著者
東 潮
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.31-54, 2004-02

『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」,同倭人条の「南北市糴」の記事について,対馬・壱岐の倭人は,コメを売買し,鉄を市(取)っていたと解釈した。斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で,5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで,倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によってえていた。鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から,それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものであった。5世紀末ごろ倭に移転されたとみられる製鉄技術は,慶尚北道慶州隍城洞や忠清北道鎮川石帳里製鉄遺跡の発掘によってあきらかとなった。その関連で,大阪府大県遺跡の年代,フイゴ羽口の形態,鉄滓の出土量などを再検討すべきことを提唱した。鋳造斧形品は農具(鍬・耒)で,形態の比較から,列島内のものは洛東江下流域から供給されたと推定した。倭と加耶の間において,鉄(鉄鋌)は交易という経済的な関係によって流通した。広開土王碑文などの検討もふまえ,加耶と倭をめぐる歴史環境のなかで,支配,侵略,戦争といった政治的交通関係はなかった。鉄をめぐる掠奪史観というべき論を批判した。Records describing activities in Pyonjin and the people of Wa contained in the Chinese History of the Three Kingdoms have been interpreted as meaning that the people of Wa living on Tsushima and Iki traded rice and acquired iron. These iron materials were iron plates shaped like adzes and iron ingods, and were obtained through international trading between Wa and Pyonjin and Kaya until the end of the 5th century when iron production began in the Japanese Archipelago. The dating of these iron materials and cast adzes and opinions as to their distribution have determined that they came to Wa from various Kaya states in the Nakdonggang River valley and Bokan (慕韓) in the Yeongsan-gang River valley. It is conceivable that the iron manufacturing techniques that were introduced to Wa were the same as those confirmed by the Gyeongju Fangseong-dong and the Jincheon-gun Sokjiang (石帳里) remains. It is in this connection that there have been calls for a re-investigation of the age of the style of twyer used in bellows, the amount of iron slag excavated, and materials from the Oagata remains in present-day Osaka Prefecture. The cast iron implements shaped like adzes are agricultural implements (scythe, hoe) , and a comparison of their forms has prompted the conjecture that those found in the Japanese Archipelago were supplied from the Nakdong-gang River valley. The distribution of iron, especially iron materials between Kaya and Wa, occurred as part of an economic relationship that involved trade. A study of other sources of information such as inscriptions at the monument to King Koukaidoou also show that the historical environment in which Kaya and Wa were in contact with each other was not a political relationship involving control, invasion and war. Instead, this paper criticizes the theory that takes the view that this relationship was one of pillage and plunder.
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.3-29, 2004-02

古墳時代の倭と加耶の交流を語る上でもっとも重要な問題の一つである鉄が,弥生時代の両地域間においても重要であったことは,この地が倭で用いられる鉄資源の供給地であったことからも明らかである。本稿は,鉄を媒介とした交流を考えるうえで弥生時代にさかのぼる重要な四つの問題を取り上げた。まず弥生時代の鉄器の原料であった鉄素材にはどのようなものがあったのかという,鉄素材の種類の問題。第2に鉄素材はどのようにして弥生社会にもたらされたのかという舶載・国産の問題。第3に鉄素材を加工し鉄器を作った施設,すなわち鍛冶炉の問題。第4に鉄器製作技術である。現在,弥生時代の鉄素材にはいくつかの種類があり,鉄素材ごとに由来,処理する鍛冶炉の構造,鉄器製作工程が異なることが明らかにされている。なかでもとくに注目されるのが,後期以降の西日本で類例が増えている板状鉄製品である。その化学成分から,韓半島東南部で作られた可能性が指摘されている板状鉄製品は,のちの加耶地域の鉄素材の前身となりうるものとして注目される。以前より論争のある板状鉄斧鉄素材説をめぐる議論が膠着状態におちいるなかで,これらと板状鉄素材との関係について検討した結果,興味深い事実が判明した。
著者
大澤 正己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.89-122, 2004-02

