著者
岩崎 賢
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.131-156, 2013-06-30 (Released:2017-07-14)

アステカ文明などの舞台となった古代メキシコ(メソアメリカ)では、「花」は地上のあらゆる生命に関する神話的起源の地「タモアンチャン」を表現する重要なシンボルであった。古代メキシコにおけるこの「花」の文化的宗教的意味について触れた研究は、既にいくつか存在する。しかし十六世紀前後に作成されたスペイン語・ナワトル語(アステカ人が使用していた言語)の文献資料を検討する中で、しばしばこの「花」の主題が「笑い」という主題と強く結びついていることに、筆者は気付いた。このことは従来の議論では、あまり注意されることのなかったことである。そこで本論では古代メキシコの宗教詩や神話における、「花」と「笑い」に関係する事例をいくつかとりあげ、さらに「笑い」の宗教的意味を探るために植民地期以降のメキシコ先住民の神話的伝承を検討することで、「笑い」が「花」と同様に、優れて宇宙創成的な意味を帯びた主題であったことを論じる。
著者
大道 晴香
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.105-129, 2013-06-30

イタコは青森県から秋田県・岩手県に分布する民間巫者であり、マス・メディアによって、今やその存在は全国に知れわたっている。しかし、そうした認知度の高さとは裏腹に、民俗文化としてのイタコと、マス・メディアによって形成される大衆文化としての<イタコ>との間には、少なからず隔たりが存在している。本稿は活字メディアによって作られた言説を分析することで、一九七〇年代〜八〇年代における<イタコ>の実相について、特にオカルトブームとの関連から論じている。七〇年代に始まる日本のオカルトブームは、それまで「他者」の領域に追いやられてきた<イタコ>の宗教性を「オカルト」として再発見することで、「我々」の領域へと編入した。これは価値の転換であると同時に、<イタコ>の宗教性が大衆の消費対象化したことを意味する。こうした宗教性の大衆化こそが、大衆文化としての<イタコ>の定着において非常に重要な役割を果たしたと考えられる。
著者
櫻井 義秀
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.453-478, 2009

本稿では、宗教と倫理が緊張関係にある事例としてカルト問題を取り上げ、教勢拡大中のキリスト教教会や宗教団体にはカルトにも共通する特徴があることを指摘した。宣教体制に機能特化した教団は、教化力・組織力・指導力を高めるべく<指導-被指導>関係を軸とした権威主義的体制を構築する。そこにおいて、「教会のカルト化」「宗教団体のカルト化」として批判される信徒への抑圧・搾取的行為や反社会的行動が見られることがある。宗教組織や宗教運動に固有の逸脱を批判してきたものは、現実の宗教団体に対して外郭的秩序として機能する倫理や法ではなく、カルトに巻き込まれた当事者や支援者が特定教団の活動を社会問題として批判・告発してきた活動であった。具体的な問題を解決する過程において構築される社会倫理こそが、宗教とカルトを分かつものが何であるか、そして、宗教と倫理をめぐる緊張とはいかなるものであるかを明らかにしてくれるだろう。
著者
山我 哲雄
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.183-207, 2016 (Released:2017-09-15)

ユダヤ教の食物規定(カシュルート)は、主として(1)血の摂取、(2)肉類と乳製品の混合、(3)ブタなどの「穢れた」とされる動物の肉の禁忌を三本の柱とする。個々の禁忌の由来や理由には不明な点が多いが、旧約聖書では、いずれも問答無用の神の絶対的な命令と理解されている。旧約聖書の食物規定がほぼ今の形に体系化されたのは、いわゆるバビロン捕囚時代(前六世紀)であるが、このことは、国と土地を失って異民族、異文化の中で生きることを余儀なくされたユダヤ人捕囚民の状況と関連があろう。圧倒的優位にある周囲の異民族、異文化、異宗教に同化、吸収されないようにするために、彼らは食という、生活の最も基本的な要素を手掛かりとした。周囲と同じものを同じように食べないという生活様式を確立することによって、捕囚のユダヤ人たちは、自分たちの信仰と民族的同一性(アイデンティティ)を維持したのである。
著者
鈴木 英之
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.3, pp.711-733, 2008-12-30

浄土宗や浄土真宗などの浄土系諸派が「専修念仏」「礼拝雑行」という教理上の制約から、神に対して消極的な態度をとらざるをえなかったことは良く知られている、しかし中世浄土宗の礎を築き、後に浄土宗中興の祖と称えられた了誉聖冏(一三四一-一四二〇)は、日本の神々に強い関心を抱き、盛んに研究を行った。聖冏は、中世最重要の両部神道書『麗気記』の註釈書である『麗気記拾遺鈔』を著し、浄土教学上に神々を位置づけていった。まず、仏教教理から法相宗や天台宗など諸宗派の神体を明らかにし、聖冏独自の教相判釈説「二蔵二教二頓判」を応用することで浄土宗の神体の優位性を主張した。また大元尊神という法や理といった性格をもつ中世独特の神観念を導入し、さらに法然の教説を敷衍して用いることで、神の力を念仏の功徳と同一とし、理論的に阿弥陀仏と神との完全な同体を示した。それは、浄土宗における神道論のひとつの完成形として重要な意義をもつと考えられるのである。
著者
出村 みや子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.2, pp.135-161, 2019

