著者
松本 尚之
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2014, no.85, pp.1-12, 2014-12-31 (Released:2015-02-06)
参考文献数
30
被引用文献数
1

本論文では,在日ナイジェリア人のライフストーリーを,特に来日から現在に至る就業の変遷に注目しながら詳述する。特に,在日ナイジェリア人のなかでも多数派であるイボ人を事例とし,彼らの経済活動の多角化,トランスナショナル化の傾向を明らかにする。それによって,日本に暮らすアフリカ系移民の定住化とトランスナショナルな移動の関係性について論じたい。来日したイボ人たちの多くが,工場や建設現場で働く非正規労働者として日本での就業を開始する。しかし,「出稼ぎ外国人労働者」としての生活は,ナイジェリアから日本にやってきた移民たちの一面を表すに過ぎない。本論で取り上げるどの事例からも,在日イボ人たちの就業が一種に集約することなく,複数業種を跨いで多角化していく傾向が見て取れる。さらに,就業の多角化は,日本国内だけでなく複数のローカリティにまたがってトランスナショナルに展開していく。本論文では,経済活動の多角化,トランスナショナル化の傾向が,在日イボ人たちの滞在期間の長期化,高齢化と結びついた現象であることを論じる。それによって,日本人配偶者との結婚や永住権の取得といった,一見すると「定住化」ともとれる現象が,トランスナショナルな移動を促す契機となっていることを明らかにしたい。
著者
近藤 有希子
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2015, no.88, pp.13-28, 2015-12-31 (Released:2016-12-31)
参考文献数
44

本論の目的は,紛争後のルワンダ南西部の農村社会を生きる人びとが,生存のための社会関係をどのように再編成しているのかを検討することである。その際,寡婦や離婚女性,孤児を対象に,彼らが空間の共有や共食をとおした親密な関係性を,だれとともに,いかなる社会的,政治的な環境のなかで構築しているのかに着目する。村の人口の大半を占めるフトゥの人びとは,紛争後も父系親族集団をもとに生活の基盤となる社会関係を再構成していた。一方で,家族や親族の大半を亡くしたトゥチの人びとのなかには,紛争後に制定された法や政策などの政治的な介入を利用することで,生存のための基本的な資源を得ることができるようになり,女性だけでの居住を可能にしている者がいた。さらに,ほかのトゥチの人びとのなかには,家の貸借や共住,共食といった日々の反復行為をとおして,おもにフトゥの近隣住民とのあいだに親密な関係性を醸成している者もいた。それは,近隣住民がトゥチの人びとの困難に対して,内発的に応答するという実践によって達成されていた。紛争後の親密な場の形成は,その多くがトゥチとフトゥという集団範疇の内部でおこなわれる傾向にあり,さらに政治的な介入は,現政権によって否定されたはずのエスニシティを再強化してもいた。しかし他方で,紛争後に創出される「歴史」からこぼれ落ちてしまう人びとの,語りえない経験や沈黙こそが,他者の困難への応答を導いてもいたのである。
著者
落合 雄彦
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.71, pp.119-127, 2007-12-31 (Released:2012-08-13)
参考文献数
10
被引用文献数
1

2002年に内戦終結が宣言されたシエラレオネでは,分権化を含む地方制度改革が「紛争後の課題」として注目を集めている。2004年には地方自治法が成立して地方選挙が実施され,32年ぶりに地方議会が復活した。本稿の目的は,そうしたシエラレオネの地方制度改革への理解を深めるために,その植民地期の史的展開を概観することにある。それはまた,シエラレオネという分枝国家の形成史を紐解く営みでもある。1896年に成立したシエラレオネ保護領では当初,パラマウント・チーフら伝統的指導者が植民地政府行政官の監督下で200以上のチーフダムを慣習法にもとついて個別に支配するという間接統治が行われていた。しかし,1937年には地方行政の近代化を図るために原住民行政システムが正式に導入され,パラマウント・チーフを中心とする部族当局が地方政府として初めて位置づけられるようになる。また,1950年代に入ると,やはりパラマウント・チーフを中心とする県議会に対して地方行政の一部権限が付与されるようになった。このようにシエラレオネ保護領における地方行政制度の形成は,伝統的指導者の存在をその重要な基盤として展開されてきたのであり,そうした特徴は植民地遺制として独立後の同国における地方統治のあり方にも大きな影響を与えた。
著者
吉野 圭子
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1969, no.9, pp.19-29, 1969-11-30 (Released:2010-04-30)
参考文献数
27