列島内の縄文時代晩期から弥生時代へかけての初期鉄文化は,中国東北部方面で生産された可能性の高い高温還元間接製鋼法にもとづく可鍛鋳鉄,鋳鉄脱炭鋼,炒鋼の各製品の導入から始まる。また,遺存度の悪い低温還元直接製鋼法の塊錬鉄も希れには発見されるが,点数は少ないのと銹化のためか,その検出度は至って低い。一方,弥生時代の鍛冶技術は,まだ稚拙であって原始鍛冶とも呼ぶべき状況にある。ます廃鉄器(鋳造鉄斧脱炭品破片)の砥石研磨再生から始まり,次に棒(条材),板の半製品を原料とした鏨切り,火炙り成形,砥石研磨による鉄器製作である。鍛冶素材の産地は,弥生時代後期前半頃までは中国側,後期中頃以降は,鉄生産の開始された朝鮮半島側に依存した形跡を残す。本格鍛冶となる羽口使用で,沸し,素延べ,火造りといった工程の開始は古墳時代の前期頃で,鉄鉱石・砂鉄原料の製錬開始は古墳時代中期以降まで待たねばならぬ。朝鮮半島側の製錬の開始は定かでないが,焙焼磁鉄鉱を原料とした石帳里遺跡のA・B区で3~5世紀の操業があり,更に遡るのは確実であろう。これに後続する遺跡として沙村製鉄遺跡が調査された。いずれも円形炉で,列島内の古墳時代後期に属する遺構が広島,岡山の両県でも検出されている。但し,列島内では大口径羽口(送風管)を伴わないので同系とみなすには議論の分かれる事となろう。列島内の円形炉は,砂鉄と鉱石の2通りの原料使用があり,焙焼技術は受継がれている。In Japan the early iron culture from the final phase of the Jomon period to the Yayoi period began at the introduction of iron products of malleable cast iron, iron casting decarbonized steel, and paddling steel with the method of high-temperature reduction which was most likely be adopted in the northeast region of China. Moreover, sponge iron with the method of low-temperature reduction has seldom been found because of hardly been survived; a few specimens and corroded condition cause that they have been found in a very small percentage.On the other hand, the technology of forge of the Yayoi period is still confined in the undeveloped stage and also in the environment which is called a primitive forge. Firstly, the used iron wares (fragments of the decarbonized-casting iron axes) were reused by polishing them with whetstone, and secondly, as the half-finished goods of a stick and a board as raw materials were proceeded to produce iron wares by cutting, taking fabrication of heat, and at the end polishing with whetstone. Raw materials for forge depend on China until the middle of the Late Yayoi period, but after the middle of the Late Yayoi period there is evidence that they depend on the Korean Peninsula where iron production already started.Adopting the funnel which serves as a full-scale forge; pounding, shaping, and refining, these procedures began around the first half of the Kofun period, and the beginning of refinement of iron ore and iron sand should wait until the middle of Kofun period. It is not certain when the refinement adopted in the Korean Peninsula began, however, there are some evidences that heated magnetites as raw materials were used in the A and B areas of Sǒkjang-ri Site in the 3th through 5th century, and it is sure that the date will be much earlier. As the successive site, Sachon Iron Mill Site has been excavated; the remains of furnace are round in plan, and this type has been discovered in Hiroshima and Okayama prefectures, which is belonging to the Late Kofun period. However, any large funnels in diameter have not been unearthed in Japan, therefore, there are some arguments whether or not two specimens are similar in type. As to the round furnace in Japan, iron sand and iron ore were adopted simultaneously for raw materials, and adopting the heating method have been inherited.
著者
設楽 博己
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.3-48, 1993-02-26

民族・民俗学で複葬と呼ぶ葬法は遺体を何度も故意に取り扱うため,葬儀が複数回におよぶもので,考古学ではこれを一般的に再葬と呼んでいる。日本列島では縄文晩期終末から弥生Ⅲ期までの東日本の一部で、主に壺形土器を蔵骨器にした再葬墓が発達した。この再葬墓に特徴的なものは,一つの土坑の中に複数の土器を納めた複棺再葬墓であるが,複数の土器棺に納めた人骨が複数体の場合は,一括埋納の契機や合葬された人々の社会的関係が問題になってくる。複棺再葬墓の土器には摩滅状態の著しいものや補修痕のあるものが日常集落以上に含まれる。また,一土坑の複数の土器には型式差のあるものが共存し,埋納までに要した長い集積の期間を推測させるものもあるが,それはまれである。一土坑の遺体数は2~4体で7体という例もみられる。これら合葬人骨は男女ともにあり,また成人と小児など世代を超えたものが組み合わさる場合もある。したがって一土坑における複数の納骨土器は,ある期間の集積を経て一括埋納されたものであり,集積の期間はまれに長期にわたる場合もあるが,多くは土器型式の存続期間を超えるほど長くなかったとみられる。ならば,この一土坑に合葬された者の紐帯は累世的なものは考えにくく,血縁的紐帯か世帯のまとまりか世代によるまとまりかということになる。出土人骨におもきを置けば年齢階梯的つながりは想定しがたく,血縁か世帯であろうが,これを解くてがかりは墓域の構成にある。初期の再葬墓群は弧状を呈するものがある。福島県根古屋遺跡の分析からすると,弧状の墓域がいくつかの群に分かれており,各群に新古の墓坑がみられる。これはあらかじめ墓域を区画して埋葬していったものであり,これら各群は縄文時代の埋葬小群と同様なものだといえる。縄文時代の埋葬小群は血縁のつながりがある身内のグループと,非血縁の婚入者のグループからなる一つの世帯の累積的墓群とされる。縄文時代後・晩期には夫婦など血縁関係にないものどうしの合葬はおこなわなかったとされる。複棺再葬を合葬の一形態とみなし,そこに縄文時代の合葬原理が生きているとすれば,こうした縄文時代の墓域構成を踏襲した初期の複棺再葬墓は,なんらかの血縁的な関係にある者どうしを合葬した土坑と考えるのが妥当だろう。そしてそれらが集合した埋葬小群が,一つの世帯の歴史的な墓群であり,墓域全体が一つの集落の墓地だと考える。
著者
前嶋 敏
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.115-145, 2014-01-31

