著者
北川 勝彦
出版者
関西大学
雑誌
關西大學經済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.53-75, 2006-06-15

1930年代、日本品は新市場アフリカへ進出した。日本品にとって重要な市場となったのは、エジプト、南アフリカ、イギリス領東アフリカ、フランス領アフリカおよびモロッコであった。本研究ノートでは、モロッコ市場への日本品、とくに綿織物と日本茶の進出状況について考察した。日本品の進出を可能にしたのは、カサブランカに開設された領事館における市場調査と通商情報の提供であったが、モロッコをめぐる国際秩序が関係していた。しかし、1938年7月にイギリスとフランスの間で締結された通商条約は1930年代中頃における日本品のモロッコ市場への進出を可能にした国際秩序に影響すると考えられた。
著者
北川 勝彦
出版者
関西大学出版部
巻号頁・発行日
2001-03-31
著者
野間 晴雄 朝治 啓三 北川 勝彦 小椋 純一 川島 昭夫 橘 セツ グルン ロシャン
出版者
関西大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2011

イギリスのプラントハンター(プラントコレクター)といわれる人々は,植物学,園芸学の知識と実践を背景に,世界各地に拡大した植民地で稀少な植物・有用植物を収集し,それをイギリス本国や別の植民地に普及するのに重要な貢献をした。その中核となったのがキュー植物園で,J.バンクス卿やW.フッカーの努力によって収集・研究がすすめられるとともに,風景式庭園に対して栽植植物の多様化からの寄与も大きかった。南アフリカ,インド,中国,オセアニア等での植物採集に関わったプラントハンターたちは18世紀以降の大英帝国拡大の一翼を担い,本国・植民地の経済植物や温帯植物の普及によって大きな経済的利益をもたらした。
著者
北川 勝彦
出版者
関西大学
雑誌
關西大學經済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.123-142, 2004-06-15

本研究ノートでは、1930年代中頃において、日本商品のアフリカ市場への進出を可能にした国際的枠組、すなわち「コンゴ盆地条約」とその改廃をめぐる動向について考察した。中央アフリカにおいて通商の自由と外国人に対する均等待遇の原則が定められたのは、1885年のベルリン会議の一般議定書においてであった。本議定書は、1890年のプリュツセル会議の一般議定書および宣言書により追補され、1919年、サンジェルマン・アン・レーにおいて締結された条約により更に修正されたが、通商上の均等待遇の原則に関しては変更されなかった。こうした背景の下で、日本品市場としてのベルギー領コンゴの可能性が調査されている。『白耳義領コンゴー経済事情』では、タンガニーカのダルエスサラームを拠点とする通商戦略が提案された。というのは、日本品の販路としてコンゴ市場を確保するには、インド洋岸の東アフリカを切り離しては困難であると判断されたからである。ベルギー領コンゴでは、アフリカ人向け商品の大部分は綿布で、全体として見れば、日本品の競争振りには驚嘆すべきものがあったが、しかし捺染綿布キテンゲを主とするイギリスの地位は牢固たるものがあった。コンゴ盆地条約は、実施日から10年を過ぎると改訂が可能であり、イギリスより1935年7月には条約改訂会議を開催したい旨の提案がなされた。日本政府は、他の署名国に反対がない限りなんら異議がないとの回答を行なったが、コンゴ盆地条約は、植民地通商に関する理想的基準をなすものであり、平和を希望する関係各国政府の努力によって存続させねばならないとの立場に立った。
著者
竹沢 尚一郎 坂井 信三 大稔 哲也 杉村 和彦 北川 勝彦 鈴木 英明 松田 素二 武内 進一 高宮 いずみ 池谷 和信 宮治 美江子 富永 智津子
出版者
国立民族学博物館
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は、欧米諸国に比して遅れているわが国のアフリカ史研究の推進のために実施された。それに当たり、アフリカ史を他地域との交流の観点から明らかにすること、考古学発掘をはじめとする一次資料の入手に主眼を置いた。本研究により、西アフリカで10世紀の巨大建造物を発掘したが、これはサハラ以南アフリカ最古の王宮と考えられ、交易やイスラームの進展について大きな寄与をなした。その他、13-14世紀の東・西・南部アフリカ各地で社会経済的発展が実現されたこと、国家をもたない社会における歴史記述の可能性が明らかになったことなどの成果があった。これらの成果をもとに、「アフリカ史叢書」の発刊の準備を進めている。
著者
北川 勝彦
出版者
關西大学經済學會
雑誌
關西大學經済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.309-358, 2020-09-20

