著者
北條 勝貴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.7-39, 2008-12

古代日本における神社の源流は、古墳後期頃より列島の多くの地域で確認される。天空や地下、奥山や海の彼方に設定された他界との境界付近に、後の神社に直結するような祭祀遺構が見出され始めるのである。とくに、耕地を潤す水源で行われた湧水点祭祀は、地域の鎮守や産土社に姿を変えてゆく。五世紀後半~六世紀初においてこれらに生じる祭祀具の一般化は、ヤマト王権内部に何らかの神祭り関係機関が成立したことを示していよう。文献史学でいう欽明朝の祭官制成立だが、〈官制〉として完成していたかどうかはともかく、中臣氏や忌部氏といった祭祀氏族が編成され、中央と地方を繋ぐ一元的な祭祀のあり方、神話的世界観が構想されていったことは確かだろう。この際、中国や朝鮮の神観念、卜占・祭祀の方法が将来され、列島的神祇信仰の構築に大きな影響を与えたことは注意される。律令国家形成の画期である天武・持統朝には、飛鳥浄御原令の編纂に伴って、祈年祭班幣を典型とする律令制祭祀や、それらを管理・運営する神祇官が整備されてゆく。社殿を備えるいわゆる〈神社〉は、このとき、各地の祭祀スポットから王権と関係の深いものを中心に選び出し、官の幣帛を受けるための荘厳された空間―〈官社〉として構築したものである。したがって各神社は、必然的に、王権/在地の二重の祭祀構造を持つことになった。前者の青写真である大宝神祇令は、列島の伝統的祭祀を唐の祠令、新羅の祭祀制と対比させつつ作成されたが、その〈清浄化イデオロギー〉は後者の実態と少なからず乖離していた。平安期における律令制祭祀の変質、一部官社の衰滅、そして令制以前から存在したと考えられる多様な宗教スポットの展開は、かかる二重構造のジレンマに由来するところが大きい。奈良中期より本格化する神階制、名神大社などの社格の賜与は、両面の矛盾を解消する役割を期待されたものの、その溝を充分に埋めることはできなかった。なお、聖武朝の国家的仏教喧伝は新たな奉祀方法としての仏教を浮かび上がらせ、仏の力で神祇を活性化させる初期神仏習合が流行する。本地垂迹説によってその傾向はさらに強まるが、社殿の普及や神像の創出など、この仏教との相関性が神祇信仰の明確化を生じた点は無視できない。平安期に入ると、律令制祭祀の本質を示す祈年祭班幣は次第に途絶し、各社奉祀の統括は神祇官から国司の手に移行してゆく。国幣の開始を端緒とするこの傾向は、王朝国家の成立に伴う国司権力の肥大化のなかで加速、やがて総社や一宮の成立へと結びつく。一方、令制前より主な奉幣の対象であった畿内の諸社、平安京域やその周辺に位置する神社のなかには、十六社や二十二社と数えられて祈雨/止雨・祈年穀の対象となるもの、個別の奉幣祭祀(公祭)を成立させるものが出現する。式外社を含むこれらの枠組みは、平安期における国家と王権の関係、天皇家及び有力貴族の信仰のあり方を明確に反映しており、従来の官社制を半ば超越するものであった。以降、神社祭祀は内廷的なものと各国個別のものへ二極分化し、中世的神祇信仰へと繋がってゆくことになるのである。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.513-542, 2003-10

本論は信仰と宗教の関係論への一つの試みである。フランスのブルターニュ地方にはパルドン(pardon)祭りと呼ばれるキリスト教的色彩の強い伝統行事が伝えられている。それらの中には聖泉信仰や聖石信仰など多様な民俗信仰(croyances populaires)との結びつきをその特徴とするいくつかのタイプが存在するが,なかでもtantadと呼ばれる火を焚く行事を含むタイプが注目される。フィニステール北部に位置するSaint-Jean-du-Doigtのパルドン祭りはその典型例であるが,聖なる十字架がtantadの紅炎の中で焼かれる光景は衝撃的である。ブルターニュ各地のパルドン祭りにおけるtantadの火の由来を考える上で参考になるのは,夏至の夜の「サン・ジャンの火」(feu de la saint Jean)の習俗である。この両者の比較により,以下のことが明らかとなった。伝統的な習俗としては夏至の火の伝承が基盤的であり,そこにパルドン祭りという教会の儀礼が季節的にも重なってきて,パルドン祭りの中にtantadの火として位置づけられたものと考えられる。伝統的な「夏至の火」には,先祖の霊が暖まる,眼病を治す,病気や悪いことを焼却する,という信仰的な側面が確認されるが,それは火の有する暖熱,光明,焼却という3つの基本的属性に対応するものである。また,tantadの火を含まない諸事例をも含めての各地のパルドン祭りの調査分析の結果,明らかになったのは以下の点である。パルドン祭りの構成要素として不可欠なのは,シャペルの存在と聖人信仰(reliques信仰),そしてプロセシオン(procession)である。パルドン祭りはカトリックの教義にのみ基づく宗教行事ではなく,ブルターニュの伝統的な民俗信仰の存在を前提としながら,それらの諸要素を取り込みつつ,カトリック教会中心の宗教行事として構成され伝承されてきた。したがって,パルドン祭りの伝承の多様性の中にこそ伝統的な民俗信仰の主要な要素を抽出することができる。火をめぐる信仰もその一つであり,キリスト教カトリックの宗教行事が逆に伝統的な民俗信仰の保存伝承装置としての機能をも果してきているということができるのである。
著者
山辺 昌彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.61-72, 2003-03