本論文は、一七世紀中葉~一八世紀前半の米沢藩中条氏における戦国末期~近世初頭の当主の系譜に対する認識について、中条氏に伝来した系図・由緒書等および同氏の文書整理・管理の状況から検討するものである。本論文では以下の点を指摘した。①中条氏では、一七世紀中葉~後半頃の段階においては、戦国末期の当主が忘れられている状態であり、とくに中条景泰という当主の名を認識していなかった。しかし、一八世紀前半にはそれを景資という当主の改名後の名としている。なお、さらにその後に作成された系図等では景資と景泰は別人と理解されている。②中条氏では、一七世紀中葉以降には、文書の整理・収集等を通じて系譜の復元が行われていた。そして元禄四~七年の間に景泰の名を記す文書を収集し、その名を認識するにいたったと考えられる。また同氏では一七世紀後半までの文書整理と同じ方針でそれ以後も管理を継続していた。このことは、中条氏が同氏の系譜・由緒等に対して高い関心を持ち続けていたことを示しており、戦国末期の当主に対する認識をその後さらに変化させたことにもつながっていたと思われる。
著者
小倉 慈司
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.353-404, 2012-03-01

近世前期に諸善本の副本作成事業や古写本収集を行なった後西天皇の収集書について、それが霊元天皇を経て、中御門天皇と有栖川宮職仁親王に引き継がれていく過程を明らかにする。寛文六年に後水尾法皇の命を承けて後西上皇が霊元天皇に諸記録新写本を七〇合進上したが、その中には古写本や文学書は含まれておらず、上皇の手許に残された。それらも含めた後西上皇蔵書は、貞享二年の上皇崩御後に霊元天皇が接収し、さらに再整理を行なって自らの蔵書中に組み込んだ。なお、後西上皇は蔵書の一部を皇子幸仁親王や近衛基煕に賜与している。後西天皇が禁裏本の副本作成作業を行なった理由について、従来は、禁裏の火災に備えるためと考えられていたが、実際には、譲位後も自分の手許に置くことができる蔵書を増やすためであったと考えられ、霊元天皇に進上した以外の書物については、最終的には一部を除いて幸仁親王(もしくは八条宮尚仁親王)に譲るつもりであったと考えられる。霊元天皇は後西上皇旧蔵書を接収した後、史書については分類して寛文六年後西上皇進上本に加える作業を行なったが、完全にその作業が完了しないまま、譲位後五年を経て東山天皇に譲った(未整理部分は手許に残す)。しかしその後も必要に応じて禁裏より箱を戻して書物を取り返すこともあった。一方、文学書は譲位後もそのまま仙洞にて管理していた。霊元法皇崩御後には、中御門天皇へは、後西上皇旧蔵書中より分置された分や霊元天皇新収書も含めてかなりの量の史書・文学書が贈られているが、それらの中には他の皇子女に一旦形見分けされた後に中御門天皇に献上されたものも含まれていた。有栖川宮職仁親王に対しては、享保12~14年頃と崩御後の二度にわたって書籍が賜与されている。これらの書籍の中には霊元法皇が意図的に選別して職仁親王に贈ったものと、崩御後、偶然的要素によって職仁親王の手に渡ることになったものとがあった。
著者
田原 範子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.167-207, 2011-11