本研究の目的は、アフリカニスト史家によるアフリカ経済史研究の「アフリカ化」と経済史研究におけるアフリカ経済史研究の「主流化」の可能性を探求しようと試みるところにある。具体的には、1960年代以降、世界のアフリカ史研究を牽引してきたテレンス・レンジャーの問題提起 : アフリカ史はどれほど「アフリカ化」し、歴史研究の「主流」となってきたのか に準拠しつつ、とりわけ20世紀後半から現在に至るUNESCOを中心としたアフリカ史の「アフリカ化」およびグローバル・ヒストリーにおけるアフリカ史の「主流化」の試みを検討し、さらに21世紀初頭に現れたアフリカ経済史研究の新展開をめぐる諸問題の考察を通して本研究の目的を追求した。以上の考察に基づいて、アフリカニストによるアフリカ史の記述とアフリカ経済の史的分析に当たっては、「アフラシア学」の先駆者アリ・マズルイが提起した4つの歴史的洞察の視点 : indigenization, domestication, diversification, horizontal interpenetration の重要性が認識されるにいたった。
著者
北川 勝彦
出版者
關西大学經済學會
雑誌
關西大學經済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.53-75, 2006-06-15

1930年代、日本品は新市場アフリカへ進出した。日本品にとって重要な市場となったのは、エジプト、南アフリカ、イギリス領東アフリカ、フランス領アフリカおよびモロッコであった。本研究ノートでは、モロッコ市場への日本品、とくに綿織物と日本茶の進出状況について考察した。日本品の進出を可能にしたのは、カサブランカに開設された領事館における市場調査と通商情報の提供であったが、モロッコをめぐる国際秩序が関係していた。しかし、1938年7月にイギリスとフランスの間で締結された通商条約は1930年代中頃における日本品のモロッコ市場への進出を可能にした国際秩序に影響すると考えられた。
著者
北川 勝彦
出版者
關西大学經済學會
雑誌
關西大學經済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.363-383, 2001-03-15

本研究ノートは、1980年代中頃から1990年代末にいたるまでに発表された南アフリカ経済史に関する諸研究の展望を試みたものである。主として『南アフリカ経済史ジャーナル』(South African Journal of Economic History) 、『南アフリカ歴史ジャーナル』 (South African Historical Journal) および『南部アフリカ研究ジャーナル』 (Journal of Southern African Studies) に掲載された諸論文を調査研究した。南アフリカ経済史の解釈をめぐる「リベラル派」と「ラディカル派」 の論争をふりかえり、経済史研究で主として取り上げられた諸問題一現代南アフリカ経済論、農業と農村社会の変化、鉱業と製造業、19世紀植民地経済、奴隷制社会などーを考察するにあたって重要と考えられる諸研究を順次整理した。現在、南アフリカ経済史研究は、1880年代から両大戦間期にかけての工業化をめぐる問題に焦点、があわせられているように思われる。
著者
北川 勝彦
出版者
関西大学東西学術研究所
雑誌
関西大学東西学術研究所紀要 (ISSN:02878151)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.51-64, 2008-04-01

