著者
大出 春江
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.323-354, 2008-03

本論の目的は、性と出産の社会統制が大正初期にどのように進められたのかを明らかにすることである。そのための方法としては一九一一年から一九一四年までの間に、雑誌『助産之栞』(一八九六年〜一九四四年まで刊行された月刊誌)に採録された当時の社会的事件の内容分析を行う。この時期の内容分析から重要な点を四つにまとめることができる。一つは親による子殺しという残酷な事件や不義密通といった性的逸脱の出来事を掲載しつつ、同じページに〈聖なる出産〉ともいうべき皇室の出産記事が囲みで同時に報道されていること。二つめに、陰惨で汚穢に満ちた事件の状況がリアリティをもって具体的に数多く記述されること。三つめには畸形児に対する露骨なまなざしが存在すること。四つめはこれらの記事が一九一四年末から忽然と消え、それらの陰惨な事件にかわって多胎児の誕生に対する注目、産児調節、そして人口統計が繰り返し登場するテーマとなっていくことである。これら四つの特徴は特に一九三〇年代の性と生殖の統制に関する一連の動向を考えれば十分納得できることばかりかもしれない。しかし、より具体的にどのようなメディアがどのような形で機能し、結果としてよい性と悪い性、好ましい出産と好ましくない出産、優性な子どもと劣性な子どもの振り分けが人々の意識に埋め込まれていくのか、そのプロセスと回路とを知ることができるだろう。その一翼を担ったメディアとして、この助産雑誌自体も重要であったが、衛生博覧会や児童展覧会といった装置は模型や現物を提示することで、都市の一般市民を対象に好奇や驚き、不気味さの感覚と共に正常なるものの価値を教育し、性や生殖そして健康の社会統制を進める重要な機能を担ったといえる。こうしたメディアを通じて都市から村落へ伝搬する形で、性と生殖の統制が進行し、人々の性と出産をめぐる日常生活意識が変容していったのではないだろうか。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p3-22, 1993-02

皇子宮とは、古代において大王宮以外に営まれた王族の宮のうち皇子が居住主体である宮を示す。本稿では、この皇子宮の経営主にはどのような王族が、どのような条件でなり得たのかを考察の目的とした。その結果、皇子宮の経営主体は大兄制と密接な関係にあるが、必ずしも大兄に限定されないことが確認できた。皇子宮の経営は、王位継承資格を有する王族内の有力者が担当し、とりわけ同母兄弟中の長子である大兄が経営主体になることが多かったが、それ以外にも、庶弟のなかで人格資質において卓越した人物が特に「皇弟(スメイロド)」と称されて、その経営権が承認されていた。穴穂部皇子・泊瀬仲王・軽皇子・大海人皇子・弓削皇子などがその実例と考えられる。「皇弟」は天皇の弟を示すという通説的解釈が存在するが、実際の用例を検討するならば、通説のように同母兄が大王位にある場合に用いられる例は意外に少なく、穴穂部皇子や弓削皇子など大兄以外の有力な皇子に対する称号として用いられるのが一般的であった。「皇弟(スメイロド)」の用字が天皇号の使用以前に遡れないとするならば、本来的には「大兄」の称号に対応して「大弟(オホイロド)」と称されていたことが推定される。ただし、大王と同じ世代のイロド皇子がすべて「皇弟」と称されたわけではないことに留意すべきであり、大兄でなくても、人格・資質において卓越した皇子が第二子以下に存在した場合に限り、こうした称号が補完的に用いられたと考えられる。「大兄の原理」のみにより王位継承は決定されるわけではなく、「皇弟の原理」とでも称すべき異母兄弟間の継承や人格・資質をも問題にする副次的・補完的な継承原理は「大兄の時代」とされる継体朝以降も底流として存在したことが推測されるのである。The term, "Prince's Palace" is used to mean a royal palace which is the main residence of a prince and run separate to the imperial palace, in ancient times. This paper aims to examine what kind of royal person was able to become the head of a prince's palace, and under what conditions.As a result, it was confirmed that the head of a prince's palace was not necessarily limited to the eldest brother, though there was a close connection with the eldest-prince system. An influential member of royalty with the right of succession to the throne was in charge of the management of the prince's palace. The eldest prince, that is the eldest of brothers born from the same mother, became the head in most cases. However, the right to manage the palace was often authorized to a brother born from a different mother, but gifted with excellent character and talent. Such a brother was given the special title of "Imperial Brother (Sumeirodo)". Princes Anahobe-no-miko, Hatsuse-no-Naka-no-ō, Karu-no-miko, Ōama-no-miko, and Yuge-no-miko are considered to be examples of such princes. There exists a conventional understanding that "Sumeirodo" meant a brother of the Emperor. However, an examination of examples of usage shows that there were in fact few Imperial Brothers whose brother born from the same mother was on the throne, as the conventional theory supposes. The term was generally used as a title for influential princes, such as Anahobe-no-miko and Yuge-no-miko, who were not the eldest of brothers. If we assume that the usage of "Sumeirodo" cannot date back to before the use of the title of "Tennō" (Emperor), it may be supposed that these princes were originally called "Ōirodo", as opposed to the title of "eldest brother".However, we should note the fact that not all Irodo princes of the same generation as the Emperor were called "Sumeirodo". It may be considered that only when there was a prince of outstanding character and talent among the second and subsequent brothers, the title of "Sumeirodo" was used supplementary. The succession to the throne was not determined only by the "principle of the eldest brother". It is supposed that there underlay a secondary and supplementary principle of succession, which may be called the "principle of Sumeirodo". It allowed for the possibility of succession from among brothers born from different mothers and took into account the character and talent of the successor, even after the Keitai era, which is regarded as the "age of the eldest brother".
著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.70, pp.59-95, 1997-01