この論考は、高橋峯次郎あて軍事郵便の分析の一環として、中国との戦争に参加した兵士が戦場で何をしたか、また戦争をどう考えていたかを、軍事郵便から明らかにすることが課題である。従来の高橋峯次郎あて軍事郵便の研究は、農民兵士の視点から戦場の中国農民の生活をどう見ていたかに重点が置かれていた。そのため日本の中国との戦争の遂行を担った兵士としての側面を明らかにすることが残されてきた。従来、軍事郵便は検閲のために真実を書けないと考えられてきたが、最近、軍事郵便から侵略戦争の加害の事実を明らかにする、静岡県浅羽町の軍事郵便を使った小池善之氏の研究がでている。この成果をより豊かにすることもこの論文の課題である。論文では、高橋徳松・千葉徳右衛門・菊池清右衛門・石川庄七・高橋千太郎・高橋徳兵衛・菊池八兵衛・加藤清逸の軍事郵便に書かれた戦場の様子を紹介している。戦闘の様子では、日本兵が女性・子供を含む中国住民や捕虜・敗残兵を殺し、住民の家を焼き、その財産を略奪していることが見られる。一方で蔑視していた中国軍が住民との結びつきを強め、強固に抵抗していることも見られる。また、日本軍の攻撃・爆撃により廃嘘になり死体が放置されている都市の様子、日本軍が軍事力で占領地支配を維持しており、日本軍のいいなりになる政権をつくり、植民地と同様に日本化している様子も見られる。さらに毒ガス戦の準備の様子を見られる。このように、農民兵士の軍事郵便からも、日本の中国への戦争が侵略戦争であり、それが中国の人びとに多大な災難、損害と苦痛を与えており、戦争犯罪もあったことがわかる。農民兵士は日本軍の戦争を正当化するイデオロギーを疑うことなく受け入れており、中国兵の殺戮などを面白がっており、中国人を悲惨と思い、日本人に生まれたことを喜び、戦争に負けてはいけないという考えを持っていることも、軍事郵便から読み取れる。
著者
横山 泰子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.43-55, 2012-03

江戸時代に日本で作られた手品の解説本の中には、手品のみならずまじないの情報が掲載されている。こうした記事は手品史の観点からはあまり注目されないが、奇術と呪術が渾然一体となっていた当時の人々の感覚を知るうえで面白い研究対象といえる。本論では、中国の『神仙戯術』の翻訳からはじまる近世日本の手品本を概観し、その中に記されたまじないを取り上げた。初期の『神仙戯術』や『続神仙戯術』は、手品をはじめ、呪術や生活術などを集めている。もともと中国でも、種や仕掛けを用いて不思議な現象を見せる娯楽としての手品と、まじない等の情報が混在していた。日本の手品観は、中国の手品観の影響を受けていると思われる。また、中国の呪術と似たものが日本の本にも見られるので、文献を通じて中国のまじないが日本人の日常生活の中に浸透していったと考えられる。ただし、まじないの方法には日中で異動がある。外国の呪術は、日本の生活環境にあうよう、改変されて伝えられたのだろう。本来まじないは口頭で秘密裏に伝えられるものだったと考えられるが、江戸時代においては生活上の実用的な知識として本に記されて流布した。奇しくも、まじない本や手品本、占い本等のいわゆる「秘術」を公開する文献は、十七世紀後期に刊行されはじめる。この時期を日本における秘術公開時代の幕開けと考えてみたい。手品本のまじないは、先行の呪術系の書物に類似するものが見られる。専門書の中のまじないの情報が、手品本の中に流入していったものと思う。手品本に記されたまじないには、呪歌を伴うものや、書記行為を伴うものがある。近世日本では、十七世紀から民衆の識字率が向上したが、そうした社会的背景が、手品本の存在や字を書くまじないのあり方と関係している。行為者の能力や資質にあわせて、様々なまじないができるようになっているところに、江戸時代のまじない文化の大衆性を感じる。一部非公開情報あり
著者
浜島 正士
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p219-247, 1993-02