The most significant political change in Uganda is its colonization under the British Government. Despite the very rapid change in the political systems brought about by the British through their colonial policies, the traditional values that the people of Uganda possessed have changed very gradually.In this study, I intend to describe how the nature of the nationalism in Uganda is related to the conflict between traditional forces and modernizing forces which have been triggered by the pressures of British Colonialism. These tensions and conflicts were crystalized in the political actions of traditional chiefs in three stages, namely traditional society, colonial situation and in the rise of nationalism.On the eve of the invasion of British Colonialism, in the area now corresponding to the present Uganda there were four Kingdoms and many tribal territories. Among these kingdoms Buganda was the strongest and had a hierarchical political organization. The British selected Baganda as a major indegenous administrative force to assist them. Thus the British and the Baganda conquered other kingdoms, Bunyoro, Toro, Ankole and many other tribes, such as Busoga, Acholi, Teso, etc.The point that has to be considered here is that in the Colonial Uganda there consisted a dual relationship in rule, one between the colonial government and Buganda and another between Buganda and other kingdoms and tribes, former corresponded to the typical “indirect rule”, which was the characteristic of the British colonial policy. The latter was more complex, because outside Buganda the system of administration was nearly equal to “direct rule” by the British, using Baganda chiefs and the Ganda political system which had been adapted to suit the particular district.Bunyoro, one of the rival kingdoms of Buganda, had a part of its land annexed to Buganda Province, and consequently most of the Bunyoro people had an enmity towards the Baganda.Teso, the second largest tribe in Uganda, and traditionally organized on a segmentary basis, was also ruled by Baganda chiefs and their repulsions against Buganda were latent.Baganda chiefs were forced to work as colonial officials under the Protectorate Government but they still retained, in their spirit, their traditional values, namely their loyalty to their king, Kabaka. So once this traditional value was rejected, the chiefs protested furiously against the Colonial Government. Both the Bunyoro and Teso chiefs feared that the dictatorship of Buganda would affect them.From the facts mentioned above, the Uganda nationalist movement is characterized by a stuggle between the forces of Buganda and non-Buganda rather than a struggle against British Colonialism. The chiefs often took leadership of this movement, they joined political parties and pursued their tribal interests.After independence, Buganda separatism still remains, Uganda's future depends on how the people form a national consensus for unity.
著者
黒崎 龍悟 岡村 鉄兵 伊谷 樹一
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2014, no.85, pp.13-21, 2014

本稿では,タンザニア南部高地の農村において,近年になって地域住民が独力で進めている小型水力発電に着目し,こうした取り組みがどのように実現しているのかについて紹介する。タンザニア人口の約80%は無電化地域に居住し,そのほとんどが地方である。そのような地域でも電灯やラジオの利用といった基本的ニーズを満たす他,とくに近年では携帯電話の充電など,電力へのニーズは高まっている。本稿が対象とする小型水力発電は出力が数十ワット~数キロワットとごく小規模であるものの,照明やテレビ,養鶏,携帯電話,床屋などへの利用というように電力の用途は多様であり,経済機会の創出や農村の生活の活性化に寄与している。担い手は農民や大工,教員などであり,専門的な技術を学んだ経験があるわけではなく,近隣の教会関係者や,同じ取り組みを進める職人から実践的な技術や知識を得ていた。彼らは農業や職人仕事で得た収入をもとに,廃品や中古部品を最大限活用しながら,時間をかけた試行錯誤のなかで発電に成功している。また,そのために発電システムは持続可能性や再現可能性が担保されている。小型水力発電の特徴は,現代的ニーズを満たしつつもローカルに展開できる技術に根差しているところにある。また,こうした取り組みは住民にとって身近な共有物(コモンズ)である河川を利用するため,必然的に地域社会の理解や環境保全が求められる。アフリカの現代的ニーズに端を発した小型水力発電は,地域の内発的な発展につながる可能性がある。
著者
ブージッド オムリ
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.73, pp.49-56, 2008