本稿では,死という現象を起点としてアルル人の生活世界の記述を試みた。アルバート湖岸のアルル人たちは,生涯もしくは数世代に渡る移動のなかで,複数の生活拠点をもちつつ生きている。死に際して可能であれば,遺体は故郷の家(ホーム)まで搬送され,埋葬される。遺体の搬送が不可能な場合,死者の遺品をホームに埋葬する。埋葬地をめぐる決断の背景には,以下のような祖霊観がある。身体(dano)が没した後,ティポ(tipo)は身体を離れて新しい世界へ移動する。ティポは,人間界とティポの世界を往来しつつ,時には嫉妬などの感情を抱き,現実に生きている人びとの生活を脅かす。病気や生活の困難はティポからのメッセージである。そのような場合,ティポは空腹で黒い山羊を欲している。その求めに速やかに応じるために,埋葬地は祖先たちの住む場所つまりホームが望ましい。アルル人のホームランドでは,ティポはアビラ(abila)とジョク(s.jok,pl.jogi)とともに祀られている。ティポは現世の人間に危害を及ぼすだけの存在ではない。ティポの住まうアビラやジョクに対して,人びとは,語りかけ,家を建て,食物を用意し,山羊を供儀する。父や祖父のティポを通して,祖先の死者たちは生者と交流する。その交流は,生者に幸運や未来の予言をもたらすこともある。死者と生者が共にある空間で,死者のティポは安住することができる。移動に住まう人びともまた,死者をホームに搬送すること,死者の代わりに死者の遺品を埋葬することを通して,ティポの世界と交流している。In this paper, I have attempted to portray the life-world of Alur people through the process of burial. Some Alur migrate and have multiple living bases during their lifetime and through several generations on the shores of Lake Albert. When someone dies, it is common for the body to be carried home for burial. However when this is not possible, the belongings of the deceased are carried back to be buried, instead of the body. The practice of burial reveals Alur recognition of the spiritual world, as below:After the body (dano: s.&pl.) has died, the spirit (tipo: s.&pl.) leaves it and travels to another world. Tipo can also come and go between this world and another world which the tipo belongs to. In the case of the tipo having a negative emotion such as jealousy, it threatens living people. Sometimes illness and tribulations are messages from the tipo which is hungry and wants the blood of a black goat. In order to respond to the messages promptly, it is desirable to bury the deceased in their homeland.In the Alur homeland, the tipo of ancestors are enshrined together with jok ( pl.: jogi) and abila. Tipo do not always bring harm to the living. For jok and abila, people build them a house to live in, serve food to eat, plant herbs to take care of them, arrange stones to guard them, and talk to them. Abila symbolizes paternal lineage and jogi represents mother and grandmother. Other ancestors communicate with the living through abila and jok. This interaction brings luck, prophecies, and occasionally misfortune.Tipo can live in peace in such a life-world where there are daily interactions between the living and the dead. Carrying the dead body or the belongings of the deceased is also a form of interaction with another world by the people who live away from their homeland.
著者
森栗 茂一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.78, pp.121-128, 1999-03

日本の都市研究は,高度経済成長のひずみ,社会問題の反省として発展した側面がある。しかし,十分な議論のないまま,現実の日本の都市の生活は個別分断の消費に突入し,市民の連帯を発見できないでいる。国立大学共同利用機関の都市の共同研究としては,こうした都市の今日状況を視野にいれて,研究の志を立てねばならぬ。子供の自殺や暴力にみられる今日の状況は絶望的である。都市民俗学としては、こうした状況の都市をどう把握するのか,新たな都市の再構築にむけて展望を示す必要がある。本論では,阪神大震災を契機として,都市の連帯のあり方を問いなおした三人の映画監督・映像作家との会話のなかで発見したことを記述した。震災のなかで活動する人々を撮影するなかで,ふれあう町の可能性をみつけた熊谷(くまがい)博子監督。焼け落ちた町が復興する過程を定点観測しつづける青池憲司監督は,魅力的な個人ではなく町の連帯,人間の町がつくられていく動態を記録しようとしている。また,篠田(しのだ)正浩監督は,災害や戦災にいっても生きつづけようとする人々の力,独立市民の登場に期待してカメラをまわしたという。これらの動きは,本当の意味での都市の誕生である。都市民俗学としては,こうした人々の動き・新たな市民連帯の芽吹きを発見し,観察・記録し,新たなまちづくりに貢献せねばならない。都市史研究も,研究テーマがあるから研究するのではなく,何故その研究をせねばならぬのか,問われている。そうした,社会に志を問う共同の研究をせねば、研究の意味はない。何のための共同研究か。何のための共同利用機関なのか。誰のための研究なのか。誰に訴えたいのか。Urban history research of Japan appeared as correction and reflection of the strain of the vigorous economic growth. But, without enough discussion urbanization of Japan has come to be an individual consuming life and to miss the solidarity as an urban community.To begin with, kokorozashi 志 [a will] was a thing when the people of Meiji 明治 era and the early Shōwa 昭和 era left their villages for the purpose of the success in life. But, numerous failures was the result. This brought up new discrimination among people. Slums are an example here as a reflection of modern society, a point of view of social history through manazashi まなざし [a look]. However without putting such a research of discrimination theory to practical use, read urban communities are not a place. Where we are under the solidarity among people, but aggregates of individual lives which require 'money' and 'things'.Kōbe 神戸 which experienced the Hanshin Daishinsai 阪神大震災 [the earthquake disaster in Hanshin district], the setting up of solidarity in the urban communities appears in revival of the town, with planners, architects, statesmen, volunteers, and folklorists working together. The field work of the urban folklore which can contribute to urban planning, and like environment, education, residence, welfare, the investigation, research, proposal about parts concerning life, aiming this sort of new city joint is necessary.After Hanshin Daishinsai, as a result of discussion between me and three movies directors who made the movies about an earthquake disaster, we know that this point of view of urban folklore and the research asking joint among cities corresponds to asking the democracy of Japan in another sense. Usual, the democracy of Japan was transferred to the government from the U. S. A. Because of the defeat of war, and forced on district self governing body from the government, and granted to residents. Another from that, we can see the work making democracy from joints among residents in Kōbe 神戸 after the earthquake disaster.This is the birth of cities in real sense. The urban folklore is the fieldwork which finds out this kind of new way of life of the people. Moreover, urban folklore should become the tool which contributes the creation of the city to come. Such a will is more necessary than any other things to the urban folklorists.
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.106, pp.51-60, 2003-03