小林行雄は,1955年に「古墳の発生の歴史的意義」を発表した。伝世鏡と同笵鏡を使い,司祭的首長から政治的首長への発展の図式を提示し,畿内で成立した古墳を各地の首長が自分たちの墓に採用していった意義を追究したのである。この論文は,古墳を大和政権の構造と結びつけた画期的な研究として,考古学史にのこるものと今日,評価をうけている。小林は,この論文で,鏡と司祭者とのかかわりを説明するために,『古事記』・『日本書紀』の神代の巻に出てくる天照大神の詔を引用した。しかし,神の名を意図的に伏せた。この論文以後も,小林は伝世鏡について言及したが,天照大神の言葉を使うことはなかった。1945年の敗戦前には,国民の歴史教育の場では,日本の歴史とは天皇家の祖・天照大神で始まる記紀の記述を歴史的事実とする「皇国史」のことであった。そこには,石器時代に始まる歴史が介在する余地はなく,考古学の研究成果は抹殺されていた。敗戦後,石器時代から始まる日本歴史の教育がおこなわれるようになる。しかし,科学的歴史を否定し,「皇国史」を復活させようとする政治勢力が再び勢いをもりかえしてくる。小林は,敗戦前から,記紀の考古学的研究につよい関心をもち,それに関する論文を書いてきた。けれども,実証を重んじる彼の学問で,実在しなかったはずの天照大神の言葉を引用することは,一つの矛盾である。さらに,神話教育を復活させようとたくらむ勢力に加担することにもなる。小林はそのことに気づいて,伝世鏡の意味づけに天照大神の言葉を用いるのをやめたのではないか。昭和時代前・中期の考古学研究は,皇国史観の重圧下で進められたことを忘れてはならない,と思う。Prior to Japan's 1945 defeat in the-Second World War, the teaching of its early history consisted of stories taken from 8th Century accounts (the Kojiki and Nihonshoki) which emphasized the history of the Japanese imperial court, said to have begun with its divine ancestor the goddess Amaterasu Ōmikami. What came to be taught in the post-war period was a more credible Japanese history for which the Stone age served as a starting point. However it was not long before conservative political forces reemerged in an attempt to revive emperor-centered education by denying scientific history.In 1955 the excellent archaeologist Kobayashi Yukio published a paper entitled "The Historical Significance of the Emergence of Kofun", in which, using bronze mirrors as evidence, he investigated the meaning and significance of the chieftains of various local regions adopting the Yamatostyle key hole shaped burial mounds to their tombs, while suggesting a process by which the position of chief priest developed into that of political chieftain. Kobayashi's linking of the emergence of these tumuli to the establishment of a Yamato political authority is now recognized as a seminal piece of archaeological research.To explain the link between bronze mirrors and the role of chief priest, Kobayashi made use of the phrases attributed to Amaterasu Ōmikami in the Kojiki and Nihonshoki, but at the same time deliberately avoided mentioning her name. Even in his later work on the same issue he never used the phrases nor term of goddess. The importance he attached to material evidence made it impossible for him, when dealing with historical fact, to employ the phrases of the god or goddes like Amaterasu Ōmikami, who patently had never existed. Further, to have done so would have appeared to lend support to those political forces intent on reviving a form of education in which Japanese history was to be based on mythology. No doubt aware of this, Kobayashi refused to use the phrases of the goddess. It should always be remembered that progress in Japanese archeological studies has demanded resistance to the pressures inherent in emperor-centered history.
著者
真鍋 祐子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.293-309, 2001-03