This study is a part of wider research in which this author has been so far investigating into various aspects of liberation struggles in Southern Africa. In particular, discussions have been focused on the relations between guerrillas war and peasant society and legacies of liberation struggles in the post-independent Zimbabwe. It is also intended to research on decolonization of imaginations which had been constructed under the European colonial rule in Africa. Visual images invented under colonialism have played significant roles in disseminating political landscape of Southern Africa. This means that the study is not only about visuality but also cultural contacts and political encompassment engendered by European expansion in Africa. Specific attention is paid upon the Matopos Hills south of Bulawayo in colonial Zimbabwe. In the process of colonization, European settlers explored, exploited and conquered the new lands and converted landscapes of the Matopos to their own one. In other words, Europeans tried to make colonial landscapes fit with their concept of what they had learned in Europe. To begin with, the word pictures by Thomas Baines, the main producer of visual images of the nineteenth century Rhodesian landscape is analyzed. To the next, the meaning of Rhodes' interment in the Matopos is considered as one of the most significant rituals of colonization of landscape. After his funeral on April 10th 1902 nothing was spared in installing Rhodes as the "spirit" of the land. Finally African view of the Matopos is taken not merely as the site of struggle but the deeply rooted imaginations of their landscape in the late 1970s liberation struggles. For African people the cave is the nucleus of a living and active landscape and Mwali cult and shrines of the Matopos does all things to the landscape of the hills. There is no doubt that combination of stone and water is central to their imagination of the landscape of the Matopos. This had been shaped by an interaction with hunter gatherers, cultivators and cattle-keepers for thousands of years although it seemed to nineteenth century European travelers so wild.
著者
北川 勝彦
出版者
関西大学経済学会
雑誌
関西大学経済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.50, no.4, pp.47-67, 2001-03

本研究ノートは、1980年代中頃から1990年代末にいたるまでに発表された南アフリカ経済史に関する諸研究の展望を試みたものである。主として『南アフリカ経済史ジャーナル』(South African Journal of Economic History) 、『南アフリカ歴史ジャーナル』 (South African Historical Journal) および『南部アフリカ研究ジャーナル』 (Journal of Southern African Studies) に掲載された諸論文を調査研究した。南アフリカ経済史の解釈をめぐる「リベラル派」と「ラディカル派」 の論争をふりかえり、経済史研究で主として取り上げられた諸問題一現代南アフリカ経済論、農業と農村社会の変化、鉱業と製造業、19世紀植民地経済、奴隷制社会などーを考察するにあたって重要と考えられる諸研究を順次整理した。現在、南アフリカ経済史研究は、1880年代から両大戦間期にかけての工業化をめぐる問題に焦点、があわせられているように思われる。
著者
北川 勝彦
出版者
関西大学東西学術研究所
雑誌
関西大学東西学術研究所紀要 (ISSN:02878151)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.51-64, 2008-04-01

This study is a part of wider research in which this author has been so far investigating into various aspects of liberation struggles in Southern Africa. In particular, discussions have been focused on the relations between guerrillas war and peasant society and legacies of liberation struggles in the post-independent Zimbabwe. It is also intended to research on decolonization of imaginations which had been constructed under the European colonial rule in Africa. Visual images invented under colonialism have played significant roles in disseminating political landscape of Southern Africa. This means that the study is not only about visuality but also cultural contacts and political encompassment engendered by European expansion in Africa. Specific attention is paid upon the Matopos Hills south of Bulawayo in colonial Zimbabwe. In the process of colonization, European settlers explored, exploited and conquered the new lands and converted landscapes of the Matopos to their own one. In other words, Europeans tried to make colonial landscapes fit with their concept of what they had learned in Europe. To begin with, the word pictures by Thomas Baines, the main producer of visual images of the nineteenth century Rhodesian landscape is analyzed. To the next, the meaning of Rhodes' interment in the Matopos is considered as one of the most significant rituals of colonization of landscape. After his funeral on April 10th 1902 nothing was spared in installing Rhodes as the "spirit" of the land. Finally African view of the Matopos is taken not merely as the site of struggle but the deeply rooted imaginations of their landscape in the late 1970s liberation struggles. For African people the cave is the nucleus of a living and active landscape and Mwali cult and shrines of the Matopos does all things to the landscape of the hills. There is no doubt that combination of stone and water is central to their imagination of the landscape of the Matopos. This had been shaped by an interaction with hunter gatherers, cultivators and cattle-keepers for thousands of years although it seemed to nineteenth century European travelers so wild.
著者
北川 勝彦 キタガワ カツヒコ Katsuhiko KITAGAWA