中国の福建省地方は、中世初頭の東大寺再建に際して取り入れられ、以後の日本建築に大きな影響を与えた大仏様ときわめて関係が深い地域とされている。その福建省に残る十世紀から十七世紀にかけて建立された古塔について、構造形式、様式手法を通観し、その時代的変遷を考察するとともに、十二世紀以前の仏堂遺構も加えて大仏様との関連を探ってみる。Fuchien Province in China is considered to have very deep connections with the Daibustu-yo style of architecture which was introduced to Japan on the occasion of the reconstruction of Tōdaiji Temple in the early Middle Ages, and which exerted a strong influence on Japanese architecture thereafter. The author looks through the structural types and styling techniques of ancient Pagoda erected from the 10th to 17th centuries and still remaining in Fuchien Province. He also looks into their relationship with the Daibustu-yo together with other Buddhist structures remaining from the 12th century or earlier.
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p13-40, 1989-03

It has often been pointed out that YANAGITA Kunio sympathized with Japanese women. It is said that he attached much importance to the role Japanese women had played in the history of Japanese society and that he attempted to estimate it positively by investigating varied facets of their activities within the local folklore. Believing that women's own history should be elucidated by women researchers themselves, Yanagita held many study meetings only with women, furthermore, he spared no effort for them to organize their own study groups or to publish their own periodicals. Most women folklorists hold him in high regard and are thankful to him. But it shuld be noticed here that they have acceded to his points of view the role in the folk society of Japan, without even daring to criticize or to review his viewpoints. But are not there many problems in Yanagita's understanding of the role and situation of women throughout the folk history? This paper attempts to review the place he gave to women in his individual studies and to clarify the limits of his perception of women's role.It is a fact that YANAGITA Kunio appraised the role of Japanese women from diverse standpoints. But, on the one hand, in the case of women in a settled agricultural society, their role as assumed by him is limited to that of supplementary members in the male-oriented Japanese society. The women as seen by him did not act independently, but rather as supporters of men being always beside or behind them. From this standpoint he emphasized the role of women as a working force. On the other hand, in the case of itinerant women, he stressed that they were bearers of faith and culture. His achievements are great in that he highlighted the raison d'être of these women which had long been forgotten or neglected, and the social structure in which they appeared. What is most important is that Yanagita treated them as suppoters of a settled society where they are supposed to have played predetermined roles. In this regard, their situation is no different from that of women living in a settled agricultural family, in that they hold a subordinate existence in the society. In conclusion, we can only say that Yanagita's understanding of women was narrowly limited.
著者
橋本 政亘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.289-329, 2008-12

江戸幕府により寛文五年(一六六五)七月十一日付で出された「神社条目」により、卜部吉田家はこれをテコに諸国の神社・神職を支配下におくべく、神道裁許状の交付、官位の執奏等を通してその推進をはかった。そしてその根拠としたのが、第三条および第二条であった。しかし第二条の条文には吉田家が格別の位置にあることが記されてはいなかったことからくる限界もあった。そこで、吉田家では、諸社家の官位執奏権を公認されるよう寛文八年十月出願するにより、幕府は京都所司代をして朝廷の評議を要める。かくて時の関白鷹司房輔と吉田家に肩入れする武家伝奏飛鳥井雅章との問で激しい論争が展開されることになるが、朝廷内の意見は一致をみないまま、翌々年八月幕府の裁許に委ねられることになる。そしてそれより四年後の延宝二年(一六七四)に至り幕府の結論が出される。「寛文九年吉田執奏一件争論」といわれるものがこれであり、幕府は儒者林春齋(弘文院)にこの一件に関する勘文を上呈させ、『吉田勘文』として纏められている。本稿は、『吉田勘文』を具体的に検討し、執奏一件争論の実態を明らかにすることを通し、吉田家の諸社家官位執奏運動の方針、朝廷や幕府の対応の在り方を明らかにし、「神社条目」の理念について改めて考察するものである。この一件につき、京都所司代を以て幕府の裁許が示されたのであるが、これは吉田家の望みが全くは否定されたものではなく、幕府の方針の転換であったともいえる。一方、吉田家でも諸社家の官位執奏問題はその後も主張を継続していき、幕府もその対応を微妙に変えていく。最後に、幕末までの大きな流れに基軸をすえ見ておいた。
著者
服部 英雄 楠瀬 慶太
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.277-297, 2010-03