本稿の目的は,政治的事件を発端としたある〈巡礼〉の誕生と生成過程を追うなかで,民俗文化研究の一領域をなしてきた巡礼という現象がかならずしもア・プリオリな宗教的事象ではないことを示し,その政治性を指摘することにある。ここではそうした同時代性をあらわす好例として,韓国の光州事件(1980年)とそれにともなう巡礼現象を取り上げる。すでに80年代初頭から学生や労働者などの運動家たちは光州を「民主聖地」に見立てた参拝を開始しており,それは機動隊との弔い合戦に明け暮れた80年代を通じて,次第に〈巡礼〉(sunrae)として制度化されていった。しかし,この文字どおり宗教現象そのものとしての巡礼の生成とともに,他方ではメタファーとしての巡礼が語られるようになっていく。光州事件の戦跡をめぐるなかでは犠牲となった人びとの生き死にが頻繁に物語られるが,それは〈冤魂〉〈暴徒〉〈アカ〉など,いずれも儒教祭祀の対象から逸脱した死者たちである。光州巡礼における死の物語りは,こうしたネガティヴな死を対抗的に逆転評価するなんらかのイデオロギーをもって,「五月光州」のポジティヴな意味を創出してきた。すなわち光州事件にまつわる殺戮の記憶の物語りに見出されるのは,自明視された国民国家ナショナリズムを超え,それに対抗する代替物としての民族ナショナリズムを指向する政治的脈絡である。光州をめぐるメタファーとしての巡礼は,それゆえ,具体的には「統一祖国」の実現過程として表象される。そこでは統一の共時的イメージとして中朝国境に位置する白頭山が描出されるとともに,統一の通時的イメージとして全羅道の「抵抗の伝統」が語られる。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.133, pp.109-153, 2006-12

神奈川県小田原市中里遺跡は弥生中期中葉における,西日本的様相を強くもつ関東地方最初期の大型農耕集落である。近畿地方系の土器や,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物などが西日本的要素を代表する。一方,伝統的な要素も諸所に認められる。中里遺跡の住居跡はいくつかの群に分かれ,そのなかには環状をなすものがある。また再葬の蔵骨器である土偶形容器を有している。それ以前に台地縁辺に散在していた集落が消滅した後,平野に忽然と出現したのも,この遺跡の特徴である。中里集落出現以前,すなわち弥生前期から中期前葉の関東地方における初期農耕集落は,小規模ながらも縄文集落の伝統を引いた環状集落が認められる。これらは,縄文晩期に気候寒冷化などの影響から集落が小規模分散化していった延長線上にある。土偶形容器を伴う場合のある再葬墓は,この地域の初期農耕集落に特徴的な墓であった。中里集落に初期農耕集落に特有の文化要素が引き継がれていることからすると,中里集落は初期農耕集落のいくつかが,灌漑農耕という大規模な共同作業をおこなうために結集した集落である可能性がきわめて高い。環状をなす住居群は,その一つ一つが周辺に散在していた小集落だったのだろう。結集の原点である大型建物に再葬墓に通じる祖先祭祀の役割を推測する説があるが,その蓋然性も高い。水田稲作という技術的な関与はもちろんのこと,それを遂行するための集団編成のありかたや,それに伴う集落設計などに近畿系集団の関与がうかがえるが,在来小集団の共生が円滑に進んだ背景には,中里集落出現以前,あるいは縄文時代にさかのぼる血縁関係を基軸とした居住原理の継承が想定できる。関東地方の本格的な農耕集落の形成は,このように西日本からの技術の関与と同時に,在来の同族小集団-単位集団-が結集した結果達成された。同族小集団の集合によって規模の大きな農耕集落が編成されているが,それは大阪湾岸の弥生集落あるいは東北地方北部の初期農耕集落など,各地で捉えることができる現象である。
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.149, pp.55-90, 2009-03