日本における現代民話研究は,すでに少なからぬ研究の蓄積を見ているが,日本の現代民話を日本以外の社会の現代民話と比較検討する作業は,まだまったくといってよいほど行なわれていない。この研究動向上の欠を補うべく,本論文では,韓国社会で語られている現代民話について,日韓比較の視点から検討した。本論文で行なった指摘を列挙すれば,次のようになる。(1)現代韓国社会では,現代民話がたいへんさかんに語られているが,日本社会における現代民話の存在様態と比較した場合,怪談系統の現代民話に加えて,社会的・政治的な諷刺の性格を持った笑話系統の現代民話が豊富に語られている点を特色として指摘できる。(2)韓国で,笑話系統の現代民話がさかんに語られていることの背景には,独裁政権下の社会状況と民主化闘争,深刻な労働問題,急速な経済発展とそれに伴なう矛盾などが存在するものと考えられる。(3)現在,日本の現代民話研究において集成され,分析が加えられている現代民話群は,その大半が怪談系統の語りであり,社会的・政治的諷刺の性格を持った現代民話をそこに見出すことは困難である。この状況を規定する要因は,①70年代以降の日本社会における脱政治化,②言論統制等の抑圧が存在しないことによるメディアとしての現代民話の需要低下,③研究者における現代民話対象化過程における偏向,といった要素の複合に求められる。(4)上の指摘をふまえたとき,われわれは現状の再解釈と再調査を行なう必要に気づかされる。また,海外との比較研究は,こうした現代民話再考の契機となるものであり,ここに比較研究の重要性が確認されるものである。There has already been considerable research on modern folktales in Japan, but research that compare modern Japanese folktales with modern folktales from societies outside of Japan cannot even be said to have begun. To address this shortcoming in research trends, this paper attempts to examine modern folktales in present-day Korean society through a Japanese-Korean comparison. The following is a list of issues highlighted in this paper:1) In present-day Korean society, modern folktales are told very frequently. It can be noted that in contrast to modern folktales in Japanese society, modern Korean folktales not only appear in the form of ghost stories, they also contain many humorous stories characterized by social and political satire.2) I believe that many modern Korean stories are humorous because of the social conditions and the struggles for democracy that have occurred under totalitarian regimes, as well as serious labor issues and rapid economic development and its associated conflicts.3) Most modern folktales compiled and analyzed in current folklore research in Japan are ghost stories. It is difficult to find modern folktales characterized by social and political satire. This is due to a combination of elements including: i) the anti-politicization of Japanese society in the 1970's and later; ii) the decrease in the demand for modern folktales as a medium due to the absence of oppression, such as the repression of the freedom of speech; and iii) scholars' propensities in the process of objectivizing modern folktales.4) Given the issues above, I have come to understand the necessity of reinterpreting and restudying the current situation. In addition, international comparative research provides an impetus to reconsider modern folktales such as this one. This paper proves the importance of comparative research.
著者
高橋 秀樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.72, pp.35-44, 1997-03-28

本稿は修訂の上『国立歴史民俗博物館資料目録[1]田中穣氏旧蔵典籍古文書目録[古文書・記録類編]』(国立歴史民俗博物館、2000年)に解題として再録されている
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.237-272, 1993-03-25

