著者
スザ ドミンゴス
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.765-787, 2009-12-30

キリスト教の隣人愛の命令は様々な問題を提起する。愛は人間に最も深く根ざした必要性であるが、なぜ命じられるのか。その愛の命令が要求しているように、偏愛せずすべての人を平等に愛することが可能なのか。キリスト教的愛に社会的表現が与えられ得るのか。本稿は、このような問いに伴う倫理的意味に関するキェルケゴールの見解を考察する。彼は、感情と衝動に基づく自然的愛に対して、キリスト教的愛が自然派生的に生じるのではなく、神によって命じられる愛であると特徴付け、義務になることによってのみ、愛はあらゆる変化から守られると主張する。キェルケゴールによれば、キリスト教的愛の究極的目的は、神を人が愛するように隣人に手を差し伸べるということであるが、それはある学者たちが批判するような非社会的および非現実的倫理を伴うのではない。神への愛は隣人への愛を媒介として常に表現されなければならないのであり、かならず現実的な人に向けられている。
著者
山本 聡美
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.2, pp.121-144, 2021

<p>近代的疾病観においては、病を健全な身体の対極にあるものと捉え、加療を通じて健常なる状態へ近づけることに価値が置かれる傾向にある。一方、古代・中世日本においては、これとは異なる疾病観が存在していた。特に仏教の教義や実践において、病には、人間の存在の根源に関わる現象としての重要な意味が見出されていた。病を生存への脅威として排除するのではなく、これと折り合い、場合によっては、秩序ある社会を構築する梃子として肯定的に捉えていくことさえなされた。</p><p>本稿では、平安時代末期の浄土僧、永観による「病は善知識なり」との成句に着眼する。善知識とは、仏教における発心や成道への導き手を指す。通常、多くの修行を積んだ高徳の僧を言うが、悟りに至るきっかけとなる人物や事物を広く指す言葉でもある。「粉河寺縁起絵巻」に描かれた病に発心の契機としての肯定的な意味を読みとくことからはじめ、そのような疾病観が形成された歴史的経緯を、古代日本における造像の伝統から明らかにする。</p>
著者
李 美奈
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.3, pp.49-73, 2019 (Released:2020-03-30)

近世イタリアでは市民の道徳の発達と共に、キリスト教徒とユダヤ教徒の差別化の論理から非道徳的なユダヤ人ステレオタイプが作られた。本論は『ヘブライ人の状況についての議論』において、一七世紀ヴェネツィアのラビ、シモーネ・ルッツァットがこの偏見にどのように反論し、かつユダヤ教を守ることを試みたかを明らかにした。ルッツァットはユダヤ教を特殊な儀礼と普遍的な道徳性に分け、前者はユダヤ人のみが自由意志で守るが、後者は全人類が積極的に共有すべきとした。これは近代に似た宗教観念と言えるが、他方で個人はまず儀礼を通して繋がり、その外で道徳性によって異教徒と関係を持つと主張し、近代と異なる社会観念も持つ。この見解を当時の社会背景から考察し、ルッツァットがユダヤ教も兄弟団と同様に道徳的教えを持ちヴェネツィアの秩序に貢献するとしつつ、儀礼に関しては外国人組合nationeに認められた慣習法に落とし込み、ヴェネツィア当局の統治方針に合わせて議論していると結論づけた。
著者
内藤 理恵子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.151-173, 2011-06-30

今日、日本の葬送文化はさまざまな変容を遂げている。本論では、特に今日のペット供養を取り上げ、伝統的に行われてきた畜生供養とどのように異なるのかを明らかにする。馬頭観音を本尊とした馬供養のように、ペット供養文化が開花する以前にも、日本では動物に対する供養は行われてきた。伝統的な六道輪廻観において動物は、地獄界・餓鬼界の次に低い畜生界に属していると考えられてきた。畜生供養は、中国撰述の『梵網経』を典拠としているが、それは牛馬猪羊など一切の動物の発菩提心を説いているため、本来は動物の成仏をめざすものである。それに対して、ペットが家族化した現在、多くの場合、飼い主は、個々のペットの他界観に関して小さな物語創作を行い、自らの死後、ペットとの再会を願っている。しかし、これはペットに限った現象ではなく、人間に対する他界観に関しても、死者を祀る側の願望にしたがって、小さな物語創作が行われてきているのが垣間見える。
著者
島薗 進
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.223-245, 2008-09-30