独立棟持柱建物は,Ⅰ類)居住域に伴う場合と,Ⅱ類)墓域に伴う場合がある。Ⅰ類にはA類)竪穴住居と混在する,B類)特定の場所を占める,C類)区画に伴う,という三つのパターンがある。A類からC類への流れは,共同体的施設から首長居館の施設への変貌を示すもので,古墳時代へと溝や塀で囲まれ秘儀的性格を強めて首長に独占されていった。弥生土器などの絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,柱穴などから出土した遺物からすると,この種の建物に祭殿としての役割があったことは間違いない。問題は祭儀の内容だが,Ⅱ類にそれを解く手がかりがある。北部九州地方では,弥生中期初頭から宗廟的性格をもつ大型建物が墓域に伴う。中期後半になると,楽浪郡を通じた漢文化の影響により,大型建物は王権形成に不可欠な祖霊祭祀の役割を強めた。福岡県平原遺跡1号墓は,墓坑上に祖霊祭祀のための独立棟持柱建物がある。建物は本州・四国型であるので,近畿地方から導入されたと考えられる。したがって,近畿地方の独立棟持柱建物には,祖霊祭祀の施設としての役割があったとみなせる。ところが,近畿地方でこの種の建物は墓に伴わない。近畿地方では祖霊を居住域の独立棟持柱建物に招いて祭ったのであり,王権の形成が未熟な弥生中期の近畿地方では,墳墓で祖霊を祭ることはなかった。しかし,弥生後期終末の奈良県ホケノ山墳丘墓の墓坑上には独立棟持柱建物が建っている。畿内地方の王権形成期に,北部九州からいわば逆輸入されたのである。南関東地方のこの種の建物も祖霊祭祀の役割をもつが,それは在地の伝統を引いていた。独立棟持柱建物の役割の一つは祖霊祭祀であるという点で共通している一方,その系譜や展開は縄文文化の伝統,漢文化との関係,王権の位相などに応じて三地域で三様だった。
著者
安藤 広道
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.203-246[含 英語文要旨], 2009-03

本稿の目的は,東日本南部以西の弥生文化の諸様相を,人口を含めた物質的生産(生産),社会的諸関係(権力),世界観(イデオロギー)という3つの位相の相互連関という視座によって理解することにある。具体的には,これまでの筆者の研究成果を中心に,まず生業システムの変化と人口の増加,「絵画」から読み取れる世界観の関係をまとめ,そのうえで集落遺跡群の分析及び石器・金属器の分析から推測できる地域社会内外の社会的関係の変化を加えることで,3つの位相の相互連関の様相を描き出すことを試みた。その結果,弥生時代における東日本南部以西では,日本列島固有の自然的・歴史的環境のなかで,水田稲作中心の生業システムの成立,人口の急激な増加,規模の大きな集落・集落群の展開,そして水(水田)によって自然の超克を志向する不平等原理あるいは直線的な時間意識に基く世界観の形成が,相互に絡み合いながら展開していたことが明らかになってきた。また,集落遺跡群の分析では,人口を含む物質的生産のあり方を踏まえつつ,相互依存的な地域社会の形成と地域社会間関係の進展のプロセスを整理し,そこに集落間・地域社会間の平等的な関係を志向するケースと,明確な中心形成を志向するケースが見られることを指摘した。この二つの志向性は大局的には平等志向の集落群が先行し,生産量,外部依存性の高まりとともに中心の形成が進行するという展開を示すが,ここに「絵画」の分析を重ねてみると,平等志向が広く認められる中期において人間の世界を平等的に描く傾向があり,多くの地域が中心形成志向となる後期になって,墳丘墓や大型青銅器祭祀にみられる人間の世界の不平等性を容認する世界観への変質を想定することが可能になった。このように,物質的生産,社会的諸関係,世界観の相互連関を視野に入れることで,弥生文化の諸様相及び前方後円墳時代への移行について,新たな解釈が提示できるものと思われる。
著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.41, pp.p67-132, 1992-03