日本の墓制の民俗学的研究で従来最も関心が寄せられてきたのは両墓制の問題である。両墓制研究の焦点はそれが古いか新しいかという点にあった。もちろん古いとする考えが民俗学研究者のなかでは多数派であり、日本人の古来の他界観・霊魂観を示すものとしてきた。それらの多くの研究は二つの施設のそれぞれの名称やその間の儀礼的な関係に注目し、両墓への墓参の継続期間や他方への移行時期に注意を払ってきた。またこの墓制を古いとする考えは石塔以前の姿を追究する傾向を生み、墓地・墓石以外の仏堂、位牌堂、あるいは霊山、死者の赴く山などの事象を研究の対象とするようなことが多くなった。以上のような従来の両墓制研究は、村落における空間的配置の問題には必ずしも注目してこなかった。空間的配置に注目しても、両墓のみを取り出して、その距離を問題とするものが多く、村落空間全体のなかに位置付ける努力は少なかった。本稿では、両墓制を村落空間の問題として理解し、両墓制が村落そのものの歴史的形成過程と密接に関連して登場してきたものであると同時に、両墓制の両墓の配置は石塔建立の民俗が村落社会で一般化する段階での埋葬墓地のあり方の相違が作り出したものということを論証しようとした。近江地方のいくつかの村落の墓制では、埋葬墓地が例外なくヤマの領域にあるのに対して石塔建立墓地が村落によって一定しないことが、両墓遠隔型、両墓近接型という両墓制の諸類型を作り出している。それに対して、関東地方などの墓制は遺体埋葬が屋敷内ないしは屋敷続きに行われていたところへ石塔建立の一般化があって、単墓制が成立したものと思われる。したがって、石塔建立の一般化の時期における埋葬墓地のあるべき場所についての観念の相違が両墓制と単墓制という二つの墓制を成立させ、日本の大きな地方差を作り出したものと考えられる。
著者
古川 元也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.180, pp.129-140, 2014-02-28

室町時代後期の都市京都を考える際に、社会的組織として重要な構成要素となるのは洛中日蓮教団(宗祖日蓮を師と仰ぐ信仰集団)である。洛中の日蓮教団は鎌倉時代後期から南北朝期に日蓮門下六老祖の一人である日朗が京都への布教を開始し、その後大覚妙実、日像の布教によって教線を拡大し、後醍醐天皇による四海唱導布教の綸旨を得てからは、四条門流を中心に諸派の離合集散を繰り返しながらも宗勢を増してゆくのである。日蓮教団は天文五年に宗門にとっての一大法難ともいうべき天文法華の乱(天文法難)に遭ったとされ、最終的には帰洛を勅許されるも一時的には洛中より追放されていた。その後も教団内部における門流の対立や和合、織田信長による天正七年の安土宗論敗北など教団内の運営は安定性を欠き、通説的理解では十六世紀後半の教団の恢復は十分にはなされなかったとされている。ところで、天文法華の乱を前後して制作されている洛中洛外図の諸本には日蓮教団系寺院が描きこまれている。従来の洛中洛外図研究ではこれら寺院の存在が景観年代の確定に寄与したこともあったが、洛中洛外図の諸本が制作依頼者の意図に基づく理想的景観を盛りこんだ工房作であることを考えれば、個別の景観年代追求はさほど意味のあることでもない。また、これら日蓮教団寺院は諸本によって差異があり、描写も一様ではない。むしろ考究すべきは、洛中より追放処分を受けた教団が描き続けられなければならない理由はどのようなものなのかであり、洛中諸本山のうちの描写される本山とそれ以外の本山に差異はあるのか、そのことはどのような社会的背景を持つのかを確定する必要があろう。本稿では、成立年代とその制作背景が確定されつつある洛中洛外図の研究成果を援用しつつ、描かれた日蓮教団諸本山が意味する点について論及したい。
著者
菅 豊
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.57, pp.p63-94, 1994-03

