著者
藤井 麻央
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.96, no.1, pp.99-122, 2022-06-30 (Released:2022-09-30)

本論文では、明治期の黒住教の自己規定の言説を検証し、教派神道の明治期を通じた遷移について論じた。分析に際しては、その時々の黒住教の社会的立場を考慮しながら、史資料を読み解いた。黒住教において、明治前期から中期に見られた「神道」の「一派」であるという自己規定は、明治末期になり「教祖の道連の団体」である「黒住教教団」という表明へと変化した。神道的伝統において乏しかった集団的概念を、当時は常用されていなかった「教団」という言葉を導入することで克服し、教祖に原拠を置く信徒の集団であることを自らの語りとして獲得したのである。それは、黒住教が外部からの評価に晒される中で「団体的形式」を追求した「改革」の結果であった。教派神道は近代の社会変動の中で生じた神道の新たな宗門的形態であり、そもそもは政策的につくられた事務機関である。黒住教の明治期を通じた経過は、行政の産物である教派神道をより普遍的な「宣教型の教団宗教」として存立することを可能にした神道の近代的展開における一つの転機であった。
著者
権 東祐
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.92, no.1, pp.27-51, 2018 (Released:2018-09-30)

従来の近代神道研究は、国家神道の制度的な成立史を中心として論じられており、その視野は「日本」という地域に限られてきた。この制度史的な視点からみれば、国家神道と教派神道を明確に区別するのは当然である。しかし、「帝国日本」まで視野を広げつつ、教派神道の海外布教を再検討することからみれば、近代の国家・神社・神道は密接に相互交換の関係をなしており、国家神道と教派神道の線引きが曖昧になる。近代の神道は制度に縛られない形で展開していたことがわかる。そこで小論では、国家神道中心の神道像を超えて、神道史の中に多様にあらわれる「近代神道」像を構想する。そのためにまずは、神道の朝鮮布教時期や目的など、従来の新宗教研究における不備点や錯誤を修正した上、神道修成派・黒住教・神宮教の朝鮮布教を中心に「近代神道」研究の新たな方向を示す。
著者
西村 明
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.2, pp.53-74, 2021-09-30 (Released:2021-12-30)

本稿は、近代の衛生政策に大きな影響を与えたコレラについて、明治一〇年代の流行に焦点を当てて取り上げる。まず、幕末以降の流行と人々の宗教的・民俗的対応を概観した上で、一八七九年のコレラ流行以降に焦点を当てる理由を述べる。とりわけ、内務省によって教導職がコレラ予防の啓発活動に動員されたことに注目している。後半では、それに関連するテクストとして、『虎列刺豫防諭解』、『コレラ豫防心得草』、岸上恢嶺『説教帷中策』第三五席、干河岸貫一「虎列刺病豫防並に消毒法に注意すべき事」について検討する。それらの検討から、神仏の加護を全面否定しないかたちで、政府の方針に沿った衛生の徹底に向けた自助努力を促す言説の特徴を確認した。
著者
伊原木 大祐
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.339-362, 2009-09-30

神義論をめぐる現代的論争は、J・L・マッキーによって提示された「悪の論理的問題」をいかに克服するかという課題から始まった。しかし、そこから出された対案の多くは、「悪の情動的問題」に対する有効な解決法とはなりえていない。本論文は、とくに感情面を重視した応答の一つとして、ジョン・K・ロスによる「抗議の神義論(反-神義論)」に注目する。ロスの(反)神義論は、ヴィーゼルやルーベンスタインと共にアウシュヴィッツ以降の時代状況を強く意識している点で、数あるキリスト教神義論の中でも独自なスタンスを保っている。また、その議論は、悪における「正当化しえないもの」の要素に注目している点で、エマニュエル・レヴィナスらの現代哲学的位相とも深い部分で接している。この点を確認した後、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いたイワン・カラマーゾフの「反逆」を分析することで、ロスの議論を宗教哲学的な観点から補完する。
著者
若林 明彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.703-725, 2003-12-30 (Released:2017-07-14)