本稿は、近世農民層の葬送・法事および先祖祭祀のあり方と、その際の家、同族、親族、地域住民の関与の仕方と役割、それをめぐる諸観念、規範などについての考究を課題とする。同族結合が強い段階では死者の葬送・供養や先祖祭祀も同族の長を中心に同族団の儀礼として執行されていたようであるが、個々の家が自立性を強めるに伴い、家がその執行主体となり、独自に墓碑、位牌、過去帳などを作るようになる。生前の生活および死後の魂の安穏が家によって基本的に保障されるようになった段階では、家を保ち先祖の祭祀を絶やさないことが絶対的な規範として子孫に要請される。だが、家での生活が親類や地域共同体の相互扶助によって成り立っていたのと同様、死者の葬送、霊魂の供養も、親類や地域共同体がその保障を補完する機能を果たしていた。葬式・法事の営み方に当主の直系尊属、配偶者か直系卑属、傍系親かによって格差をつけていた例もみられる。休業・服忌の期間は、父母の死去の場合とりわけ長く設定している所が多い。他家に養子あるいは嫁として入った者も、葬儀はもちろん年忌法要にも参加し、弔い上げによって祖霊=神に昇華するまでは親の霊の面倒をみるのが子としての務めであった。弔い上げ後は家の継承者によってその家の先祖として代々祭祀されていく。直系家族制のもとにおいては歴代の家長夫婦がその家の正規の先祖であり、単身のまま生家で死去すれば無縁仏として扱われる。生前は家長・主婦として家を支え、死後はその家の先祖として子孫に祭られるというのが現世と来世を通じた正規の人生コースとされており、再婚の多さは正規の人生コースに復させる意味ももっていたと思われる。家の成員の霊魂の間には家の構造に規定された差別の体系が形づくられていたが、と同時に、家を基盤に広く成立、成熟した先祖観は社会的にも差別を生み出す契機をはらみ、その一方で天皇へ結びつく性格も有した。
著者
藤井 隆至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.51, pp.p259-290, 1993-11

本稿は,雑誌『郷土研究』がどのような主題をもち,どのような方法でその主題を分析していったかを解明する。この雑誌は1913年から1917年にかけて発行された月刊誌で,柳田国男はここを拠点にして民間伝承を収集したり自分の論文を発表したりする場としていた。南方熊楠からの質問に対して,この雑誌を「農村生活誌」の雑誌と自己規定していたが,それでは「農村生活誌」とは何を意味するのであろうか。彼によれば,論文「巫女考」はその「農村生活誌」の具体例であるという。筆者の見解では,「巫女考」の主題は農村各地にみられる差別問題を考究する点に存していた。死者の口寄せをおこなうミコは村人から低くみられていたけれども,柳田はミコの歴史的系譜をさかのぼることによって,「固有信仰」にあってミコは神の子であり,村人から尊敬されていた宗教家で,その「固有信仰」が「零落」するとともに差別されるようになっていったという説を提出している。差別の原因は差別する側にあり,したがって差別を消滅させるためには,すべての国民が「固有信仰」を「自己認識」する必要があるのであった。その説を彼は「比較研究法」という方法論で導きだしていた。その方法論となったものは,認識法としては「実験」(実際の経験の意)と「同情」(共感の意)であり,少年期から学んでいた和歌や学生時代から本格的に勉強していた西欧文学をもとにして彼が組み立ててきた認識の方法である。もう一つの方法論は論理構成の方法で,帰納法がそれであるが,数多くの民間伝承を「比較」することで「法則」を発見しようとする方法である。こうした方法論を駆使することによって彼は差別問題が生起する原因を探究していったが,彼の意見では,差別問題を消滅させることは国民すべての課題でなければならなかった。換言すれば,ミコの口寄せを警察の力で禁止しても差別が消滅するわけではなく,差別する側がミコの歴史を十分に理解することが必要なのであった。This paper elucidates what were the main subjects handed by the journal "Kyōdo Kenkyū (Studies of native lands)", and by what methods the subjects were analyzed. The "Kyōdo Kenkyū" was a monthly review issued from 1913 to 1917, which Yanagita Kunio used as a base for collecting folk tales and publishing his theses. In reply to a question posed by Minakata Kumagusu, he defined the periodical as a "journal of life in farming villages". Then, what did a "journal of life in farming villages" mean? According to Yanagita, his paper entitled "Study on Psychic Mediums" was a concrete example of the "journal of life in farming villages".In the opinion of the author, the main theme of his "Study on Psychic Mediums" lay in the examination of the problem of discrimination which was seen in farming villages everywhere. Mediums, who performed necromancy with the dead, were looked down upon by village people. However, tracing their historical lineage, Yanagita argued that mediums had been the children of gods in "the native belief", and religionists looked up to by village people, but came to be discriminated against as "the native belief" "went to ruin". The cause of the discrimination lay with the discriminators, and so, in order to eliminate discrimination, the whole nation should "realize for themselves" "the native belief".He came to this opinion by a methodology called "comparative study". The methodology came as epistemology from "jikken (actual experience)" and "dōjō (sympathy)" and was a method of understanding he built up based on the Japanese poems that he had studied since he was a boy, and the West-European literature he had studied earnestly since he was a student. Another methodology was the method of logical construction or the inductive method. It was a method to try to discover "rules" by the "comparison" of many folk tales.Making full use of these methodologies, Yanagita searched for causes from which the problem of discrimination arose. In his opinion, elimination of the problem of discrimination had to be a subject tackled by the whole nation. In other words, discrimination could not have been eliminated simply by the prohibition of necromancy by police power; a full understanding of the history of mediums on the part of the discriminators was essential.
著者
山折 哲雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.p365-394, 1985-03