宗教学は近代文明に対するオルタナティブの探究を基本的なモチーフとして抱え込んでいた。宗教は理性の限界や近代社会の抑圧性に悩む人々に、ある種の魅惑を帯びたものとして現れた。だが、他方で宗教研究は宗教批判の中から生まれてきたものでもある。宗教の抑圧性を見抜くことが宗教学の形成と展開の知的動機の一部ともなっている。宗教学は宗教批判と近代批判をともに含み込むことによって先鋭な知の地平を切り開くことができたと考えられる。本稿では宗教批判と近代批判とを結びつけるような視点をもった先駆的思想家として、富永仲基、ディヴィッド・ヒューム、フリードリッヒ・ニーチェを取りあげる。彼らの宗教批判は、いずれも人類史における宗教の重要性を痛切に認識するが故にこそなされている。宗教が人間性に奥深い動因をもち、容易に克服しがたいものであると考えられており、人知の進歩により宗教は衰退してしまうと予見されているわけではない。むしろ理性の限界が強く意識されており、だからこそ宗教は人間性に深く根を張っていると考えられている。宗教を深く理解する必要があるのはまさにその故なのだ。
著者
碧海 寿広
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.75-100, 2010-06-30

哲学から体験へ。明治三〇年代、近代真宗の思想界において、そう総括すべき大きな転換が起こった。本論は、その転換期が生んだ思想の意義を、近角常観(一八七〇-一九四一)という真宗大谷派僧侶の思想と実践の検討により再考する。近角は学生時代、哲学研究に執心したが、その後は哲学を放棄し、個々人の体験を重視する宗教家へと自己形成を遂げた。だが、自らの救済体験の意義を、仏教史を貫く普遍的な要素によって根拠づけるという彼の方法は、その転身の前後を通して一貫していた。近角は、親鸞や釈尊など、真宗仏教史における至高存在の体験に、自らの体験を重ねて語るという言語実践を遂行したが、こうした体験の語りを、自己の信徒たちにも行わせた。近角の体験談を中心として、一つの体験談がまた別の体験談を生み出す、という構造がそこにはあった。明治三〇年代の真宗思想に起きた転換は、近角によって、独自の体験の言語空間の創出へとつながったのである。
著者
小原 克博
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.2, pp.451-474, 2005-09-30

本論文では、最初に日本および西洋における、一神教と多神教をめぐるディスコースの事例を取り上げ、その特徴を描写する。さらに、そのディスコースをオリエンタリズムやオクシデンタリズムの中に位置づけることによって、その文化的な構造を析出させ、さらに「偶像崇拝」を補助線として用いることによって、その宗教的な構造を明らかにする。偶像崇拝の禁止は三つの一神教、すなわち、ユダヤ教・キリスト教・イスラームに共通する信仰の基盤であるが、偶像崇拝は決して物質的な意味に限定されず、むしろ人間の作り出す観念やイメージをも含む「見えざる偶像崇拝」として機能する。また偶像崇拝が、近現代においては代替・拡張・反転というモデルの中で再解釈されていることを指摘する。最後に「見えざる偶像崇拝」は構造的暴力の温床になり得ることを終末論・進化論を交えて考察する。また同時に、一神教と多神教をめぐるディスコースが暴力的なディスコースへと転移しないための要諦を示唆する。
著者
新谷 尚紀
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.343-368, 2014-09-30 (Released:2017-07-14)