環境問題を根本的に解決するための思想や哲学の構築において、日本は七〇年代に「水俣病」をその象徴とする悲惨な公害被害体験をしたにもかかわらず、欧米に比べて遅れていると言わざるを得ない。近年になってやっと、欧米の「環境倫理学」が注目され、その研究が盛んになったが、そのー方で、そうした「環境倫理学」に対抗するかのように、その倫理学的アプローチを皮相的なものとし、古代日本に見られる自然共生的エトス(心的傾向)を再生することこそが根本的な解決に繋がるとする梅原猛・安田喜憲らの「森の思想」や岩田慶治の「ネオ・アニミズム」論も注目されている。本論文では、まず欧米の環境思想の主要な理論を概観し、それらが共通して倫理学的アプローチをとっていることを指摘し、次にそれと対比的にエトスからのアプローチをとる「森の思想」や「ネオ・アニミズム」論の問題点を指摘する。最後に、両アプローチの相補的関係について述べる。
著者
土井 健司
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.427-447, 2008-09-30

本稿では、「フィランスロピア」を手がかりに、最初の四世紀に見られるキリスト教批判について考察する。キリスト教を「人類憎悪」(ミサンスロピア)としたローマ社会の批判、中傷、迫害のなかで二世紀の弁証家ユスティノスはフィランスロピアの神ならびにその模倣としてキリスト者の道徳性を弁明する。また神の受肉を善から悪への変化と捉えて批判するケルソスに対して、三世紀のオリゲネスは神の善性をフィランスロピアと捉え、神は神(=フィランスロピア)であるから受肉したと反論する。さらに四世紀ユリアヌス帝は、キリスト教の興隆は貧者への愛(フィロプトキア=フィンラスロピア)の実践の故であるとキリスト教批判を展開した。そこでこのフィロプトキアについて大バシレイオスが建てた救貧施設に関するナジアンゾスのグレゴリオスの著作をもとに考察し、救貧の実践が「キリストの模倣」と捉えられることを確認する。キリスト教批判を通して、神のフィランスロピアとその模倣としてのキリスト者のフィランスロピアというものが迫害、受肉、救貧において展開し、これらが神学的にも実践的にもキリスト教形成の一翼を担っていたのである。
著者
近藤 光博
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.397-421, 2004-09-30

本稿の主題は、現代インドの日常生活を強く支配する対「ムスリム」偏見である。とくに「ムスリム」を「余所者」「侵略者」、さらには「狂信者」「分離主義者」とみなす二組のステレオタイプを取り出し、それぞれについてその歴史的背景を整理する。そこで明らかにされるのは、右のような強固な偏見は単なる空想や虚偽ではなく、一定の事実性にもとづく共通感覚であること、しかもその偏見の強固さのゆえに偏見を強化する言動が再生産されるという循環関係がインド社会に構造化されていることである。現代インドのコミュナリズムの基底をそのようなものとして提示したうえで、本稿はさらに、この特殊インド的な問題が宗教研究の諸理論と深く関連していることを指摘する。具体的には、宗教分類学と宗教概念の関係、習合概念の限界、ユダヤ=キリスト教=イスラーム的な世界観・文明原理の特殊性、宗教概念と共同体概念の関係などの諸問題が、コミュナリズム論にとって有する意義の大きさを指摘する。
著者
兵頭 晶子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.97-120, 2005-06-30

大正期、憑霊の行法としての鎮魂帰神法を大々的に喧伝した大本教は、その憑霊の是非をめぐり、日本精神医学会の機関誌『変態心理』から激しい弾劾を受けることとなる。従来、この弾劾は、「科学」による邪教・迷信打破の一環として評価されてきた。しかし、弾劾する側の『変態心理』が標榜する「精神医学」とは、今日の精神医学と決して同義ではなく、当該期の精神病学を含めた正統医学界を「物質医学」として批判するための反命題に他ならない。そこで新たな「心理」学の登場を促した催眠術や潜在意識は、スピリチュアリズムを復権させる装置でもあり、その潮流において再発見された鎮魂帰神法とは、重なり合う部分があるゆえの近親憎悪的な関係にあったのではないか。こうした観点から本稿では、大本教と『変態心理』の背後にある共通の磁場としての「精神」という潮流に焦点を当て、両者が実際には何をめぐって争い、その帰結はどこへ行くのかを検討する。
著者
石井 研士
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.303-327, 2013-09-30