日本において,低湿地を積極的に稲作地として利用し,「水辺」を改変する農業は,通常,技術的未発達が指摘され,その技術に費やされる労苦からの脱却がことさら強調される傾向があった。確かに低湿な水田で行われる農耕は,重い労苦が伴い,不安定な収穫しか望めない泥濘だったのは間違いないし,従来,民俗,地理,歴史などの多くの研究者によって,この水との格闘の歴史は明らかにされてきた。しかし,果たして低湿地農耕は,生活環境によって規定されるがゆえにあらがうことのできない,いやいやながら,しぶしぶと行われていた不本意な農耕技術だったのであろうか。そしてその湿田は,人々が生計活動を行う上で,消極的,否定的,悲観的にしか取り組めないような苦渋に満ちたネガティブな生産空間だったのであろうか。この疑問を解決することが本稿の目的である。本稿では全国に分布する低湿地開拓技術が,必ずしも不利な状況で消極的に営まれていたのではなく,ポジティブにとらえ得る技術であったという視点から,この農耕技術を見直していくつもりである。本稿で対象とする地域において低湿地農耕は,むしろ完全に水田化されていない,不完全な耕作地であるがゆえに獲得できる,有利さを持っていると考えられる。土地所有制度の限界を克服することのできる低湿地農耕技術の社会的特質が顕在化する時,それは生産性の低さといったデメリットをさし引いても,なお余りあるものとして位置付けられるのである。この不完全な耕作地の活動が継続できた背景には,その経済的,社会的な有利さと共に,各生計活動のリスクを合い補え,より安定した生活を維持することのできる,複合的生計活動の展開があったと考えられる。In Japan, low-lying wet land has been actively used for the cultivation of rice, and it has been pointed out that farming of 'waterland' was generally technologically backward, and the tendency has been to stress in particular that technology provides release from the hard work expended. It certainly cannot be denied that the cultivation of low-lying wet paddy fields involved hard work, and was a muddy mire promising only an unstable harvest; and the history of this hand-to-hand struggle with water has already been made known by many researchers in folk customs, geography and history.But was the cultivation of low-lying wet land really an unwelcome farming technique imposed by the living environment, undertaken unwillingly and sullenly? And for the people who subsisted there, were the wet paddy fields really a negatively-viewed production area, full of hardship and suffering, that could be grappled with only in a passive, negative, pessimistic way? The present paper aims to solve these questions. This paper takes a fresh look at the farming techniques of low-lying land scattered around the country, taking the point of view that the cultivation of the land was not necessarily carried out passively and under unfavourable conditions, but that the techniques may be seen in a positive light.The cultivation of low-lying wet land in the areas covered by the paper may be considered to have advantages obtained rather because the land was not completely turned over to paddy, precisely because it was imperfect farming land. The technical characteristics of farming low-lying wet land are such that when they become apparent in the social plane, as a production technique that overcomes the limitations of land ownership, this more than makes up for the demerit of low productivity. It may be considered that behind the continuation of this use of imperfect farming land was the development of a complex method of supporting livelihoods, which together with its economic and social advantages also supported a stable living in which the risks of various subsistence techniques compensated each other.
著者
田中 晋作
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.163-186, 2004-02

今回のシンポジュウムで与えられた課題は,古墳時代の軍事組織についてである。小論の目的は,この課題について,今までに提示してきた拙稿をもとに,とくに,古墳時代前期後半から中期を対象にして,①古墳時代前期後半以降にみられる軍事目的の変化,②中期前半に百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団による常備軍編成の可能性,③中期における軍事組織の編成目的について検討し,つぎの私見を示すことである。前期後半,それまでの有力古墳でみられた示威や防御を目的とした武器が,一部の特定古墳で具体的な武装形態を反映した副葬状況へと変化する。この変化は,既存有力古墳群でみられるものはなく,この段階で朝鮮半島東南部地域の勢力とそれまでにない新たな関係を結んだ新興勢力の中に現れるものである。中期に入り,百舌鳥・古市古墳群の被葬者集団によって,形状および機能が統一された武器の供給がはじまり,大規模な動員を可能とする基盤が整えられる。この軍事組織の編成を保障するために,両古墳群の被葬者集団の特定の人物もしくは組織のもとに,人格的忠誠関係に基づいた常備軍が編成される。さらに,武器の副葬が卓越する一部の古墳で,移動や駐留を可能とする農工具を組み込んだ新たな武器組成が生まれる。このような武器組成は,国内に重大な軍事的対峙を示す痕跡が認められないことから,計画的で,遠距離,かつ長期間にわたる軍事活動を視野に入れた対国外的な組織の編成が行われていたことを示すものである。以上の検討結果によって,古墳時代前期後半以降にみられる軍事組織の編成は,政治主体が軍事力の行使によって解決を必要とした課題が,それまでの対国内的な要因から,朝鮮半島を主眼とした対国外的な要因へと変化したことを示していると考える。The given theme in this symposium is the archaeological analysis of military organization in the kofun period. The aim of my article is to investigate 3points of analysis from the latter half of first period to the middle period of the kofun era. The first point is the evolution of change of the organization and function of the military since the latter half of the first period. The second point of analysis concerns the ability to establish a standard army in the first half of the middle period by the developing political power whose members were later buried during in the Mozu-Furuichi cluster of mound tombs. The final point is the aim of organization in the middle period.In the latter half of the first period, the change in the burial procedure of weapons in tombs reflects the change in the aim and purpose of the demonstration of power and use of defense. This influence was also reflected in the condition of the armament itself. At that time, this change was brought about by newly-risen groups connecting with other groups located in the south-east region of the Korean peninsula.During the middle period the foundation for the large scale mobilization of armies was established through the supply of similarity equipped weapons. These were unified in function and form and supplied by the Mozu-Furuichi group. The standard army was controlled by the presiding organization or chief of this group and bound by a pledge of allegiance. The standard army would then guarantee the stability of the military organization.Further, a new composition of weapons included farm implements used in the transferring and stationing of armies appeared in some tombs which surpassed previously buried weapons. This composition of weapons indicates the existence of a military organization that has the ability for deliberate, long-distance and long-prolonged military action, if the circumstance at a given time did not include a serious military confrontation in the country.Through these investigations I hope to present the following conclusion. The focus of the military organization that was established since the latter half of the first period in the kofun era changed from internal to external, mainly regarding the Korean peninsula.
著者
白石 太一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.21-51, 1992-03-31