折口信夫によれば和語の幸(さち)とは獲物を獲る威力でありそれを体内化する霊力であった。和語のしあわせは仕合せでありよいめぐり合わせの意味である。幸福(こうふく)はhappy, happinessの翻訳語である。和洋混淆語としての幸福(しあわせ)とは何か、それは人それぞれの感覚であり常在する実体ではなく、はかない夢まぼろしのごときものである。であればこそ、人びとはその再生への繰り返しとその持続と継続とを渇望したのであった。民俗学が昭和初年に実施した「山村生活調査」で語られていた仕合せとは、「財産・勤勉・長命・円満」のことであり、それを世代をつないで維持し継承することであった。食欲、性欲、名誉欲など瞬時で消える幸福(しあわせ)と再生される幸福(しあわせ)との関係、それは充電と放電の繰り返しにたとえることができる。充電という労働がなければ放電という享楽はない。伝承分析学としての日本民俗学の視点からいえば、ハレとケの循環の中に幸福(しあわせ)が再生産されている構造、それこそが幸福(しあわせ)の実在である、と読み取ることができる。
著者
松山 洋平
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.75-98, 2011-06-30 (Released:2017-07-14)

本稿の目的は、ターハー・ジャービル・アル=アルワーニーのクルアーン解釈理論に焦点を当て、その思想のポストモダン性を描出することである。アルワーニーは、クルアーンの啓示と預言の封緘によって、神が明示的に世界に介入する「神的主権」が終結し「クルアーンの主権」の時代へ移行したと論じる。この「クルアーンの主権」理論は、シニフィエとしての神本体ではなく、クルアーンというシニフィアンに対して主権性を付与するものだ。但し彼は、「世界のキラーア(読解)」と「クルアーンのキラーア」の相互依存関係を指摘することで、その思考を法的な問題領域の内に留めた。そして、現代におけるイスラーム法の望ましい形として「少数派フィクフ」を提唱する。「少数派」として生きることを前提とするこの法概念は、ミクロロギーの世界でのみ正当性を持つ「小さな物語」を作り出す。本稿は、アルワーニーに限られない現代イスラーム思想界全体に密に浸透しつつあるポストモダン的なエートスを指摘するための準備作業の一環である。
著者
青木 健
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.653-674, 2007-12-30 (Released:2017-07-14)

ゾロアスター教研究の資料には、六-一〇世紀に執筆された内部資料であるパフラヴィー語文献と、その他の言語による外部資料がある。外部資料の研究としては、ギリシア語・ラテン語、シリア語、アルメニア語、漢文、近世ヨーロッパ諸語などの資料ごとに纏まったコーパスがあるものの、アラビア語資料を用いた本格的な研究は依然としてなされていない。本論文は、アラビア語資料を完全に網羅した訳ではないが、ある程度の資料に当たって、アラビア語資料によるゾロアスター教研究の方向性を示した試論である。暫定的な結論として、サーサーン王朝時代のペルシア帝国領内のゾロアスター教は一枚岩ではなく、各地方ごとのゾロアスター教が存在したこと、パフラヴィー語文献は、そのうちのイラン高原南部のゾロアスター教を代表するに過ぎないこと、メソポタミアやイラン高原東部のゾロアスター教の実態は、却ってアラビア語資料から類推できることが判明した。
著者
菊地 章太
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.910-928, 2011

明治二十年(一八八七)に私立哲学館を創立した井上円了は、諸学の根拠を哲学に求めた。仏教が時代に取り残されようとした時代である。真宗寺院に生まれ育った円了は、仏教を哲学として理解しようとつとめ、仏教の語彙ではなく日常の語彙によって仏教を語ろうとした。いずれも前代未聞の試みである。みずからの思索にもとづく仏教理解という方向から、さらに進んで寺院や既成教団から独立した信仰と実践の可能性を切り開こうとした。教団に属さない宗教実践があり得るか。これが近代化の怒濤のなかで仏教存続の方向を模索した円了が導き出した問いであった。寺院なくして信仰は成り立つか。個人でも信仰をもつことができるのか。今ならば問うまでもないこの間いが、明治も終盤をむかえる時代の宗教者にとって抜きさしならない課題となったのである。