本論では、情報環境と宗教との関わりを、印刷技術の発展、電波メディアとしてのラジオとテレビ、テレビにおける新しい制度的基盤の構築、そして断片的であるが、コンピュータを中心としたネットワーク社会における宗教について論じている。我々を取り巻く技術の進歩は、かつてないほど急速である。とくにコンピュータを中心とする情報環境の変化は、我々の宗教性に大きな変容を迫っている。本論が問題とするのは、たんに情報環境の変化が宗教性に変化を及ぼしているということではない。現在のテクノロジーが、従来、宗教文化を支えてきた宗教者や宗教団体とは異なった制度的基盤を構築したことを明らかにしようとするものである。宗教文化を支える新しい制度の原理は、苦しむ人々の救済やこの世の安寧ではない。我々の心性に潜む民俗宗教的な世界であったり、憎悪や極端に偏る関心が、新たらしい制度を基盤にして増幅され誇張されて現出している。
著者
寺田 喜朗
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.369-396, 2014-09-30

本論は、日本の新宗教における幸福観とその追求法を示し、その神義論的な特質を明らかにすることを目的とする。その際、新宗教の救済観・世界観は基本的に同一構造だとする生命主義的救済観を参照軸に据え、教導システムを注視しながら論述を進める。資料的には、主要な教団の言説を中心に、新新宗教に分類される教団にも論及を加える。検討の結果、新宗教には合理的に体系化された神義論が共有されていることが確認された。一、心を磨き、正しい生き方に努め、清浄・無垢な人間の本性に立ち返り、二、実際生活で教えを実行し、他者へ積極的に働きかけ、真理を宣布し、世の中の役に立つ行いを重ねる過程で、三、超越者から「おかげ」「功徳」を得、四、幸福な生活を享受することが可能になる、という世界観があり、超越者の力にすがるだけでなく、倫理的な実践と生活の規律化が幸福享受の要件となっていることが明らかとなった。
著者
岩崎 賢
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.3, pp.679-702, 2003-12-30

本稿の目的は古代アステカ人の宗教伝統の中心的要素である人身供犠に関して、宗教学的視点から新たな解釈を行い、従来と異なるより適当なアステカ宗教像を提示することにある。メキシコの歴史家アルフォンソ・カソの議論以来、研究者はアステカ人の供犠の説明として、アステカ人の神話に基づいて、彼らは人間の体を食料として捧げることで守護神である太陽神に活力を与え養おうとした、という説を採用してきた。しかし近年のいくつかの考古学的発見により、このような「太陽神の食事」式の説明はもはや支持し得ないものとなってきている。実際、この儀礼はいわゆる原初巨人解体神話という神話的主題、および建築儀礼との関連において理解されるべきである。筆者はここで「食べる」と「建てる」という二つの概念を鍵として、アステカ宗教と供犠の新たな理解のあり方を探りたいと考えている。
著者
西村 玲
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.3, pp.739-759, 2004-12-30 (Released:2017-07-14)

本論は、従来省みられてこなかった仏教の視点から、富永仲基の思想を検討する。仲基は、仏が淫するものは幻であるとする。仏の神秘的教えは行者が禅定・瞑想中に見た幻影にすぎず、釈迦の真意は世俗倫理を勧めることにあるとして、仏教を脱神秘化した。『出定後語』とは、人間理性が宗教的な呪縛である定・夢幻から目覚めたという宣言、いわゆる近代を告げる声であった。仏教的価値観では、人が目覚めるべきは現実事象の儚さからであり、仏の悟り、仲基の言う仏の幻こそが、より存在度の高い真実とされてきた。中世においては、人が儚い生死の夢から覚めて仏の朝に至ることが、覚夢だった。しかし近世における仲基の出定は、仏の夢幻から人の世の現実に目覚めることにある。仲基は、聖俗の存在論を反転させ、仏教思想の意義を明確に否定した。仲基の出定以後、近世から現代に至るまで、日本の仏教者たちは伝統的な仏への覚夢と仲基の出定を統合止揚すべく、全力を挙げることになった。
著者
志田 雅宏
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.1, pp.75-99, 2019 (Released:2019-09-30)