古墳時代後期の6世紀に日本列島の各地で造営された墳丘長60メートル以上の大型前方後円墳の数を比軟すると,他の諸地域に比べ関東地方にきわめて多いことが知られる。律令体制下の国を単位にみてみると,関東では上野97,下野16,常陸38,下総11,上総28,安房0,武蔵26,相模0で,合わせて216基となる。うちに大王墓をも含む畿内地方でも大和20,河内12,和泉0,摂津2,山城5の計39基にすぎず,さらに吉備地方では,備前2,備中1,備後1,美作0の計4基にすぎない。また東海地方の尾張では12,美濃では7基を数えるが,尾張に多いのは継体大王の擁立にこの地の勢力が重要な役割をはたしたという特別の政治的理由によるものと思われ,東日本の中でも関東地方だけが後期前方後円墳の造営において特殊な地域であったことは明らかである。一般に前方後円墳は,畿内勢力を中心に構成されていた政治連合に加わった各地の首長たちが,この連合における身分秩序にしたがって営んだものと考えられているが,6世紀の関東地方では前方後円墳の造営に際してそれ以外の地域とは明らかに異なる基準が適用されたことになる。また小地域における大型前方後円墳の密集度からも,その被葬者は単なる領域的支配者としての地域首長であるばかりでなく,畿内王権がこの地方に数多く置いた子代・名代などの部や舎人などの地方管掌者としての性格をも併せもつものであったと考えざるをえない。関東地方に他の地域と異なる基準に基づいて数多くの大型前方後円墳が営まれた理由は,この地域が畿内政権をささえる経済的・軍事的基盤としてきわめて重要な地域であったこと,さらに畿内諸勢力の連合体としての畿内政権を構成する諸豪族がそれぞれにこの地域の在地勢力と結びついて支配の拠点をえようとした結果と考えられ,まさに畿内政権の構造的特質によるものと思われるのである。
著者
有富 純也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.61-71, 2008-12-25

本稿は、神社社殿の成立時期について、律令国家との関係に注目しながら検討し、また、摂関期の国家と神社の関係についても論及するものである。神社社殿がいつ、どうして成立したかについては、多く研究があるものの、これまでの研究成果を充分に消化しつつ、論じたものはあまり存在しないと思う。そこで❶章では、あらためて研究史整理を行い、神社社殿成立の時期について詳細に検討した。その結果、①律令国家の成立と神社社殿の成立はほぼ同時期であること、②律令国家成立以前の宗教施設には、大きく分類して、建築物を有しないモリと、建築物が付随するホクラがあること、以上二つの仮説を得た。❷章では、ホクラと神社社殿の関係について、中国の「社」のあり方や平安時代の記録を用いて検証した。中国の宗教施設である「社」は建築物を伴わないことから、神社建築は中国の影響を受けない日本固有のものであると推測した。とすれば、七世紀以前に存在したホクラが神社建築に深く関係すると考えることもできよう。律令国家成立期、祈年祭を中心とした班幣制度を創始するにあたり、地方に幣帛を納める宗教施設として、建築物を伴う「神社」も創出されたのではないか。❸章では、❶章の仮説①を検討するべく、律令国家が転換した十世紀以降における神社社殿と摂関期の国家・受領の関係について考えた。受領の神拝や神社修理について検討した結果、十世紀以降の神社社殿は、受領が社殿の繁栄や退転に大きく関係していることが判明した。律令期との相違は若干あるものの、摂関期の受領や国家などの支配者が神社社殿の維持に大きな役割を果たしたことは間違いないようである。律令国家は、神社社殿成立に深く関与しており、また、摂関期においても受領が中心となって社殿を維持していたと結論づけた。