本研究は、諸外国と日本の実に多面的な国際関係についての歴史的研究の一部をなす日本-アフリカ関係を経済関係ないしその発展から考察している。また、本研究は、第一に、戦前期日本の「領事報告」 第二に、戦後、海外市場調査に重要な役割を演じた日本貿易振興会から刊行された『通商弘報』に依拠して進められてきた。 具体的には、日本と南アフリカとの経済関係の歴史に焦点をあて、第一に、戦前期日本の南アフリカへの経済的関心がいつ頃から生まれ、南アフリカに関する経済情報がどのように収集され、それを日本国内の当該業者に報知するどのようなシステムが形成されていたのか、また、戦後の日本ではどのように南アフリカの経済情報が収集され、それを関連業者に拡散させるどのようなシステムが形成されたのか、を明らかにした。第二に、戦前と戦後において、日本と南アフリカの貿易はどれほどの展開を示していたのか、また、日本と南アフリカの通商関係とその展開の中で、それぞれの段階でどのような問題が生じ、さらに、日本の対南アフリカ貿易を促進するために、どのような市場獲得政策が展開されたのかについても明らかにしている。 本論では、第二次世界大戦を挟んで二つの時期にわけて考察した。第1章では、日本が海外へと進出しはじめ、しかもアフリカ大陸各地域に対する経済的関心を有するにいたった時期には、いったいどのような国際経済関係が展開されていたのか。ここでは、何ゆえに海外経済情報収集の制度的枠組の構築が急がれ、海外経済事情調査が行われたのか、その背景について考察した。 第2章では、戦前期の日本において、南アフリカに関する経済情報の報知に重要な役割を演じたのは、当時発行された「貿易雑誌」であった。まず、戦前期に外務省通商局が刊行した南アフリカ連邦に関する経済調査報告書の中で重要と思われるものを概観し、次に、戦前期において海外経済情報の国内への報知(情報の拡散)に大きな役割を演じた「貿易雑誌」に掲載された南アフリカ経済情報を整理した。 第3章では、南アフリカ連邦形成期から第二次世界大戦の勃発に至る約30年間に、日本の商品がどのような経路で南アフリカに輸出され、南アフリカではどの地方のどのような人々にどのような経路でもたらされ消費されたのか、他方、南アフリカの商品がどのような経路で日本に輸出され、日本ではどのような経路でいかなる地方のどのような人々に利用されるにいたったのか、その具体的な状況を描き出そうと試みた。しかし、両大戦間期における日本の対南アフリカ貿易とそれにかかわりをもった日本企業の活動の考察にとどまっている。 第4章では、1930年代の世界恐慌期における日本-南アフリカ通商関係の展開とそれににともなってあらわれてきた諸問題について考察した。第一に、当時の南アフリカ市場に関する情報収集の一端を担った朝日新聞記者による南アフリカ市場調査を紹介し、第二に、ケープタウン在住日本領事のもたらした通商報告に基づいて世界恐慌期番こおをする日本の対南アフリカ貿易の展開を概観した。第三に、ダーバン在住の名誉領事からもたらされた通商報告に依拠して南アフリカ市場への日本品の進出から生じた具体的な通商問題の一端を明らかにし、第四に、世界恐慌期に南アフリ力連邦でとられた通商政策と日本の対南アフリカ通商政策について当時の領事報告番こ依拠して明らかにした。第5章では、両大戦間期における日本-南アフリカ通商関係史のなかで、とくに1930年10月の『南阿入国居住其他二関スル日阿取極』締結の時期に焦点をあわせて、本『取極』とその背後で展開された「南阿羊毛購入対策」について、主として日本領事報告と外交記録に依拠しながら考察した。第2部では、戦後の関係を扱っているが、まず、第6章で番よ、第二次世界大戦の終結から1980年代までの国際経済、日本経済および南アフリカ経済の展開を簡単にふりかえっている。次いで、第7章では、第一に、戦後日本の海外市場調査機関として今日にいたるまで重要な役割を演じている「日本貿易振興会」(JETRO)の設立経過をふりかえり、第二に、JETRO発行の『通商弘報』(日刊一こ転載された南アフリカ市場調査を概観した。第三に、この『通商弘報』その他の資料に依拠して戦後日本の対南アフリカ貿易の展開過程を概観し、戦後日本-南アフリカ通商関係番こみられた問題を提示している。 第8章では、過去の関係の継承とこれまでには見られなかった新たな関係の展開とが混在している日本・南アフリカ関係の現状を観察しようと試みた。その場合、とくに1980年代の対南アフリカ経済制裁期からマンデラ政権誕生にいたる時期を取りあげ、(1)日本・南アフリカ貿易の現状、(2)日本の対南アフリカ投資、(3)日本の対南アフリカ通商政策について順次考察した。 南アフリカでは、最初の非人種的民主的選挙後、「暫定憲法」の下で樹立された「国民統一政府」(Government of National Unity)を中心にして、「虹の国家」の建設が始まった。第9章では、第一に、マンデラ政権誕生後の南アフリカ経済の動向を概観し、第二に、日本と南アフリカとの貿易関係の現状について考察した。次いで、第三番こ、投資市場としての南アフリカの変化と最近の日本企業の対南アフリカ投資の動向を明らかにし、第四に、南アフリカの通商戦略とそれに伴って現れてきた対日要求の意味について検討している。 ところで、本研究では、2つの付論を設けている。付論Iでは、サハラ砂漠以南のアフリカのなかで、対象とする地域を英領熱帯アフリカに限定し、第二次世界大戦前の日本との通商関係の発展を考察した。すなわち、戦前期の日本と英領熱帯アフリカの貿易はどれほどの展開を示していたのか、また、英領熱帯アフリカへの日本製品の進出が諸外国との関係ににおいでどのような問題を引き起こすことになったのか、という点について考察している。
著者
北川 勝彦
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1989, no.35, pp.47-63, 1989-12-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
32