イスラーム世界の中では西欧型の近代化を推し進めてきたチュニジアであるが、都市に住み、比較的教育の機会に恵まれやすい女性たちがいる一方、地方に住み、教育を受ける機会が少なく、社会的に低い位置に押しとどめられている女性たちもいることは事実である。本研究では、教育を受ける上で都市と地方の女性の間には、どのような格差の構造があるのかを以下の点から明らかにした。(1) <b>家事労働にかかる時間</b> 地方では、しばしば水道が引かれておらず、生活のための水汲みに時間がかかることがある。(2) <b>経済格差</b> 地方の多くの貧困家庭では、授業料は無料であっても就学のための隠れた出費 (教科書や教材代など) を兄弟全員分負担することができず、その結果男児が優先されることになる。(3) <b>学校までの距離</b> 地方では小・中学校ですら、何キロも離れたところにしかない場合もあり、女児を通学させることに難色を示す親が多い。(4) <b>マスメディアの普及</b> 地方ではテレビなどの普及率が低く、政府の女性に対する政策を知る機会がない。(5) <b>慣習</b> 地方では女児に対する慣習が残っており、女児に対する教育、また外で就労させることに消極的である。
著者
六辻 彰二
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2002, no.60, pp.139-149, 2002

シエラレオネ内戦は複雑な経緯を辿ったが, それは主に武力行使に関与する国内アクターが離合集散を繰り返したことと, 政権が目まぐるしく交代したことによる。内戦発生以後のほとんどの政権に共通することは, 独自の紛争対応が困難であったため, 民兵や民間軍事企業に依存したことである。これらのアクターは革命統一戦線 (Revolutionary United Front: RUF) との軍事的対決に有効な機能を果たしたが, 必ずしも政権の管理下になかったため, 交渉の推進には消極的で, 内戦を長期化させる一因ともなった。他方, 当初平和維持活動以上の介入をみせたナイジェリアは長期の派兵に耐えきれず, 交渉の進展に積極的な対応をみせた。結果的に2002年1月の内戦終結宣言は, 紛争ダイヤモンド輸出と武器輸入の規制と並行した, 交渉促進のための国際的な取り組みに大きく負っている。しかし主な内戦発生要因のうち, 社会的不満を表明する手段の欠如は民主的政府の設立にともなう異議申し立ての機会の確保により, そしてRUFを支援する紛争支援国の活動は国際的監視により大きく改善されたが, 政治腐敗と結び付いた資源配分や地方の生活環境は未だに深刻であるため, 内戦が再燃する危険性は払拭されていない。
著者
小野田 風子
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2016, no.89, pp.29-35, 2016-05-31 (Released:2017-05-31)
参考文献数
18