1部(航海技術と民衆知)ではまず中世の文献資料を手がかりに航海技術を考えた。はじめに宣教師アルメイダ修道士の報告(1563年11月17日付書簡)に「日本人は夜間航海しない」とあることの意味を考えてみた。これは通常、夜間には労働をしないということと同等の意味にすぎないが、船を操る人は夜を避けた。特殊には、必要があれば夜間も航海する。ただし危険を伴った。つぎに治承四年『高倉院厳島御幸記』を検討した。貴族の場合、夜間航海はしない。夜間航海は危険があった。航海技術は潮の流れを見極め、時間調整をする。しかし毎日かならず朝に船出すれば、時間的に逆潮になることもある。その場合は沿岸流(反流)や微弱流・部分流にのって、人による漕力を駆使した。『大和田重清日記』でも、夜間航行は避けられている。『言継卿記』にみる伊勢湾航海は原則として潮に乗って、短時間に横断するが、潮の速さのみでは日記に記載された時間内に到着することは不可能だったから、風力と人力を必要とした。湾内南北通行の場合は、航海が長時間に及ぶため、潮が順である時間帯内に通過することは不可能であった。逆潮の航海も強いられている。1部後半及び2部では現地で聞き取った潮流と海の地名について具体的に(1)浜・磯(2)岬(3)山(4)瀬のそれぞれについて、長崎県平戸島春日・福岡県糸島半島の事例を報告した。瀬のようにつねに海中にあって、地図にも掲載されず、文字化されない地名がある(一部は海図に記載)。そうした海の地名は操業・山見・枡網(定置網)などの漁業に必要なものばかりで、民衆知(漁業技術)と一体化している。しかしじっさいには他人には容易には教えない個人知も一部にあって、共有されないものも含まれている。
著者
篠原 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.235-246, 2012-03

本論文は日本の俗信とことわざおよび俳諧のなかに現れる他種多様な動物や植物の表現について、俗信とことわざおよび俳諧の相互の関係性を論じたものである。こうした文芸的世界が華開いたのは、庶民にあっては「歩く世界」と「記憶する世界」が経験的知識の基本であった日本の近世社会の後半であった。俗信やことわざおよび俳諧は、近世社会のなかで徐々に発展していったと思われる。農民や漁民の生業や生活のなかでの自然観察の経験的知識は、記憶装置である一行知識として蓄積され人びとに共有されていった。この経験的知識の記憶装置である一行知識は、汽車や飛行機などの動力に頼る世界ではなく「歩く世界」を背景にした繊細な自然観察に基づいている。同時に一行知識は、そうした観察に基づく経験的知識を、活字化し書籍として可視化する世界とはまだほど遠く、記憶しやすい定型化した文字数に埋め込んだものである。経験知としての一行知識は、大きくは動植物に関する観察による領域と人間に関する観察による領域の二つに分けられる。この経験知は基本的には生活や生業におけるものごとに対する対処の方法なのであるが、経験知は感性的な側面と生活の知恵の側面と生活の規範の側面の三つの方向にそれぞれ特徴的な定型化の道を歩んだのではないか。感性的な側面は、季節のうつろいと人生のうつろいを重ね合わせる俳諧的世界を創造していく。生活の知恵の側面は、自然暦や動植物の俗信を発展させていく。生活の規範の側面は、人の生き方や社会のなかでの個のありようを示すことわざの世界を豊饒にしていく。俗信やことわざそして俳諧の世界に通底しているのは「歩く世界」と「記憶する世界」で醸成された一行知識であり、それを通じて三つの領域は親和性をもっているといえる。
著者
佐野 静代
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.141-163, 2011-01