This study consists of a provisional synthesis of research on Japan's relations with Africa based on an extensive examinations of pre-war Japanese consular reports regarding economic conditions in Africa. The purpose of this study is to make an interpretation of how economic relations between Japan and Africa developed in the period between 1913 and 1924. Japanese scholars have recently come to appreciate the value of consular reports as historical sources. Consular reports provided detailed information on a wide variety of commercial topics by agent stationed all over the world. They were printed and made available to merchants and businessmen from 1881 to 1943. This study focuses on the fifth series, entitled the Official Commercial Reports (Tsushoo-Koohoo), published from April 1913 to December 1924.After the First World War the number of commercial reports coming from Japanese consuls residing in various parts of Africa and other areas increased and the range of topics grew as well. The reports on North Africa almost all on Egypt and afterwards reports on Tunis, Algeria, French and Spanish Morocco were added. Special attention was paid to the number and tonnage of ships passing through the Suez Canal. There were also reports on cotton crops, on Japanese merchandize such as cotton textiles, knit-ware, matches and brushes. Reports on South Africa focused on the Union of South Africa, Southern and Northern Rhodesia, and South West Africa. The wide range of reports on the Union of South Africa included reports on foreign trade, on mining, on market for wool and wool products, on ports and harbors, on expected yield of cotton crops and on Japanese general merchandize such as cotton goods, medicines, glass bottles, matches, cement, fishing instruments and the like.