タンザニアのスワヒリ語作家ユーフレイズ・ケジラハビは,1990年代の二作の小説により,スワヒリ文学界に実験的小説をもたらした作家として知られる。本研究では,1974年に出版されたケジラハビの二作目の小説『うぬぼれ屋』Kichwamajiに見られる奇妙な結末に着目する。本作の主人公であり語り手でもあるカジモトは,最終章で自殺するに至る。しかし本作は通常の一人称小説とは異なり,語り手の死の時点では物語は終わらない。カジモトの死の直前に正体不明の別の語り手が語りを引き継ぎ,カジモトの死とその後の出来事を語るのである。小説の最後に語り手が交代するという構造はそれまでの語り手の相対化という効果を持つため,読者はカジモトの語りの再評価を強いられる。カジモトの語りを見なおすと,彼の自分についての語りは,彼や他の人々の実際の言動と矛盾していることがわかる。例えば彼はみずからを故郷の村から疎外されるエリートとして描写しているが,実際には村人と積極的に交流し,濃密な人間関係を築いている。本研究では,このような性質を持つ語り手カジモトを,現代文学理論で用いられる「信頼できない語り手」という用語で説明できることを示し,ケジラハビの初期作品に見られる実験性に光を当てる。
著者
小山 直樹 相馬 貴代 市野 進一郎 高畑 由起夫
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.66, pp.1-12, 2005

マダガスカルのべレンティ保護区において, 1989年から2000年までの11年間, ワキツネザルの人口動態の研究をおこなうために, 我々は14.2ヘクタールの主調査域設定した。環境変化を研究するために, 主調査域を含む30.4ヘクタールの広い調査域も設定した。主調査域においては, 群れの分裂や追い出しなどの社会変動によって, 群れの数は3から6に増加した。その結果, 一つの群れの行動域の大きさは縮小した。広域の調査域には9科14種に属する大木が475本あった。最も豊富な樹種はキリー (<i>Tamarindus indica</i>) (n=289) で, 2番目がベヌヌ (<i>Acacia rovumae</i>) (n=74), 3番目がヴォレリ (<i>Nestina isoneura</i>) (n=66) であった。これら3種は全大木の90.3%を占めていた。大木の個体群密度は1ヘクタール当たり15.6本で, キリーのそれは10.3本であった。1989年, 14.2ヘクタールの主調査域内には, 1ヘクタール当たり12.7本のキリーが生えていた。<br>2000年に我々はキリーの大きさを再測定した。14.2ヘクタールの主調査域内のキリーの密度は, 1ヘクタール当たり11.2本に減少した。この減少は死亡したキリーの数が新規参入数より多かったためである。対照的に, 1才以上のワオキツネザルの数は1989年の63頭から2000年の89頭へと増加した。その結果, 1個体当たりのキリーの数は2.8本から1.8本に減少した。群れによって1個体当たりのキリーの数には大きな変異があった。CX群は最も豊かな地域を占めていて (1個体当たりのキリーの数は4.7本), T2群は最も貧しい地域を占めていた (1個体当たりのキリーの数は0.6本)。一方, キリーの果実の量は一本一本の木, 地域, 年により変動するだろう。たとえば,キリーの果実の収量は2000年は非常に少なく, CX群のキリーの果実の豊富さの得点は, 主調査域の平均得点より低かった。チャイロキツネザル (<i>Eulemur fulvus</i>) の数も増加している。チャイロキツネザルの採食習慣はワオキツネザルのそれと非常に類似しているので, ワオキツネザルにとって食物をめぐる種内と種間の両方の競争が激しくなってきているようだ。
著者
飯田 卓
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.37-53, 2001
被引用文献数
2

本稿では, マダガスカル南西海岸部のヴェズ村落における生業活動と食生活を記述・分析し, 家計の成り立ちを論ずる。調査地は, 沿岸に位置するF村と, F村から4km内陸に位置するK村である。 F村では頻繁に海で漁をおこない, おかずとなる魚を主に生産している。いっぽうK村では農耕に重点を置き, トウモロコシ, サツマイモ, メロンなど, 主食となる農作物を主に生産している。<br>両者においては, 食料の入手方法も対照的である。K村では, 農作物の多くを自給することにより, 不安定な国内経済に由来する物価上昇のリスクを回避している。また同時に, 食料備蓄を持たない親族の要求に屈して自分の備蓄を過剰に損失するという「リスク」をも回避するため, ほとんどの農作物を収穫直後に売り払う。つまりK村では, リスク回避の原理にもとづき, 生産物の自家消費と売却のバランスをとっているといえる。これに対しF村では, 物価上昇のリスクにも関わらず, 海産物を売って得た現金で主食を購入する。このような家計維持は, ナマコやフカヒレなど高価な輸出向け海産物の採取によって可能となっているもので, F村の家計は利潤最大化の原理にもとづくといえる。
著者
六辻 彰二
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2002, no.60, pp.139-149, 2002-03-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
21