Kūkai, the Heian Buddhist (774-835) received permission from the government to construct a hall called Shingonin in the center of the royal palace for the performance of rituals of Esoteric Buddhism. Every year, a ritual called Goshichinichimishiho was performed at the hall over seven days every second week during the New Year. A mandala was displayed as the central divinity and other images of Esoteric Buddhism were installed. Many followers of Esoteric Buddhism prayed for national security and the harvest.The most important thing to be noted in the ritual was that prayers were offered while sacred water was sprinkled on the emperor. When the emperor could not be present at the ritual, prayers were offered while sacred water was sprinkled on the emperor's clothes placed on a table. This ritual was believed to drive away evil spirits that may possess the emperor, and to make his body strong and full of life.Goshichinichimishiho is reminiscent of rituals such as Niinamematsuri and Onamematsuri that took place in the royal palace from ancient times. Niinamematsuri is a harvest cult held in November every year. In this ritual the emperor slept and ate with his guest the god Amaterasuōmikami in a temporary palace. The importance of the ritual lies in the fact that it tried to soothe down and fortify the soul of the emperor, which would gradually have weakened as the year drew to an end. In this sense the ritual was performed to strengthen and revive the spirit of the emperor. When a new emperor ascended the throne, after the coronation, Onamematsuri was performed. In this case, the ritual to revive and fortify the soul of the emperor took place after the ritual where the soul of the previous emperor was succeeded by the new emperor. Thus the fortification and succession of the empeor's soul were the main importance of Niinamematsuri and Onamematsuri, whereas in Kūkai's Goshichinichimishiho, the prime importance of the ritual lay in driving away evil spirits that might possess the emperor. From the comparison of these two rituals, Kūkai must have been conscious of the political and religious function of Niinamematsuri and Onamematsuri and had the intention to oppose these rituals by introducing the ideology of Esoteric Buddhism in the center of a national ritual. Goshichinichimishiho performed in Shingonin was continued during the Heian period. In later times it became less popular because of the rise of the study of Japanese classical literature and Confucianism. After the Meiji Era it was completely abolished.
著者
廣田 浩治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.223-248, 2003-03

公家権門の家領を支配する担い手に、家僕を中心とする家政機構がある。中世後期の九条家の家僕は、「御番衆中」「境内沙汰人」などといわれ、諸大夫級と侍身分の家僕から成る。中世前期以来の家司が脱落する過程で、九条家家門との主従関係を強めた家僕が残り、家門が侍身分の家僕までも直接統括する体制に変質した。家門と家僕の関係は家と家の関係という性格が強まり、中世後期の九条家家僕の構成は九条政基・尚経期に一定の確立をみた。中世後期の九条家領荘園といえば日根荘がよく知られる。が、同家領はそれだけでなく、畿内・西国に複数存在し、また九条家関係の寺院の所領も畿内・西国に広がり、所領支配の面で九条家への依存度を強めた。特に寺院所領の錯綜する東九条御領(境内)では九条家「本役」賦課体制をとり、寺院所領の家領化が進んだ。家領支配に当たっては諸大夫級の家僕が奉行、侍身分の家僕は主に上使に任じた。当該期の荘園支配の本質はあらゆる手段を講じてできるだけ多くの収納を実現することにある。このため奉行・上使はしばしば家領に下向し、代官・在地勢力の離反を防ぎ、「案内者」を起用して荘務の協力者とした。家僕相互にも荘務遂行の下向経費捻出や給分保障の点で依存関係があり、これが家領相互の並行支配を支えた。また家僕には金銭の「秘計」「引替」の能力も求められた。日根荘のように家門が下向して直務支配を行う場合には、家門と複数の家僕(奉行―上使)による支配機構が整備される。政基の日根荘支配は複数の家僕に支えられ、また家門―家僕の主従関係は荘内の寺僧などにも広げられた。政基の支配は京都東九条の尚経を頂点とする他の家領支配とも関連しており、孤立したものではなかった。中世後期の九条家は家僕編成の主従制を強化したが、地域領主化したのではなく、公家権門として家僕の荘務を基盤に複数所領の収納維持を志向したのである。
著者
花部 英雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.57-67, 2012-03