中世キリスト教世界のユダヤ教文学では、キリスト教文化に対抗する言説がみられる。本論文では、そのなかで中世ユダヤ教の民間伝承に注目する。まず、『トルドート・イェシュ』というユダヤ版イエス伝では、「神の名前の使い手」としてのイエスの姿が描かれる。その物語は、福音書のイエス物語を題材とし、メシアとしてのイエスというキリスト教正典における描写を転覆させることによって、イエスをラビ・ユダヤ教の規範を逸脱する魔術師として語りなおすものである。次に、イエスの弟子たちの物語や中世ユダヤ教の指導者ナフマニデスの聖人伝を取り上げる。これらの民話は、中世ヨーロッパのユダヤ人が直面したキリスト教への改宗という問題と結びついている。そして、ユダヤ人の強制改宗者に対して宗教的な使命を見出し、その改宗を意味づけることや、改宗の歴史を逆転させたもうひとつの「歴史」を語ることをその特徴とする。
著者
小野 真
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.1-24, 2011-06-30 (Released:2017-07-14)

近年、「宗教とは何か」という宗教学の根幹をなす問いが揺らいでいる。タラル・アサドによれば、この問いを発する我々の学的立脚点が、そもそも一定の時代的制約の中から生じた、世俗化した西洋近代という立場に依拠している。それゆえ、この問いに答えても宗教の普遍的定義は得られないことになる。それならば、「宗教とは何か」という問いは、空虚な問いになってしまったのであろうか。この点、「宗教」の定義を理論的に求めるのではなく、真の実在をリアルに求め、その途上で「空の立場」への実存的主体の転換を生ぜしめる、西谷啓治の立場は、アサドの立場と相互補完しうる可能性をもっており、現代でも独自の存在意義を持っている。アサドの権力理論は、近代国家に生きる者が宗教的実存へ転換することの困難さの再検討を西谷に提示する。他方、西谷の「空の立場」に基づく、仏教的修行関係における権力関係は、一神教的神観を背景とするアサドの権力理論をより深いところから補完し、アサドの立場と矛盾しない宗教の普遍的な概念を提示する可能性を持っている。
著者
伊藤 聡
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.385-409, 2007-09-30

神仏習合の現象は、平安時代に至り本地垂迹説の成立を見るが、それが中世においてどのように変容していったかを跡づけようとするものである。中世における本地垂迹説の浸透によって、神観念はさまざまに変化したが、そのなかでも神が人間の心に内在すると考えられるようになったのが、最も大きい変化だった。即ち、本地垂迹とは、仏が内なる神=心として顕現することであり、しかも煩悩にまみれたわれわれの本源的姿たる蛇身としてあらわれると見なされたのだった。そこには、中世神道が罪業と救済の信仰を指向するものだったことを示す。ところが、中世後期以降、人間の内なる「悪」へのまなざしは薄れ、吉田神道にみられるように、楽天的・肯定的な観念へと変貌してしまう。そしてそれが、近世神道の基盤を形作ることになるのである。
著者
堀江 宗正
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.2, pp.75-98, 2021-09-30 (Released:2021-12-30)

二〇二〇年初頭に始まったパンデミックでは、宗教的集会が感染爆発の震源地と見なされた。本稿は多様な事例、統計データ、学術論文をもとに、宗教と感染の関係を明らかにし、その過程で宗教がどのように変容してゆくかを論じる。基本的統計からは、西欧と南北米のキリスト教国での死亡率の高さが明白である。これは、グローバル都市への人の流入、密集して暮らす民族集団などの要因が重なっており、キリスト教そのものが原因ではない。とはいえ、米国ではニューヨーク市周辺の州を除けば、礼拝出席率と死亡率がおおよそ相関することが分かった。次に、宗教がパンデミックを通して「COVID-19の悪魔化」「宗教のスティグマ化」「宗教の再純化」の三段階の通過儀礼的プロセスをたどると論じる。この三段階のプロセスを日本に当てはめると、多くの宗教は科学的感染対策に適応し、悪魔化もスティグマ化も起こらなかった。礼拝のヴァーチュアル化や共同体でのリーダーシップなどの再純化も不十分だった。それは長期的に見た活動の停滞の兆しとも言える。