エリとは,湖沼河川の浅い水域に設けられる定置性の陥穽漁法であり,全長1㎞にも及ぶ大型かつ精巧なエリは,琵琶湖にしかみられないものとされてきた。本研究では,近世・近代史料の分析から琵琶湖のエリの発達史に関する従来の説を再検討し,エリが琵琶湖でのみ高度な発達を遂げた要因について,地形・生態学的条件から分析した。原初のエリは,ヨシ帯の中に立てられる単純な仕組みのものであったが,中世には湖中へ張り出す湖エリタイプがすでに存在していたと推測される。また近世の絵図や文書の分析の結果,17世紀までの湖エリはツボ部分のみを連結した屈曲型の構造であったのに対して,18世紀後半には今日に近い「岸から一直線に伸びる道簀」+「大型の傘」を備えた形態へと転換がはかられていることがわかった。琵琶湖のエリは,江戸後期に大きく姿を変えていることが明らかである。さらにエリの「傘」内部の漁捕装置の発達については,「迷入装置(ナグチ)の複雑化」と「捕魚部(ツボ)の増設」という二つの方向性があり,その発展段階としてはそれぞれ5段階,4段階があること,そして天保期には「カエシ」のエリという大型エリの技術段階に到達していたことがわかった。この天保期における「カエシ」の技術の成立には,琵琶湖の水位低下という人為的な環境変化が関わっていた可能性が推測された。エリが琵琶湖のうち特に「南湖」において発達した要因としては,湖底の地形条件に加えて,漁獲対象となる琵琶湖水系の固有種の生態学的条件があげられる。なかでもニゴロブナの南湖への産卵回遊が,野洲郡木浜村の「エリの親郷」としての位置づけに深く関わっていることが明らかになった。一部非公開情報あり
著者
小林 忠雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.50, pp.p343-370, 1993-02

日本人の色彩感覚に基づく文化および制度や技術の歴史に関して,これまで多くの研究が行われてきたが,本稿では主として日本の民俗文化において表徴される色彩に焦点をあて,その民俗社会の心意的機能,あるいは庶民の色彩認識についてのアプローチを試みたものである。特に都市社会において顕著な人為的色彩は,日本の各都市において様々な諸相をみせ,ここでは伝統都市として金沢,松江,熊本の各城下町を対象に,近世からの民俗的な色彩表徴の事例を現地調査および文献を参照しながら考察し,その特徴を引き出してみた。その結果,白色をベースにした表徴機能,赤色,赤と青色,藍色,紫色,黒色,五彩色といった色調の民俗文化に都市的要素を加味した展開のあることが見出された。金沢と熊本の場合は民俗事例と藩政期からの伝承により,松江はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『日本瞥見記』の著作を通して,明治初年の事例とハーンの見た印象をてがかりに探ってみたものである。また,都市がなぜ民俗的な色彩表徴の機能を前提としているかについての疑問から,建築物,あるいは染色,郷土玩具といった対象によって,多少,問題アプローチへの入口を見出し得たと思われる。都市は日本の社会構造の変革をもっとも端的に表出する場であるため,モニュメント,ランドマーク,メディアの変化など外側の表徴だけでも,その変容の速度は著しく,従って色彩の記号化も激しく変化するが,しかしそうであっても日本人の基本的な色彩の認識は変わっていないという前提にて,都市のシンボルカラーを捉えねばならないと考える。それはまったく日本の民俗文化の枠を越えてはいないからであろう。
著者
佐藤 孝雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.48, pp.p107-134, 1993-03

アイヌ文化の「クマ送り」について系統を論じる時,考古学ではこれまで,オホーツク文化期のヒグマ儀礼との関係のみが重視される傾向にあった。なぜならば,「アイヌ文化期」と直接的な連続性をもつ擦文文化期には,従来,ヒグマ儀礼の存在を明確に示し,かつその内容を検討するに足る資料が得られていなかったからである。ところが,最近,知床半島南岸の羅臼町オタフク岩洞窟において,擦文文化終末期におけるヒグマ儀礼の存在を明確に裏付ける資料が出土した。本稿では,まずこの資料を観察・分析することにより,当洞窟を利用した擦文文化の人々がヒグマ儀礼を行うに際し慣習としていたと考えられる6つの行為を指摘し,次いで,各行為について,オホーツク文化の考古学的事例とアイヌの民俗事例に照らして順次検討を行った。その結果,指摘し得た諸行為は,オホーツク文化のヒグマ儀礼よりも,むしろ北海道アイヌの「クマ送り」,特に狩猟先で行う「狩猟グマ送り」に共通するものであることが明らかとなった。このことは,擦文文化のヒグマ儀礼が,系統上,オホーツク文化のヒグマ儀礼に比べ,アイヌの「クマ送り」により近い関係にあったことを示唆する。発生に際し,オホーツク文化のヒグマ儀礼からいくらかの影響を受けたにせよ,今日民族誌に知られる北海道アイヌの「クマ送り」は,あくまでも北海道在地文化の担い手である擦文文化の人々によってその基本形態が形成されたと考えるべきである。Discussing the tradition of "Iwomante" (the Bear Ritual in Ainu Culture), archaeologists have attracted much attention to the brown bear ritual of Okhotsk Culture than that of Satsumon Culture which was directly prior to Ainu Culture in Hokkaidō. This was affected by the fact that there was poor evidence of the brown bear ritual in Satsumon Culture, which restricted the comparison of cultural continuity on the ritual between the Ainu and Satsumon Culture. Recent Archaeological research of Otafuku-iwa Cave in Rausu, Hokkaidō, however, cleared existence of the brown bear ritual in Satumon Culture. And zoo-archaeological analysis of the findings enabled to compare the brown bear ritual with "Iwomante" of the Ainu.In this paper, firstly, I pointed out six features of acts included in the ritual were reconstructed from the excavated faunal remains. Then I compare each of these with archaeological evidence of Okhotsk Culture and ethnographical evidence of the Ainu. As a result, it becomes clear that these acts are much closer not to the brown bear ritual of Okhotsk Culture but to the Ainu in Hokkaidō.It is conceivable that brown bear ritual of Okhotsk Culture gave some influence to the formation of "Iwomante" of the Ainu, but the major body of "Iwomante" which was ethnographically known has been organized by Satsumon people, the natives of the land of Hokkaidō.
著者
篠原 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p41-60, 1989-03