四五〇〇もの俗信を集めた「北安曇郡郷土誌稿」は、日本の俗信研究の先駆けとなる資料集である。その中の「夢合せ」の項に二〇〇ほどの夢にかかわる俗信がある。まずはこの俗信のうち「夢の予兆」にあたる内容を分析し、民俗としての夢の一般的傾向を明らかにする。次に、「夢の呪い」について、夢を見る以前、以後とに分けてその内容を検討し、夢をどのように受けとめ、それに対応しているかを確認する。さらに呪いのうち韻文形式をとる三首の歌を話題にして、全国的事例からその内容、意味を分析する。そして、この呪い歌の流通の背景に専門の呪術者の関与があることを例証し、呪術儀礼の場で行なわれ、やがて民間に降下してきたことを跡づける。続いて、呪文の「悪夢着草木好夢滅珠玉」を話題にする。福島県の山都町史に悪夢を見た朝、北に向かい「悪夢ジャク、ソラムク、コウムジョウ」と三回唱えればよいという。前述の呪文を耳に聞いた形で伝えてきたものと思われる。この呪文が求菩提山修験の符呪集にあり、修験山伏がこの祈祷にかかわってきたことがわかる。同じ呪文が、陰陽道系の呪術を記した南北朝時代の『二中歴』にあり、ここでは人形に悪夢を付着させて水に流したり、焼却したりする作法が記されている。宮廷の陰陽道儀礼の中で、「悪夢は草木に着け」の呪文が唱えられてきたのであろう。平安時代の『簾中抄』や『口遊』では、桑の木に悪夢を語るとある。なぜ桑の木に悪夢を語るのが悪夢祓いになるのか。現行の民俗を見ていくと、奄美のクチタヴェ(呪文)に好い夢は残り悪い夢は草の葉に止まれというのがある。また、南天に夢を語り、揺するという例もある。南天は「難転」の語呂合せであり、さまざまな呪術儀礼に用いられるが、古くは桑が悪夢消滅の草木であった。桑は蚕の食物であり、悪夢を桑の葉に付着させ、蚕に食べてもらうことで悪夢を消滅させるというのがその原義にあったのではないか、というのが本稿の結論となる。"Kitaazumi-gun Kyodoshiko," gathering as much as 4,500 folk beliefs, is a collection of materials that pioneered the study of Japanese folk beliefs. In these materials, about 200 folk beliefs related to dreams are treated in the "oneiromancy" section. Among these folk beliefs, this article first analyzes the contents of the "omen of dream" and clarifies the general pattern of dreams as folk culture. Subsequently, it examines the contents of the "curse of dream" before and after having dreams and confirms how people treat dreams and react to them. Furthermore, it deals with three curse songs of the verse form and analyzes the contents and meanings based on nationwide examples. Finally, it exemplifies the involvement of professional magicians in circulating these curse songs and proves that the songs were performed at venues of magic rituals, before eventually spreading to common people.Subsequently, the article deals with the incantation of "akumu tsuku somoku-ni komu messu shugyoku-wo." According to the history of Yamato, Fukushima, when you awoke from a bad dream in the morning, you might want to face north and repeat "akumujaku, soramuku, komujo." three times. This seems to have been transmitted by ear from the incantation mentioned above, which appears in the collection of incantations for the Mt. Kubote mountaineering ascetics, suggesting that the mountaineering ascetics were involved in this prayer.The same incantation appears in "Nichureki" of the Nanboku-cho period, in which the incantations of the Yin- Yang school are described, and for the above incantation, how to attach a nightmare to a doll and let water carry it away or burn it is explained. The incantation of wishing "a nightmare attached to trees and plants" would have been chanted in the Yin-Yang rituals at the Imperial Court. "Renchusho" and "Kuchizusami" of the Heian period cite explaining a nightmare to a mulberry tree. Why would doing so result in the expulsion of a nightmare?Among existing folk customs, Amami has kuchitave incantation wishing a good dream stay and a bad dream attached to leaves of grass. There is also an example of explaining a dream to nanten nandina and shaking it. Because the Japanese word "nanten" also means "change of bad luck," it is used for various magic rituals. In ancient times, mulberry trees banished nightmares. People might have believed that because mulberries were eaten by silkworms, nightmares attached to mulberry leaves would also be eaten by silkworms and disappear. This is the conclusion of this article.
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.91, pp.763-790, 2001-03