<p>教父のジェンダー理解を知る上で、教父文書が構成において高度に文学的かつ修辞学的であることを示したエリザベス・クラークの視点が有効である。本稿では正統信仰確立の過程でどのようにジェンダーバイアスが生じたかを三位一体論や反異端論争の事例を通じて考察し、次に創世記一六章の解釈に焦点を当てて考察した。教父たちは聖書解釈を様々な論争に効果的に利用したが、特に結婚と禁欲の価値をめぐる論争では、貞節な結婚は当時のローマ社会の男らしさの表明であり、厳格な性的禁欲主義はキリスト教の修道制が提示した新たな男らしさの定義であったゆえに、夫であれ、教会指導者であれ、女性が男性の指導下のもとに置かれることに変わりはない。他方でアレクサンドリアのクレメンスは、宗教教育における徳の追求には本性的に男女の差を認めておらず、こうした男女平等主義がローマ帝国におけるキリスト教の急速な拡大や女性の地位の向上につながったと考えられる。</p>
著者
三ツ松 誠
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.92, no.2, pp.183-205, 2018

<p>平田国学が明治維新に与えた影響の如何という古典的な問いにつき、現在の研究状況をサーベイする。要点を三点にまとめると以下の通り。</p><p>第一点。戦後の平田国学研究には、戦時下の顕彰運動の反動で、ナショナリスティックな側面を取り上げることを回避して、霊的世界の探究者としての篤胤に注目する傾向があった。しかし政治運動に関わった人々の主体形成に篤胤国学が影響したことは否定しがたい。</p><p>第二点。近年の国立歴史民俗博物館における平田篤胤関係資料の調査の進展によって、篤胤やその家族、門人たちに関する豊饒な研究素材が学界に提供され、大きく研究水準が引き上げられた。古い議論にはそのままでは通用しない部分が生じている。</p><p>第三点。明治初年における平田国学の挫折、という通俗的理解には注意すべきである。津和野派や薩摩派の国学者も篤胤から影響を受けているのだから、平田直門の失脚だけでは維新政権での篤胤学の影響力の消滅は意味しない。</p>
著者
伊達 聖伸
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.297-322, 2015-09-30 (Released:2017-07-14)

本稿は、あえて長い時間の幅を確保し、イスラームがいつ、いかにしてフランスの宗教になったのかを検討するものである。フランスにムスリムがいた事実は古い時代に遡って確認できるが、イスラームは長いあいだヨーロッパの外部にある鏡のような役割を果たしてきた。イスラームがフランスの宗教になる経緯として決定的なのは、植民地行政によってイスラームが「宗教」として把握され、管理されるようになったことである。一九〇五年の政教分離法は、宗教に自由を与える性格を持つが、同法が形式的に適用されたアルジェリアでは、実際にはイスラームに対する管理統制が統いた。フランス国家がイスラームを「宗教」と見なしてムスリムにアプローチする枠組みにおいて、イスラームはフランスの「宗教」になったが、そのアプローチの限界も浮き彫りになる。イスラームに対する構造的不平等があるなかで、ライシテは宗教の平等を唱える理念として機能している。
著者
佐藤 弘夫
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.211-234, 2007

今日神仏習合研究が行き詰まっている一つの原因は、「神仏習合」という視座を規定している歴史的な被拘束性に対する無自覚であり、その方法そのものが孕む問題性にあると考えられる。神-仏という二分法を前提とし、両者の習合と離反の距離を測定しようとする従来の神仏習合研究は、日本列島の宗教世界の主人公として超歴史的な実体である「神」と「仏」を想定するが、それはまったくのフィクションであり、「神」「仏」それぞれの概念も両者の区分も時代によって大きな揺らぎがある。そうした問題点を自覚した上で、今後「神仏習合」という研究のあり方を抜本的に再検討していく必要がある。そのための具体的な道筋としては、狭義の「神」「仏」が各時代の宗教世界全体に占める客観的位置を確定することが不可欠であり、その前提として「神」「仏」に留まらない雑多なカミの混在する日本列島の宗教世界を、ありのままの姿においてトータルに把握するための新たな方法の追求がなされなければならない。
著者
大谷 正幸
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.929-952, 2009-12-30

食行身禄(一六七一-一七三三)は富士信仰の行者である。彼は後に江戸を中心に流行した富士講において「元祖」と崇められ、現代の富士信仰研究においてもその名から「ミロク信仰」との関連が論じられた。「ミロク信仰」論は、民俗学者宮田登によって提唱され、日本の民俗事象に見られるメシアニズム・ユートピアニズムに関する理論である。確かに食行は世界を創造した神々が世界を再び支配する時代「身禄の御世」が始まったと主張しているが、それは未来に理想世界を期待する「ミロク信仰」とは相容れないものではないか。また、最近新しく発見されたある写本によると、「身禄の御世」を最初に説いたのは食行の師・月行である可能性がある。この写本を用いると、食行の主張のうち単独では理解できなかった点を解決できることがわかった。よって月行が「身禄の御世」を神より託されたと主張する写本の有用性もより高まったのである。
著者
碧海 寿広
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.117-141, 2007-06-30 (Released:2017-07-14)

近年、仏教研究において「生活」の再評価が進んでいる。ゆえに、日本人の「生活」の歴史と仏教との関係をよく考えてきた仏教民俗学、特に五来重によるそれの思想的な意義を再検討する必要が出てきた。五来は彼の同時代の仏教をめぐる学問や実践のあり方に対して非常に批判的だった。特に仏教を哲学的なものとして理解する想定に疑問を抱き、代わりに仏教を受容する普通の人々の現実生活に即した彼の日本仏教観を提示した。その五来の仏教思想は、実践すなわち身体的・行為的な次元の仏教に主な焦点を当てた。彼の思想からは、人々の実践の中に存在するあらゆる形態の仏教を、その洗練度を問わず等しく認識し評価し反省するための視座を学ぶことができる。五来の思想には、「庶民信仰」に関する過度に理念化された論理の展開など問題もある。が、私たちが特定の学問枠組みから自由になって仏教をめぐる思考を深めようとする際、五来の思想から得られる知見はいまだに多大である。