シエラレオネ内戦は複雑な経緯を辿ったが, それは主に武力行使に関与する国内アクターが離合集散を繰り返したことと, 政権が目まぐるしく交代したことによる。内戦発生以後のほとんどの政権に共通することは, 独自の紛争対応が困難であったため, 民兵や民間軍事企業に依存したことである。これらのアクターは革命統一戦線 (Revolutionary United Front: RUF) との軍事的対決に有効な機能を果たしたが, 必ずしも政権の管理下になかったため, 交渉の推進には消極的で, 内戦を長期化させる一因ともなった。他方, 当初平和維持活動以上の介入をみせたナイジェリアは長期の派兵に耐えきれず, 交渉の進展に積極的な対応をみせた。結果的に2002年1月の内戦終結宣言は, 紛争ダイヤモンド輸出と武器輸入の規制と並行した, 交渉促進のための国際的な取り組みに大きく負っている。しかし主な内戦発生要因のうち, 社会的不満を表明する手段の欠如は民主的政府の設立にともなう異議申し立ての機会の確保により, そしてRUFを支援する紛争支援国の活動は国際的監視により大きく改善されたが, 政治腐敗と結び付いた資源配分や地方の生活環境は未だに深刻であるため, 内戦が再燃する危険性は払拭されていない。
著者
佐藤 誠
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.71, pp.101-106, 2007-12-31 (Released:2012-08-13)
参考文献数
18
被引用文献数
1 1

アフリカにおける人間の安全保障研究が提起している第一の論点は,人間の安全保障概念の再検討である。そこでは,「人間」を個人に限定せずにコミュニティで生きる者として捉える視点,さらに個人やコミュニティごとに安全が不平等である現実を認識することが必要である。また人間中心主義ではなく,他の生命体と共生する安全保障でなければならない。第二の論点は,人間安全保障と国家(国民)安全保障との関連である。国家から国民の安全を守るだけでなく,国家の正統性を再構築し国家に国民の安全を守らせる課題が不可欠であることを,アフリカの現実は示している。第三の論点は,「欠乏からの自由」と「恐怖からの自由」およびダウンサイド・リスクへの対処という考え方に関わっている。アフリカにおける人間の安全保障研究は,大半が「欠乏からの自由」に集中している。だが,「恐怖からの自由」に対する侵害に目を瞑ったまま「欠乏からの自由」すなわち開発に集中するだけでは,アフリカの現実に向き合ったことにならない。ダウンサイド・リスクは重要な提起だが,公共領域の責任を問わずに私的な対応でリスクに対処させる方向性も秘めている。欠乏のみならず恐怖の現実にどうむきあうか,そこに一つの課題がある。
著者
多田 功
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1972, no.12, pp.15-20, 1972

The Ethiopia highland is surrounded by desert and tropical forest-rain areas, and the highland itself surpass 2, 000m in average from sea level. Because of this geographic feature, miscellaneous infectious and parasitic diseases are seen in this country depending on the individual locations. There is not only a plenty of oral and respiratory infections of bacterial, rickettsial, protozoal and helminthic diseases, but also various arthropods-transmitted diseases which are scattered widely by various insects vectors. The shortage of medical facilities and staffs in this country prolongs unfortunately prompt improvement of the present situations. It should be moral obligation for the so-called developed countries to relieve inhabitants from these infectious and parasitic diseases. It seems that those who love Ethiopia and Ethiopians should frankly suggest and recommend people the possible means for the improvement from medical and administrative view points. It does not only mean to help the people under miserable conditions, but it does mean to help ourselves, because all of us are equally involved in mankind.