これまでの民俗学において,〈在日朝鮮人〉についての調査研究が行なわれたことは皆無であった。この要因は,民俗学(日本民俗学)が,その研究対象を,少なくとも日本列島上をフィールドとする場合には〈日本国民〉〈日本人〉であるとして,その自明性を疑わなかったところにある。そして,その背景には,日本民俗学が,国民国家イデオロギーと密接な関係を持っていたという経緯が存在していると考えられる。しかし,近代国民国家形成と関わる日本民俗学のイデオロギー性が明らかにされ,また批判されている今日,民俗学がその対象を〈日本国民〉〈日本人〉に限定し,それ以外の,〈在日朝鮮人〉をはじめとするさまざまな人々を研究対象から除外する論理的な根拠は存在しない。本稿では,このことを前提とした上で,民俗学の立場から,〈在日朝鮮人〉の生活文化について,これまで他の学問分野においても扱われることの少なかった事象を中心に,民俗誌的記述を試みた。ここで検討した生活文化は,いずれも現代日本社会におけるピジン・クレオール文化として展開されてきたものであり,また〈在日朝鮮人〉が日本社会で生活してゆくための工夫が随所に凝らされたものとなっていた。この場合,その工夫とは,マイノリティにおける「生きていく方法」「生存の技法」といいうるものである。さらにまた,ここで記述した生活文化は,マジョリティとしての国民文化との関係性を有しながらも,それに完全に同化しているわけではなく,相対的な自律性をもって展開され,かつ日本列島上に確実に根をおろしたものとなっていた。本稿は,多文化主義による民俗学研究の必要性を,こうした具体的生活文化の記述を通して主張しようとしたものである。
著者
平 雅行
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.159-173, 2010-03

中世社会における呪術の問題を考える際、その議論には二つの方向性がある。第一は中世を呪術からの解放という視点で捉える見方であり、第二は中世社会が呪術を構造的に不可欠としたという考えである。前者の視角は、赤松俊秀・石井進氏らによって提起された。しかし、中世社会では呪詛が実体的暴力として機能しており、天皇や将軍の護持僧は莫大な財と膨大な労力をかけて呪詛防御の祈祷を行っていた。その点からすれば、中世では呪詛への恐怖が薄れたとする両氏の考えは成り立たたない。とはいえ、合理的精神が着実に発展している以上、顕密仏教と合理性との関係をどう捉えるかが問題の焦点となる。そこで本稿では『東山往来(とうさんおうらい)』という書物をとりあげ、①そこでの合理性や批判精神が内外の文献を博捜した上で答えを見出そうとする挙証主義によって担保されていたこと、②その挙証主義は顕密仏教における論義や文献学研究を母胎として育まれたことを明らかにした。さらに密教祈祷においても、①僧侶が医療技術を援用しながら治病祈祷を行っていたこと、②一宮で行われた豊作祈願の予祝儀礼も、農業技術の達成を踏まえたものであったことを指摘した。そして、高い合理性を取り込んだ呪術、呪術性を融着させた高度な合理主義が顕密仏教の特質であると論じた。そして、顕密仏教が中世の呪術体系の頂点に君臨できた要因として、①文献的裏づけの豊かさと質の高さ、②祈祷を行う僧侶の日常的な鍛錬、③呪詛を正当化する高度な理論の3点をあげた。最後に、合理性と呪術性の共存、呪術的合理性と合理的呪術性との混在は、顕密仏教だけの特質ではなく、程度の差こそあれ、現代社会をも貫く超歴史的なものと捉えるべきだと結論している。
著者
千田 嘉博
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.13-32, 2003-03

城郭プランは権力構造とどのように連関してできあがったのか。この問題を解くために、きわめて特徴的な城郭プランをもった南九州に焦点をあてて検討を行った。まず鹿児島県知覧城を事例に南九州の戦国期城郭の分立構造を把握した。そして城内に多数の武家屋敷が凝集し、それが近世の麓集落の直接の母胎になったことを確認した。ついで熊本県人吉城を事例に知覧城で確認した城郭構造ができあがった要因を検討した。この議論を進める上で重要なのは人吉城の城郭遺跡が完全な形で残されており、踏査を行うことで把握可能であったことである。そして『相良氏文書』や『八代日記』などの良好な史料を基盤として勝俣鎮夫と服部英雄が深めた戦国期相良氏の権力構造の問題を踏査成果とあわせることで再検討できたことである。この結果、人吉城の分立的な城郭プランは地形要因だけではなく、築城主体の権力構造の特色を反映してできたと結論づけた。そしてこうした築城主体の権力構造と城郭プランとの相関関係は日本列島の城郭・城下を遺跡に即して分析する都市空間研究を進める上で、重要な視座となることを指摘した。