祭」が始まった。戦争が長期化すると、軍は防諜を理由に入営・応召兵の盛大な歓送迎会や見送り等「別れ」の儀式の簡素化を試み、特に帰還兵士の歓迎には神経をつかい自粛を求めるようになった。ところが、一九四一年七月の「関特演」は、こうした「別れ」の儀式を一変させた。軍は防諜を理由に、地方行政機関に召集業務を極秘に遂行するよう指示した。当初は軍側の方針の不統一により、行政機関に少々混乱をもたらしたが、その後は軍の執拗な要請により、神社や学校での歓送迎、駅での見送り、送別会、祈願祭など種々の儀式が制限・禁止され、また応召兵も軍服着用を禁止され、私服で密かに出征することになった。これは「赤紙の祭」の終焉を意味し、兵士や民衆の志気を弱め、戦意を喪失させた。こうした軍の方針自体、戦争の遂行に矛盾するものであった。そのため軍は、一九四一年一二月の日米英開戦後、銃後の鬱屈した気分を一掃し戦意を昂揚させるため、歓送や見送り等を許可し、種々の制限を緩和せざるを得なくなった。「赤紙の祭」の復活である。とはいえ、根こそぎ動員がすすむ中では、増え続ける戦死者をどのように祭るかが最大の課題であり、防諜を心配せざるを得ないほどの「赤紙の祭」の熱狂は、どこにも見あたらぬ時代が到来した。