Conventionally the natural and spiritual features of region (we call it "Fûdo" ) have seldom been discussed positively in our folklore. This is partly because the word "Fûdo" , which means natural and spiritual features, is much ambiguous in Japanese and that equivocal use of this word has been left to take its course both in its intensive and extensive sense. A number of people admit however that the "Fûdo" implies a sort of regional sense, sensitivity or inclination which cannot be expressed by any other wording.The "Fûdo" should therefore be regrasped in the general framework of people's recognition process of Nature, not as an object of natural science. Though this recognition was once applied in the basic theory of WATSUJI Tetsuro on which he discussed the "Fûdo" as his subject matter, his discussion developed only into his personal speculation, not into the process of people's recognition of the natural and spiritual features of regions.The "Fûdo" if it is to be defined in its intensive meaning, may be grasped as an image that can evoke a "subjectivization" of the environments which surround humans. From the standpoint of the subjectivization of environments this approach can be identified with that idea of KANI Toukichi according to which he attempted to classify the river from the point of view of the insects living therein in his ecological study.YANAGITA Kunio made no positive proposition on the problem of Fûdo. His final objective in his folkloristic works was to abstract the regional mind. He finally spellbound this mind contending that it can be understood only by persons from same regions. This paper attempted to prove that the mind is an intensive reality of the Fûdo. In the same line of understanding, such folklorists after YANAGITA as CHIBA Tokuji and TSUBOI Hirofumi, who were much interested in the problem of Fûdo, tried to break that spell.By way of abstracting an interrelation of vocabulary produced in some regions by an association, we can predict an existence of an association system such as "Saijiki" (a collection of haiku divided into four seasons), which is based on an emic image association. These predictions have been described in this paper taking up some material examples, which must be an effective approach to comprehend regional sense and sensitivity. Because the spatial range of the Fûdo is much elastic, it is not productive to understand it within the geographical framework only. The author thus proposes to rediscover our Fûdo in a folklore specialized in a study of regional sensitivity.
著者
久保 純子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.81, pp.101-113, 1999-03

東京低地における歴史時代の地形や水域の変遷を,平野の微地形を手がかりとした面的アプローチにより復元するとともに,これらの環境変化と人類の活動とのかかわりを考察した。本研究では東京低地の微地形分布図を作成し,これをべースに,旧版地形図,歴史資料などから近世の人工改変(海岸部の干拓・埋立,河川の改変,湿地帯の開発など)がすすむ前の中世頃の地形を復元した。中世の東京低地は,東部に利根川デルタが広がる一方,中部には奥東京湾の名残が残り,おそらく広大な干潟をともなっていたのであろう。さらに,歴史・考古資料を利用して古代の海岸線の位置を推定した結果,古代の海岸線については,東部では「万葉集」に詠われた「真間の浦」ラグーンや市川砂州,西部は浅草砂州付近に推定されるが,中央部では微地形や遺跡の分布が貧弱なため,中世よりさらに内陸まで海が入っていたものと思われた。以上にもとづき,1)古墳~奈良時代,2)中世,3)江戸時代後期,4)明治時代以降各時期の水域・地形変化の復元をおこなった。
著者
小谷 真吾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.293-319, 2004-03

本研究では,家族内の子供のジェンダーについて,パプアニューギニアにおける女児の高死亡率に関する事例研究を行なうことによって,特に兄弟姉妹関係に焦点を当てながらその動態を追求する。現在,近代家族の構築性についての認識は近年の社会科学において広く共有され始めているが,家族内のジェンダーに関する分析において,多様な社会形態における子供のジェンダーに関する研究は,そこに多くの問題群が存在するにも関わらず,ほとんど行なわれてこなかった。その子供のジェンダーが関わっている問題の一つとして,低年齢層における「女児死亡」の問題がある。この問題は,男児選好についての研究をテーマとして追求されてきているが,社会の構築性及び多様性に対する視点が欠落している。筆者は,1998年11月から1999年11月までの約1年間,パプアニューギニア高地辺縁部に居住するカルリと呼ばれる言語集団において各種の調査を行ない,当該地域において「女児死亡」の問題が存在していることを明らかにし,その人口学的動態を分析した。その上で,参与観察に基づいた分析を行なうことによって,「女児死亡」は,親による差別によって起こるのではなく,「姉」が「弟」の世話をするという,当該地域に特有の兄弟姉妹関係によって起こっている可能性が高いことを示した。そしてその構築性について,親が多く死亡しているという人口構造が,兄弟姉妹を軸とする社会構造の背景となり,その結果「姉」の主体的な意思決定が導かれるという動態を明らかにした。本研究の結果に基づけば,親子関係のみに着目して「女児死亡」の問題,ひいては家族内のジェンダーを論じることは,問題を正しく理解できないだけではなく,解決の方法を探る上での障害になりかねないと考えられるのである。In this paper, I investigate the dynamics of the gender of children within the family, focusing on sibling relationship by analysis of the high mortality rate of female children in Papua New Guinea. Presently, while awareness of the constructiveness of the modern family has been shared among social sciences, the gender of children within the family construction in diverse social condition is seldom studied, in spite of a lot of relative problems. High mortality rate of female children is one of the relative problems. While this problem has been analyzed in biomedical paradigm focusing on parents "son preference", such focus overlooks the constructiveness of family or gender. I undertook various kinds of surveys in Kaluli, one of the language groups living in Highlands Fringe of Papua New Guinea, from November 1998 to November 1999. At first, by analysis of the dynamics of demographic feature, I found the high mortality rate of female children. Secondly, by participant observation, mechanism of the high mortality is revealed, in which a unique sibling relationship in this population, that "elder sister" must take care of "younger brother", will cause death of the "sister". Thirdly, I clarify the dynamics of the constructiveness, in which the social construction based on the sibling relationship constructed by the demographic condition that lacks of "parents" generation leads the autonomous decision making of the "sister". The results of this study object former studies, that discuss high mortality of female children or gender relationship within family focusing merely on the relationship between parents and children. Such studies are not able to understand the problems and obstruct the resolution of problems.
著者
山本 隆志
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.83-105, 2010-03

荘園・村落に居住する百姓の生活は田畠耕作を基本としたが、それだけでない。地域の自然を自然に近い状態で利用し、生活の糧としてきた。このような地域的自然の利用・用益を「生業」と概念化し、そのあり方を歴史的にとらえようとすると、「中世史」という時代区分のなかだけで問題をとらえることは難しい。本稿では、葦と菱を事例にして、平安時代から江戸時代前期の史料に基づいて考察するものである。難波浦では浦の用益の一つとして葦苅取が平安期から盛んであり、都の需要と結びついて増大したが、個別の荘園や村落の排他的独占地域は設定されなかった。琵琶湖周辺では鎌倉期からの用益が認められるが、南北朝期には荘園領域に編入されており、奥嶋庄では百姓等が庄官と対抗しつつ自己の独占的排他的葦場を設定する。これが戦国期になると村の排他的葦場を確保する動きが多くなり、当該地域の舟運・漁業などの多様な用益を否定することになるが、多様的用益を求める郷・村の動きも強く、相論が恒常的となり、調停も日常的となり、場合によっては領主権力に依存することとなった。菱の用益も奈良・平安期から見られるが、平安後期の武蔵大里郡のように水害地に在地側が意図的に栽培することも見られ、農民の救荒的食料として期待された。戦国~江戸期には、尾張や摂津の湿地帯では、菱栽培が都市需要を見込んだ商品的作物として栽培された例が見られるが、菱を独占的排他的に栽培する菱場を設定するにはいたらなかった。葦・菱ともに浦や湖辺の湿地に用益が見られるが、それは湿地の多様な用益の一つとして進展するのであり、葦場として特化した用益地の設定には在地での抵抗が起こり、葦場は設定されても、限定的な方向が在地の相論・調停のなかで展開する。湿地用益は、特定の用益目的に限定される傾向にも向かうことは少なく、多様な主体と用益形態が展開しており、そうした方向が在地での相論・調停のなかで維持されてきた、と考えられる。「湿田」もこのような多様な用益形態の一つであろう。
著者
岩井 宏実
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.36, pp.p333-352, 1991-11

曲物は,刳物・挽物・指物(組物)・結物などとともに木製容器の一種類であるが,その用途はきわめて広く,衣・食・住から生業・運搬はもちろんのこと,人生儀礼から信仰生活にまでおよび,生活全般にわたって多用されてきた。そして,円形曲物・楕円形曲物は,飛鳥・藤原の時代にすでに大小さまざまのものが多く用いられ,奈良時代には方形・長方形のものがあらわれ,古代において広くその使用例を見ることができる。今日広く普及している桶・樽などの結物は,鎌倉時代後期から室町時代初期にその姿を見せるが,実際に庶民の日常生活に広く用いられるようになったのは,近世になってからである。したがって,それ以前は桶といえばすべて曲物であった。こうした曲物は神事・仏事にも多く用いられており,神具でいえば御樋代・奉納鏡筥・火桶・忌桶・三方・折敷・折櫃・行器その他さまざまな形状の神饌容器がある。また仏具では経筒内容器・布薩盥・閼伽桶・浄菜盆あるいは各種仏具容器として用いられている。神事や仏事は古風を尊び,できるだけ原初の姿を伝承しようとする風があるゆえ,それに用いる神具・祭具や仏具も古い用法や形状を伝えているものが多い。そこでそうした現行顕在曲物を検討していくとともに,出土遺物や文献資料あるいは絵巻物などの絵画資料をあわせて考察すると,曲物の様式的変遷も明らかになってくる。その結果,曲物のはじめは底板が固定されたものではなく,平らな板の上に側板を載せただけのもので,つぎに底板を側板の口径より大きく切り,随所に孔をあけて紐や樹皮で側板を底板に綴じつけたものになり,さらに底板に側の内径にあたる部分を厚くし,側板の接する部分から外側を薄くし,底板に側板がよく納まるようにしたカキイレゾコに似た仕様のものへとかわり,そこから漸次進歩して今日見るかたちになる過程を知ることができる。The round chip vessel is a type of wooden receptacle, together with the hollowed vessel, turned vessel, sectional vessel, tied vessel, and so on. Its wide range of applications extends from clothing, food, housing, industry, and transportation, to ceremonies in daily life and religious life; in other words, it has been widely used in all aspects of human life. Various sizes of round or oval chip receptacles were used as early as the Asuka and Fujiwara periods. In the Nara period, square or rectangular receptacles appeared. Thus, there are many examples of its usage in the Ancient times.Tied vessels such as pails or barrels, which are wide-spread today, appeared from the later Kamakura to the early Muromachi periods; but it was in the Early Modern period that they actually became widely used in the everyday life of the common people. Therefore, pails before the Early Modern Period can all be considered as round chip vessels.These round chip vessels were much used in Shinto and Buddhist ceremonies as well. Shinto ritualistic implements include Mihishiro, Honō Kagami Bako (mirror boxes), Hioke (fire pails), Imioke, Sanbō (offeratory stands), Oshiki (plates), Oribitsu (boxes), Hokai, and other various types of receptacles for food and wine offered to the gods. Buddhist ritualistic implements include Kyōzutsunaiyōki (cylindrical cases for sutras), Fusatsu Tarai Akaoke (water pails), Jyōsaibov (trays for vegetables), and other various cases for Buddhist implements. Since there is a tendency in Shinto or Buddhist rites to respect the ancient manner and to hand down the original styles, many of the Shinto or Buddhist implements used for these rites retain their ancient usages and shapes.Therefore, while studying the existing round chip receptables, excavated articles and materials seen in philological documents or picture scrolls were investigated to clarify the stylistic transition of round chip receptables, as a result of which, the following process came to light. 1) At first, the bottom board was not fixed, but the side board was put on a flat bottom board. 2) Then, the bottom board was cut larger than the side board, and holes were pierced at appropriate positions for stitching the side board together with the bottom board, using a cord or bark string. 3) The bottom board was made thicker in the part where it touched the inner diameter of the side board, and the outside of the side board was thinned starting from where it touched the bottom board, so that the bottom board would fit well to the side board. This is similar to the specification for Kakiirezoko. 4) Finally, the round chip receptables were improved into the form we see today.